津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小笠原長元のための袖判借銀

2023-04-12 06:38:44 | 人物

 袖判借状とは「借状の内容に藩主が同意して署名・押印して保証したもの」であり藩主の花押が付される。
随分以前「■袖判による借銀」を書いたが、ここでご紹介した吉村豊雄教授の記事によると、本来は藩の借り入れに対する藩主の保証であったようだ。それも毎年借り換えをする自転車操業状態であったらしい。
処が下にご紹介する内容によると、有力家臣の「手前不成」(勝手向きが立ち行かない)ことに対しての借銀に対して保証するという特殊性が見て取れる。
同様の事例があるのかどうか良くわからないが、忠利にとって15歳の時に死に別れた母・ガラシャに殉死した小笠原少斎の嫡男であり、その妻が幽齋の娘・伊也と二位吉田左兵衛兼治の娘・たまであるという事も影響しているかもしれない。

                      (寛永五年正四月十二日 奉行所日帳
            
   一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用候、
     左候て、当春被成御請返、御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、御前へ上申候処、御前判御やふり                                           
     なされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状 御前ニ上被置候をも、同前ニ 御前ゟ
     出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰越候間、則式ア殿
     へ持せ遣候、    

 奉行所の日帳の記事だが、「小笠原長元が困窮したので藩主忠利の袖判をお願いして銀二十貫(≒2660万円)を借銀した。
その返済が終わったので借状を受け返し、御返し申し上げた処、破り捨てに為された。」という大意である。

この当時備前長元は5,000石の大身である。(奥方は別禄100石)大身であるがゆえに家来も多い。
「困窮」と云うのは単なる家政ではなく、家来を賄うためのものであったろう。
縁戚関係とは言え、「藩主の袖判」を得て借銀し、一年足らずして関西に至ったというのは知行米の大形を処分してのことだと思われるが、先ずはご同慶の至りである。 
                       

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■CD・rom 版「旦夕覺書」作成

2023-04-11 09:29:04 | 史料

  堀内傳右衛門著の「旦夕覺書」を2011年5月20日からタイピングを始めた。
肥後文献叢書(四)に所収されている全163頁を都合3年10ヶ月ほどの時間を費やしてタイピングしたものだ。
全93回に及んだが、鳥の巻でへこたれ、途中休憩している。
今回ある方かたからリクエストが有り、ワード版にて全文をCD・rom に落して提供することにした。
PDFではなくワードというのがみそで、何事か企てていらっしゃる。
そのために、これを一度書式や文字・大きさなどを統一するために「花」「鳥」「風」「月」の巻ごとにでまとめ直した。
この作業が思いのほか大変で、年寄りには応える。
途中で明らかなタイピングミスが見つかると原本と照合して校正したりする手間も増えた。
体裁を整えて昨晩終了、CD・rom に落して一件落着。

          花の巻  2011・5・20 ・・・・・・・・・・・・・・・・・2011・6・14了
                 p125               p157

          鳥の巻  2011・6・19 ・・・・・・・・・・・・・・・・・2014・8・20了     
                 p158            p190

          風の巻  2014・10・8  ・・・・・・・・・・・・・・・・・2015・2・24了
                 p191            p241

          月の巻  2015・2・26 ・・・・・・・・・・・・・・・・・2015・3・7了
                   p242            p288 

 本当に堀内伝右衛門という人はまめな人で、よくぞと思うような記事を遺してくれている。
有難いことで、この「旦夕覺書」の中から面白い記事を取り上げてご紹介したいと思っている。
この「旦夕覺書」、どこかのデジタルアーカイブで紹介されているかと思いきや、意外なことに為されていない。
もしこれを読んでみたい方がおられればと思い、PDF版でCD・rom を数十部作ろうと思い立って作業に入った。(ご苦労なこったい)

 

 

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■「陽明学徒追放」に非ず

2023-04-11 06:53:21 | 先祖附

 寛文九年十月六日、北嶋三立(雪山)や小姓頭・朝山次郎左衛門をはじめとして十九名の者が御暇を出された。
異教といわれた「陽明学」を信奉していた人々が追放された。
その中にガラシャ夫人に殉職した小笠原少斎の孫、小笠原家二代の民部長光の三男・勘助(長義)が含まれる。
私はずっとこの人も「陽明学徒」であると思い込んできた。
同日付「肥後藩御奉行所日帳」には主に「陽明学徒」を主としているが、併せて切支丹宗門の為や、役向きの失策、不行跡の者も含まれていたという。その仕分けはよく判らないできたが、小笠原勘助については、堀内伝右衛門の著「旦夕覺書‐月」が真実を教えてくれた。伝右衛門の父は「慮外者」と呼ぶ。どうやら不行跡の人物だったようだ。
 

   一、小笠原勘助と申す五百石被下いか様島原の時は榊原飛騨殿手にて働たる様に承及ひ候 御側筒十五挺同
     名文左衛門同役にて御家中一番の口聞興津才右衛門よりは上と申候 老父なとは慮外者と文左衛門咄被
     申候事覺申候 江戸にて讃岐守様御初駕の刻晝の御休にて御使者勤申筈の處に休息仕居申下々も臥寝忘
     れ肝つふし御一宿へ参候て勤申御廣間に直に罷出申箇様/\と少も遠慮なく罷出申上候 小屋に歸り相
     役の誰そ頼候て箇様/\とて遠慮仕候はゝ御暇被下候様には有之間敷物と何も申候 拙者初江戸にて能
     覺申候 箇様の御使者はいか成る不調法者も勤申事に候 平生は口聞發明にて人を何とも不存神佛なとは
     不及申上天の恐れなと夢にも見ぬ男にて隈本にて御暇被下候 その後拙者京都に御茶つほ取に参候て朝
     山次郎左衛門牢人被致佐賀(嵯峨カ)に被居候 老父は朝山齋寄親の様に被存養子にて候故拙者に寄候
     て無事なる様子承候得と被申候 拙者に勘助申候は偖々久々にて得御意候先心得に成候事咄可申候 御使
     に桑名抔通り候刻家来にても手討仕間敷候 此比紀州様御家来何某と申仁早使に通候刻桑名にて家来手
     討に仕候 宿主即刻松平越中守殿へ申候へは御留置にて紀州へ被仰遣候て御家来まきれ無之との家老共
     ゟ使者参りて通申候 右の使者早打の由断申候へとも國法にて御座候由勘助も初て承候 拙者も存ましき
     由にて咄被申候 勘助被申候は私儀は如御存うつけを盡し如斯仕合にて候随分/\御奉公可被御精出候
     拙者は紀州に縁御座候て久敷逗留仕関東にも隙にて居候へは松島迄見物に参申候て方々承申候 熊本の
     様成る所は無御座候 御家柄と申随分勤候へと被申候 山名十左衛門殿も御親父以来別て今の田中又助も
     初江戸の刻桑名とかにて咄申由今の又助三歳の時御暇申たる由今又助咄被申候 牢人仕思ひ知り可申候
     右の仕合假初にも輕き事にても御奉公實に心得候はゝ寝入可申様なく候得共誰も勤る事とおろそかに
     存不實にて天罰蒙り候と存候

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐田原坂戦況

2023-04-10 07:06:05 | 熊本

                               

                 挑みあふ         挑みあふ
                   田原乃          田原の
                   丹者能          にはの
                  いふな紀茂        いふなきも
                 花丹忘るゝ        花に忘るゝ
                  大和たま         大和たましひ
                     しひ

                     相達 

 戦い合う田原坂の戦場では戦況は優勢ではないが、桜の花を見れば、本のひと時戦いを忘れてその美しさに心満たされる。やはりこれが大和魂というものか。 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長八年」を読む

2023-04-10 07:04:42 | 史料

忠興文書-慶長八年

 25、正月廿日書状
  ・江戸の町普請の手伝いを命ぜらる
  ・その普請奉行が誰なのか判らない、調べて入魂になり、近い場所に小屋場を確保できるように
   66ヶ国に普請が仰せ付けられ、国名を町の名にする由豊前の名前が知られるようになる
  ・普請の役儀300人との事だが、4・500の人を出そう、その兵糧の用に米600石を用意する、先ずは金子5枚を遣わす
   自分は月相(二月は既昨)に伏見を立ち2月14~5日ころに江戸へ入る予定
  ・自分の江戸入りには、いつも言うように迎えはいらない
  ・当春の祝儀に対し礼
  ・江戸入りの供連れ約200人、馬乗り10人ほど
  ・中嶋・松山へも別紙にて申し遣わしたが、小屋場や兵糧のことなど申し付けられたし

 26、正月廿七日
  ・伏見を二月朔日二日に出発する、宿はその方へ参る、進物の鯛の用意すべし
  ・浅野幸長江戸参勤す、浅野その他の大名衆の進物を知己の旗本衆をたのみ調べておくこと、この事第一儀
  ・この手紙を榊原康政に持たせられること
  ・自分たちの江戸入りの日にちについては秘しておくこと、廿日~廿三日ころとしておくよう、供の者が申してきたとしておくこと

  (2月12日、徳川家康征夷代将軍に補任さる、この日を以て江戸幕府開府とす)

 27、二月十八日書状(1)
  ・昨日江尻、今日駿河駿東郡の三枚橋に着く予定、鎌倉を見物して廿一日の夜に到着する、こちらから召し連れた者共草臥れているので、
   道具持ち4・5人、乗り物かき10人、馬3疋を六郷あたりの川端まで迎えに遣わされたし
  ・22日はかくれ居りて、進物の様子など申し付ける。忠利は迎えには及ばない、ひっそりとしておきたい

  28、二月十八日書状(2)
  ・浅野幸長の進物を一つ書にして江戸参着をまつこと

  29、二月十八日書状(3)
  ・書状ともども川北平十郎を迎えに寄越し祝着、来る21日夜に江戸へ入る、この事は誰にも言っていない
  ・この手紙を榊原康政に持たせられること

 30、三月六日書状
  ・普請の小屋場を建てて急ぎ着工する事
  ・普請のことについては鵜兵・岡田太郎右衛門の指図を受ける事
  ・津田信成に「甲」を拵えて下すことにする

 31、四月二日書状
  ・去月廿五日家康参内に供奉したこと (実際は二月十二日‐将軍宣下のとき)
  ・津田信成が兜を受け取った、「甲」はあとにて届ける
  ・普請については油断なきよう
  ・馬具を送る
  ・近日帰国する

 32、四月廿一日書状
  ・丹後の祝儀として秀忠・岡田利治などに帷を贈るべく、そちらへ送った
  ・津田信成の甲を忠利に送る
  ・かるさん・なんばん鏡・扇・なんばん手のこい(手拭い)伽羅一包忠利へ送る
  ・加藤左馬・金雲・ツ長州が江戸へ下った、似合いの馳走を振る舞うように
  ・我々は二三日中に下國する予定
  
 33、四月廿七日書状
  ・そちらの普請の状況はどうだろうか、奉行に御礼申したることは尤もである
  ・忠利の屋敷のこと岡太郎右・兵庫肝煎で相済んだことに満足す、屋敷普請の為の銀子・大工など下す
   手間入らぬように申し付ける事
  ・中嶋備中に替り住江小右衛門を江戸へ下す、来月十日小倉発足、大工も下す
  ・津田信成のかぶと受取、忠利の兜も申し付けた、出来次第下す
  ・毒消薬并毒害の予防薬を送る
  ・物書きを江戸に下す、
  ・あをり三懸、ほうき五本下す
  ・岡田利治子息へ贈る予定の鷹、目の煩い他を理由に延ばしてきたが、江戸へ送るので遅くなった理をよくよく説明してほしい
  ・犬二匹、大納言(秀忠)へさしあげる、逸物の旨をよくよく説明されたし

 34、八月朔日書状
  ・大久保忠隣などの意見により豊臣秀頼の婚儀には賀使の派遣はしない

  (以下、この年の書状ナシ)

  (慶長八年)九月廿九日、前野出雲守後室忠興君御女御名お長安昌院殿御卒去、法号月心妙光

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐亀井の病院にて

2023-04-09 10:48:29 | 先祖附

                                                           

 前回同様、亀井の協同隊の人々を扱った亀井の病院での有様である。
傷を負った人々が庭先の桜の花を見ながら、山桜を題に発句などで楽しむさまは、大和心が健在であると編者の福田小波氏は解説されている。
最期に在る句は鳩野宗巴の句だが、文中の池部顕寿の句がさし合(語重なり)だからと自ら詠んでいる。

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■享保十七年四月九日、水足先生父子災難

2023-04-09 06:43:33 | 人物

 享保十七年四月九日、高名な儒者水足屏山とその息・博泉は思いがけない災難に遭遇し、屏山は死去、博泉は重傷を負った。
その事件の原因は、屏山の妻が隣家の笠井源右衛門と不義を働いたとして、これを討ち果たさんと親子で立ち向かったが返り討ちにあったという次第である。
次のような史料が残る。

          現・谷尾崎
    水足屏山池田手永尾崎村に在宅せしが 其妻隣家ノ笠井源左衛門と云ふ牢人者と密通さしかば 享保十七年四月九日
   朝七時過屏山父子笠井宅に押懸け打果さんとせしが 却而笠井にかゝり数個所の手疵を負ひて笠井をとりにがし
   たり 然るに近所に住みし長谷川忠左衛門(300石)吉田喜右衛門(400石)父子三人馳付け来り 笠井を追懸け畑中
                                どもり
    ニて討捨て多りニ 屏山は重傷にて同日死去 博泉は御咹となりしと云ふ 當時の落書に曰く

            保の保のと尾崎の村の朝霧に儒者かくれ行學なしと(ぞ)思ふ

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長七年」を読む

2023-04-08 08:15:59 | 先祖附

忠興文書-慶長七年

  (慶長七年小倉を御居城ニ可被成と被思召、正月十五日鍬初被仰付候、廿六七日之比、小倉ニ御越被成御縄張被仰付、御家中ニも丁場
   の割被仰付、其後も度々御出被成候) 綿考輯録

 16、三月廿三日書状
   ・忠利より年頭の祝儀として鳥目三百疋が到来したことに対する礼  
          (「鳥目・疋」は、祝儀のときだけに使われるお金の単位で、1疋=銭10文 故に3,000文≒36,000円になる)
   ・家康に対しての対応に感謝
   ・陣脇差、兜、頬當について
   ・びろうどの陣羽織を送る、猩々緋の陣羽織を受け取った
   ・ししゆひかね(不詳)を送る
   ・雨みのを送る
   ・送った折箱を織田秀雄へ届けてほしいこと、見廻を怠らず、御用を聞き、馳走は簡用に
   ・居城を小倉へ替える事にした事、近々下國し普請の大形を申し付け、七月末~八月初に徳川秀忠御見舞の為に罷り下る予定
   ・所望の鞦(尻繋=しりがい)のことは承知した、鞍(くら)は送った

 17、三月廿三日書状16と同日の書状、伏見よりの書き込みあり)
   ・忠利が秀忠より拝領した馬を送ったことに対する礼
   ・忠利に大脇差(三原)を送ろうと思うが適当なものが見つからない、「信長」をと思うが忠利には似合わないだろう
   ・今度家康公に会いたいと考えているが、忠利の證人交代については態とこの度は申し上げないことにする
   ・近日下国して小倉城普請を指図して、その後江戸へ下る
   ・途中京都により父・幽齋へ知行を少し與へたい、母光壽院とも併せて忠利から文など届けてほしい
   ・てう(長)、たら(多羅)、與五郎(興秋)らも元気である事

 18、五月廿五日書状
   ・忠利が稲葉道通と懇ろになったことに付、自分の方から礼を申しておく

   ・お茶がなくなったとの事、信楽の壺(に入れて)を送ったこと  
   ・黒田長政との年貢先納の紛議解決した事
   ・下国のお許しを得るため伏見在城の家康公にお目にかかり、鷹まで拝領した事

 19、六月廿四日書状
   ・小倉城が見事に完成した事
   ・秀忠から巣兒鷂(巣で捕らえたハイタカ?)を拝領した由、法度(鷹狩に関してか)を間違わないように
   ・同上の他、(秀忠に関する報については)何事も知らせる事
   ・(意味不詳ー馬具に関する事か?)
   ・小姓二人、仲間の替り(交代か)を遣わした事
   ・くつ輪(=轡・はみ)を送ったこと
   ・忠利の身の回りの物は「あか・おく(奥の者か)」方へ送ったこと
   ・八月には江戸へ下る予定、春頃より目を患い左の目が見え兼ねている、養生をして備えたい

 20、八月八日書状
   ・重陽の祝儀として秀忠公に小袖を進上したい、各(幕府要職?)へも同様、届けてほしい
   ・江戸在勤の者の交代、中嶋左近・松山左兵衛尉を九月朔日に当地を立たせる、江戸在のものが一機の変わるのは
    まずかろうから良く談合の上来春までに帰国させること

 21、八月廿九日書状
   ・目を患ったことに対し、付け人を申し付けられたことに礼
   ・目の病に付秀忠公からお見舞いの書状が届いたこと、
   ・目の治療について去年の処置は散々だったが、今回はくすし(=薬師)を替え、少し良くなっている、「そこひ」にはならないだろう
   ・予定していた江戸参向は延引する、その時期についてはまた報告する
   ・過日、小倉城の現場に赴いたが大風にあい、今日は臥せっている、油断なく養生する
 
 22、十月晦日書状
   ・そちらに小姓七人・茶坊主一人を下した
   ・家康の上洛が今年なかならば急いで小倉へ通報してほしい、江戸でご越年でもその旨知らせてほしい、遅いと役に立たない
   ・忠利の花押が変わったようだが、当世流行にしてはよろしくない、「判は人の形」で吉凶をいうはおかしい

  (十一月中旬、小倉城御普請成就し、下旬御入城被成候 御普請相勤候面々御賞美の御意御座候 中ニも(有吉)武蔵守立行身代ニハ
   過分ニ人数持兼て心懸候故、軍役・普請等格別ニ手廻し宜敷被思召候由也) 綿考輯録-忠興公・上p418

 23、十二月二日書状
   ・来年正月には江戸へ赴き(家康・秀忠)御見廻をしたい、

 24、十二月廿二日書状
   ・今年内に上洛したいと思っていたが、国の作方のことで今年は出来ない、正月十日ころより伏見へ上り、十五六日ころ出立して
    江戸へ下りたい、
   ・先日の花押の件(22書状)について返事がないのはおかしい

   今年(慶長七年・時期不明)於江戸初而御屋敷拝領被成候」(綿考輯録・巻十七--忠興公・上p423
  (考ニ、四月十日忠利君二被進たる御書、并忠利君より(有吉)立行ニ被下たる五月七日の御書等の趣に候へハ、当春之砌御拝領被成候哉、
   いつれの御屋敷なるへきか、或説ニ、忠興君初而於江戸御拝領の御屋敷ハ、愛宕下藪小路之由、又一書に、慶長八年とあるハいふかし、
   又御上屋敷忠興様拝領之節迄ハ空地にて候ゆへ、地形悪く候、加藤主計頭様御拝領地ハ岡山ニて候故、彼地より土を運ひ埋上候而御屋
   敷ニ成候由、此時ハ只今の表御門之方三千坪はかりも有之、其後段々御添地有之由と云々、是今の竜の口御やしきと聞へ申候、此余御
   屋敷之事、忠興君二も忠利君二も上中下なと所々御屋敷有之たる御模様ニて、御作事ニ付而も思召の事等、数通の御書にも見へ候得共、
   いつれの所と申儀、其屋敷の成行もわかり不申候、将監橋際の御やしきハ坪数も広く有之たる由、乍然増上寺の隣ニて火災の憂無覚束
   を以、光尚君二至被差上、其替りニ今の白銀の御屋敷御拝領被成候)

 

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐亀井夜雨

2023-04-07 10:09:48 | 熊本

                                   

                      亀井夜雨

     病院深宵話     病院深宵の話        亀井協同隊病院の夜のことです
     林々夜露鳴     林々として夜露鳴く     冷たい雨の音だけが鳴くように響いています
     一人先涙下     一人先んじて涙下る     一人の若者が手当ての甲斐なく先んじてしまい、私は涙しています
     更不對床声     更に對床の声せず      枕を並べた負傷者たちからはもう何の音も聞こえません。

         壷渓

 

絵の中央部下に協同隊病院とある。
協同隊とは、植木学校を中心にし、専制政府を否とすることは同じ考えだとして、薩軍に呼応することに決した。明治10年2月20日、同志40名は保田窪天満宮に集結して出陣式を上げ、平川 惟一を隊長に、宮崎八郎を参謀長にえらび、檄文を読み上げて隊名を「共同隊」と定めた。隊は翌21日薩軍本営に入ったが、隊士はのちに400人をこえた。(菅原神社案内板より)
亀井のこの病院はかっての亀井城の跡で亀甲山光照寺を協同隊専用の病院としたのだろう。

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■熊本史談会4月例会講演会の御案内

2023-04-07 09:28:26 | 熊本史談会
 熊本史談会4月例会講演会の御案内を申し上げます。
今回は新町出身でもあります当会会長・毛利秀士に、「新馬借町(現・新町3丁目)出身の尊王攘夷派・河上彦斎」を取り上げ講演をお願いいたしました。
皆様御存知の「るろうに剣心」主人公のモデルともなった人物です。暗殺者としてのイメージが付きまとう人物ですが、熊本の尊王攘夷派の一人として明治維新後も攘夷の信念を通したと人物として知られます。
お楽しみにご参会いただきますよう、ご案内申し上げます。
 
                     Genzai_kawakami
 
 
                        記
 
       期日:令和5年4月15日(土)午前10時00分~11時45分(質問時間を含む)
       場所:熊本市民会館 第6号会議室
       演題:「るろうに剣心」主人公のモデル・新町生まれの尊王攘夷派・河上彦斎について
       講師:熊本史談会・会長 毛利 秀士氏           
 
       一般参加自由:
           事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
           参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
           尚、講演前に当会の新年度総会を催しますので、入場は開演10分前からと致します。

           又、コロナ対策の爲のマスクの着用は随意と致しますが、ご記名のみお願いいたします。

 
 
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■薮 内蔵允の四月七日

2023-04-07 08:25:14 | 人物

 八九八「度支彙凾 文政元より五迄 法令條諭・十九」

    口上書
                  
一右者御家老職被仰付候
               藪 内蔵允殿 (7代政純 2,800石)
               三淵永次郎殿 (10代澄湍 5,000石)
  右者御中老被仰付候
  右之通ニ付觸支配方えも相知せ可申旨、御用番被仰聞候
  條、左様被相心得、御支配方えも可被相知候、以上
   (文政四年)四月七日        御奉行中

 御中老とはかっては旅家老とも呼ばれ、江戸詰の家老職をいう。
薮内蔵允は「文政七年甲申三月二十三日 奉藩命赴于江都 四月七日病歿于赤石舟中 於」(藩命を奉じて江戸に赴き、帰国の途中四月七日明石沖の船中で死去)したとある。
奇しくも就任から三年目の同じ日に職に殉じたことになる。遺骸は付き添っていた家臣により熊本に運ばれ、四方池の山地に葬られた。
現在この地は、四方を民家に囲まれ行く手を阻まれている。何方かのご了解を得て入るにしても、斜面地であるだけに入るのが困難である。大いに憂慮している。
 

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐石坂夕照

2023-04-06 15:54:51 | 熊本

                                       

         石坂夕照

        村店斜陽没      村店斜陽に没す         村の店に夕日が傾くころ
        農夫呼換頻      農夫呼換すること頻り      農夫がしきりに声を掛け合っている
        擔苞如何物      擔げる苞は如何なる物ぞ     背中に担いでいる苞には何が入っているのだろうか
        春閨夢裡人      春閨夢裡の人          気持ちの良い部屋で夢を見眠っている気分の人が背負われて
            壷渓                     いるのだろう

室園の拝聖庵を本拠地として鳩野宗巴ら八名の医師が、地元の婦人らの手を借りながら、敵味方の隔てなく負傷者の治療にあたった。
絵をみると刀を差しているから声を掛け合う人と云うのは侍ではなかろうか?
石坂とは万石通りの清水町万石3丁目と4丁目の境辺りの三差路から、亀井の商店街の方へ下る道である。
三差路には大きな榎木が有り、放牛地蔵が祀られている。

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■捨て子があった時代

2023-04-06 06:54:35 | 徒然

 俳聖芭蕉がその行動を非難される有名な句がある。
    猿を聞く人捨て子に秋の風いかに (猿の声に哀れを感じる人々よ、秋風の中に響くこの赤子の声を、どう感じますか。)
三歳くらいの捨て子と思われる幼子に出合い、芭蕉は僅かに懐の食べ物を与えて通り過ぎたという。その折の作句である。
「 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。」としてこれが見捨てて去ったと解されている。

 生類憐れみの令が捨て子救済を促進した一面があるとされるが、それは「赤ん坊は授かりもの」として、捨て子等はその地域で養育させることが義務付けられている。
10歳になるまではその町や村で養育しその間里親を希望するものがあれば、これに託されたという。
芭蕉は丁度その時代の人だが、近くの村まで手を引いて誰かに後を託せばよかったろうにという議論も起こりそうだ。

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      去十一月廿ニ日夜、川尻下町今村徳次郎戸口際ニ捨子有
      之候処、同町千太郎と申者養育いたし度段書付被御達置
      候、依之金子三両三歩被添下候条、往々心を付養育いた
      し候様可有御達候、以上
         明治二年巳也          町方
           四月五日           参政中
         飽田
          御郡代衆中 

 これは随分時代が下っているが、熊本は河尻の話である。明治元年の十一月捨て子が見つかり手を盡して親を探したが見つからず、「近隣之乳持を相頼ミ養育仕居申候」と面倒を見るうち、二年三月に至り、岡町の千太郎なる人物が養育したい旨を申し出たという。五年前に妻帯したというが子供が出来ないからという奇特な申し出である。
川尻町奉行や郡代など慎重に身元調査などをしたうえ「千太郎儀勝手向も兎哉角押居候、夫婦共ニ慈愛厚、兼而心得方宜由」として、間違いなく養育してくれると判断を下したのであろう。
一ヶ月後町奉行の上記決済を以て、この不幸な赤子は千太郎夫妻に渡されることになった。
三両三分というかなりの多額な金額が手渡されるようだが、どの様な基準で決められたのかはきとしない。
残念なことにこの赤子は六月に至り死去している。この奇特な行為が花を咲かせることが出来なかったのは、残念の極みである。
こういった村や町で育てるという考え方は日本独特のもので、西洋では類型が見られないという。

熊本では「赤ちゃんポスト」の存在が頻繁に報道されているが、理由は兎角として命が失われないようにするという考えは崇高なものである。
             江戸の捨て子たち―その肖像 (歴史文化ライブラリー) 江戸の捨て子たち―その肖像 (歴史文化ライブラリー)

     

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■浄勝寺のこと

2023-04-05 11:47:57 | 熊本

 ある方との電話の中で「浄勝寺」の話が出た。「浄勝寺」とは「角川日本地名辞典」には次のように記されている。
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熊本市本荘町の苗床にある寺。真宗大谷派。山号は勝軍山。本尊は阿弥陀如来。本堂前の大ソテツにちなんで蘇鉄寺の俗称がある。「肥後国誌」は慶長19年善慶の開基とし,享和2年の「浄勝寺善慶父子武功覚書」には善慶を対馬の領主宗氏の子孫とする。宗氏は盛実の時に託麻本山城主となり,盛実より13代目が,山本郡正院岩野山道祖城主の久隆で,久隆の次男が善慶となる。天文年間出家した善慶は,従弟の隈本城主越前守と同道して上京し,本願寺の門徒となり,善慶の号と浄勝寺の寺号を許された。一方,城越前守は行西の号と徳栄寺の寺号を許され,玉名郡中富手永の広村に徳栄寺を建立した。善慶は先祖の領地であった本山城の跡に浄勝寺を建立。その後慶長5年加藤清正により再興されたとある。寺蔵の開基系図には,久隆は享禄4年冬に肥後国を退去して長門国に向かうとあり,同年の春善慶が道祖城で生まれ,26歳で出家。慶長5年小西行長勢との合戦で加藤清正に仕えて戦功をあげ,慶長19年浄勝寺の開基となり87歳で没したと見える。「肥後国誌」の補説では,2世祐閑の代の寛文5年,法義の争論によって,それまでの西本願寺末を離れ現宗派へ転じた。宝永年間の大火で堂宇を全焼したが,ほどなく再興される。明治10年の西南戦争では薩摩軍戦死者の埋葬地とされ,481名が葬られたが,戦後数年間で遺骨の大半は鹿児島の遺族のもとに引き取られた。昭和20年8月7日暁方の爆撃で被害を受けたが,伽藍の倒壊は免れた。昭和42年,白川の改修工事に伴い本山の泰平橋際の旧寺地から現在地(熊本県熊本市中央区本荘町744番地)へ移転し近代風に改築された。

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 幕末の頃の絵図を見ると、古町地区の米屋町1丁目から3丁目へ真南に向かう道筋の白川を挟んでの対岸の川沿いに「浄生寺」の表記が見える。
上記説明によると「本山の泰平橋際の旧寺地」とあるから、昭和35年に建設された「泰平橋」には掛らなかった事になる。
開基の善慶は肥後宗氏の末裔だとされるが、宗氏は本山城の城主であった。後この地を離れて熊本市植木の道祖城主になっている。
そんな先祖を想い、本山城の跡に浄勝寺を創建したというが、この本山城が果たしてどこにあったのかは定かではない。
昭和4年(下図)当時の地図を見ると、本山地区には「城ノ本」とか「西小路」等の名前が残り、本丸ではないかと思われる周囲を道に囲まれた一画も伺われて大変興味深い。
昭和35年に鉄骨の現在の橋が架橋されたが、かっては「明辰橋」という木橋が架かっていた。故に「明辰通り」という名前も記されている。
一本の電話からいろいろ妄想し、古い地図を引っ張り出して見た。

                                     

                                                                                                                                         ⇧ 浄生(勝)寺

                                     

              

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長六年」を読む

2023-04-05 07:09:48 | 史料

慶長六年
  (3月17日、於大坂家康に謁す、秀忠より岐阜・関ケ原の軍功を賞して利休尻膨の茶入れを拝領す)
 6、四月十日書状
  豊前入国して三か月後、幽齋が病であるとの知らせに忠興は京に上っている。まだこの時期は幽齋は吉田にとどまっていたと思われる。(3月3日、幽齋の病気見舞いとして出船、風雨強い中尼崎上陸、10日吉田着)
  そんな京から江戸の忠利に宛てた書状である。
  忠利の帰国については徳川家の上杉景勝への対応いかんで遅くなっているが、證人を交代させることで願い出たいとしている。
  忠利はいろいろなものを所望しているが、その中の刀などは戦いの中で失なわれたものも多く、品定めをしたうえで後で送るとしている。
  景勝にたいして出陣があれば、榊原康政と行動を共にするように指示している。

 7、五月九日書状
  松田新七郎なる者を江戸へ遣わし、忠利宛に所望の道具を送ったことを記している。

 8、六月八日書状
  「三月三日之書状披見候」とあるが、随分返事が遅れている。
  ・会津への御陣(景勝攻め)があれば、榊原康政へ参るようにせよ。出陣はないようだが、もしもの場合は国元から人を遣わす。
  ・織田信雄(常真)の子・秀雄が江戸へ下るとの事で人を遣わしている。御用があれば忠利に申し付けられるようにと申し上げている。
   見廻をおこたらないようにせよ。
  ・江戸に在る「徒然草」を送る様に申し付けたが返事がない。急ぎ手配をして送るように。

 9、七月朔日書状
   引き続き会津出陣のことに触れて居り、出兵があるかどうかは不定だが、出兵に備えて諸道具を送るとしている。
   もし出兵があった場合、徳川秀忠の同意がなかったときは、御陣の先に先に廻って御見廻をする様にとしている。
   又、「徒然草」についてまだ返事がない、如何なっているのか急ぎ送る様にと催促している。

  (慶長6年7月7日、関ケ原や石垣原の戦いで活躍した有力家臣を招き宴を設け、無役の知行や長岡姓・御名の授与等がなされた。)       

 10、七月廿四日書状
   馬のこと、鉄炮ノ口薬入胴亂のこと

 11、八月十一日書状
   家康の命により上杉景勝が伏見に上ったので、忠利に御暇をいただき帰国できる様にしたい、
   中津は別条ない。
  (8月に奥羽に関する大名配置の決定をもって正式に景勝の処分あり、出羽国米沢30万石に減移封された。)
  (8月、御国政之事ニ付而、松井・有吉・加々山三人ニ被下候)

 12、九月廿五日書状
   伏見から家康が江戸に帰国した事、また具足や鞍など種々の道具が出来上がったが、やがて江戸へ送る事

 13、十月廿一日書状
   具足などを送ったこと、徳川家康に時々参謁する事

  (松井康之・興長に領地之御判物 25,994石余)

 14、十一月廿三日書状
   諸事秦宗巴の意見を受ける事、

 15、閏十一月廿一日書状
   家康上洛の時間を早飛脚で知らせる事、近江路・伊勢路迄も迎えに出る覚悟であること。
  (12月中旬、幽齋君初て中津ニ御下り被成候、所々の城代も中津ニ至り御祝儀申上候、翌日小倉より玄蕃(興元)殿御立退)
  (この時期、島津義久豊前に至り祝賀の席で一重切にて隆達節を披露す)細川護貞書「細川幽齋」
   

 


   

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