津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■垣間見える藤孝(幽齋)の親心

2021-10-03 08:47:07 | 史料

 「年表稿」を作ろうという中で読書を始めたら色々新事実に出くわして大変興味深い。
まずは「藤孝事記」から

 (23)
  加賀江も言伝申候、此人急候、舟上せ候時又さて申まいらせ候由可被申候
  就久代差越折紙披見候、其元無何事由可然候、手習候哉、殊之外候、
  孝経読書之由、奇特ニ候、哥手習以下、弥可被心懸候、頓而可令帰陣
  候間、見参入可申候、恐々謹言
               幽
      卯月廿三日      玄旨判
       茶知殿

  これは幽齋が三男茶知丸(孝之)に宛てた、いかにも父親ぶりがうかがえる書状である。
  茶知丸は天正十三年(1585)の生まれである。
  藤孝が幽齋玄旨を名乗るのは、明智光秀の謀反(天正十年六月二日)の翌日の事であり、茶知丸はまだ生まれていない。
  
       (上記記述部分が少々拙速に過ぎましたので、以下のごとく修正します。2021:10:05)
  藤孝は明智光秀の謀反の知らせを受けた直後息・忠興と共に髻を切った。

 「永源師壇紀年録」によると、「此月ノ廿七日二於テ屋形ハ織田家ノ追薦ノ為二剃髪シテ幽齋玄旨ト号ス」とある。
  その時期、茶知丸はまだ生まれていない。

  文面から手習いや孝経の読書、また歌などの勉学に励んでいることがうかがえ、まだ幼少ではないかと思われる。
  のち與十郎と名を改めるが、その時期が残念ながら判らない。
  いずれにしろ天正末期から慶長前期の頃のものだと思われる。
  ・・細川藤孝三男、忠興弟。天正十三年生る。與十郎、中務少輔。剃髪後休齋宗也。正保四年七月七日歿。年六三。
    豊前香春城25,000石(幽齋隠居料)ノチ退身、忠利ヨリ三百人扶持、
    女子・小万は小笠原民部長之室
  

コメント (3)
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