津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■矢声

2021-10-28 17:56:15 | 徒然

 卓球の選手たちが強烈なスマッシュを決めた時などに発する独特な叫び声がある。
何といっているのかを、いろいろ穿鑿していたようだが、あれこそ「魂の叫び」なのだろう。
スポーツでガッツポーズや雄たけびは、今では珍しくないが規制されていた時期がある事を思うと時代は変わった。
しかし、昔からある言葉に「矢声」がある。私が仕事で知り合ったある病院の事務局長が弓道錬士をなさっていて、いろんな話の中でこれを知った。
その時のお話では、射手が発するより、観客が上げるものだと理解していた。

 森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」の主人公・興津弥五右衛門が、細川三斎の三回忌に当たり殉死切腹するにあたっての面白い逸話が堀内傳右衛門の話として残されている。
弥五右衛門は切腹するにあたり介錯を乃美市郎兵衛に頼んだが、介錯のタイミングは弥五右衛門自らが「矢声」を掛けた時に頼むと言ったらしい。
「三文字に切り、声(矢声)をかけ申時、少かゝり申由」そこで弥五右衛門は「ふへ(喉笛)をさし候へ」と言ったとされる。

「自分が腹を三文字に切り矢声をかけたら介錯を頼む」と言ったが、市郎兵衛は狼狽えて声がかかる前にうなじを切ったが切足らず、弥五右衛門は「喉笛をさしてくれ」と声を掛けた。しかし、二の太刀が走る前にそのまま絶命したらしい。
当時の落首に次のようなものがある。
    興津                     やごえ(矢声)
   おきつねつたくミし腹をきる時は弥五右をあけて誉る見物

さてこの矢声、これは人それぞれのものがあるのだろうが、弥五右衛門は何と発しようとしたのか知りたいところである。

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■川田順著「幽齋大居士」ニ八、氏郷の死

2021-10-28 06:38:58 | 書籍・読書

    ニ八、氏郷の死

 文禄四年二月七日、稀代の名將蒲生氏郷が大坂で薨去した。享年わずか四十。
 數日して、深更、幽齋吉田閑居の柴門を叩いた者がある。南禪寺の一角に住居を
もらつて老を養ふ老僕思齋であつた。
「この夜ふけに慌しい。何事ぢや。」
「會津宰相殿の亡くなられた原因に就きまして、けしからぬ取沙汰を聞きましたの
で。」
「いかやうの取沙汰か。」
 幽齋は短檠の火を掻立て、さて坐り直つた。恩齋がひそひそと話すことは、次のや
うであつた。
 氏郷は喀血して大事に陥つたのだが、枕元に殘つてゐた一枚の紙に、
 かぎりあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風
 と辭世の一首がしたためてあつた、毒殺されたに相違ない。毒殺者は太閤だ。太閤
はかねてより氏郷の大器なるを怖れ、豐臣家の將來のために、彼を亡きものにしたの
である。云々。
「莫迦者めが。さやうの愚説をわざ/\乃公の耳に入れに來たのか。歸りをれ。天授
庵の和尚について、一遍の讀經でもするがよいわ。」
 𠮟りつけて老僕をかへして後、幽齋は悵然として腕を拱いた。豐臣の社稷を支へる
者は、加賀の利家と會津の氏郷と薩摩の義久、この三人だといふことは、秀吉とくに
肚を決めてゐる。壯年の氏郷を東北百二十萬石の大名に取立てたのは、單に武勇の將
ゆゑといふ死骸でなく。純忠高潔の士なることを信頼したゆゑだ。去年十二月、氏郷
の病状いよ/\大切と聞き、秀吉みづから指圖して、絶大國手道三を枕もとに遣し
た。その秀吉がなんで氏郷の死を希ふものか。小人共の取沙汰には困る。それにして
も、毒殺云々の浮説は何人が立てたか。
 幽齋は、螺鈿の卓に頬杖ついて、考へ込んだ。これは秀吉麾下の結束を破らうとす
る、野心者の仕業にちがひない。野心者は家康の帷幄に居る。本多佐渡守、此奴は今
でこそ家康の知慧袋と納まつてゐるが、元來腹の黒い男だ。實戰はといへば、長久手
で少々ばかりの手柄を立てたに過ぎぬ。曾つては北越一向衆徒に遊説して、謀主とな
り、信長・家康の間に立つて、烏滸がましく天下三分の夢を見たことさへある。此
奴は徳川の家を大きくするであらう。乍併、後世をして家康を悪ましめる者も、亦此
奴だ。此奴今日、勿體なくも秀吉の徳をさへ傷つけようとする。
 治國平天下の悲願をいだく幽齋、家康の人物にはもとより敬服していた。けれど
も、本田正信の類の人間が江戸で重寶がられてゐることを、彼は家康のためにも惜し
んだのであつた。最近、江戸から大坂へ使者として來た正信が、歸途、洛中の某寺に
滞在せる由を聞き、幽齋は面會を申入れた。單刀直入に面責して、毒殺説の毒を吐か
せ、場合によつては眞ッ二つにせんとまで決心した。正信は悪運強く、前日に京都を
去つてしまつた。實はなほ居たのだけれども、幽齋を憚り避けたのであつた。
 天才の氏郷は肺患に罹つたものらしい。朝鮮へ押渡るべき第一人者の彼が、内地に
留まつたのも、そのためらしい。名護屋在陣中、文禄二年春健康を害して會津に歸
任、翌三年三月病を扶けて上洛し、四年二月薨といふのだから、極めての長わづらひ
であつた。曲直瀬道三の臨床日記を一見しても、毒殺云々の虚妄は立證される。つい
で乍ら、氏郷の詠「心みじかき春の山風」は天命に對して愬へた意味である。古

來、「惜花」の和歌に同想のものが夥しい。秀吉が「山嵐」でもなければ、山嵐が毒
殺者でもないのである。無學の浮説に依るならば、古今無數の歌人は毒殺されたこ
とになる。莫迦をいふもいゝ加減にするものだ。


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