津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■殿様の召し上がりもの

2021-10-04 16:15:17 | 史料

 細川家に関するいろんな研究論考を探す中で、大変ユニークなものを見出した。
細川家史料に見る近世大名の「食」に関する一考察」である。(1)(2)があるようだが、(1)についてはWEB上では見出せない様である。
いやはや恐れ入ってしまうが、その情熱たるや尊敬に値する。この論考の主は八田茂樹氏、当時は熊本高等専門学校(旧電波高専)にお勤めであったようだ。
しみじみと拝見させていただいたが、研究もこういう切り口があるかと感心してしまった。
なかなかの献立で、三斎公は「痛風」持ちではなかったろうかと思わせるほどだ。

 実は偶然の事だが、ご厚誼をいただいているサイト江津湖の水辺からの管理者・淡水魚の研究をされているHさんから、ある所で江津湖の魚類の写真展示をされるにあたり、私が以前ブログに書いた「江津湖の鮒ずし」を引用してよいかというお問い合わせを頂いた。
これは細川家の肥後入国後二か月ほどの話だが、忠利が江津湖のフナで近江仕様の鮒ずしをこしらえて、八代の父・三斎に送ったという記事を紹介したものだ。

 改めて八田先生の論考を眺めていると、まさしく同じ内容の事が紹介されていて大いに嬉しくなってしまった。
なんとか(1)も拝見してみたいし、手に入れたいとも思っているがさて・・・
私的には「イグノーベル賞」ものだなと思っている。

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■慶長18年11月15日~21日、木下延俊の細川家との交流

2021-10-04 14:39:07 | 史料

木下延俊慶長十八年日次記の画像 「木下延俊慶長十八年日次記」はこの時代の、木下家と細川家のかかわりを知る最高の史料である。
木下延俊は細川忠興の妹(加賀)の婿にあたる。忠利からすると叔父にあたるのだが、大変仲が良い交流ぶりが見て取れる。

11月15日の朝三番鳥のころに日出を出発、日の入りの頃に中津に到着している。城に上ったものとみられ夜半過ぎに宿に帰ったとある。
翌16日には忠利が同道、小倉へ向かっている。小倉へつき風呂に入り、その後忠興に会っている。御城で「時雨の壺」を拝見している。
17日は忠興にお供して鷹狩り。
18日は夜中より雨が降り昼時分には上がった。早朝には忠興の御数寄に招かれる。
  この時期日向の縣(あがた=延岡)城主高橋元種が配流となり、そのことが話題に上がっている。

19日は鷹狩、その晩に数寄が催され、御鷹の鳥を忠興に献上
20日、早朝に小倉を出発中津泊り。忠利にも御鷹の鳥を献上す。
21日、朝六ッ時に中津を出発、忠利も途中まで同道見送り、よる五つ過ぎに日出の城に御帰り。

以上の様に大変睦ましい交流が行われている。
このことをどのように要約して「細川小倉藩年表稿」に書こうかと思案中である。

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■川田順著「幽齋大居士」四、肩車

2021-10-04 06:33:53 | 書籍・読書

     四、肩車

 暗愚にして利己的な足利義昭は、おのれを將軍にもり立てた恩人織田信長を邪魔も
のに感じ、果ては亡きものにせんと、天正元年七月、柄にもなく兵を擧げ、山城國宇 
治の眞木島に楯籠つた。さうして、淀の支城をば腹心の岩成主税頭をして二千餘騎を
以つて守らしめた。
 月の二十七日、藤孝は、信長の命によつて淀城に押寄せ、葦切も聲をひそめた青葦
原を戦ひつつ進み、城門にとりついた。岩成元來大剛の者、蜘蛛手十文字に斬りまく
るので寄手は多くの死傷者を出した。ここに、細川の家の子下津權内なる勇士が飛び
出して、岩成と一騎打をはじめた。
 この勝負如何と、傍に馬の手綱を控へ固唾嚥んで注視してゐた武士がある。それは 
細川の一族で、長岡監物といふ侍大將であつた。立派な具足して、兜の前立には大き
な鹿の角が聳えてゐた。見ると、その鹿の角にかじりついた可愛らしい男の兒がゐ
る。監物に肩車してもらつて、實戰を見物しようといふ忠興であつた。忠興は、いふ
までもなく藤孝の嗣子である。
肩車といふものは、筆者も經驗した覺えがある。幼少の頃、家僕の肩に乘つて、しば
しば鎮守の祭のお御神を見物したのであつた。八岐のおろち退治の須佐之男尊は、只
今の眼にも鮮やかに映つてゐる。肩の上でしやぶつた飴の味さへ忘れない。
 忠興の眼前に展開したのは古拙で長閑な芝居ではなく、血沸き肉躍る修羅の光景で
あつた。敵味方の兩勇士、いづれの首が飛ぶかの決闘である。■瓜の蔓には茄子は生
らず、豚が鳶を産んだ例のない、藤孝の嗣子は、可愛らしい眼を瞠つて、二人の太刀
先を見つめてゐた。
 勝負は決した。岩成の首が飛んで、血しぶきは肩車の子供の袖にもかかつた。子供
はしつかりと鹿の角にかじりつき、監物は弓手に可愛らしい兩足をおさへてゐた。
 かういふ生立の忠興は、父にも劣らぬ武將となつた。先日、或る能樂の巨匠と會談
したが、その説によると、玄人素人の區別は舞臺度胸の有無だそうである。戰國時代
の豪傑達にとつて、武は世襲の藝、母の胎内にゐる時から度胸はちやんと出來てゐ
た。筆者は、日本藝術の二三の部門における「世襲」の意義を再検討し度くなつた。

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