津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■昭和33年熊本市都市計画図

2023-04-17 16:13:19 | 熊本

 先週土曜日の熊本史談会終了後、会員のN氏と「大凡荘」の在った場所に話が及んだ。
氏は大凡荘がなくなった後に出来た大きなマンションにお住まいで、この周辺の事情に明るい。
あの有名な写真「大凡荘に集まった人々」は昭和28年のものだとされるから、熊本大水害の有った年だ。
この場所が水害に遭わなかったのか不思議に思えたが、二ノ井でと三ノ井出に挟まれていて、帯水することはなかったのではないかというお話しであった。
「都市計画道路が出来て今のような状態がある」との事で、私は勝手に「大凡荘」の中を都市計画道路が横切ったのだろうと思ったが、実は違っていた。
「昔は安政橋からこの道を通って軽便鉄道が水前寺まで走っていた」という話に及び、詳しい当時の道筋と計画道路の関係が知りたいと思い、午後から図書館に出かけた。
「ごくろうなこったい」という話だが、気に成りだしたら居ても立っても居られない。
「昭和33年熊本市都市計画図」は数十枚あり、該当する場所の地図が見いだせないから、司書の方に大方の場所をお話しして取り出してもらう。
疑問は氷解した。かっては「大凡荘」の裏手に安政橋から斜め道が有りこれが軽便鉄道がとおっていた道である。
その後、安政橋は架け替えられ斜めの道がなくなり、直進した。そして大凡荘がなくなると、N氏お住いの広大なマンション敷地になったということである。
ついでに、とんでもなく厚い「大凡荘夜話」をパラパラと拝見、読みたい記事をしるために目次をコピー、また集合写真に在る長女・星さんの死亡に伴う記事を読み、主人公・隆氏の奥さんや子供さんの関係を知ることが出来た。

                             

                                                                                                                              
                                           大凡荘

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■あるお位牌の家紋

2023-04-17 10:22:40 | 家紋

                 

 コロナ前からあるお寺様に在る、何方の者か判らない立派なお位牌の主を調べているが、とんと判らない。
お位牌の両側に三つずつ、六個の家紋が刻まれている。
中央にはなんと五三の桐紋が彫られ、上下には九曜紋とこのような家紋が重なった形で確認できる。
九曜紋をつぶしてこの紋が彫り直されているのではないかと思われる。
この名前が判らない家紋を今朝から写真を見ながら、スケールを取りながらスケッチをしてみた。
丸の中は「梅」ではないのかと考えたが、紋帳をいくら探しても出てこない。ご存知の方がおられたらご教示いただきたい。
細川家御一族が関係するお寺で、忠利公のお位牌なども飾られている中、そのお位牌に負けず劣らずの立派なお位牌だが、主が見つからずに数年たつ。
この度専門の写真家によって、70数カットの写真撮影をしていただき、二重家紋(九曜紋+この紋)が鮮明に浮かび上がった。
この家紋が判れば、お位牌の主に一歩でも近ずけるのではないかと、淡い期待を持ちながら朝の数時間をこんな作業で費やした。

追記:4月18日 6:54
この家紋は「丸に中陰横見梅紋」だろうと推測いたしました。 津々堂

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■細川齊護公御命日

2023-04-17 07:03:18 | 史料
 今日は細川齊護公のご命日で万延元年(1860)の四月十七日江戸辰口邸で亡くなられた、享年57歳であった。法号・泰巌院仁岳宗寛。
齊護公は宇土支藩の藩主(中務少輔立政)から本家に入り、先代齊樹の養嗣子となり遺領相続した。
その家督については、先に■三月廿九日・齊護公御家督に書いたように、紆余曲折あってのことであった。
齊護公の御跡は二男の慶順(韶邦)が同年七月十七日に相続した。

 実は岡崎鴻吉氏著「熊本御城下の町人」(p60)に次のような正史では伺えない記事が紹介されている。
この年の正月廿九日付で、齊護公の隠居を匂わせる書付が奉行所から町々の役付に渡されたという。
その内容を見ると春には「隠居」を幕府に申し入れるつもりの処その思いは叶わず逝去された。
どこからこの様な情報が伝えられるのか、「町方」に史料が残され、この様な情報がが庶民にあからさまに伝えられたのか、不思議な事ではある。

               太守様御持病之御疝積・御腰痛御勝れ遊されず旧臘以来御出仕も御断り
         専ら御療養遊され候へ共聢と在らせられず其上御歯痛差加り御不気根に
         も成らせられ第一御者覚薄く相州御備場御用且御政事向等御行届兼も御
         座あるべくやと御心労遊され候に付、当春中御隠居届御願、若殿様へ御
         家督の儀御願遊さるゝ御内存御治定遊され近く御老中様に御内意仰入れ
         らるゝ筈に候此段何れもに申聞か可き旨仰出され候条其意を得奉り触支
         配方にも聞かすべく候以上
            正月廿九日


                        宇土細川家8代    9代   10代
                        +----細川立之----立政==立芬
        |   ‖    (斉護
        |   ‖
        |老中・土井利厚女・福(栄昌院)
          
一橋家     | 第11代征夷大将軍
  徳川治済---+-----徳川家斉--+
                     ||                  |             
        +------蓮性院  |        *(顕光院の子ではない)
        |   ‖      |             +----慶前 室・鳳臺院
     細川齊茲-----+----斎樹=====斉護        |   
                       |   ‖-------+----慶順(韶邦)== 護久
          浅野斉賢ーーーー顕光院    |
               |      +----勇姫
               |                 ‖
  松平越前家   斉承-------+==斉善==慶永(春嶽)
                                                        家斉22男     

 

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■地震から7年の年に

2023-04-16 13:53:56 | 徒然

 熊本大地震から7年がたつ。当時住んでいたapは大規模半壊となったため、不動産やさんから退去要請が有り、奥方が走り回って現在の我が家を見つけ出し急遽引っ越したのは、地震から一月も立っていなかった。
南向き四階建て3DK・16戸の3階である。すごく便利が良い地の利が気に入ったし、年も年だからもうここを終の棲家にしても良いと考えていた。
ところが最近、奥方が真剣に新しいマンション探しを始めた。毎日タブレットで情報をさぐり、一々報告をしてくる。
候補が10も20もに及び、アシスト自転車で現場を確認に出かけるという始末である。つまり相当本気である。
「俺はここで良いよ」と云うのだが、自分はまだ長生きするから最後の住まいとして気に入った所に住まいたいという。
そういわれると従わざるを得ない。時折娘がやってきては「引越料金は距離よりも数だからね」「断捨離/\」と、書籍類を処分してしまえとうるさい。
そして今の時期は、就職や人事異動などで引っ越しが多くて運送業界も忙しく、引越料が高いから夏ころにしなさいとか奥方にレクチャーしている。
そうなるとこちらも一応覚悟を決めなければならない。あと数か月奥方の気持ちが変わらなければ、又大変な引っ越しを味わうことになる。

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐松本勝太を想う

2023-04-16 09:33:54 | 熊本

 この色紙の主人公松本勝太は、鳩野宗巴の医学における弟子であったが、花立山(球磨郡多良木町)で官軍と闘い銃弾に倒れたという。
以下二枚の色紙に宗巴は無念の思いを託している。深い師弟の愛情が満ちた交誼が伺える。         

          

                    ちりぬべき時しりてこそ
                    敷しまのやまとこゝろの
                    やまさくら花
                             長延

            

      松本勝太は余の生徒也 薩人の挙兵に合わせ之に起座して龍口隊副大隊長として
      善く同志を奮励す 一日庵に赴くを遂げしを誰か記せず 午睡中怒気勃々として予の拝聖庵に来る
      事の成らざるを憤り候 予其首を切るに地に墜ちて闇有り 愕然として覚めて祝して一絶を賦す

             一刀一決死生を分つ
             師弟の深情血涙の縁
             大夢来たり臨む手の表裏
             君は此の日行軍を督するを知る

                        壷渓

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■中瀬助九郎の敵討ちと、親・源太左衛門の死の真相

2023-04-15 07:03:51 | 人物

 先の■明智光秀の甥って誰で書いたが、中瀬家の初代・助九郎は不幸な死を遂げた父親・源太左衛門の敵討ちを14歳で成し遂げて勇名をとどろかせた。
中瀬家には先祖附とは別に「中瀬家傳略」という文書が存在する。そのなかにこの事件に関することが記されているが、今一つ父の死についての原因がよく判らない。
一方助九郎の弟・僧南谷については「近世畸人傳」に「僧南谷」という記事が残されているが、この事件について「附」として次のように記されている。

 附、松下助三郎豊長(故有て母家の姓を冒し中瀬助九郎といふ)は、南谷の兄也。父忠綱(源太左衛門)、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切 腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。其後、豊長(助九郎)京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざること をうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も 亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎(助九郎)にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の 従者、(坂根八左衛門・中田平次右衛門) をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、 旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、 八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。

 この文章を見ても真相がよく判らない。実は島根大学教授の田中則雄氏の「芥川敵討実録の展開」という論文が公開されていた。
この事件の原初的なものが地元石見に存在しており、これにより事件の真相にたどり着くことが出来る。
その論文に事件の概要が次のように記されている。

 万治二年(1659)の春、吉永藩士早川四郎兵衛の養子八之丞が、同僚大崎長三郎を男色の争いから討ち果たし出奔した。その後早川四郎兵衛は藩によって責めを負わされ切腹。八之丞は、これは大崎長三郎の姉が藩に働きかけた結果であると伝聞し、彼女の夫である松下源太左衛門を敵と定め、江戸に於いて討つ。残された幼い兄弟三郎兵衛、忠三郎は、成長の後敵討に出る。兄弟二手に分かれて探索中、忠三郎が摂津の芥川で八之丞を討ち取る。時に忠三郎十四歳であった。

 これが近世畸人傳・僧南谷の記事の「附」が語る所に殉じているのだろう。

処が上記論文の中で「談海」に収められている「芥川敵討ちの話」では少々筋書きが違っていることを指摘される。
それはいろいろな史料の中で「祖型」に近いものとして、主君・加藤式部少輔から早川が扶持を放され、これを松下源太左衛門の讒言によるものだと邪推したのもだとされる。扶持を放されたという早川とは上の事件概要によると父・四郎兵衛であり、これが源太左衛門を討とうと考えたが病となり、養子である八之允に遺言してこれを討たせようとしたとある。

 こうなってくると真相はやぶの中であるが、近世畸人傳・僧南谷の記事の「附」が語る、真相が霧の中に在る書き廻しがこれに殉じている用の思える。
田中則雄氏には「地方における実像の生成ー因幡・石見の事例に即してー」という論考があるが、これが論文「芥川敵討実録の展開」の前段に当たるものらしい。岩波書店『文学』2015年7・8月号に掲載されているようだが、古本では結構な値段がする。幸い熊本県立図書館が所蔵しているようなので、全文コピーが出来るかどうか判らないがチャレンジしてみたいと思う。
いずれにしろ源太左衛門は早川氏による逆恨みにより命を奪われたことになる。

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐三人の隊長

2023-04-15 06:40:34 | 熊本

         

              ほ古ろひし よろひの袖の     ほころびし 鎧の袖は
                乱連いて 繕ふ思ハ       乱れいて 繕ろう思いは
                  古登/\にして        ことごとにして
                        長貴

 作者の感慨は現世では集う事のない、協同隊長・宮崎八郎、竜口隊長・中津大四郎、熊本隊長・池部吉十郎の三人を一つの画面(もしかしたら黄泉の世界)に集合させた。
多くの有為の人を率いて戦った三人が語り合えば、その想いは如何なるものであったろうか。
宮崎八郎は八代の萩原堤で銃弾に倒れ、中津大四郎は宮崎の長井村の神社の森で切腹して果てた。池部吉十郎は鹿児島の城山陥落の知らせを聞き潜伏していたが捕らえられた。長崎の臨時裁判所で死刑の判決を受け処刑された。
三人の無念な思いに対して、鳩野宗巴は心からのねぎらいと、供養の誠を託してこの歌を詠んだのであろう。

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■藤の花

2023-04-14 15:41:22 | 徒然

 今日の熊本は少し下り坂で午後は雨が振りだしそうな中、折りたたみ傘を持参して散歩に出かけた。
近所の錦が丘公園で過日見かけた藤棚の咲き具合はどうだろうと足を延ばす。
昨年は手入れの時期がまずかったのか、葉がやたらと生い茂り藤の房が下がるとまではいかなかった。
今年は少し時期が早いようだが、一部きれいな房が下がって綺麗な姿を見せ始めた。
この公園はかなり広くて、林(?)の中に足を踏み入れると、足元が柔らかくて自然を感じることが出来る。
桜はすっかり葉桜となったが、替って今はツツジが妍を競っている。
熊本はあまり黄砂の影響はないが、どんよりとしたお天気は写真に撮るにはあまり条件は良くないがシャッターを押してみた。

                   

 今日は熊本大地震の余震から七年目である。その時も君は咲いていたのかと藤棚を見上げてふと考えてしまった。
左の写真の左下部に見える様に、朽ち果てるような老木だが今年もきれいな花を付ける。

 

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■忠利の幼・少年期から継嗣となる迄

2023-04-14 12:35:34 | 人物

 ■明智光秀の甥って誰で、細川忠利が愛宕山福壽院下坊に入院した時に明智助九郎がお供した事を書いた。
考えて見ると忠利という人は、幼少期から福壽院下坊で勉学に励み、その後は江戸證人として江戸に詰めるという生活を強いられている。父忠興・母ガラシャの想いは如何なものであったろうか。
忠利は天正十四年(1586)十月の生まれで、文禄三年(1594‐9歳)五月から慶長三(1598‐13歳)年二月迄の約4年間、この福壽院下坊で勉学に励んだと言われれる(吉山市右衛門家記による)
記録に留められたものは見当たらないが、それぞれの家記から吉山福万・田中意徳・松山兵左衛門や先の明智助九郎等が学友としてお供していることが確認できる。
慶長五年(1600‐15歳)正月廿五日には、江戸證人として再び父母の許を離れて大坂から出立して江戸へ向かった。
その時の御供は、中嶋備中・福池与兵衛・松田(杉原とも)慶順・牧五郎・住江甚兵衛・松田五左衛門・本庄久右衛門・稲留平七・桑原喜兵衛等がお供している。
父忠興は替りの人を上げて忠利の江戸證人の身を解放しようと努力しているが、これがなかなか実現しない。
江戸城普請や辰の口に屋敷地を拝領して上屋敷の建築なども並行して居り、これらに忠利は多忙を極めている。
慶長九年(1604‐19歳)の夏の頃より忠興は煩い、これが思いのほかの容態となった。御存命の間に対面するようにとの家康・秀忠の内意により忠利は初めて小倉入りしている。
そして八月廿六日付けで家康・秀忠から忠利の家督の証書が発せられた。
しかし忠興は本復し「忠利君ハ中津二御移被成候、江戸江御上人として御出被成候已後初而之御入国故、いつれも恐悦之至奉賀候也」と綿考輯録は記しているから、この時期江戸證人の身分は解かれたのだろう。忠利の江戸證人の身分は4年7ヶ月に及んだことになる。

これを受けて忠興は、慶長十年(1605)忠利に替り兄興秋をもって江戸證人となすべく小倉を発足させたが、興秋は京都で剃髪してこれを拒否した。
その他、多くの有力家臣の子弟も江戸證人を派遣している。

慶長十六年(1611)には忠興の生母・光壽院が證人として江戸住まいすることになる。

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■明智光秀の甥って誰

2023-04-14 08:10:46 | 人物

 昨日は図書館に出かけ、膨大な上妻文庫のリストを見ながら、ある史料をコピーした。
その前後を見ていると摂州讐討談話(近世畸人傳・僧南谷)の記事が有り、その末尾に「中瀬先祖附」(当助九郎母方祖)があり、その頭書に細川家家臣・中瀬家の初代助九郎の母が「明智光秀甥之子ニ而御座候」とある。
資料は所蔵してはいるが、その部分を念のためにコピーした。
この中瀬家、初代助九郎実方の祖父は松下嘉兵衛(秀吉が最初仕えた人物)である。
「近世畸人傳・僧南谷」は助九郎の父・源太左衛門の次弟である。
源太左衛門は加藤家の会津騒動の節浪々の身となり、嫡男豊長と共に官途を求めて江戸に出んとする。旅の途中父源太左衛門が不測の害にあい死去、寛文九年、豊長十二歳の時の事である。豊長は剣の修業を積み十四歳の時仇敵を打ち取った。摂州讐討談話に詳しい。
その話を聞きつけて多くの大名が召し出そうとしたが、明智の血筋を以て後細川家に仕えたとされる。
 そして改めて「明智光秀甥」とは何方だろうと考えた。甥の子・明智助九郎は生まれた年に父親が死去している。
それ故父親の名前は判らないとしているが、明智の血筋という事でガラシャ夫人に引き取られて育てられたという。
そしてガラシャの子・忠利が愛宕山福壽院下坊に入学した時、お付きとしてお供したとされる。
忘れていたのにまた一つ、気に成る事柄が顔を出した。

 

明智光秀甥の子           加藤式部少輔明成養女
 明智助九郎ーーーー中瀬彦三郎ーーーーーー娘       (初代)    (二代)    

遠州久野城主                                ‖ーーーーーーーーーーーーー助九郎ーーー助之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→500石・中瀬助一郎家
 松下石見守ーーーー外記ーーー+ーーー源太左衛門      豊長     長徳                       
        方綱  |  忠綱(中瀬姓となる)     
            |
            +ーーー僧・南谷
                  

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長九年」を読む

2023-04-13 09:11:03 | 先祖附

忠興文書-慶長九年

 35、二月九日書状
  ・弟・玄蕃(興元)の返事の趣承知した
  ・白鳥のこと?
  ・石川康長に志津の刀を贈った、満足の様子で何より
  ・南蛮の笛(所望の様子に付)則進上する
  ・仲間の交代については、隼人・左馬允から申す
  ・家康の上洛は三月まで延引となったので、御見廻を指し下した
  ・諸大名江戸に屋敷を拝領する、六・七番目に申し請ける

 36、(二月・三月の頃か?)書状
  ・屋敷のことは土肥利勝の意向次第にすべし、当方よりは何方とは申し上げない
  
 37、五月十二日書状
  ・伏見にて家康に謁見し四月半ばに下國した、
  ・稲富一夢(元・細川家臣)のこと、詳細不明 (稲富はガラシャ夫人自害後細川家を逃亡している。執り成しについてのことか)
  ・徳川秀忠が近日馬揃えを為される由、その道具について一つ書を送る
  ・江戸屋敷の家屋の切り込みを大阪で行い江戸へ送る
  ・豊前の方は別儀ないから安心せよ
  ・信長馬揃の時の評判について・・たしなみが肝要である

 38、六月十六日書状
  ・江戸屋敷普請の奉行を江戸へ遣わす
  ・去る月の十日頃より患ったが、早本復した、周りの者が事々しく伝えるかもしれないので自筆にて認める

 39、七月五日書状
  ・病は快方に向かっている
  ・差し上げられし馬の礼

            (以降慶長六年の書状はなし)

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■『永青文庫研究第6号』無料配布について

2023-04-13 08:08:07 | 史料

 毎年この時期恒例の、熊本大学永青文庫研究センターから 無料配布 『永青文庫研究第6号』の発行についてが HP で公表されています。
            https://eisei.kumamoto-u.ac.jp/news/2023/04/post-52.php

先着順ですからどうぞお早めにお申し込み下さい。

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐武士の道

2023-04-13 06:40:36 | 熊本

        
 
                                                                      明夕               作者・不明           

            武士乃道を 徒くして         もののふの道をつくして
                  たちよ連ハ             たちよれば
            猶わ春ら連ぬ          猶わすられぬ
             者らからの           はらからの
                                姉

        武士の道を尽くして戦い傷ついた兵士を、肉親に一目会わせてやりたいと思い、姉の許に立ち寄ったが、
                             だからといって気がすむものではない肉親の情のなるせない事よ

        編者により上の様に解されていますが、最初の五七五がすっきりしないなと感じた事でした。
        それにしてもこういうシーンが随所で見られたことでしょう。私たちが生活している熊本のあちこちで・・・

    

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■額に飾る?

2023-04-12 17:10:37 | 徒然

 薬をもらいに病院行き、朝から外来が嫌ににぎわっている。
40分ほどまって診察室に入ると、Drが「これを額に入れて飾ってください」と冗談を言われる。
過去一年間の検査結果の一覧を頂戴したが、HbAc1が奇跡的回復をしている。
最高値10,6まで上がったが12月末は8,6まで下げたものの「入院しますか?」と言われてしまった。
それ以降は食生活を改善して、先月の検査結果として6,5に改善、「褒めてあげます」との言葉をいただいた。
「6を切る迄頑張りましょう」ということで、まだまだ頑張らなければならない。
おかげで体重も4㌔減量して、少々お腹がへこみスタイルも良くなった。散歩も続けながら体力維持に励みましょう。
それでも血糖値は今一で、こちらを改善し「糖尿病」から脱出を図りたい。

額に飾る事はないが、クリヤファイルに入れて近くに置いている。来月はまた検査がある。結果を出したいと思っている。

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐三岳朝雪

2023-04-12 16:44:06 | 先祖附

                               

          三岳朝雪

         砲聲響□□      砲聲の響き□□        砲声の響き途絶えて(日が暮れて)
         魂魄幾□空      魂魄幾□空          戦死者の魂が空に(沢山さまよう)
         早起開窓望      早く起き窓を開き望めば    朝早く起きては度を開き三の岳を望めば
         岳陽雪□紅      岳の陽は雪□紅        雪を抱いた三の岳を朝日が赤く染めている

 三の岳とは、熊本市と玉名市天水町の境に位置し、熊本市の山としては二の岳(685m)に次ぐ二番目の高さ(682m)を有する。
山裾に西南の役の激戦地が広がり、吉次峠は地獄峠とも言われ多くの戦死者が出たことで知られる。
編者の福田小波氏は原本の欠落に悩まれながらも、訳に挑まれたが、まさにその通りであろう。感謝

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