津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■袖判による借銀

2021-10-15 10:07:46 | 史料

 

この写真は偶然「西南大学セミナー史料」としてWEBで見つけたものだが、実はこの借用状については先にご紹介した「逃げる百姓、追う大名」に詳しく紹介されている(p184)。

 写真が鮮明さを欠いているので内容の判読がむつかしいが、銀参拾貫目(丁銀)の借用状である。
「壱ヶ月壱貫目ニ付拾五匁(年利18%)宛之利足相定候」とあり「此袖判者越中守判形也、少茂無沙汰申間敷候」とある。
小篠次太夫・仁保田兵衛・浅山清左衛門・横山助之允・長岡式部■等の惣奉行と家老等五名の名前が連なり、右肩に「細川越中守(忠利の花押)」があり、これがいわゆる「袖判」とよばれるものである。
藩主の個人借り入れではなく「家中借り入れ」であることが判る。
日付は「元和拾年■正月廿九日」、この年は二月三十日に改元されるから、その直前のものであることが判る。
この借銀の相手方はこの文書では判らないが、上記「逃げる百姓」では、大阪の淀屋であり約定は履行され、その年の末には返済も完了している。書状の裏に淀屋の受け取りの記載がある。そしてそれぞれの花押が消され、この借銀の一件が無事完了したことを著している。小篠・仁保の花押が消されていないのは、この時期二人が惣奉行の職を離れていたことによる。

 一方、熊本大学教授が「東光原」に投稿された「大名の証文」に、寛永二年の同じく忠利の袖判借銀の証文が紹介されているが、その説明で吉村教授はこの借り入れは「借銀返済」のための新たな借銀だとされている。
具体的なことは記されていないが、このころから細川家の自転車操業的財政危機が見て取れる。

ちなみに大阪歴史学会編の「幕藩制確立期の諸問題」にある、朝尾直弘氏の論考「上方から見た元和・寛永期の細川家」によると、元和八年(1622)五月から寛永二年(1625)二月までの、大阪における借銀のトータルは、48件・4,227貫に及ぶという。
吉村教授ご指摘の自転車操業であったのだろう。ああ・・・
 

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■川田順著「幽齋大居士」一五、小田原陣

2021-10-15 06:43:58 | 熊本

    一五、小田原陣

 大袈裟な小田原攻圍戦は、天正十八年三月、東海の櫻花爛漫の季節に開始された。
何事にも好奇心の強い秀吉は、しばしば石垣山の本營から抜け出して、いくさぶり視
察の微行をしたのであつた。或時、早雲寺付近の谷間を下りて來ると、向うの杉木立
の影から一かたまりの黒い影が動いて來た。怪しみつつ侍臣に問へば、
「細川二位法印の部下に相違ございません。」
 と即答した。秀吉微笑しながら、
「幽齋の黒備へか。徳川殿には井伊の赤具足といふのがある。幽齋は歌人ぢやによつ
て、澁い好みを出し居つたな。」
 幽齋の軍紀は嚴しかつた。將士の服装などに就いても、常に注意を怠らなかつた。
刀に鞘袋を掛けた者があると、見付け次第とり外づさせ、長草履は無用、必ず脚絆を
巻かせた。治に居ても亂を忘れぬ心構へだ。當時の武士が漸く華美を好み、大小に金
銀をちりばめ、鎧の縅に花模様を出す等々のこと流行し始めたので、幽齋は眉をひそ
めた。殊に小田原の長陣は、それらの流行の展觀場のやうだつたので、田邉の將卒に
は、甲冑はいふに及ばず、旗指物まで黒一色と命令したのであつた。但、馬までも黒
馬を揃へたか否か、ちょいと疑問ではある。
 幽齋は又、長陣に参加して、諸將の人柄や、戰ひぶりの長短などを、親しく研究す
ることが出来た。音に聞いた程の猛者でない豪傑もゐれば、案外に勇敢な無名者もあ
る。弓、鐵砲を好む者もゐれば、槍一筋で猪突する流儀の者もある。勝負はどうなつ
ても、潔く死にさへすれば本望と考へる者がゐる。勝ちさへすれば武士の作法などは 
糸瓜の皮と、悪く悟つた者もゐる。部下の手柄を盗んで自分が立身しようといふ者も
ゐれば、自分の取つた首を仲間の馬の鞍に下げてやる者もある。無闇と留守宅へ音信
する者もあれば、妻子から手紙が着いても封さへ切らぬ者もゐる。かすり疵を吹廳す  
る者もあれば、大怪我してもけろりとした者もゐる。金放れのよい小名もあれば、け
ち臭い大名もゐる。
 獨眼龍が遙々十字架を擔いで來て秀吉に謁したといふ噂が擴がつた時、幽齋苦笑し
つゝ忠興にいふには、
「政宗といふ男は田舎者ぢやて。さやうな芝居で秀吉公を舐めたと思ひおるか。彼は
和歌を嗜むと聞いたが、存外野暮な男だよ。」
 忠興は眞顔になつて、
「父上、仰せではありますが、正宗殿は不敵の猛將でございます。」
「さうさ。いくさは強からうよ。」
 幽齋が最も推服したのは、蒲生氏郷であつた。氏郷が北條方の夜襲を逆撃して歸て
て來た時は、兜と鎧と槍の柄とに合計十一箇所の太刀疵を受けてゐた。幽齋出迎へ、
その手を執つて押し戴いたといふ。彼はおのれよりも二十二歳若輩の名將に、満腔の
敬意を拂つてゐたのだ。

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