津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二日がかりの読書「逃げる百姓、追う大名」を読む。

2021-10-14 13:07:37 | 書籍・読書

 一昨日の散歩が応えて昨日は取りやめ、終日読書で過ごした。宮崎克則氏著「逃げる百姓、追う大名」である。
今日は朝から病院行きして定例の検査を受ける。午後からはこの本の精読で過ごすことにする。
この本はかなり早い段階で購入したが、2002年初版の中公新書で、豊前時代の細川家に於ける百姓の領内からの逃亡や、逆に隣国からの入込などが主題にしてある。
また、松井家にゆだねられた幕府領「湯布院」の開発と農民の関わり合い、その他、干ばつや「惣銀」などで立ち行かなくなった家臣の救済の有様など、大変興味深い。

          逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦 (中公新書)

 この時期、家臣に給される知行は「地方(じかた)知行」であり、それぞれが知行地を直接支配したが、干ばつや水害など知行地ごとに条件が異なる。
知行の高下に係わらず家計が立ち行かなくなっている。2,000石を拝領しているs氏の家計再建策なる物が示されており、「袖判」における借銀で充当し、翌年の米を大阪に運んで利益を得、これを年利4割で貸し付けるという次第である。
数年後には潤沢な利益を生むという夢のような計画だが、これが計画書通りにいったかどうかは判っていない。
また、忠利の奥方の実家筋である細川家家臣の小笠原家・5,000石も立ちいかなくなり家禄の一部を返上し、軍役の免除を受け、特別貸与を受け、藩の介入による財政再建に陥った。当然その職務も制限された。

 ましてや、下級武士の救済はどうであったろうか。我が家の先祖の生活もいかばかりであったろうかと考えてしまう。
「地方知行」は延宝八年(1680)に廃止され、家臣の知行はすべて「蔵米知行」となる。
細川家の豊前入国から80年経過している。

 ここにある「惣銀」「袖判」といった言葉を、100%理解させてくれる研究書に未だ出くわしていないが、この本がわずかながら理解を進めてくれそうである。

 

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■川田順著「幽齋大居士」一四、豊臣秀吉

2021-10-14 06:39:45 | 先祖附

     一四、豊臣秀吉

 幽齋の家集なる衆妙集を披くと「八月十五日夜關白殿大佛殿のうしろの亭にて月を翫
び、それより聚樂亭に歸らせ給うて和歌會侍りしに」と詞書し、明月の歌一首載せて
ある。
 天正十六年、中秋の日も夕べに迫つて、聚樂第から使者が見え、大佛殿まで至急参
るやうとの吩咐であつた。折から幽齋は、朝鮮國へ遣はさるべき外交文書の草稿を添
削中であつたが、なほ悠々と朱を加へ、さて筆を擱いて、打裂羽織の紐を結びながら
玄關に出た。
 大佛殿の書院に待ちくたびれてゐた秀吉は、下座に辭儀した幽齋を見つけ、
「明月の登るもおそいが、幽齋の現はれるもおそいことぢや。」
「月のおそいのは東山に妨げられるからでございますが、拙者の遅刻は、關白さまの
御文書といふ、山よりも重いものに塞かれたゆゑでございます。」
 阿彌陀ヶ峰の頂上の松が、うしろから照らす月光をうけて、はつきりと描き出され
たとき、
「うしろの山に登らう。」
 と秀吉は幽齋を促した。利休の作にかゝる茶室におちついて、二人は心ゆくまで月
華の流れを賞した。滴る水の音が響く。
「うつくしい月夜ぢや。聚樂が落成して引移つた晩も、ずゐぶん見事な月夜であつ
た。」
「御意の通り。あれは九月十三夜でございました。明年の名月は。」
「京城と申すか。予はさらに遠方を考へてをるぞ。」
「さらに遠方と仰せられますのは、先頃接見遊ばされました宣教師の國の・・・。」
「幽齋、阿彌陀ヶ峰は高かろうな。」
「關白さまの御威光でも、一夜に石段は築かれますまい。五百段では足りませぬ。」
「眺望は利くであらう。」
「秋から冬へかけまして、空の澄み切つた朝などには、大阪城のお天守が見えると申
します。」
「海もみえるかな。」
「夕陽の沈む間際には、八幡山崎の豁けたあひだ、西南の空に、茅渟の海の水平線が
望まれると申します。」
「さやうなところで、永劫の月見が致したいわい。」
「今宵も永劫の中の一夜、月の光に現當の差別はございませぬ。お歌をどうぞ。」
「幽齋、その方の歌を聽かう。」
 幽齋はしばらく黙つてゐたが、やがて静かな聲で、
 月こよひ音羽の山の音に聞く姥捨山の影も及ばじ

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