津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「徳富蘇峰の会・熊本」髪塚際・記念講演会 開催のお知らせ

2021-10-24 07:01:02 | 講演会

   

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■川田順著「幽齋大居士」ニ四、薩摩の春

2021-10-24 06:53:35 | 先祖附

      ニ四、薩摩の春

文禄五年、秀吉に随つて肥前名護屋に出陣中、幽齋は特命をうけて薩州へ赴いた。島
津貴久の第三子にして義久の弟なる歳久といふ者、かねてより、島津氏が秀吉に降伏
したことを快しとせす、朝鮮への出征も拒み、あまつさへ部下の多數が梅北黨にくみ
して内亂を起すといふ騒ぎになつた。年の七月幽齋は問責使として派遣されたもの
で、尋常の外交使節とはちがふ。彼は積年、義久と親密の間柄ではあつたが、まかり  
ちがへば刀の柄に手をかける場合も起らう。六十歳になんとしてこの重任に擇ばれた
彼は、老いても甲を被り馬に跨つて、なほ用ふべきある勇將にちがひなかつた。
 義久が素直に謝罪し歳久を自刃せしめたので、幽齋は抜きかけた刀を鞘に納めた。
その時、まだ名古屋から指令が來て、ついでに薩・隅・日三箇國の檢地を見届けよと
のことなので、旅程は延長され、文禄二年の正月を鹿児島の旅館で迎へた。さて公務
のすべてを果した彼は、漸く歌心を起し、
 あづまより越えくる春も隼人の薩摩路とほく立つ霞かな
 などと詠んだが、誰か好敵手はと探して、新納忠元を思ひ浮かべた、忠元はおのれ
よりも十歳ほど長者なので、呼びつけるは無禮だらうと、二月某日、こちらから訪問
した。忠元の家は城下町の東端、海岸の丘上に在つて、活火山櫻島と相對してゐた。
 忠元はいふまでなく文武の名將、九州きつての歌人だが、都の歌仙の入來をいたく
恐縮し、「拙老如き田舎歌よみが」と謙遜して、多くを語らなかつた。「御近什」を
と再三請はれて恥づかしげに、
 あじきなや唐土までもおくれじと思ひしことは昔なりけり
 の一首を書いて差出した。これは昨年四月、名護屋出帆の主君義弘を見送つた時の
述懐だと説明した。幽齋つくづく敬服して、「都の歌人の及ぶ限りでない」と挨拶す
れば、忠元倍々恐縮し、今度は詠草を都に送つて合點を乞ふ旨、眞劍な顔して依頼し
た。
 忠元が陣中火縄の明りで古今集を勉強したといふ話は、上方までも聞えてゐたが、
幽齋ふとこれを思ひ出し、可笑しさが抑へきれなくなつた。火縄の明りで讀書が出來
るか。さやうのことをしたならば、武人に大切の視力を弱めてしまふ。見ると忠元の
眼光は炯々としてゐた。朽木谷の一件も、もしも自分が偉くなつたならば、後世の物
識の輩、幽齋は螢雪の學をしたと傳紀し、泥棒したとは信じまい。「貴殿は本當に火
縄の明りで」といふやうな頓馬な質問は幽齋はしなかつた。
 去月廿六日戰はれた碧蹄館の噂も出て、話柄はおのづから戰爭に及んだ。さうなる
と、歌のことでは謙遜であつた忠元の態度が一變し、侃々諤々で、主張を曲げない。
加藤清正なんぞは、往年相手にして見たが、さ程のことはなかつたといふ。然らば當
今誰が最も強勇かと訊くと「義弘公」と言下に答へた。
 夕暮深く玄關に出ると、櫻島山は落陽の餘光を浴び、暗紫色になつてゐた。

 

          新納忠元の肖像画の画像 | 戦国ガイド 新納忠元

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■農業用語

2021-10-23 12:08:12 | 歴史

 現在ある方が「仁助咄」の古文の読み下しをしておられる。少々お手伝いをする中で、やたらと農業用語が出てきて、もうちんぷんかんぷんである。
「土免」「損引」「徳掛」「水主米」「口米」等々である。
宇野騏八郎という人物は、選ばれて郡代となったが、「田賦(土地税)」の事にうとくて困惑し、自らの業務にも支障が生じるため、古書を調べ上げて「田賦考」という細川藩農政にとっての参考書を著している。
又、菊池郡深川の会所の手代・河口新左衛門という人物は、「土貢(田租)管見録」を著し、農政に係わる人たちに重宝された。
垣塚文平は「官職制度考」を著したが、この中の「郡政部并田賦」では割と平易な解説がなされている。
しかしこれとて私は一気の理解ができずにいる。

  (前略)寛永九年妙解公襲封の後同十年より國中撿地ありて郡政の大綱を議定し給ひてより已來連綿して今に至れり
  其大綱は變革なしといへども時の勢によりて郡政の改りし事幾ばくならん 延寶年中に土免極天和に上知寶暦に地引
  合撿地ノ異名享保に請免の議ありて止む 安永に免方潤色天明に同潤色享和に請免撿見の法に延寶の比石見と云あり
  其後五割の作法三割の作徳と云も皆時々の變法なりといへども寛永已來の法を紀綱として大同小異なりしを享和に至
  りて請免となりて寛永已來二百年の檢見の法此時に廢絶するは一大變なり後年の利害得失豫して論し難く管見の及ぶ
  所にあらす
  〇徳掛
   右徳掛と云は秋に至り田畑に登りたる米穀を檢見を初田賦にかゝりたる役人立會見分して公の歛敷を極りたる通り
   に百姓共受合て上納するを土免受除と云
  〇損引
   大損引と云は水損旱損風損虫入等の外さま/\天災にて作毛登らず土免通りの受のきかたき時は損引を願ふ 其時
   に撿見を初夫/\の役人立會て登不登を改め有實をためし五公五民とか四公六民とかをさため極る 是を損引と云 
   徳掛損引の兩法受免已後絶たり 内撿の官廢す 其法予詳にせずと云共思ふ子細ありて大略を記す
  〇土免とは此畑には上納米未何石何斗と極りたる通り上納いたすを土免と云 凶年には其通り上納成かたき故損を引 
   と云て其田有たけの石高に五割の作徳を百姓に給る たとへば籾一石五斗の籾ならば五斗百姓に給り一石は公の納
   となるを云

なかなか理解に苦しむ言い回しで、簡単な解説がないものかと探し回っている。

 

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■川田順著「幽齋大居士」ニ三、氏郷入來

2021-10-23 06:32:42 | 書籍・読書

       ニ三、氏郷入來

 文禄元年三月廿六日を期して、秀吉は京都出發、肥前名護屋の本營に向ふ旨、ふれ
を出した。會津の蒲生氏郷も、これに随行すべく、白河關、那須野を越え、佐野の舟
橋を渡り、「淺間の岳も何を思ふ」と火山の噴煙に述懐し、木曽路の梅花を眺め、美
濃の垂井の荒屋に假寝し、なつかしき故郷の近江もすぎて、花盛りの都に著いた。
京都滞留中の一日を割いて、文武両道の話相手なる幽齋を訪問すべく、「お道具拝見
旁々」云々手紙を届けると「お待申上候」と返事が來た。氏郷は茶道の熱心な探求者
で、かねてより細川家の名什珍器を一見し度く思つてゐた。
 約束の日が來た。忙中閑の今日を心に樂しみながら、馬を乗り著けた氏郷の、通さ
れたのは茶室ならずして客間だつた。さうして、甲冑、刀剣、鎗薙刀の類が一杯に陳
列してあつた。主人幽齋は、それらの一々を指しながら、「これは先祖何某の遺愛の
刀、これは拙者どこどこの城攻めに用ゐた鑓、これは愚息が初陣に被つた兜」等々と
説明しはじめた。氏郷、案に相違したので、
「拙者がお道具拝見と申したは、茶ノ湯の名器のことでござる、」
「なんと仰せられる。道具とばかり承れば、武士にとつて、これらの外にはござるま
い。」
かやうな經緯がすんでから、茶室に案内し、ありたけの什器を取り出して見せた。右
は某書記載の逸話だが、ここで筆者は思ひ出したことがある。後世江戸時代のこと、
或る大名が家臣を呼んで、お抱への力士と勝負して見ろと言つた。家臣は承知して土
俵に上り、立ち上がるなり一刀でずばりとやつた。無論力士の生命はない。相撲とら
せるつもりで居た大名は、憤怒した。家臣平然として、「武士の勝負はこの外にござ
いませぬ。」
 幽齋の甲冑陳列と、この侍の一刀ずばりとは、大分似ている。筆者には、兩方とも
作りごとの如く思はれてならない。少くとも、幽齋の方の話は假託にちがひない。何
故と言はいか、幽齋は、そんな意地の悪いことをする人間ではない。又、わかり切つ
たことを、わざと曲解し、それで相手をまぎつかせて得意がるやうな、けちな男では
ない。況んや相手にも依る。相手は幽齋に比べて勝るとも劣らぬ蒲生氏郷だ。まごま
ごしたら、古道具屋然たる陳列甲冑なんぞ、片足擧げて蹴散らかしてしまふ。幽齋は
初手から素直にお道具を見せ、快い自慢をしながら、畏友氏郷と半日の清興を専らに
したのであつた。筆者はさう思ふ。

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■川田順著「幽齋大居士」ニニ、涙 痕

2021-10-22 06:43:01 | 先祖附

      ニニ、涙 痕

 日の本の光を見せてはるかなる唐土までも春や立つらむ
 文禄元年の元旦、幽齋は聚樂第に伺候して、この傑作を豐太閤に獻上した。「天正
二十年入唐の御沙汰ありし年の元旦に」と衆妙集には詞書してある。
 去年九月大陸遠征の發令以來、國内沸き立ち、今年はとりわけ瑞氣の深い正月であ
る。いつもの上機嫌を更に上機嫌にした秀吉は、幽齋の短冊をとりあげて、「はるか
なる唐土までも」と再三心のうちに誦したのであつた。
 四五日して、初雪が降つた。洛東吉田山の麓に閑居せる幽齋は、吉兆の雪だと朗ら
かに眺めてゐると、聚樂から使者が來て文箱をさし出した。「雪ふりてさびしく暮し
候、きたりて一ぷくたて候へ、ひでよし」と書いた、至極短い手紙であつた。幽齋は
思案に沈んだ。不世出の英雄豐太閤、現に大陸征伐をなしつゝある斯の人でも、寂し
い日があるのかしら。彼は直ちに参殿して、茶湯の相手をした。
「さびしいと書かねば、そなたが來てくれぬからな。」
 と笑ひつゝ、秀吉は天目茶碗を無造作に仰ぎ、音を立てゝ啜つた。
「今夜は余の歌を見せるぞ。これ、どうだ。どうにか詠めてをるか。」
「結構に存じます。」
 滅多に賞めない幽齋が、かう挨拶したので、秀吉は満悦の顔をした。その歌、
 月に散るみぎりの庭の初雪を眺めしままにふくる夜半かな
 おなじ月の十六日、又もや秀吉から手紙を持たせて來た。今度は大分こまごまと書
いてあつたが、要領は「昨夜亡兒を夢に見て、涙が炬燵の上におち溜まつた」と述
べ、をはりに一首、
 亡き人の形見の涙とどめおきてゆくへも知らず消えはつるかな
 この和歌を文字通りに解釋すれば、夢中の亡兒が泣いて、涙を父秀吉への形見に殘
して消え失せた、といふことになる。乍併、眞意はちがふ。泣いたのは秀吉であり、
炬燵の上に冷たく凍つたものは英雄が涙の痕なのであつた。
 幽齋は手紙を讀み反しながら泣いた。返歌を贈らうと思つたが、思ひなおしてやめ
にした。かやうな深刻の嘆きに對して、並々の挨拶はするものでないと考へたゆゑで
あつた。淀君所生の世子鶴松は、昨年八月秋風にさそはれて、もろくも夭折した。大
陸征伐の雄圖は、愛兒を失つての撥悶といふことが、少くとも動機の一つだろうと、
一部歴史家の間に於く促されてゐるけれども、それは間違つてゐる。雄圖はもつと以前
からゐたのだ。

 

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■虚子の句

2021-10-21 11:04:21 | 俳句

                      A4491 高浜虚子 俳句 石曳くを- 紙本 肉筆 大正昭和初期

                                                                 

                                    石曳くを 見る人淋し 秋の風  高浜虚子の句だそうである。
   
   秋の風の中、石曳きが行われているのを人々が眺めている。「淋し」と表現されているが「何故?」と思ってしまう。
なにか心に満たされないまま、見物しているのだろうか?  吹く風が寂しさを感じさせるのだろうか?  
大師匠の句とは言え名句の範疇には入らない気がする。名解説をいただきたいものである。

 

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■川田順著「幽齋大居士」ニ一、井戸茶碗

2021-10-21 06:41:55 | 書籍・読書

     ニ一、井戸茶碗

 信長や秀吉が戰功の行賞に茶器を與へたことは、有名な話になつている。殊に文禄
以降は主として「舶來物」を與へたらしい。金に手詰まつてゆゑと考へるのは、貧乏
臭い我等の觀察だ。秀吉らの趣味だつたのである。それはいずれにしても、もらふ諸
將にして見れば、いのちがけの賜物なのだから、品物の善悪眞贋ぐらゐは、自分達の
利害のためにも辨へておかねばならなかつたろう。ちょろりと儲けた成金が骨董屋に
掴まされるのは勝手だが、論功賞はさうは行かない。
 幽齋もとより茶器に深い關心を持つてゐた。例へば茶入一つにしても、秀吉の「殘
月肩衝」には及びもないが、似た物ぐらゐは所有したかつた。氏郷が「鍋屋形衝」を
入手したと仄聞して、競争心を起し、法外の金を投じて井戸茶碗を買つた。これは後
                                                  #1
に、茶博士不昧公の有に歸し「細川井戸」と呼ばれた名器である。幽齋は、この朝鮮
古陶の、貫乳とカイラゲの、えもいはれぬ美しさに惚れぼれと見入つた。「井戸」と
は妙な名穪だが、井戸覺弘なる者が彼地から持ち歸つたに由來すると、普通考へられ
てゐる。               #2
 ふと噂に聞けば或る大名がすばらしい井戸を愛蔵してゐるといふことだ。幽齋、競
爭心を新にした。彼れと此れといづれか勝れる、比較研究して見たくなつた。折よく
その大名の茶に招かれたので、
「御珍藏の名器拝見仕り度う。」
と申し入れた。大名は座を立つたが暫時して戻り、出來ばえの普通の瀬戸で一服すす
め乍ら、さて言ふよう、
「仰せにより只今井戸を取り出させ申すと、小姓めが粗忽致して、割つてしまうてご
ざる。」
 幽齋、氣の毒におもひ、
「せめては破片を拝見出來ますまいか。」
 盆に載せて出された名器の殘骸は、悲しげな匂ひを放つた。幽齋は硯を引寄せて、
 筒井筒五つに割れし井戸茶碗咎をば我の負ひにけらしな
    #3
 伊勢物語の一首を上手に利用したこの戯歌は、大名の心を和らげ、おかげで小姓は
お手討を免れたといふ。什寶紛失してお家騒動となり、幾人もの声明を取るといふ筋
の小説が江戸時代に多い。それに比べれば、殺伐なるべき筈の戰國時代の方が、よほ
ど人情味に富んでいる。昨春、恩賜京都博物館で豐太閤記念特別展觀の催された時、
筆名は偶然にも右の茶碗を眼の前に見た。出品者は山科の毘沙門堂。まさしく高臺ま
で五つに割れてゐたが。その金接の美しさに刮目した。金の絲は未もそぼそと消え
て、恰も砂濱に吸はれて行く細流の如く感じられた。この名器、割れたのは怪我の功
                                                                                                          #4
名といへる。しかも幽齋の前で割れたのは、いかなる幸運ぞ。「筒井筒」と銘打ち、
國寶に指定された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考

  #1,細川井戸 所蔵:畠山記念館
    重要文化財 (高さ:9.4cm口径:15.8cm 高台径:5.5cm)
              

  #2,この文章では「大名」とあるが、この話は豊臣秀吉の話として有名である

  #3,伊勢物語の一首 「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」   

  #4,銘:筒井筒  個人蔵  金沢市( 口径  14.5センチ  高台径  4.7センチ  高さ  7.9センチ)
        重要文化財  昭和25年8月29日指定

                       陶製茶碗 
      

 

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■阿蘇山中岳噴火

2021-10-20 17:41:15 | 熊本

 かっての御嶽山の噴火もそうであったが、昭和56年の阿蘇中岳の噴火も今回の噴火も突然のことだった。
火山活動の予報の難しさを感じさせる。
今回の噴火では登山客には被害がなく幸いであったが、56年の時には3人がなくなられた。新婚旅行中の新夫
今回の噴火は監視カメラが一部始終をとらえていて、1㌔に及ぶという火砕流が流れたというが、観光客が慌てて車で逃げたりする映像もあり緊迫感が見て取れた。
ご存じのように阿蘇山中岳は、火口がのぞき込めるということで人気があり観光客も多いのだが、幸い今日は火口縁には人はいなかったようだ。
数日前から注意情報が出されていたから、これが良かった。
コロナが一段落していて、秋の観光シーズンで地元のホテル・旅館などはさあこれからだと待ちに待っておられたと思うが、また水を差してしまった。
さきには鹿児島の桜島も噴火したし、これらに連なる南の方でも火山活動が盛んで、なんだか九州の火山が連動しているようにさえ思える。
阿蘇神社では「御静まり下さい」とお祈り為されることだろう。

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■ワイヤレス・マウスの電源切りますか?

2021-10-20 08:59:09 | 徒然

 昨日はワイヤレス・マウスが電池切れしてしまい、買い置きもなく少々慌ててしまった。
以前使っていたコード付きマウスを探すが見当たらない。
捨ててしまったか? こんなこともあるから取っておくべきだった。
ブログもかけず、メールもだめだから、散歩から帰ったばかりなのに、又、出かける羽目になった。
当然マウスにもスイッチがあるのだから、寝る時に切ればよいのだが、爺様は面倒くさくて四六時中つけっぱなしである。
つけっぱなしでは単4電池一本で約一月位の寿命だと思うが、せめて寝ている間だけでも切っておけば、一日八時間分は節電になる。
一年間12本が8本で済むわけだから、これからはスイッチを切って寝ようと思ったが・・・・すっかり忘れていた。
二三日前に24時間動かしていたクーラーを止めたが、そのリモコンから電池を外してお茶を濁した。



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■川田順著「幽齋大居士」ニ〇、多藝(續)

2021-10-20 06:31:19 | 書籍・読書

     二〇、多藝(續)

 幽齋は非常の學問好きで、當時無比の博學多識であつた。曾て人に語るやう、
「學問は博く學ぶべきものだ。譬へば乞食の持つ袋の如くあらねばならぬ。殘飯冷
肉、なんでもござれ、人のくれるものは、皆その中に抛り込んでおくがよい。辨別取
捨は後のことだ。」
 かういふ主義で勉強したのだ。彼は一國一城の主ながら、學問の世界に足を踏み入
れた場合には、乞食の袋を背負つて、恬としてゐた。筆者は、その袋の中からぼつぼ
つ摘み出しては披露してゐるといふ迄のことである。彼は日本刀劍史上の一人物でも
あつた。戰國時代に、相劍家として幽齋の右に出た者はない。武士が魂の腰の物、こ
れを鍛冶する術は、單なる技術でなく、心術であつた。古今著聞の劍工は宗教的情熱
を以つて鍛冶した。從つて彼等の所作を相し、鑑識する方の人間も、深く熱き情操を
持たねばならぬ。幽齋がすぐれた相劍家であり得たのは、彼が以上の情操家だつたゆ
ゑである。和歌を詠むも、太鼓を打つも、包丁をとるも、刀劍を相するも、彼にとつ
て差別はなかつたのだ。すぐれた鑑定家の彼から觀れば當年の本阿彌などは問題でな
かつた。鑑定を職業とすることは武人の恥辱と考へて、彼は本阿彌にならなかつた迄
のことだ。
 細川家にはおのづからにして名劍寶刀が山と積まれた。今日遺存の名物だけでも、
澤山の數に上る。少々例示すれば、一色義定を切り捨てた大業物の「波股」があつ
た。ねこぶく(猫籬)を八つ重ねて下まで切りとほしたといふ「八重だたみ」の脇差
があつた。「籠手切義弘」があつた。「鳥飼國俊」があつた。
 幽齋は鷹揚な人で、物惜みしなかつたゆゑ、家の子や諸侯で、當時細川家の藏か
ら刀劍を頂戴した者は數知れない。彼なほ壮年の藤孝時代のこと、寺町を歩いてゐる
とちひさな道具屋に意外な業物が曝されてあつた。定則作の一文字だつた。値切るど 
くくれてしまつた。權内、夢かと頬をつまんで引きさがつた。程なく淀の城攻となつ
ただ、權内は城將岩成主税頭を斬りさらに、奮戰を續けて、岡本孫六といふ者と淀川
の水中で格闘し、拝領の刀で彼を刺殺した。藤孝、權内をねぎらひ、
「手柄ぢや、高名ぢや。刀に名をつけて遣はす。」
名物帳に載せられた「荒波一文字」はかやうの來歴を持つ。

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■川田順著「幽齋大居士」一九、多 藝

2021-10-19 06:47:08 | 書籍・読書

      一九、多 藝

 「二兎を追ふ者一兎を獲ず」とか「多技にして失す」とかいふ俗諺は、我が幽齋の
如き非凡人には通用しない。一兎を追うて一兎を獲ざる者から觀れば不可解にちがひ
ないが、東西、反對の方向に逸走する二匹の獣を同時に射とめた手だれの獵師もあつ
た。武將としての藤孝、歌人としての幽齋は、共に歴史的存在である。さうして、そ
の他の教養乃至趣味に於いても、彼は當時無類の人物であつた。幽齋葬典の時、末松
宗賢
なる者の書いた弔文の中にも、「先和哥の道は奥義を極め、其かみの源三位入道
にもまされりとなん。弓馬禮等は天下の龜鑑たり。かみは雲の上より、下は田舎に至
るまでも、はるばると心づくしの波を分、歌、連歌の點、色紙短冊の所望、禮法、書
禮、亂舞、太鼓の傳授、御門前馬の立あへる隙もなし。是ぞ誠に文武二道の名將なる
べき」とある。武家の儀式、すなはち有職古實にも極めて精しく、徳川將軍家の禮典
は幽齋の定めたものであつた。
 主馬の盛久ではないが、幽齋も亂舞の達者だつた。太鼓を似我與左衛門といふ師匠
に就いて、表紙は手に入つたけれども、左の撥の切れが悪い、或時弓を射てゐると、
鼓が切れた。幽齋、弓を地に投げて、
「わかつた。太鼓の撥の切れるといふことは、これだ。」
 又、三井寺に参詣した時、庫裏の方から響いて來る笛の音に耳を傾け、
一噌が居るな。」
 と言つた。たしかに名人の一噌が來てゐて、吹き鳴らしつつあつたのだ。
 天正十五年、九州征伐に参加すべく田邊城を出發し、山陰道を急いだ。四月廿八日
雲州杵築の旅館を出て幾程もなく、或る在所で、若狭の住人葛西某といふ、その道の
玄人が追ひかけて來て、
「一番拝聽いたし度う存じます。」
「承知仕つた。」
 幽齋は太鼓の撥を執つた。かくて「夜更まで亂舞有けり」と自筆の九州道の記に書
いてある。
 包丁自慢でもあつたらしい。或時、鯉の料理しようとすると、悪戯者あつて、魚の
腹中に火箸をさし通しておいた。包丁がガチンと當つた。瞬間、九寸五分の抜打で、
火箸を眞ッ二つにした。
 茶道にも勿論深く關心した。藩譜便覧に「玄旨公は茶ノ湯に一圓構はぬ御人なり」
と書いてある意味は、茶ノ湯の形式作法に拘泥せぬ人と解釋すべきだらう。野史茶人
傳にも出ている幽齋だ。ごく若い時分招鷗に學んだといふから、利休とは相弟子の間
柄だ。中年兵馬にあくせくしたが、もしもさうでなかつならば、利休に對抗して一派
を創めるぐらゐの器量は持つてゐた。もしも幽齋流が出來たとしたならば、それは「
寂」と「空」との否定的のものでなく、茶租珠光の儒教的趣味を帯びた、さうして同
時に武人的豪放の積極性を持ったものであつたかも知れぬ。但、そんな奇妙な茶道が
成立し得るものか否か、筆者は與かり知らない。

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■川田順著「幽齋大居士」一八、朝鮮國使

2021-10-18 07:19:54 | 書籍・読書

     一八、朝鮮國使

 家集の衆妙集に次朝鮮國正使松堂老人來時詩二編韻旨國風和合と題して
 月や訪ふかたしく袖の秋風に寝ぬ夜かさなる旅のすみかを
 西の海やそのふなよそひとくせなむ秋くれゆかば浪の寒さに
 の二首。松堂老人の夜長旅館愁無寝・新月多情照獨棲また唯愁歸路三千海・遠客風
帆阻歳寒に照應してゐる。
 かねて秀吉が朝鮮の入貢を促したので、天正十八年七月下旬、正副國使の一行京都
に着き、大徳寺に館した。當時小田原征伐で、秀吉はゐなかつた。彼は九月一日凱旋
したが、しかも容易に國使らを呼び出さす、やつと十一月七日に至つて聚樂第に引見
した。引見の模様は晴豊記に審かだが、それによると聖護院・菊亭・中山・日野・飛鳥
井・宇喜多等々相伴の人々を擧げ、又、虎皮百枚・蜜柑五・人参一箱など彼國よりの
進物のことまで書いてゐるけれども、細川幽齋云々の文字は見當らぬ。すなはち幽齋
は使節節伴の表面には出なかつたものらしい。以下は筆者の想像だが・・・
 百日間も待たされたのだから、彼らはさぞ退屈したらう。おのづから日本の名士等
と交際して退屈をまぎらそうとする。かやうな場合、政治家や軍人を相手にしては肩
が凝る。徳川家康や前田利家にやつて來られたのでは、くつろげない。加藤清正に訪
問されたら、迷惑だ。おのづから塵外の人々を好んで據ぶことになる。僧侶や茶人や
詩人や畫家などに限る。當時五山の文學は既に荒涼といふも、西笑照春らの徒殘り、
惶窩も居つて、詩文の脈を傳へてゐた。茶人には全盛期の利休がゐた。畫工には、永
徳は前年に亡くなつたが、山樂・等伯・友松らの巨匠がゐた。かやうの天才らが招か
れたり、押しかけたりして大徳寺を賑はしたであらうことは、想像してもよかろうと
思ふ。
 歴史によれば正使黄允吉、副使金誠一、書狀官許筬らとある。衆妙集の松堂老人は
「正使」と明記してゐる以上、黄允吉であらねばならぬ。

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■「志水の養子にせよ」の真偽

2021-10-18 06:55:52 | 徒然

 忠利が正源院という人物に対し生まれた子は「志水の養子にせよ」といった記述があった。
「細川小倉藩年表稿」を作ろうと、関係する書籍を本棚から引っ張り出した、その一冊にあったのだが、この本がどれであったのかが判らなくなった。
そもそもこの正源院という人物が誰だかわからない。そして生まれた子供が誰の子かも判らない。
忠利の子なのだろうか?

 それらしい本を読み返しているが、見つけ出せない。
夢でも見たかと思い出したりもしているが、「正源院」を探すために「細川家家譜」や「肥後讀史総覧」を頁をめくったことは確かだから間違いはない。
ついに私も老耄の域に突入したかと唖然としてしまう。
お陰で再度いろんな書籍を二度読みせざるを得なくなったが、これはこれで新発見もあって全てが無駄ということはない。
メモということが出来ない性質だが、最近は反故になった紙資料の紙を束ねてメモ紙にしている。
そのうちにはメモしたことを忘れたりしないかと思ったりしている。

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■川田順著「幽齋大居士」一七、孤松

2021-10-17 08:57:54 | 書籍・読書

      一七、孤松

 春霞と共に攻防の戰塵は立つたのであつたが、秋風の吹きそめた頃北條氏終に屈
し、小峰城頭にへんぽんと翻つた三鱗の大旆も、落日を待たずして引きおろされてし
まつた。
 六十歳に近き幽齋は健康を害して、秀吉に暇乞し、七月十五日歸國の途に就いた。
從者は數騎にすぎなかつた。いかなる都合か東海道を上らず、足柄山の竹ノ下から河
口湖の岸に出て、甲府を經、諏訪湖上の月明を眺め、木曽路では、曾つて直江山城守
も泊つたといふ福島の興禪寺に一泊、寝覺ノ床を朝霧の底に見おろし、犬山城のほと
りで木曾川を西へ渡り、虫の音しげき青野ヶ原を踏みわけ、夕陽に近く美濃のを山に
脚の疲れを休めた。
「恩齋。」
「何御用で。」
「汝は一足先に不破の宿驛へ急ぎ、今夜の宿を命じておけ。」
 老僕のうしろ影を見送つた彼は、更に他の從者達をかへりみた。
「汝等は南宮神宮に参詣して來い。」
 獨りになつた幽齋は、孤松の根もとに佇み、太い幹を撫でながら、身の來し方に思
ひ耽つた。東國陣道之記には此の時のことを敍して「濃州をのぼりけるに、みののを
山、信長公御代、公方御入洛の御使に、度々見馴れし所」云々とある。公方とは前述
の覺慶、すなはち足利義昭のこと。
 幽齋の頭の上に枝々をさしのべた老松は、古今和歌六帖に歌われた「ひとつ松」で
なく、その枯死した跡への植ゑ繼ぎに相違ない。それでも既に數百年の風雪を凌いで
來てゐる。古來數しれぬ旅人が、さまざまの境遇と感慨とを持つて、この樹の蔭に休
んだことだろう。幽齋も亦その一人だ。奈良一乘院から救ひ出して近江の某所に隠し
てあつた義昭を、信長が援助の下に、將軍として入洛せしめんため、幽齋、當年の藤
孝は、幾度か京都と岐阜との間を往來し、奔走した。それは皆、自分の利害のためで
なく、治國平天下の初一念のゆゑであつたのだ。懐奮に堪へられぬ幽齋は、ふと一首
 幾かへりにののを山の一つ松一つしも身のためならなくに
 これは詠めたと自信した瞬間、心は少しも明るくなつた。
 不破の宿から飛脚を出して、一如院へ一通の手紙を届けさせた。手紙には「拘和離
の譚を承り候てより恰も十年、東國陣の歸路にて、幾かへり美濃のを山の」云々とし
たためてあつた。
 京都の旅館に着くと、すでに一如院からの返書が來てゐた。とりあへず封を切れ
ば、何の挨拶も書かずに、唯七文字。
「贏得風流五百生。」

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■出過ぎたことですが・・

2021-10-17 06:38:30 | オークション

      〈細川重賢〉俳句 短冊 「雨隠に菊に嵐の流れかな」 極箱 九曜紋表具 肥後熊本藩主 江戸時代後期

 重賢公の俳句の色紙が御軸にしつらえられたものがオークションに出品されている。
是を見ると「雨隠に菊に嵐の流れかな」とあるが、意味不明であまり上手とも思えないし、風景が見えないなと思った。
処が色紙をクローズアップで眺めてみると、大いなるミステイクがあった。
本当は写真のように「面障子菊に嵐の(まもり)可奈 華裡雨」とあるから、随分と違う。「華裡雨」は重賢公の雅号である。
意訳としては「菊には雨風を避けるために障子が建て込まれている。これが嵐から守っている」といった処か?
「菊」とは「肥後六花」の一つである「肥後菊」であろう。ちょうど重賢公の時代に栽培が始まったという。
大事/\に育てられている景色が目に浮かぶ。

                

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