津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「慶長日件録」をよむ

2021-10-07 15:25:44 | 書籍・読書

 今日は散歩はしないと決めて、年表つくりの為に国会図書館デジタルコレクションの「慶長日件録」384頁を読もうと取り掛かった。
これは舟橋秀賢が表したものだとされているから、細川家にかかわる事も散見される。
200コマほどを細川の文字を探してスクロールしながら、拾い読みをして転記が必要な記事は、早々に年表に書き込むという作業となる。
舟橋(清原)氏は吉田神道の創始者・兼倶の三男・宣賢が清原宗賢の養子となり、業賢・枝賢・国賢・秀賢と続いた。
吉田家は宣賢の子・兼右が後継となった。細川家との最初のつながりは、宣賢女・智慶院が細川幽齋の生母であることによる。
慶長日件録は、吉田家・清原家と細川家の関係をよく表している。

                       伊也(藤孝女)
                        ‖ 
 吉田兼倶---+--兼政---兼満==兼右---+--兼見---兼治
      |            |
      |            +--梵舜
      |                  +--いと
      |                  |
      +--清原宣賢---+--業賢---+--枝賢---+--国賢---秀賢
             |     |
             |     +--長治(平野氏)--長泰
             |
             +--兼右
             |             +--伊也
             +----智慶院       |
                ‖-----細川藤孝---+--忠興
              三渕晴員               
                                 

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■疲れがたまってしまいまして・・

2021-10-07 09:23:07 | 徒然

 昨日も散歩に出て5㌔ほどを歩きましたが、全くスピードが上がらず若いお嬢さんが脇をすり抜けて行きます。
1時間少々かかりました。ここ一週間で31㌔歩きましたから、一日平均4.5㌔弱です。
爺様はすっかり疲労がたまったらしく、ここ数日は30分ほどですが午睡をする有様です。
少々やりすぎたなと思っているところに、つい奥方の前で「ああきつい・・」と口をついてしまい、「この暑い中歩くから・・」と怒られてしまいました。
早起きしているのだから、朝早く涼しいうちに歩けとやかましいのです。
「起きてすぐはエンジンがかからん」と屁理屈を言ってみたりしていますが、少々やりすぎかなと自分での思ったりしているのです。
血糖値が高い私は食事制限もままならず、ならば散歩で頑張らなければといういささか強迫観念に押されています。
連日続いている31・2度という暑さが収まればまた元気も戻るだろうとも思うのですが、週一くらいで休みも必要かなと実感して、今日の散歩は取りやめです。
ベランダから外を見ると、トンボが数匹飛び交っていてすっかり秋の気配ですが、今日も暑そうです。



 

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■川田順著「幽齋大居士」七、大儀滅親

2021-10-07 07:29:52 | 書籍・読書

      七、大儀滅親

 田邊城の奥の一室、人目を避けて、藤孝父子は何事か密談している。春の霜夜はい
たく更けて、めづらしくも深く曇った藤孝の眉のあたりを、短檠の光が寺してゐた。
 信長が細川氏を丹後に封じたのは、當時同國の領主一色氏の失政により騒亂絶えな
かつたので、これを平定せしめんためであつた。藤孝入部して一色義道を攻め殺した
が、その子の義定は、弓木城に據つて抵抗を續けた。義定は忠興の妹を娶り、藤孝の
婿である。
 天正九年三月のこと、忠興は辭を設けて妹婿をおのれの居城、宮津の八幡山に招待
した。義定もさる者、これは少々怪しいと勘付き、騎士三十六人、雑色三百人を随え
て宮津に乘り込んだ。藩譜採要には斯う書いてあるが、何ぼ何でも大袈裟すぎるやう
ではある。ともかく、義定は十分用心して御馳走になりに行つた。從兵等は城外に留
め、家老日置主殿助と二人ぎりで書院にとほつた。義定は忠興とさし向ひ、家老は忠
興の右手に座つたが、まさか襖障子のうしろに十七人の暗殺協力者が隱れてゐるとは
知らなかつた。やがて膳が運ばれた。茶人の宗堅といふ者、肴を据えるとき、忠興の
脇に置かれた「波股」の大業物にわざと袴の裾を障らせ、
「御無禮仕りました。御免を。」
とあやまりながら、刀を取つて戴き、そっと鯉口を緩め、抜き勝手のよいようにし
ておいた。義定杯を手にした瞬間、肩先から脇腹かけ、一刀に斬りさげられた。家老
は柱を楯にとつてしばらく防いだが、衆寡敵せず、どつと縁側に倒れた。暗殺成就の
合圖の狼火を擧げると、直ちに田邊城から繰出された軍兵が、弓木城を取巻き、一色
氏の殘黨は殲滅させられたのである。
 藤孝弓矢を取つて三十年、今日ほど辛いおもひをしたことはない。だまし討は當節
の流行だ。巧言も令色も、毒殺も、焼討も、戰國の習ひ、敵も味方もすることだ。時
と場合によつては致し方ない。乍併、現在の肉親、可愛い娘の婿をさへも、かやうな
殺し方しなければならぬのか。無慙だ。非人道だ。例えば類似の所業は武田もした、
上杉もした、誰もした、彼もしたと數へたところで辨解になるか。百萬人がしても、
悪事は悪事だ。治國平天下、大義親を滅すと、おのれを叱つて見たが、藤孝は夜もす
がら眠れなかつた。その年の初冬の冬、一色氏の禮拝した天橋立切戸の文殊閣に、藤
孝は黙然として端座してゐた。須彌壇に向つて數珠つまぐり、義道父子の冥福を祈る
のであつた。暁千鳥の聲がするまで、藤孝の姿は動かなかつた。

 

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