津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」ニ八、氏郷の死

2021-10-28 06:38:58 | 書籍・読書

    ニ八、氏郷の死

 文禄四年二月七日、稀代の名將蒲生氏郷が大坂で薨去した。享年わずか四十。
 數日して、深更、幽齋吉田閑居の柴門を叩いた者がある。南禪寺の一角に住居を
もらつて老を養ふ老僕思齋であつた。
「この夜ふけに慌しい。何事ぢや。」
「會津宰相殿の亡くなられた原因に就きまして、けしからぬ取沙汰を聞きましたの
で。」
「いかやうの取沙汰か。」
 幽齋は短檠の火を掻立て、さて坐り直つた。恩齋がひそひそと話すことは、次のや
うであつた。
 氏郷は喀血して大事に陥つたのだが、枕元に殘つてゐた一枚の紙に、
 かぎりあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風
 と辭世の一首がしたためてあつた、毒殺されたに相違ない。毒殺者は太閤だ。太閤
はかねてより氏郷の大器なるを怖れ、豐臣家の將來のために、彼を亡きものにしたの
である。云々。
「莫迦者めが。さやうの愚説をわざ/\乃公の耳に入れに來たのか。歸りをれ。天授
庵の和尚について、一遍の讀經でもするがよいわ。」
 𠮟りつけて老僕をかへして後、幽齋は悵然として腕を拱いた。豐臣の社稷を支へる
者は、加賀の利家と會津の氏郷と薩摩の義久、この三人だといふことは、秀吉とくに
肚を決めてゐる。壯年の氏郷を東北百二十萬石の大名に取立てたのは、單に武勇の將
ゆゑといふ死骸でなく。純忠高潔の士なることを信頼したゆゑだ。去年十二月、氏郷
の病状いよ/\大切と聞き、秀吉みづから指圖して、絶大國手道三を枕もとに遣し
た。その秀吉がなんで氏郷の死を希ふものか。小人共の取沙汰には困る。それにして
も、毒殺云々の浮説は何人が立てたか。
 幽齋は、螺鈿の卓に頬杖ついて、考へ込んだ。これは秀吉麾下の結束を破らうとす
る、野心者の仕業にちがひない。野心者は家康の帷幄に居る。本多佐渡守、此奴は今
でこそ家康の知慧袋と納まつてゐるが、元來腹の黒い男だ。實戰はといへば、長久手
で少々ばかりの手柄を立てたに過ぎぬ。曾つては北越一向衆徒に遊説して、謀主とな
り、信長・家康の間に立つて、烏滸がましく天下三分の夢を見たことさへある。此
奴は徳川の家を大きくするであらう。乍併、後世をして家康を悪ましめる者も、亦此
奴だ。此奴今日、勿體なくも秀吉の徳をさへ傷つけようとする。
 治國平天下の悲願をいだく幽齋、家康の人物にはもとより敬服していた。けれど
も、本田正信の類の人間が江戸で重寶がられてゐることを、彼は家康のためにも惜し
んだのであつた。最近、江戸から大坂へ使者として來た正信が、歸途、洛中の某寺に
滞在せる由を聞き、幽齋は面會を申入れた。單刀直入に面責して、毒殺説の毒を吐か
せ、場合によつては眞ッ二つにせんとまで決心した。正信は悪運強く、前日に京都を
去つてしまつた。實はなほ居たのだけれども、幽齋を憚り避けたのであつた。
 天才の氏郷は肺患に罹つたものらしい。朝鮮へ押渡るべき第一人者の彼が、内地に
留まつたのも、そのためらしい。名護屋在陣中、文禄二年春健康を害して會津に歸
任、翌三年三月病を扶けて上洛し、四年二月薨といふのだから、極めての長わづらひ
であつた。曲直瀬道三の臨床日記を一見しても、毒殺云々の虚妄は立證される。つい
で乍ら、氏郷の詠「心みじかき春の山風」は天命に對して愬へた意味である。古

來、「惜花」の和歌に同想のものが夥しい。秀吉が「山嵐」でもなければ、山嵐が毒
殺者でもないのである。無學の浮説に依るならば、古今無數の歌人は毒殺されたこ
とになる。莫迦をいふもいゝ加減にするものだ。


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