津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」六、一如院

2021-10-06 06:12:25 | 先祖附

      六、一如院

 天正八年、四十七歳の男盛りで、三月從四位下侍從に進み、七月には丹後に移封さ
れた。兵を率ゐて直ちに入部した藤孝は、一色氏を降してのち、加佐郡の田邊城に入
つた。田邊城は、今日の舞鶴市東端に位置した北海を擁する要害であつた。
 城下に一如院といふ禪寺があつた。鎌倉末期の名刹が焼亡して、その塔頭の一つが
殘つたものと傳へられる。一如院の長老は、城主が替つても松風の音は變らぬといふ
顔して、挨拶にも來なかつたが、元來謙虚で氣輕な藤孝は、或る朝、自分の方から長
老の庵室へ馬を乘りつけた。藤孝は深く佛教に歸依してゐたけれども、どういふわけ
か僧侶のことを坊主坊主と呼捨にしてゐた。この日も「坊主を訪問しようかな」と獨
りごとを言ひつつ城門を出たのであつた。
「領主さまは歌よみぢやと承りまするが、お若い頃から御たしなみかな。」
「ふとしたことで、二十歳の時分から魔道に堕ちましたわい。」
「文字の遊戯ならば、仰せの如く魔道じや。檀那藝ならば、おやめなされ。」
「檀那藝とは痛み入る。風流のつもりで。」
「既にたくさんお作りまな。」
「二十餘年の間には、千首や二千首は詠みましたろ。」
                       ククリ
「それは御樂しみのことじや。領主さまは弓術師拘和離の譚を御承知かな。」
「存じ寄らぬ。爲朝のやうな男でござるか。」               サンシャ
 一如院は次の如く語つた。昔印度に拘和離と呼ぶ弓道の達人がゐた。その弟子散若
は弓の提り方と、矢の番へ方とを六年間學んだが、一回も射たことがなかつた。六年
後の或日、試みに大樹に向つて射放つと、矢は見事に樹の幹を貫いて、深く土中に突
き入つた。師匠は喜んで、「汝は弓の奥義を會得した。今より都に出で人を惱ます賊
どもを夷げよ」と五百本の金箭を與へた。散若は舎利弗、拘和離は釋迦如來であつ
た。
「領主さま。この金箭が即ち風流の眞骨頂でありますのじや。」
 抹茶一服の接待をうけて、藤孝は庵室を出た。いまいましい坊主だと思ったが、釋
迦生譚の一くさりは彼を動かさずにはおかなかつた。城門は潜らずに、馬の頭を北へ
引き向けた。斷崖上の松陰に來て、ひらりと下馬した藤孝は、日本海の紺碧な水平線
に眼を放つた。暫時ののち、懐中から一綴の紙をとり出して「檀那藝」とつぶやきな
がら崖の下へ抛り投げた。その綴には、先頃一色征伐の陣中で詠んだ天橋立百首が書
きとめてあつたのだ。
 この日から小田原陣まで十年間、歌人藤孝は深く沈潜し、從つて、極めて寡作であ
つた。

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