津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■新知者の遠吠え?

2024-07-11 06:36:14 | 歴史

 先の■宝暦の改革の限界でご紹介した数字、総トータルの数字は総合計人数は1117人、知行合計は432097.65石とあった。
前回一覧にしていた数字は、「旧知」の御宅をピックアップしたものだが、488家で28988.7石ほどとなった。
その結果から「旧知」の家が約44%弱で67%ほどの禄を占めていることになる。先にも記したが「旧知」の御宅でも慶安3年以後の加増分は新知扱いで減知はされているが、もともとの旧知分に対する比率がどのくらいなのかは、引き続き検証しなければならないが、ここにある約29万石(新知分をマイナスる必要はあるが)についてほとんど手が付けられなかったわけである。
例えば仮に25万石とすれば、5%でも減知すれば1.25万石を生み出すことができたわけだ。
 忠利公が肥後入国後すぐに定めた「世録制」は、天草島原の乱や長崎へのポルトガル船来航に伴う出兵、幕府普請、綱利公母子の乱費などにより立ち行かぬものとなり、「地方(じかた)知行」も「蔵米支給」となり、宝暦にいたり忠利公が定めた「古法(世録制)は間違い」とまで言い切って「世減の規矩」が強行された。
大方の反対が起こるのは当然のことだが、「旧知」の人々を対象外とすることで、半数以上を占める対象者を「新知」として押し付けた。
これにより12万石余の知行減をもたらし、重賢公をして名君と天下に喧伝されることになるが、これが「宝暦の改革」の実態である。
古川古松軒は諸国を旅行する中で当時熊本を通り、「重賢公の名声」に首をかしげている。
重賢公や大奉行・堀平太左衛門の存命中にも、熊本藩の財政は又悪化の兆しを見せ始めている。
細川三斎公は忠利が世録制を言い出した時に驚きの声を上げているが、「早晩問題が起きる」と感じていたのではないか。
「新知者の犬の遠吠え」と言われそうだが、私は人様のように「宝暦の改革」をもろ手を上げて評価することはしない。
こんな面倒な数字を調べながら、改めてその思いを強くした。

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