津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」三〇、籠城

2021-10-30 06:15:03 | 書籍・読書

      三〇、籠 城

 慶長五年夏、會津上杉氏討伐の爲家康の出發した虡を狙つて、石田三成等大坂に擧
兵を畫策した。三成は幽齋父子を説いたが、無効に終つた。元來、忠興は三成と善く
なかつたやうである。やがて忠興の夫人は、大坂で襲殺された。父の幽齋、憤然とし
て東軍に投じた。
 かう簡単にいふと、幽齋は私怨によつて去就を決した如く聞えようが、ゆめゆめさ
うではない。治國平天下の悲願から觀て、三成を與すべからざる人間と考へたゆゑで
あつたらしい。筆者は若い頃から三成贔屓だが、こゝで筆を曲げるわけには行かぬ。
彼は知慧者であり、快男兒であり、英雄であつたけれども、人格の上に何か缼陥の
あつたことも爭ひ難き事實らしい。前年、前田利家薨去の後、加藤、福島、淺野、池
田等の七將が三成を彈劾した事件が起つた。これは單に武功派と文治派との立場の相
違といふことだけではあるまい。三成の人格に、何か信ずべからざるものが看取され
たからだ。元來、加藤や福島は拳固ばかり強くて脳味噌の足らぬ連中だと論ずる一部
の人があるけれども、筆者は、いくら三成贔屓でも、さうは考へない。我が幽齋も、
必ずや、三成では天下は治まらぬ、と洞察したのであつた。
 於是幽齋は寡兵を率ゐ、眇たる田邊城に楯籠つた。六十七歳の老軀に鎗を提げて、
「さあ來い」と身構へた。昔とつた杵柄の「藤孝」がよみがへつたのである。西軍こ
れを圍むこと五旬餘にして陥らない。彼は愛藏するところの和歌相傳、二十一代集、
源氏物語などが戰火の灰とならんことを惜み、
 いにしへも今もかはらぬ世の中に心の種を殘す言の葉
  もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへれ和歌の浦浪
の二首を副へ、門弟の三條西實條に託して、これらの古典を禁裏及び式部卿智仁親王
に獻上した。朝廷におかせられては又「達道の國材」幽齋死なば歌道衰へ、古今傳授
も廢絶せん、宜しく彼を救ふべしと、大坂の秀頼まで勅旨を傳へられた。秀頼謹んで
急使を馳せ、圍みを撤すべしと命令したが、兩軍決戰の無我夢中で、耳に這入らな
い。この事また天聽に達し、實條が勅旨として直接丹後に遣された。幽齋は彼を城中
に迎へ、畏みて古今傳授の型を行つた。九月十二日、やつと休戰したが、それは關ヶ
原役の三日前であつた。幽齋去つて高野山に入る。
 老幽齋の健闘ぶりは田邊城合戰記や關東軍記大成などに精しく書いてあるが、敢へ
て孫引は致さぬことにしよう。

 

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