津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」一九、多 藝

2021-10-19 06:47:08 | 書籍・読書

      一九、多 藝

 「二兎を追ふ者一兎を獲ず」とか「多技にして失す」とかいふ俗諺は、我が幽齋の
如き非凡人には通用しない。一兎を追うて一兎を獲ざる者から觀れば不可解にちがひ
ないが、東西、反對の方向に逸走する二匹の獣を同時に射とめた手だれの獵師もあつ
た。武將としての藤孝、歌人としての幽齋は、共に歴史的存在である。さうして、そ
の他の教養乃至趣味に於いても、彼は當時無類の人物であつた。幽齋葬典の時、末松
宗賢
なる者の書いた弔文の中にも、「先和哥の道は奥義を極め、其かみの源三位入道
にもまされりとなん。弓馬禮等は天下の龜鑑たり。かみは雲の上より、下は田舎に至
るまでも、はるばると心づくしの波を分、歌、連歌の點、色紙短冊の所望、禮法、書
禮、亂舞、太鼓の傳授、御門前馬の立あへる隙もなし。是ぞ誠に文武二道の名將なる
べき」とある。武家の儀式、すなはち有職古實にも極めて精しく、徳川將軍家の禮典
は幽齋の定めたものであつた。
 主馬の盛久ではないが、幽齋も亂舞の達者だつた。太鼓を似我與左衛門といふ師匠
に就いて、表紙は手に入つたけれども、左の撥の切れが悪い、或時弓を射てゐると、
鼓が切れた。幽齋、弓を地に投げて、
「わかつた。太鼓の撥の切れるといふことは、これだ。」
 又、三井寺に参詣した時、庫裏の方から響いて來る笛の音に耳を傾け、
一噌が居るな。」
 と言つた。たしかに名人の一噌が來てゐて、吹き鳴らしつつあつたのだ。
 天正十五年、九州征伐に参加すべく田邊城を出發し、山陰道を急いだ。四月廿八日
雲州杵築の旅館を出て幾程もなく、或る在所で、若狭の住人葛西某といふ、その道の
玄人が追ひかけて來て、
「一番拝聽いたし度う存じます。」
「承知仕つた。」
 幽齋は太鼓の撥を執つた。かくて「夜更まで亂舞有けり」と自筆の九州道の記に書
いてある。
 包丁自慢でもあつたらしい。或時、鯉の料理しようとすると、悪戯者あつて、魚の
腹中に火箸をさし通しておいた。包丁がガチンと當つた。瞬間、九寸五分の抜打で、
火箸を眞ッ二つにした。
 茶道にも勿論深く關心した。藩譜便覧に「玄旨公は茶ノ湯に一圓構はぬ御人なり」
と書いてある意味は、茶ノ湯の形式作法に拘泥せぬ人と解釋すべきだらう。野史茶人
傳にも出ている幽齋だ。ごく若い時分招鷗に學んだといふから、利休とは相弟子の間
柄だ。中年兵馬にあくせくしたが、もしもさうでなかつならば、利休に對抗して一派
を創めるぐらゐの器量は持つてゐた。もしも幽齋流が出來たとしたならば、それは「
寂」と「空」との否定的のものでなく、茶租珠光の儒教的趣味を帯びた、さうして同
時に武人的豪放の積極性を持ったものであつたかも知れぬ。但、そんな奇妙な茶道が
成立し得るものか否か、筆者は與かり知らない。

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