齊護公は宇土支藩の藩主(中務少輔立政)から本家に入り、先代齊樹の養嗣子となり遺領相続した。
その家督については、先に■三月廿九日・齊護公御家督に書いたように、紆余曲折あってのことであった。
齊護公の御跡は二男の慶順(韶邦)が同年七月十七日に相続した。
実は岡崎鴻吉氏著「熊本御城下の町人」(p60)に次のような正史では伺えない記事が紹介されている。
この年の正月廿九日付で、齊護公の隠居を匂わせる書付が奉行所から町々の役付に渡されたという。
その内容を見ると春には「隠居」を幕府に申し入れるつもりの処その思いは叶わず逝去された。
どこからこの様な情報が伝えられるのか、「町方」に史料が残され、この様な情報がが庶民にあからさまに伝えられたのか、不思議な事ではある。
太守様御持病之御疝積・御腰痛御勝れ遊されず旧臘以来御出仕も御断り
専ら御療養遊され候へ共聢と在らせられず其上御歯痛差加り御不気根に
も成らせられ第一御者覚薄く相州御備場御用且御政事向等御行届兼も御
座あるべくやと御心労遊され候に付、当春中御隠居届御願、若殿様へ御
家督の儀御願遊さるゝ御内存御治定遊され近く御老中様に御内意仰入れ
らるゝ筈に候此段何れもに申聞か可き旨仰出され候条其意を得奉り触支
配方にも聞かすべく候以上
正月廿九日
宇土細川家8代 9代 10代
+----細川立之----立政==立芬
| ‖ (斉護)
| ‖
|老中・土井利厚女・福(栄昌院)
|
一橋家 | 第11代征夷大将軍
徳川治済---+-----徳川家斉--+
|| |
+------蓮性院 | *(顕光院の子ではない)
| ‖ | +----慶前 室・鳳臺院
細川齊茲-----+----斎樹=====斉護 | *
| ‖-------+----慶順(韶邦)== 護久
浅野斉賢ーーーー顕光院 |
| +----勇姫
| ‖
松平越前家 斉承-------+==斉善==慶永(春嶽)
家斉22男
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