昨日は図書館に出かけ、膨大な上妻文庫のリストを見ながら、ある史料をコピーした。
その前後を見ていると摂州讐討談話(近世畸人傳・僧南谷)の記事が有り、その末尾に「中瀬先祖附」(当助九郎母方祖)があり、その頭書に細川家家臣・中瀬家の初代助九郎の母が「明智光秀甥之子ニ而御座候」とある。
資料は所蔵してはいるが、その部分を念のためにコピーした。
この中瀬家、初代助九郎実方の祖父は松下嘉兵衛(秀吉が最初仕えた人物)である。
「近世畸人傳・僧南谷」は助九郎の父・源太左衛門の次弟である。
源太左衛門は加藤家の会津騒動の節浪々の身となり、嫡男豊長と共に官途を求めて江戸に出んとする。旅の途中父源太左衛門が不測の害にあい死去、寛文九年、豊長十二歳の時の事である。豊長は剣の修業を積み十四歳の時仇敵を打ち取った。摂州讐討談話に詳しい。
その話を聞きつけて多くの大名が召し出そうとしたが、明智の血筋を以て後細川家に仕えたとされる。
そして改めて「明智光秀甥」とは何方だろうと考えた。甥の子・明智助九郎は生まれた年に父親が死去している。
それ故父親の名前は判らないとしているが、明智の血筋という事でガラシャ夫人に引き取られて育てられたという。
そしてガラシャの子・忠利が愛宕山福壽院下坊に入学した時、お付きとしてお供したとされる。
忘れていたのにまた一つ、気に成る事柄が顔を出した。
明智光秀甥の子 加藤式部少輔明成養女
明智助九郎ーーーー中瀬彦三郎ーーーーーー娘 (初代) (二代)
遠州久野城主 ‖ーーーーーーーーーーーーー助九郎ーーー助之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→500石・中瀬助一郎家
松下石見守ーーーー外記ーーー+ーーー源太左衛門 豊長 長徳
方綱 | 忠綱(中瀬姓となる)
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+ーーー僧・南谷
源太左衛門の子、助九郎
実母は加藤嘉明家臣石川新右衛門清隆の娘で、石川新右衛門清隆は会津騒動後に土佐の山内家に仕えてます。助九郎とその弟を生んだ石川清隆の娘は亡くなり、妻を亡くした源太左衛門に、加藤明成が自分の妾の娘を後妻として嫁がせた。と我が一族では聞いてます。これは愛媛や滋賀県水口に所蔵されている資料にも似た記載があり。