津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三刀谷監物のその後

2021-10-05 11:35:46 | 歴史

 最近細川幽齋の事にいろいろ触れているが、田邊城における籠城はわずかの軍勢で、15,000ほどの西軍軍勢を二か月ほども釘付けさせたことは関ケ原戦に多大な影響を与えたことは目に見えている。
石田三成のガラシャの殺害や、この田邊城攻撃などまさに愚策と言わざるを得ない。
その籠城に於ける最大の功労者が三刀谷監物(孝和)であることに異論をさしはさむことはできないだろう。
監物は田邊城開城後は幽齋と行動を共にしたようだ。
その後忠興の豊前移封にともない豊前に赴き、10,000石を拝領したとされる。しかしながら、いつの頃かもわからぬ状態で豊前を離れており、その生涯はあまり恵まれるものではなかったようだ。
豊前に於ける監物の動きや、その後の行動など謎に包まれている。

 これまた「小倉細川藩年表稿」作成の過程で、八代松井家の史料のリストを眺めていたらたった一行だが慶長七年七月に記録されているのを発見した。
細川忠興書状 松井佐渡守 慶長7年 1602 07.07 継紙 15.6×52.3+35.9+35.9+11.3 三刀屋孝和召し抱え吟味」とある。
そろそろ二年も経過しているのに「召し抱え吟味」とは如何なることだろうか。
細川家の大恩人たるべき三刀谷監物(孝和)の行動を知りたいと熱望している。
亀尾八州雄という方が「山陰の武将三刀谷監物孝(?)」を著しておられるようだが、ここに三刀谷監物の生涯が著されているのだろうか。
熊本の図書館には所蔵していないが何とか読みたいところだ。

 さて、この3,904点にも及ぶリストを眺めていると「小倉細川藩年表稿」にぜひとも取り上げたいと思うような記録が多々見受けられるが、ぜひともその内容を拝見したいと思っている。
ところがこのリスト、どこから引っ張ってきたものかが判らず大いに慌てている。

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■川田順著「幽齋大居士」五、播州出陣

2021-10-05 07:12:03 | 書籍・読書

    五、播州出陣 

 羽柴秀吉の中國征伐は、しばしば苦戦に陥つた。別所長治の播州三木城は、今年天
正六年暮春の頃から攻略に著手したが、陥りさうにもない。
 すでに攻略した上月城を尼子勝久に守らせておくと、毛利勢の重圍に陥つた。秀吉
は上月城を授けんものと腐心している最中、五月の初め、信長の命によつて嫡子信忠
が、兵を率ひて播州に著いた。援兵のつもりが、監軍のつもりかわからない。信忠の
帷幕の中に藤孝も居つた。
 摂津伊丹城主荒木村重も、羽柴勢の一翼として出陣したが、彼は日和見をして戰ひ
を好まず、毛利の軍に對し攻勢をとろうとしなかつた。さすがの秀吉も、かやうの情
勢には苦勞した。すると翌日、信忠が藤孝を召して言ふやうは、
「御苦勞だが、至急筑前の陣まで使してもらひ度い。」
「畏まつてござる。して、御用向は。」
「安土から飛脚が参つて、これこれの次第である。」
 前線諸將の情勢は一々安土まで聞えるやうに、注意深く仕組まれてゐた。信長は、
村重の變心を内偵し、秀吉の苦勞も承知している。それで「筑前守隱便に事を處し、
急變の起らぬやう留意せよ」といふ意味のことを、信忠めで指圖して來たのであつ
た。藤孝は、この指圖書を見て敬服した。
 信長公の短氣は周知の事實だ。思惟と實動との間に髪を容れない。秀吉は用意周到
で、また寛大鷹揚な人だ。その信長公から、この秀吉に「隱便に事を處し」云々の注
意を與へられようとは、想像も出來なかつたことだ。「牛は嘶き馬は吼え」といふ諺
があるが、この事に相違ない。人間を勸察するには、四方八面から眺めねばならぬも
のだ。乃公は、信長公でもなく、秀吉でもない。御兩人の間に使するぐらゐが相應の
役目と申すものか。
 かやうに黙考しつつ、藤孝は夕刻ちかく討伐軍の本陣に著いた。秀吉は、折から浴
衣がけで、近寄れぬほど燻ぶらせた蚊遣の煙の中に坐つてゐた。指圖書を一讀して、
うやうやしくお禮を述べ、したたかに酒も振舞つて藤孝をかへした。この時、すでに
彼は村重を自家薬籠中に収める手段を完了してゐたのであつた。
 藤孝の歸途は更けはてて、短夜の空のしらむ時刻に遠くなかつた。涼天の月には、
春にも秋にも味はへぬ、一種の美しさがある。使命を果した藤孝は、輕い心持になつ
て、左の一種を詠じた。
 明石潟かたぶく月も行く舟もあかぬ眺めに島隠れつつ

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