津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」ニニ、涙 痕

2021-10-22 06:43:01 | 先祖附

      ニニ、涙 痕

 日の本の光を見せてはるかなる唐土までも春や立つらむ
 文禄元年の元旦、幽齋は聚樂第に伺候して、この傑作を豐太閤に獻上した。「天正
二十年入唐の御沙汰ありし年の元旦に」と衆妙集には詞書してある。
 去年九月大陸遠征の發令以來、國内沸き立ち、今年はとりわけ瑞氣の深い正月であ
る。いつもの上機嫌を更に上機嫌にした秀吉は、幽齋の短冊をとりあげて、「はるか
なる唐土までも」と再三心のうちに誦したのであつた。
 四五日して、初雪が降つた。洛東吉田山の麓に閑居せる幽齋は、吉兆の雪だと朗ら
かに眺めてゐると、聚樂から使者が來て文箱をさし出した。「雪ふりてさびしく暮し
候、きたりて一ぷくたて候へ、ひでよし」と書いた、至極短い手紙であつた。幽齋は
思案に沈んだ。不世出の英雄豐太閤、現に大陸征伐をなしつゝある斯の人でも、寂し
い日があるのかしら。彼は直ちに参殿して、茶湯の相手をした。
「さびしいと書かねば、そなたが來てくれぬからな。」
 と笑ひつゝ、秀吉は天目茶碗を無造作に仰ぎ、音を立てゝ啜つた。
「今夜は余の歌を見せるぞ。これ、どうだ。どうにか詠めてをるか。」
「結構に存じます。」
 滅多に賞めない幽齋が、かう挨拶したので、秀吉は満悦の顔をした。その歌、
 月に散るみぎりの庭の初雪を眺めしままにふくる夜半かな
 おなじ月の十六日、又もや秀吉から手紙を持たせて來た。今度は大分こまごまと書
いてあつたが、要領は「昨夜亡兒を夢に見て、涙が炬燵の上におち溜まつた」と述
べ、をはりに一首、
 亡き人の形見の涙とどめおきてゆくへも知らず消えはつるかな
 この和歌を文字通りに解釋すれば、夢中の亡兒が泣いて、涙を父秀吉への形見に殘
して消え失せた、といふことになる。乍併、眞意はちがふ。泣いたのは秀吉であり、
炬燵の上に冷たく凍つたものは英雄が涙の痕なのであつた。
 幽齋は手紙を讀み反しながら泣いた。返歌を贈らうと思つたが、思ひなおしてやめ
にした。かやうな深刻の嘆きに對して、並々の挨拶はするものでないと考へたゆゑで
あつた。淀君所生の世子鶴松は、昨年八月秋風にさそはれて、もろくも夭折した。大
陸征伐の雄圖は、愛兒を失つての撥悶といふことが、少くとも動機の一つだろうと、
一部歴史家の間に於く促されてゐるけれども、それは間違つてゐる。雄圖はもつと以前
からゐたのだ。

 

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