この写真は偶然「西南大学セミナー史料」としてWEBで見つけたものだが、実はこの借用状については先にご紹介した「逃げる百姓、追う大名」に詳しく紹介されている(p184)。
写真が鮮明さを欠いているので内容の判読がむつかしいが、銀参拾貫目(丁銀)の借用状である。
「壱ヶ月壱貫目ニ付拾五匁(年利18%)宛之利足相定候」とあり「此袖判者越中守判形也、少茂無沙汰申間敷候」とある。
小篠次太夫・仁保田兵衛・浅山清左衛門・横山助之允・長岡式部■等の惣奉行と家老等五名の名前が連なり、右肩に「細川越中守(忠利の花押)」があり、これがいわゆる「袖判」とよばれるものである。
藩主の個人借り入れではなく「家中借り入れ」であることが判る。
日付は「元和拾年■正月廿九日」、この年は二月三十日に改元されるから、その直前のものであることが判る。
この借銀の相手方はこの文書では判らないが、上記「逃げる百姓」では、大阪の淀屋であり約定は履行され、その年の末には返済も完了している。書状の裏に淀屋の受け取りの記載がある。そしてそれぞれの花押が消され、この借銀の一件が無事完了したことを著している。小篠・仁保の花押が消されていないのは、この時期二人が惣奉行の職を離れていたことによる。
一方、熊本大学教授が「東光原」に投稿された「大名の証文」に、寛永二年の同じく忠利の袖判借銀の証文が紹介されているが、その説明で吉村教授はこの借り入れは「借銀返済」のための新たな借銀だとされている。
具体的なことは記されていないが、このころから細川家の自転車操業的財政危機が見て取れる。
ちなみに大阪歴史学会編の「幕藩制確立期の諸問題」にある、朝尾直弘氏の論考「上方から見た元和・寛永期の細川家」によると、元和八年(1622)五月から寛永二年(1625)二月までの、大阪における借銀のトータルは、48件・4,227貫に及ぶという。
吉村教授ご指摘の自転車操業であったのだろう。ああ・・・