■明智光秀の甥って誰で、細川忠利が愛宕山福壽院下坊に入院した時に明智助九郎がお供した事を書いた。
考えて見ると忠利という人は、幼少期から福壽院下坊で勉学に励み、その後は江戸證人として江戸に詰めるという生活を強いられている。父忠興・母ガラシャの想いは如何なものであったろうか。
忠利は天正十四年(1586)十月の生まれで、文禄三年(1594‐9歳)五月から慶長三(1598‐13歳)年二月迄の約4年間、この福壽院下坊で勉学に励んだと言われれる(吉山市右衛門家記による)
記録に留められたものは見当たらないが、それぞれの家記から吉山福万・田中意徳・松山兵左衛門や先の明智助九郎等が学友としてお供していることが確認できる。
慶長五年(1600‐15歳)正月廿五日には、江戸證人として再び父母の許を離れて大坂から出立して江戸へ向かった。
その時の御供は、中嶋備中・福池与兵衛・松田(杉原とも)慶順・牧五郎・住江甚兵衛・松田五左衛門・本庄久右衛門・稲留平七・桑原喜兵衛等がお供している。
父忠興は替りの人を上げて忠利の江戸證人の身を解放しようと努力しているが、これがなかなか実現しない。
江戸城普請や辰の口に屋敷地を拝領して上屋敷の建築なども並行して居り、これらに忠利は多忙を極めている。
慶長九年(1604‐19歳)の夏の頃より忠興は煩い、これが思いのほかの容態となった。御存命の間に対面するようにとの家康・秀忠の内意により忠利は初めて小倉入りしている。
そして八月廿六日付けで家康・秀忠から忠利の家督の証書が発せられた。
しかし忠興は本復し「忠利君ハ中津二御移被成候、江戸江御上人として御出被成候已後初而之御入国故、いつれも恐悦之至奉賀候也」と綿考輯録は記しているから、この時期江戸證人の身分は解かれたのだろう。忠利の江戸證人の身分は4年7ヶ月に及んだことになる。
これを受けて忠興は、慶長十年(1605)忠利に替り兄興秋をもって江戸證人となすべく小倉を発足させたが、興秋は京都で剃髪してこれを拒否した。
その他、多くの有力家臣の子弟も江戸證人を派遣している。
慶長十六年(1611)には忠興の生母・光壽院が證人として江戸住まいすることになる。
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