津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑳~

2024-08-06 06:36:24 | ご挨拶

      吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2024:7:25日発行 第76号      
           本能寺からお玉ヶ池へ ~その⑳~         医局:西岡 暁 


  「古い話である」と森鴎外の「」は始まります。その30年近く後「うとうととして・・・・・」と始まる「古い話」が松目漱石(1867~1916)の「三四郎」です。
     花びらに 風薫りては 散らんとす夏目漱石

【24】弥生町
 小説「三四郎」の主人公は、帝国大学文化大学(現・東大文学部)に入学するため熊本から上京した小川三四郎です。入学前の夏休み(当時は秋入学)の或る日、三四郎は「野々宮宗八を訪ねることにし・・・・・」「高等学校(現在の東大農学部の場所ですが、学校としては現在駒場にある東大教養学部が相当します。)の横を通って弥生町の門(現・弥生門)からはいった。」のが帝国大学です。帝大の正門は(医学部の)鉄門でしたが、三四郎の住まいは駒込追分町(現・文京区向丘1丁目)だったので、「弥生町の門から入った。」のでした。
 理科大学(現・東大理学部)で野々宮に会った後「三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。」のですが、この「池」(元前田屋敷の庭園の池)は後に「三四郎池」と呼ばれることになる東大の名所です。

              
                      東大 三四郎池
                    出典:ウイキペディア 心字池

 1629年(嘉永6年)4月、明智光秀の重臣・斎藤利三の孫・徳川家光は、将軍として加賀藩上屋敷への御成(訪問)を挙行します。家光の御成には、弟の忠長、立花宗茂(=柳川藩祖)と並んで藤堂高虎(=藤堂藩祖)が御供しました。東大医学部の前身・東京医学校が1876年(明治9年)にこの加賀藩上屋敷(跡)に移ってくる前に在ったのは、藤堂藩上屋敷の跡地(ただし、高虎時代の上屋敷は江戸城大手門前)でした。
 当時の加賀藩主・前田利常(利家の四男)は、御成に供するための御殿と(造成時には「名前はまだない」)庭園を造りましたが、その庭園の池「心字池」こそが後の「三四郎池」です。
 三四郎はその後「ベルツの銅像の前」を南へ歩き、南新門(源・龍岡門)から学外へ出ました。「はいった」のは正門(=鉄門)からではなかったし、正門から出ることもありませんでした。【9】【19】にも登場したベルツですが、近年(医学の他に)人類学でもその功績が評価されています。ベルツは1911年(明治44年)に「東アジアの人種 特に日本を中心に」という(ドイツ語)論文で「アイヌと琉球(沖縄)人が同じ系列の人種である。」と書きましたが、なんとそれが21世紀の今日(それもここ10年余で)、ヒトゲノム研究によって裏付けらえています。国立遺伝学研究所の斎藤成也特任教授によれば、「べルツの説が101年後に最終的に証明された。」ことになるのです。
 ベルツを詠んだ秋櫻子の句碑が(東大の他にも)愛知県豊川市の西明寺にあります。そもそもは、ベルツに学んだ三浦勤之助と入沢達吉が、ベルツの妻・花の父方先祖の菩提寺である西明寺にベルツの供養碑を建てたのが始まりです。三浦勤之助は【13】で述べたように、三宅秀の長女・教の夫です。

                                                    
                                                       東大 ベルツ像
                   出典:改訂版 江戸東京医史学散歩
         

     菊にほふ國に 大醫の名をとゞむ  (水原秋櫻子)

 この句碑は1969年に建てられましたが、妻・の所縁の地なのに何故か(東大の)「・・・・・の雨」の句は選ばれませんでした。
 さて、三四郎たちは「ベルツの銅像の前から枳殻(からたち)
寺の横を電車の通りに出た。」のですが、この「枳殻寺」は、【9】の斎藤利三の娘・春日局の麟祥院のことです。

     行春の 召させ参らす 草鞋かな  (内藤鳴雪)

 「吾輩は猫である」の迷亭の「叔父」のモデルと云われる内藤鳴雪(1847~1926)は、旧主松山藩の寄宿舎の舎監を努めていた時に入舎して来た正岡子規(本名・常規:1867~1902)の俳句の弟子でした。正岡子規は「吾輩は猫である」の作者・夏目漱石(本名・金之助)の東京大学予備門(現・東大教養学部)の同級生です。
 夏目漱石は、熊本の第五高等学校(現・熊本大学。前回述べたように医学部だけは現・長崎大学)の同僚(漱石は英語教授、狩野は倫理学教授)で五高から転任していた狩野亨吉が校長だった第一高等学校(源・東大教養学部)の英語講師に就くため、1903年に熊本から東京に転居してすぐ、同じ町内(駒込千駄木町)の(友人でもあり、「吾輩は猫である」の甘木先生」のモデルとされる)尼子四郎(安芸国戸河内村生まれ、広島医学校卒業。医学中央雑誌の創刊者:1865~1930)を家庭医とします。
 御存知のかたもいらっしゃるでしょうが、夏目漱石も精神疾患を患いました。漱石の精神症状に悩まされた鏡子夫人が尼子四郎に相談すると、「精神病の一種だろう」と同郷の友人呉秀三(と云っても呉秀三は父が江戸詰めの広島藩医だったため江戸・青山生まれの江戸っ子です。)を紹介しました。尼子四郎が精神病を疑ったのは、決していい加減ではありません。尼子四郎は、院長の呉秀三に誘われて精神科医として巣鴨病院に奉職していたのです。【9】で述べたように、呉秀三は「お玉が池種痘所」の発起人(=「東大医学部のファウンダー」)の一人である呉黄石の三男で、同じく発起人の箕作阮甫の孫です。巣鴨病院で漱石を診察した呉秀三は、「追跡狂」と診断しました。現在の病名で云えば「妄想性障害」でしょうか?。
 御存知のように夏目漱石は、今日「文豪」と呼ばれ多くの方の尊敬を集めていますし、今なお大変多くの読者を持っている偉大な作家です。映画やTVどらまにもなった小説「神様のカルテ」の作者で信州大学卒業の内科医でもある夏川草介はこう語っています。
 「(漱石の)作品に生きていく指針があふれている。学校にいない先生がここにいる。」
 本誌の発行元・吉祥寺病院は精神科病院ですので、読者の皆様の中には精神障害の当事者やご家族、関係者の方も多くいらっしゃると思います。そういう読者の皆様にとっても、夏目漱石が「生きている指針にあふれている」作品を書いた「文豪」として(「障害者」という前提抜きで)高く評価されていることは、大きな勇気をもたらしてくれるのではないでしょうか?文豪・漱石は、今天空に星(小惑星4039)となって輝いています。漱石の脳は東大医学部標本室に保存されています。
 ところで、ご本人や作者が否定しているのに、昔から「吾輩は猫である」の「迷亭」のモデルではないか云われているのが、漱石の友人で帝大文学部教授の大塚保治です。大塚保治の妻は、樋口一葉の後を継ぐ作家と目され漱石の弟子でもあった大塚楠緒子(くすおこ)です。楠緒子は、美貌の才媛として名を馳せ、哀しくも「美人薄命」を地で行った人です。1910年(明治43年)、流行性感冒せ逝去。享年35。

       書の中にはさみし菫 にほひ失せぬ
        情けかれにしこひ人に似て    (大塚楠緒子)

 そういえば、日本初のミスコンテスト「全国美人写真審査」が開催されたのは、大塚楠緒子が存命中の1907年(明治40年)のことです。コンテストを主催したのは、1882年(明治15年)に福沢諭吉が創刊した「時事新報」ですが、その審査員は次の13名でした。
 洋画家の岡田三郎助。日本画家の島崎柳塢。写真学者の大築千里。女形役者の河合武雄(新派)、中村芝翫(5代目、歌舞伎)。茶道家(元実業家。元「時事新報」社員)の高橋義雄。彫刻家の高村光雲。新海竹太郎。人類学者の坪井正五郎、前田不ニ三。写真技師の前川謙三。医師の三宅秀、三島通良。
 ここで注目されるのは、坪井正五郎と三宅秀(の二人とも)が加わっていることです。【22】でお話ししたように、坪井正五郎はお玉が池種痘所発起人・坪井信良の長男ですが、母が織田信長末裔の坪井信道の長女・牧で、三宅秀はお玉が池種痘所発起人で明智光秀末裔の三宅艮斎の長男ですから、お玉が池種痘所設立から約半世紀・・・・・織田信長末裔(の坪井家)と明智光秀末裔(の三宅家)とが再び見え、見えただけではなく力を合わせて一つの仕事に取り組んだことになります。
 坪井正五郎は、その20年ほど前に提唱した「(日本の)石器時代人=コロボックル」説が反論の嵐の真っただ中という苦境にありました。坪井正五郎の存命中に完全に否定されるには至らなかったコロボックル説も、彼の死と共に自然消滅(?)しました。彼は今、「弥生時代」の名の元になった弥生土器の(学生時代に他の2人の学生と共に)発見者として名を残しています。皮肉なことに(?)その発見者の一人である白井光太郎は、コロボックル説の有力な反対者でした。
 それはともかく、日本の歴史を語る上でとても重要なコンセプトである「弥生時代」「弥生人」の名前の元になった「弥生土器」の発見者(の一人は信長末裔の坪井正五郎でした。発見場所である「向ヶ岡貝塚」は現・弥生2丁目遺蹟と思われます(異説あり)。
 弥生2丁目遺蹟は、東大浅野キャンパス構内にあります。「浅野キャンパス」の名前は、「最後の大名(浅野藩主)」として知られる浅野長勲侯爵邸の跡地であることに由来します。加賀藩前田屋敷跡の本郷キャンパスも水戸藩徳川屋敷跡の弥生キャンパスも屋敷の主の名を使われなかったのに比べ、何故か浅野キャンパスだけが屋敷の主の名前を冠しています。地名を使いたくても「弥生」の名を既に使われていたからでしょうか?
 浅野キャンパスの北側の道は弥生阪です。浅野キャンパスの西の隅(弥生坂側)に地元の町会が立てた「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑がありますので、その日文を読んでみましょう。ここに書かれた「壮大で匂やかなロマン」の基を発見したのが織田信長の末裔であることにも「ロマン」を感じませんか?
「弥生式土器は、ここ向ヶ岡や宵町(現在弥生二丁目)内の数ヵ所から初めて出土発見され、町名を冠して「弥生式」と名付けられました。遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器向ヶ丘遺蹟の発見によって弥生時代という重要な文化期の存在が知られました。私たちはこうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いするさとわが町の誇りを語りつぎ出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。」

                                                   

                                                       弥生式土器発掘ゆかりの地碑
                    出典:ウイキペディア 弥生町遺蹟

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1 コメント

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Unknown (ツツミ)
2024-08-07 21:20:14
津々堂様
そして西岡先生

明暦の大火までは、加賀藩上屋敷は龍ノ口付近に在りました。道三堀を挟んで南岸が細川藩邸、北岸が加賀前田藩邸であり、細川家と前田家は御近所です。当時本郷邸は、下屋敷の位置付けだったようです。
『徳川実紀(大猷院殿御実紀)』や、その元ネタの『東武実録』の寛永六年四月の記事には、「廿六日加賀中納言利常卿が“上野の別墅”に(将軍家光が)ならせ給ふ。」「廿九日 大御所(秀忠)。加賀黄門利常卿の別墅にならせ給ふ。水戸黄門頼房卿。藤堂和泉守高虎。立花飛騨守宗茂御相伴たり。」とあり、三日後に大御所秀忠と伴に訪問している徳川頼房、藤堂高虎、立花宗茂が、将軍家光にも付き従っていたかは、はっきりしません。駿河大納言忠長の名は見当たらず、どちらにも相伴していないのかも知れません。
本郷の加賀藩邸辺りも上野と呼ばれていた事は、今回御実紀を調べて初めて知りましたが、考えてみれば上野の不忍池の方から「忍ぶ忍ばず(不忍)無縁坂」を登れば、もう東大病院が在るわけで、鴎外の『雁』の書割も、このごく狭い区域でした。ああ、そうだったのかー、と目から鱗の気分です。

末筆ながら、津々堂様の奥様の早期の回復を祈念いたしております。
津々堂様におかれましても、猛暑の中、体調を崩されぬよう、気を付けてお過ごしください。
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