津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川斉樹書状 越中守 肥前国熊本藩九代藩主 和本 古文書

2024-07-31 06:23:28 | オークション

       細川斉樹書状 越中守 肥前国熊本藩九代藩主 和本 古文書

                          一筆令啓達候
             公方様 内府様益
             御安泰被成御座恐悦奉存候
             甚暑之節猶以為可奉伺御機嫌
             酒井若狭守殿松平能登守殿与
             呈使札如目録進之之仕候間
             可然様頼存候猶又貴様弥御堅固
             可為御勤珍重奉存候仍御銭一種
             令進入之候御見廻旁如是御座候
             猶期後音之時候恐惶謹言
                    細川越中守
               五月十五日    齊樹(花押)

              松平中務少輔
                   人々御中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   徳川家ー一橋家ー細川家 相関図

    徳川宗家        内府  大御所 
       徳川家治=== 家齊ーーー家慶ーーー家定===家茂===慶喜

            一橋大納言
            徳川治齊ーーー+ーーー 徳川家齊(宗家相続)
          |
          +ーーー 紀姫(蓮性院)
                                                ‖
     細川齊茲 ーーーーーー 齊樹

 

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■奥方は欠語症?

2024-07-30 06:24:59 | ご挨拶

 転院先のリハビリテーション病院のBEDが空かないため、救急受付入院の1週間の予定の入院が2週間になった。
1週間に面会は2回、面会時間は15分とコロナの時期を思わせる慎重ぶりだし、都合4回・60分でDrとお会いする訳でもないから、病状が
どういう段階なのか良くわからない。

確実なのは言葉を失っているという事実である。それもどの程度なのかが判らないが、時々突拍子もない言葉が出てきて驚かされる。
 私はと言えば毎日と言っていいほど、近くのスーパーに買い物に出かけている。
冷蔵庫の冷凍室には、いろんなものが入っているが料理の仕方が判らないからついつい出来合いを買わざるを得ない。
最近はそれも嫌になって、お茶漬けかフリカケで軽く一膳、もしくはトーストにコーヒー、スクランブルエッグといった感じである。
今日は、素麺を作ってみようかと思っている。
Youtubeで簡単な料理の調理法などを見るようになったが、調味料のありかが判らないし、牛乳のストックがないことも分かった。
妻が作る料理を毎日おいしくいただいてきたが、このような事になって食べることの大変さを思い知らされている。
面倒くささがこうじて、食事量が減り体重が2キロほど減った。
明日が転院日、朝からばたばたしなければならないが、今朝はまず何を食おうかと思案中である。
トマトやバナナや桃など、腐らないうちに食せねばならない。今朝はトマトを食べることにしよう。

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■細川家家臣・乃美氏と義弟・村上景則

2024-07-29 06:38:17 | 人物

  乃美景嘉と「乃美文書」(1) - 伊予の戦国史 - SSブログ
  乃美景嘉と「乃美文書」(2) - 伊予の戦国史 - SSブログ

今般、細川家家臣・乃美氏を調べる中で、上記ブログに接することができた。
大変貴重な知見を得ることができ感謝である。先祖附にも反映させていただきたいと思う。

     乃美宗勝ーーー景嘉(主水)
             ‖ーーーーーーーーーー 一郎兵衛(勝嘉)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 細川家臣・乃美氏
          +ーーーー
          |
 村上隆重ーーー景広ーーー+ーーー景則(長岡河内)細川三斎死去後、離国

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■「伴安兵衛宛綱利宛行状」と、伴家の行く末

2024-07-28 06:53:37 | オークション

  細川綱利書状 1幅 肥後熊本藩主 寛文元年 大名 九州 花押 書簡 江戸時代 肉筆 古文書     

 

            肥後國於玉名郡貮百石
            目録有別紙事如先規所宛
            行之也全可領地之状如件
              寛文元年八月五日 綱利・花押

                       伴安兵衛殿

 何の変哲もない宛行状だが、「伴」氏とあって興味を引いた。
祖母の実家・狩野家からこの伴家に養子に入った儀兵衛という人物がいる。当該宛行状の人物は初代、儀兵衛は5代目(多次郎)である。
儀兵衛は「安永四年七月四日 伴儀兵衛手討仕損シ差扣という事件を起こした。雇っていた者を手討にしたが、長年足を痛めており「間合遠ク手疵を負せ申候 」という結果になった。
その結果は「差扣」とあるが、200石の大切な知行を召し上げられた。
無事手討を果たして居れば何事も無かったろうと思われる事件である。討果せなかったことは有るまじきことという事だろうが、200石取りの家が5人扶持の家となり明治に至った。侍の世界とはこのような世界である。

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■主夫は疲れる

2024-07-27 08:58:23 | ご挨拶

 妻が入院したとき、Drから妻の以前の入院歴(病歴)を聞かれた。3~4年前に腎盂炎で緊急搬送されて一月ほど入院した旨を報告した。
爺様の記憶は大変いい加減だったことが判り、それは2017年9月でそろそろ7年になるし、入院は2週間ほどだった。
その時も主夫業をしたわけだが、7年前というとまだ元気よかった。82にもなっての主夫業はさすがに疲れる。おまけにこの極暑だ。
買い物は歩いて5分ほどのスーパーで事足りるのだが、38度になった日などは脳天が沸騰するほどで、冷房を付けっぱなしで出かけた部屋に倒れ込んだ。
この度はまだ後が長い。今月末に今度はリハビリ病院に転院して一月ほどの入院である。
現在の熊本市民病院は我が家から遠望できる距離だが、今度のTリハビリ病院も姿は見えずとも、距離的にはあまり違わない。
コロナがはやり始めの時、一番に感染が広がって騒がれた病院だから、見舞もそうそうできないのだろう。
命に係るわけではないから安心ではあるが、リハビリ後どの程度の後遺症が残るのかも心配事の一つである。
今日も5時半の朝起き後コーヒーを沸かしてトーストを焼いて簡単な朝食をした後、二日に一度の洗濯にかかり終わったときは3時間経過していた。
オリンピックどころの話ではない。ニュースの時間にTVでちょっと眺めてそれで終わり・・日本勢の活躍を祈りたい。
今日は午後から見舞に出かけねばならないが、今日は何度になるのだろうか?
疲れが蓄積していく様を大いに感じているが、ひっくり返るわけにはまいらぬ。
午前中は冷房の部屋で、塩飴をなめ、水を欠かさず(時折コーヒー)して熱中症予防である。
皆様もこの暑さの中、外出はほどほどにされてオピンピック観戦でお過ごしなさいませ。

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■朝顔

2024-07-27 06:29:55 | ご挨拶

              朝顔や 一輪深き 淵の色   与謝蕪村

今年の夏はやけに暑い。38度なんて日もあったがそれでも健気に朝顔が咲いている。
夏休みに入るころになると、子供たちが学校で育てた朝顔を自宅に持ち帰っているが、この日ばかりは大方は車のお迎えで帰宅しているようだ。
でかくなった朝顔を鉢ごと持っては帰れない。
「朝顔」は俳句の世界では秋のものである。肥後六花の凛とした佇まいは熊本の武士の心根である。

                                    朝顔や つる先高みに 遊びけり   津々

 

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■朽木定彦関係‐5「御尋二付御上覚」ー3

2024-07-26 06:09:39 | ご挨拶

                                                       

                                     ■朽木定彦関係‐5「御尋二付御上覚」ー2

                                 及落命候覚悟之由殊之外愁傷ニ而頼
         ニ而御座候間私茂甚難渋仕差圖何とも
         返答仕兼候得共何分一命ニ茂懸り申候程之
         申分故其分ニ茂難閣差當胸中ニ存候ハ
         右之通之趣ニ只今内匠ゟ頻ニ取遣御座
         候而者取茂直サス母子賣り相と申ニ而
         他聞人口茂如何敷存候間私返答仕候ハ
         不肖の身分と申其上私抔取扱申候
         議ニ者無御座候得共余り之様子難忍
         申分ニ付先今晩頼藤栄江内匠申向
         候之処者申當メ可申其上只今書付差上
         候而も最早
         御發駕前迚茂 御着座後茂
         同前之儀故将斗直ニ内匠江参相続
         可仕今晩之処ハ安心いたし候様ニ申聞
         紫英を返し申候紫英帰候後直ニ内匠方江

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■石光真清「城下の人」から

2024-07-25 06:03:32 | 書籍・読書

 石光真清著「城下の人」から、主人公の熊本時代を精読した。
その中の「神風連」の項を読んでいたら、この事件を予見して行動をしていた人がいたことが書かれている。
主人公の近所に住んでいた太田黒惟信は神風連の浦楯記等に踏み込まれたが、いち早く隣家に逃れて事なきを得たが、浦らは太田黒の屋敷に火をつけて退散した。
処が近所の嘉悦邸では、廃刀令を切っ掛けに神風連が何かしら行動を起こすのではないかと事件の三日前から、近所の進歩派の家の夫人たちが嘉悦邸に寄り集まり、
「主人が留守」だと言い募って毎夜かがり火をたき宴を催していたと記されている。

太田黒邸に浦らが踏み込んだのは、その三日目の事だと記している。進歩派の方々の家が襲われることはなかったようだが、この作戦が功を奏して襲われなかっ
たのかどうかは良くわからない。

しかし、そんな作戦に出たという事は、神風連の何らかの行動を起こすのではないかという、確信的な情報を得ていたのであろう。
そうだとすると、官軍がまさかの急襲を受けて初戦にて痛烈な痛手を負ったことは、情報収集が確かではなかったことを物語っている。
この小説は、石光真清の手記をご子息真人氏がまとめられたものである。嘉悦邸とは嘉悦孝子の屋敷だが、まさか作り話ではあるまい。

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■身動きできず

2024-07-24 13:48:38 | ご挨拶

 妻が入院してから9日目、リハビリテイション病院への転院の連絡待ちが続いている。
脳梗塞の病状が固定したから、後は一月ほど歩行訓練だという話なのだが、見舞も週二回と決まっているし、電話をしても通じないし、ひたすら主治医からの連絡待ちでここ一両日外出もままならない。
今日も連絡がなさそうだから、明日以降なんだろう。
何とも男やもめは切ない限りで、ご飯は炊けるがおかずとなると一切手が出ない。卵焼きに椿油を使って匂いがして食えなかったり、スクランブルはバターで作って一応成功したが塩コショウの量が多すぎた。
パンはオーブントースターで焼いたが焼け焦げてしまい一枚廃棄処分、日本人はお茶漬けが一番だ。
御飯に味噌汁と行きたいところだが、これがまだ完成形に至らない。TVで「もこみち」さんが手際よく色々作っておられたが、天才だと思う。
この際、自分の食い扶持くらいは、何とか自分の手でと思うが、やはりお惣菜やさんに頼りっきりである。
それでも9日は生き延びた。

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■朽木定彦関係‐5「御尋二付御上覚」ー2

2024-07-24 06:24:30 | ご挨拶

         

          「御尋二付御上覚」ー1 に引き続き

                                        守居存生之中順養子之儀ハ堅相成
           不申由必多度其儀迄平日申来候趣
           長ク書付茂出来申候得共書付者成然
           仕不申候中相呆遺言ニハ申残宜然共
           定彦親之命を背キ候ニ相當第一不
           孝ニ相成身近難相満之上内匠与
           年齢僅之違イと申信記又順養子ニ
           相成申候得者是又聊之違ニ而一向勤メ
           申候間茂無御座候得者僅之間二頻へニ
           代替リ相守候而而者新知之家筋旁以
           不宜存相断候得共一向ニ承知不被致
           最早此上之儀無詮方私打懸頼ミ申候間
           何卒内匠手前申申上有呉候様ニ必多度
           落議ニ而頼ニ而御座候勿論此儀毛頭挨拶
           尓而申候ニ無御座真実日月神ニ懸ヶ
           申候とも事ニ而既此事御断相立不申候将ハ

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■上林三入宛三斎書状

2024-07-23 06:26:40 | オークション

     【真作】武将大名、茶人 細川忠興(三斎) 消息文、古文書 ガラシャ ローマ字印 

       あと2日35人の方が応札されて現在60,500円、100,000円は超えるでしょうね。
       上林三入は宇治の御茶師、三齋公とはほぼ同年代の人である。

 

                                 以上
        被差越飛脚
        爰元珍敷氷魚       氷魚
        一折到来令
        満足候則賞
        翫可申候猶規
        面之時候恐々
        謹言
               三斎
           十月廿四日 宗立

           上林三入老
               御宿所

 

 この文書の相手方の上林三入とは、宇治市歴史資料館の収蔵文書報告書「上林三入家文書」によると、初代・三入だと思われる。
 幸盛。今西光盛二男・始め三右衛門。藤村家に入り、やがて初代上林三入となる。隠居後、三休。
    万治三年(1681)歿。91歳。
    参考*純正宇治茶専門店・三星園上林三入本店

 

 

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■間違いない梅雨明け・・

2024-07-22 17:13:53 | ご挨拶

 過日梅雨が明けたと思い込んでいましたら南九州のことでした。遅れること■日、ようやく北九州も梅雨明けとなりました。
昨日は午後に妻の見舞いに出かけましたが(週2日)、面会時間15分に自転車で往復20分脳天が焦がれるような暑さでしたが、今日はそれ以上の暑さです。
熊本は36度予想が出ていましたがどうでしょうか。あまり好きではない冷房を27度設定で付けっぱなしで過ごしていますが、頭痛がしています。
慣れない家事仕事や買い物や洗濯、それにベランダの観葉植物を枯らさないように水やりと、午前も午後も走り回って少々疲れ気味です。
主婦の苦労を感じながら、先ほどまでうたた寝をしていました。
そろそろ夕食のことを考えなければなりませんが、この暑さではスーパーのお惣菜やさんまで出かける勇気がわきません。
お茶漬けでお茶を濁すことにしましょう。

明日のお昼には冷やし素麺を食べたいのですが、只今作り方をインターネットで勉強中です・・・

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■漢字雑感

2024-07-22 06:10:10 | 徒然

 古文書に親しんでいる中で、最近漢字についていろいろ思うところがある。
御家流の筆法による文書ばかりではないから、9割方くらい読めれば私的には「読んだ」としたいのだが、読めない字を■と表示している
と、これが気になって仕方なく、一文字を一日がかりとかで何とか読めたときにはまさに留飲を下げる心地よさである。

ところで「変体文字」の中には、「耳」を「ニ」と読ませたりするものがあるが、これは漢音と呉音の違いからきていることを最近知った。
「耳」は「ジ」だろうと思い込んでいたが、「ニ」と読ませるのは呉音である。仏教の経典などはほとんど「呉音」で読むらしい。
たとえば時折くちずさむ般若心経などに「無限鼻舌身意(ムゲンビゼツシンイ)」とあるが如しである。

それゆえこれらの文字が呉音の読みであることを知ることになる。

「王」という字の読みは「ワ」とあることが古文書に初めて親しんだ当初は理解できないでいたが、これは「オウ=漢音」「ワウ=呉音」
であることを知ったが、ほかにも大変興味深いものが色々あり、「春=す」は音ではなく「人名訓」だし、「鵜=う」は訓読みからであり、
変体かな=音読みの常識が通じない。

「而」は「に」の変体カナでもあるが、音読みで「ジ」訓読みでは「て、しこうして」であったりする。
「音=ね」もまた訓読みからきているし、興味は尽きない。
最近では奈良・平安時代の「発音」などに興味をいだいている。
ワ行の「ゐ=Wi」「ゑ=We」「を=Wo」の存在や現在はそれぞれが「い」「え」「お」に吸収された意味など、先にも述べた釘貫亨著の
「日本語の発音はどう変わってきたか」を読みながら大変興味深く読んでいる。

古文書を読んでいるときは、とてもじゃないがこんなことは思いもよらずに一心不乱で読んでいるが、一息つくと漢和辞典を紐解きながら
こんな感じ(漢字)の愉しみ方をしている。

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■細川家家臣・真下氏と八代松井家家臣・澤井氏

2024-07-21 06:56:05 | 人物

 くまもと文化振興会の月間総合文化誌の「KUMAMOTO」を、史談会会員のN君からご恵贈給わった。御礼申し上げる。
実はここにN君の、江戸時代から現代まで続く地誌の世界『平成肥後国誌』についての記事が掲載されている。
平成肥後国誌の編著者・高田Drの最晩年大変かわいがられて、Drno死後は自ら膨大な資料の整理に関わり、一部の貴重な資料・膨大な写真やネガを遺族の了解のもとに頂戴して、整理している。誠に奇特な行いで頭が下がる。
                                                                 

 さて、この「KUMAMOTO」に、松井家家臣・澤村氏のご子孫が、代々受け継がれてきた武家屋敷「澤井家住宅及び長屋門」の継承とその活用について報告を為されている。八代市の有形文化財に指定されており、これらの活動はインターネットでも紹介されている。
           武家屋敷 澤井家住宅 生涯学習館/寺子屋「西小路」

澤井家は一色義有に召抱えられていたが、義有は細川幽齋女(伊也)を妻に迎えている。
その後、細川家はその結婚の祝いの宴を催したいとして義有を呼び寄せて謀殺するという黒歴史をつくった。
梶之助(25歳)は一色氏の居城に攻め来たった細川勢と相対し、米田是政と戦って戦死した。
不憫に思った是政は、その遺児等を助け育てたという。女・佐井はのちに細川忠興の御側に上がり、六男・岩千代を為している。
幼くして、のちに八代城主となる松井興長の養嗣子となった。松井寄之である。
その後佐井は細川家重臣・沼田勘解由にお下げ渡しになっているが、このことについては勘解由の苦悩ぶりについて過去に触れさせていただいている。■忠興側室を沼田延元内室に

母方の姓を名乗っていた元重の流れはそのまま真下姓を名乗り細川家につけた。
二男の流れは本姓・澤井をなのり松井家に仕えて明治に至った。松井興長が八代城主となり、佐井のなした子が興長の養嗣子として後には八代城主となり、澤井氏は親しくこれに仕えたのであろう。

忠興の死後、八代城に誰を置くかという一大事は、細川光尚を大いに悩ませたが筆頭家老・松井興長をしてその城主とした。忠興の溺愛した五男・立允は忠興より早くなくなり、その嫡子に八代藩を立藩することを遺言としたが、このことは光尚の受け入れるところとはならず、宇土にうつして3万石の宇土支藩となした。
その光直が死去すると、今度は肥後54万石の屋台を揺るがす継承問題が大問題となった。
その時活躍したのが、松井寄之沼田勘解由である。不思議なめぐりあわせともいえるが、江戸へ下り幕府に対してのこの二人の努力により、その後の細川家の安泰がもたらされた。

こうしてみていくと、歴史のめぐりあわせの不思議さを感じざるを得ない。澤井家の御安泰を願うばかりである。


                     細川忠興
                       ‖ーーーーーーーーー岩千代(松井寄之
                   +ーーー女・佐井
                   |   ‖
                   | 沼田勘解由(再嫁)
                   |
 澤井元家ーーー+ーーー真下元重(梶之助)ーーー+ーーー七兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・真下家
      |
      +ーーー澤井重包ーーー+ーーー重豊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家家臣・澤井家
              |
              +ーーー正重             

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■松平春嶽夫人来熊、御母・顕光院様御見舞も御逝去

2024-07-20 13:38:31 | 歴史

 今日は熊本史談会例会で、会員の田邊元武氏が「細川家砂取別邸の江津花壇から熊本県立図書館への歴史 」を取り上げられる。
その主題となる場所こそが、かっての細川家砂取別邸のあった場所である。
そして奇しくも今日という日は、その屋敷の主であった顕光院(細川齊護夫人・浅野安藝守齊賢女益姫)が亡くなられた日である。
娘の勇姫(松平春嶽夫人)が江戸から汽船に乗って来熊し、生母の御見舞の誠を努めて熊本を離れた翌日に死去された。
そして報を受けて途中で引き返されている。葬儀のご様子は知る由もないが、勇姫様は最後のお別れをされることになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大名夫人の江戸定住は「大名證人制度」の名残だが、文久年間には参勤交代と大名夫人の江戸定住が緩和され、夫人たちは帰国することになる。
肥後藩も同様で、まず故・斎護夫人顕光院と長男(慶前)室・鳳臺院が駕籠を前後にして帰国した。
顕光院は安藝浅野家のご出身だから帰国途中に実家に立ち寄られている。
その後、韶邦室・峯姫が数日遅れで帰国、藩では南関口に郡代・中村庄左衛門が出迎え、お伴の女中衆が驚くような歓待ぶりであった。
夕暮れの道には赤々と松明がもやされ、これも一同を驚かせている。
顕光院と鳳臺院は二の丸御殿、峯姫は花畑邸に入られた。のち、顕光院は砂取別邸、鳳臺院は二本木邸に移られる。
顕光院の最晩年、娘の勇姫がお見舞いの為に来熊されたが松平家の記録に一連の勇姫様の行動が書き残されている。
以前にもご紹介したが再掲する。

一、五月廿八日御簾中様御儀本日午前第七時真崎御邸御発車、白川県下熊本表江御出立被遊候、正二位様御同車新橋停車場迄御見送被遊候、正四位様・
   御前様・信次郎様・細川正四位様・細川従四位様・津軽従四位様神奈川駅迄御送被遊、藤沢御泊迄中根新被遣、 明朝之御発駕見上ケ罷帰、御機嫌
  奉申上候 但シ東海道通り神戸御乗船、下之関江御着船、夫小倉へ御渡り、陸通り熊本表江御着被遊候 正二位様より左之御哥被進相
成候 君のかへり
  給ふを    としゆきてとくかへりませ何となくいまたわかれの袖のむら雨

       朝な夕な我菴崎に待乳山ひとり千秋のこちこそすれ
一、六月五日御簾中様御道中無御滞、本日熊本県江御着被遊候旨電報 相達候条、細川様御直書ヲ以被仰進、御安慮被遊候
一、七月六日 細川正四位様御家従板垣信康 右熊本県昨日着、顕光院様・御簾中様より之御伝言旁、尚御 機嫌為申上出頭
一、七月十日熊本表電報、顕光院様御容躰去る九日朝より余程御不出来故、御簾中様御発途御日延相成候旨、委細御使者ニ而被仰越 候旨被仰遣候
一、七月十八日熊本表より御家従山田喜一と申者到着参上、顕光院様御容躰委細申上、且御簾中様御発駕御日延御願被遊候条言上、御両君様御同坐御
  取被遊候

一、七月十九日御簾中様御儀、本日熊本表御発駕被遊候旨電報相達候
一、七月廿日熊本表之電報細川様為御知 顕光院様近日御快ニ付、去ル十九日御簾中様御発途被遊、其後幾許之御不出来ニ而極々御気遣ニ寄、細川御両所
  様ニも為御看 病急々御下県御願相成り候ニ付、御簾中様にも御引返し願置候 との御主意ニ候 同日六時到着熊本より之電報細川様為
御知 顕光院様御
  儀十九日午後五時過俄之御不出来、廿日午前一時 御縡切恐入候ニ付、細川御両所様速ニ御下県奉願候条、御簾中様ニハ御途
中より御引返シ被遊候御
  儀、佐野久電報ヲ以申上 候 顕光院様御様子御替り、依而御途中御引返被遊候ニ付、御日延御願御差出可相成様との御
事也

 

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