津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本日々新聞夕刊が休刊

2021-10-01 12:50:45 | 先祖附

 8月半ばに熊本日々新聞社は夕刊の休刊を予告していたが、9月30日の夕刊を以て休刊した。
インターネットその他の情報発信の多様化が著しい中、新聞業界も旧来の手法での経営は立ちいかなくなるのだろう。
休刊とあるが実質廃刊か? しかし夕刊ならではの良い企画が見られていたから、そのような企画が朝刊に包含しきれるのかを素人は疑問に思ってしまう。
地元メディアをけん引してきた会社であり、その情報収集力はいまだ健在であろうし、今後の紙面の変化を注視していきたい。

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■蒸し返すようですが・・前田千世姫のこと

2021-10-01 09:53:52 | 歴史

 「細川小倉藩年表稿」を作ろうと思い、関係する本を本棚から引っ張り出したので足元に小山が出来た。
そんな中まずは「永源師壇紀年録」の慶長五年あたりの記事から精読を始めた。
この中に、後に廃嫡された忠興の嫡男・忠隆の四人の娘の生年が記されている。
  ・慶長十年(中略)茲年忠隆主息女ヲ生ム、徳媛ト名ク。
  ・同十三年忠隆主息女ヲ生ム、吉媛ト名ク。
  ・同十四年(中略)茲年忠隆主息女ヲ生ム、福媛ト名ク。

この記事を再確認したうえで、未だに結論をうやむやにされている感じの忠隆の三人の姫の生母についての疑義を感じている。
忠隆のご子孫・内膳家に於かれては過ぎる年、御一族の菅芳生氏が「細川右京家資料集」を発刊された。
詳細で見事な系図が紹介されていて大変な研究調査の結果であろうと驚嘆している。
当サイトでは以前、徳・吉・福姫は細川忠隆と正室・前田千世姫との間に生まれた子なのかということを議論したことがある。
内膳家の J 様の熱い挑戦があったが、その結果は当サイトに J 様ご自身がまとめられた「細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫」をご紹介している。
前田千世姫は忠隆離縁後、前田家の有力家臣・村井長次に再嫁している。内膳家に於かれては徳・吉・福姫は千世姫の生んだ子であるという姿勢を取られており、それは先の「細川右京家資料集」の系図で明らかである。
ウィキペディアで「春香院(前田千世)」を眺めると、内膳家史料をもとにして内膳家の三人の姫は千世姫の子としている。ところが一方、千世姫は慶長10年に村井長次に再嫁したという指摘も紹介しており、矛盾が生じている。
この指摘が本当であれば、内膳家の主張は否定されることになるが、これは J様の上記まとめの中にもあるように、ぴえーる様の報告にある『前田氏戦記集』収録「村井家伝」より 「一、慶長十年に利家様御息女ちよ様、後は春香院殿、利長様より出雲に嫁娶被仰付候。」に準拠しているものと思われる。強力な一級資料である。

このような結果からすると、三人の姫の生母を「千世姫」とされる主張については、万人を納得させるような説明がしかるべきだと考えているが如何だろうか。



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■川田順著「幽齋大居士」一、發心

2021-10-01 06:56:02 | 先祖附

     一、發心

「逃げ足早い豐後の奴め、もはや桂川を越えたに相違ない。味方は疲れて落伍する。
残念だが追捨だ。」
 かやうに呟きながら馬首をめぐらさうとした藤孝の前に、駆け寄つて來た男がある
黒絲縅の腹巻を着け、古兵らしい侍だ。
「何故追撃を中止あそばすか。」
「無益だ。」
「遠くは逃げて居りませぬ。」
「必定さうか。」
「拙者の首に賭けまして。」
「よし。騎馬だけ跟いて來い。」
 從五位下兵部太輔の肩書は持ちながら。まだ廿歳の細川藤孝、馬上に鎗を高く振つ
て合圖すれば、十數騎の晠聲がこれに應へた。
 少時追ひかけて、桂川の東岸、土手下の紫雲英田の中に古谷豐後を突き伏せた。
藤孝の此の高名は天文廿ニ年三月盡日のことで、この日、三好長慶の一味なる河内の
古谷豐後は、足利十三代將軍義輝を害せんと、京都に攻め入つたのであつた。
 引揚げて來た藤孝は、とある寺院の門前に休みながら、先刻の侍を呼び出した。
「追撃の間に合ふことが、どうして汝にわかつたか。」
「さればであります。君はなほ遠くは行かじ我が袖の涙のいまだ冷えも果てねば、と
申す古歌がございませう。先程敵の乗り捨てた駒の鞍を撫でますと、なほ温かく、肌の
汗も乾いて居りませんでした。」
「成程なあ。」
 藤孝はいたく感服したものの如く見えた。和歌は長袖者や女子供の喜ぶもので、武
士の好むべきものではないと、口癖のやうに言つていた藤孝は、この時魯鈍の闇を拂
つて發心し、竟には和歌史暗黒時代の唯一の明星と仰がれるに至った由、なにがしの
軍記に書いてある。
 太田道灌は雨中の山吹に悟りの花を開いたのであつたが、それに比べると我が幽齋
の動因は頗る殺伐で、戰國時代の匂ひが強烈だ。敵將の首級を取つたのが歌仙になる
機縁となつた。

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