津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」三、救出

2021-10-02 20:39:52 | 先祖附

   三、救出

 永禄八年五月雨の最中、將軍義輝を殺した三好、松永等は弟の覺慶(後の將軍義昭)
をも殺すべく奈良に手入せんとした。當時覺慶は興福寺一乘院の法務だつたが、藤孝
これを憐れみ、いかにもして救ひ出そうと計畫をめぐらした。「法務は病気」と噂立
てさせておいて、或日京都から典藥を見舞に遣し、一服進め、即時全開と寺内にふれ
させた。その晩、祝酒の大振舞に門番共まで酔ひつぶれてゐる隙を、典藥が覺慶の手
を執つて、五月闇の中へどろんと消え失せた。
 春日野の片隅、黒装束に身を固めた手の者數人を伏せて、藤孝は、首尾如何と闇の
木かげを睨んでゐた。近づいて來た足音に向つて龕燈を突付けると、まさしく二人の
落人であつた。覺慶は顫へてゐた。藤孝は彼にひたと附添ひ、黒装束が前後を護つ
て、急に足を踏み出した。
「信樂までお供させて戴きます。」
とささやいた彼に對して、覺慶は挨拶もしなかつた。春日の裏山にかかると、群杉
の奥で鳥か、獣か、怪しい叫び聲を立てた。覺慶は立すくんで、
「何かな。」
「空山夜猿啼。猿でございます。」
「鵺とはちがふか。」
 藤孝は「源三位がお供してゐる。安心し給へ」と言ひ度かつたのだが、不遜を恐れ
て黙つてしまつた。武將にしてすぐれた歌仙なりし頼政を、彼は偶像のごとく禮拝して
ゐたのだ。師匠の實枝は古今集ばかりを手本のやうに教へるけれども、藤孝は慊ら
ず、頼政集も、金槐集も、乃至、師匠の異端視する曾丹集さへも、ひそかに讀みあさ
つたのであつた。
 一晝夜苦勞して、やつと江州信樂の寒村にたどり着き、とある山寺に泊めてもらつ
た。住持は、泊客らの身分は知らないけれども、他生の縁と、ねんごろに接待した。
「御覧の如き貧乏寺、なんの風情もありませぬが。」
 とことわりながら、葛切を盛つた椀を運ぶ。覺慶は、從者らに食べよとも言わず、
いち早く箸を取上げた。
「臆病のくせに、我慾は強い男だ。とんだ人間を將軍の候補として信長に推薦してし
まつたわい。」
 と後悔しながらも、同時に、一個の声明を救つたことの満足を感じないでもなかつた。

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■ジェーンズ邸現場を覗く

2021-10-02 17:02:40 | 徒然

 朝散歩も同じようなコースを歩いていても面白くないから、少々違うところを歩いてみたいと思い、図書館近くのジェーンズ邸の建設現場を覗いてみようかと思い立った。

ジェーンズとは明治4年から5年間、熊本洋学校の教師として招聘された人物で、熊本維新の黎明期に偉大な足跡を残した。
過去に三度の移転を経験しており、「流浪の洋館」などと揶揄された明治初期の洋館だ。
先の熊本大地震で、足払いを受けたように見事に倒壊してしまった。
             2018/2/20 西日本新聞の記事
県の指定文化財である事から復旧が検討されてきたがその建設地をどこにするかで大もめにもめた。
そして紆余曲折のうえ、倒壊した現場を離れて4回目の流浪の末、旧水前寺体育館跡地の公園に場所を移して工事が始まった。
基礎が打たれ、ぽつんと煙突が立った頃一度だけ近くから覗いてみたことがある。
工事の経過は、同志社大学校友会・熊本支部の「ジェーンズ邸」というサイトで紹介しておられるので大体は掌握している。

 じつは10月の熊本史談会では、前ジェーンズ邸館長の黒田孔太郎氏をお迎えしてお話を伺うことにしている。
熊本日々新聞発行の「ジェーンズ回顧録」などを読んでいるが、建物の復旧状況も見ておきたいと思うが故である。
暑い中往復1時間40分汗まみれの散歩となったが、覆屋で囲まれていてその姿は拝むことはできなかった。

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■作業開始、まずはこんな按配で

2021-10-02 10:34:13 | 細川小倉藩

「細川小倉藩年表稿」を作ろうと思い立ち、蔵書を確認しながら「凡例」を作るための作業を始めた。
貴重な「論考」についてはまだチェックに至っていない。

参考」はまさに参考とする図書であり、引用に当たってはその記事の出拠を確かめたうえで記載したいと思う。
図録」などは熊本以外で開催された展覧会の物のものでも手に入れていて、年表が付されているものもあり、これは有難い。
問題はやはり凡例の中の「」で、福岡県史料・近世史料‐細川小倉藩の三巻を再度読み直さなければならない。
何とも残念なのが、三斎公時代の中津の記録が欠落していることである。

まずはこんな按配で、10年を目標にでまとめ上げたいなと考えている。
10年というのは、新・細川家侍帳の改訂作業がコロナのせいでストップしているからこれと並行してやらねばならないからである。長生きせねばならぬ。
参考になるような図書などありましたらご教示下さいませ。


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  凡例

  「綿」綿考輯録(刊本・出水叢書
  「藩」藩譜採要(古文書・写本)  
  「延」木下延俊慶長十八年日次記(刊本・新人物往来社発行「木下延俊慶長日記」による)
  「永」永源師壇紀年録(刊本・阿波郷土会発行「永源師壇紀年録并付録」
  「福」福岡県史料・近世史料‐細川小倉藩(刊本・
  「大」大日本近世史料・細川家史料(刊本・東京大学史料編纂所 全23巻)
  「藤」藤孝事記(刊本・藤孝事記 古典文庫564)
  「宇」平成宇土・細川家家譜(刊本・光永文熙 自家版)
  「松」八代市史, 近世史料編 8‐松井家先祖由来附 (刊本・八代古文書の会編)
  「肥」肥後国誌
  「先」肥後先哲遺蹟
  「文」肥後文献叢書
  「諸」諸家先祖附

  論考           未

  参考
   ・      松井家文書目録  WEB資料(八代未来の森ミュージアム)

   ・      松井文庫所蔵古文書調査報告書・該当巻
   ・戸田敏夫著 戦国細川一族‐細川忠興と長岡与五郎 新人物往来社
   ・山本博文著 江戸城の宮廷政治‐熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状‐ 読売新聞社
   ・細川護貞著 細川幽齋 求龍堂
   ・矢部誠一郎著 細川三斎・茶の湯の世界 淡交社
   ・稲葉継陽著 細川忠利  吉川弘文館
   ・林 千寿著 家老の忠義 吉川弘文館
   ・中垣良朗著 有吉将監  浄見寺
   ・      大友の末葉・清田一族 私家版
   ・氏家弘隆編 氏家家永代記録 私家版      
   ・(公財)永青文庫・熊本大学永青文庫研究センター編 永青文庫の古文書₋光秀・葡萄酒・熊本城
   ・高田泰史編著 平成肥後国誌    私家版

  図録 
   ・細川家名宝展 昭和44年10月 於・宝塚ギャラリー 発行・日本経済新聞社
   ・戦国武将のロマンと分か展 昭和52年10月
   ・愛と信仰に生きた 細川ガラシヤ展 昭和58年秋 於・大阪 発行・毎日新聞社
   ・細川歴代の美 昭和61年5月 於・熊本県立美術館 発行・同左
   ・松井家三代₋文武に生きた人々 平成7年2月 於・八代未来の森ミュージアム 発行・同左
   ・衛星文庫細川家の歴史と名宝 平成20年4月 於・熊本県立美術館 発行・同左
   ・加藤清正と本妙寺の至宝展 平成22年9月 於・鶴屋百貨店 発行・熊本情報文化センター
   ・没後400年・細川幽齋展 平成22年10月 於・熊本県立美術館 発行・同左
   ・肥後松井家の名品 平成23年10月 於・茶道資料館 発行・同左
   ・細川ガラシャ 平成30年8月 於・熊本県立美術館 発行・同左
   ・細川家の至宝
   ・ザ・家老 松井康之と興長 細川家を支え続けた忠義 平成30年10月 
                         於・八代未来の森ミュージアム 発行・同左

  古文書(個人蔵コピー資料)
   ・細川忠雄譜(内膳家)
   ・沼田家記

   ・その他

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■川田順著「幽齋大居士」二、朽木谷

2021-10-02 06:35:13 | 書籍・読書

       二、朽木谷

 おなじき天文廿二の年、五月のこと、三好長慶・松永久秀の叛亂軍が遂に京都を占
領し、將軍足利義輝は江州の坂本へ奔つた。側近の藤孝も危く遁れて、おなじき江州
は高見郡、安曇川の上流なる朽木谷に隠れ、百姓家の一室に潜まねばならなかつた。
此處は「朽木の杣」と古歌にも詠まれた名所ながら、實は近江・丹波・若狭三國の境
界、なんの風情もなき寒村に過ぎなかつた。
「おやぢさん、江州は螢の名産地だつたなあ。」
「さようさ。御覧の通り、安曇川の谿では、もう毎晩光つてゐます。」
「今夜は一緒に螢狩してくれんか。」
「どうなさいます。」
「螢の光で學問し度いのだ。ここらの百姓は貧乏で、燈油を持つていない。夕陽が沈
むと、すぐに寝るに決め居るわい。」
 厄介な居候だとは思つたが、老農夫は從順に藤孝のお伴して、風流ならぬ螢狩を試
みた。藤孝の考案は失敗に終つた。夏蟲の光などでとても書見の出來たものでない。
はてな、晋書車胤傳には、車胤といふ貧士が螢を袋に収めて、その光で讀書し、中書
侍郎まで出世したと、確かに書いてあつた筈だ。日本の螢の光は微弱なのかしら。困
じ果てた藤孝は、肚を決めて泥棒することにした。
 朽木谷のはづれにお宮がある。ささやかな八幡宮ながら、社頭の燈明は毎晩螢より
も強く光つてゐる。彼は、その油を忍び忍びに盗んで來ては、どうやら夜學を續け、
師匠三條西實枝から頂戴した二巻(古今和歌集、及び定家の近代秀歌)の上に、眠た
い眼をこすりした。
 泥棒事件は發覺しないわけには行かぬ。或日禰宜が踏み込んで來た。
「お武家さん、意地の悪いことをなさるものではありません。片田舎の貧乏やしろ
で、お燈明をあげるのは精一杯なのです。」
「意地が悪いわけではない。勉強がし度いからだ。他の盗人とはちがつて、神さまもお
容赦なさるだらうよ。」
 その晩、八幡宮から一升徳利を届けてくれた。酒でなく、燈油が一杯はひつてゐた。
 百姓家の居候も三箇月となり、四箇月となつたが、その間に、二巻の歌書は全部暗
記してしまつた。晩秋の比良由おろしに吹かれながら、尾羽打枯らした廿歳の藤孝は
形こそ深山がくれの朽木なれ」云々と古歌を口誦さんで、我と我が身を慰めるので
あつた。

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