津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」ニ九、鞆の津

2021-10-29 06:37:47 | 書籍・読書

      ニ九、鞆の津

 慶長二年秋のこと、昌山道休が備後の鞆の津安國寺といふ禪寺で重病に打臥して
ゐる由、京都まで聞えた。昌山道休とは足利氏最後の將軍なりし義昭のなれの果てで
ある。彼は信長に遂はれた後、河内・紀伊・播磨の諸國を流浪し、終に備後まで來て
毛利氏にすがつたのであつた。おちぶれながらも、常に風雲を夢み、つまらぬ企てを
する、つまらぬ男であつた。「君は君たらずといへども、臣は臣たらざるべからず」
といふ忠誠の念の持主なる幽齋は、片時も舊主を忘れたことはない。八月十日、伏見
から乗船して、月明の淀河をくだつた。
 誰かまた今宵の月を三島江の葦のしのびにもの思ふらむ
 と、葦間の月に情を託して大河を過ぎ、やがて海上に浮かんで、幾夜かを内海の檝
枕に明かした。
「義昭公もお年を召されたであらう。還暦の筈ぢや。ずゐぶん我執の強いお方だつた
が、寄るおん年浪、殊に近來はおつむりを丸められた道休さまのことゆゑ、慈悲のお
心も崩されねばならぬ筈ぢや。河内へお見送り申上げてから二十餘年もおめにかから
ぬが、よもや藤孝を忘れてはござるまい。」
 恰も仲秋名月の夜、幽齋の船は内海の絶勝鞆の津に著いた。暦應の昔足利氏の創建
したといふ安國寺を訪へば、ひつそりとして人のけはひもしない。しばらくして、庫
裏の方から小坊主が現はれ、次のやうに語つた。
「ごぜんさまは、今日の夕刻、大坂へ行かれた。御大病だからと皆がおとめしても、
太閤さんに逢ふのだと、聞き入れられぬ。住職と、それから、遊君が三人お供した。」
 幽齋は黯然として聽いてゐた。泉水島のほとりで行きちがつた船があつた。華やか
に燈火をつけて、窓が大きく明るく見えたのが義昭の乗船だつたに相違ない。瀕死
の境涯で、何しに秀吉に逢ひに行くのか。
 應永の頃には「鞆鍛冶」の名でとほつた名匠貞家がゐた。今でもその弟子すぢはゐ
る筈だ。幽齋は、ふとかやうに思ひ出し、小坊主に案内させて、貞成といふ者の家を
おとづれた。それは、鞆の津の西はづれで、漁村を見おろす山腹であつた。幽齋は名
刀の光を一瞥して今宵の胸の曇りを拭はうといふのであつたらしい。貞家銘の一ふり
拝見と、所望に及んだ。うやうやしく差出されたのを、受取つて、燈火から離れた縁
側に出て、鞘を拂つて、満月の光に暴した。 

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