津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■散歩休止3日

2021-10-10 10:42:22 | 徒然

 少々疲れがたまって散歩を三日休んでいる。散歩を続けたのが直接原因ではないと思っているが、影響もしているのだろう。
糖尿も原因しているのだと思うが、改善するために散歩をしているのだからなんとも歯がゆい感じがする。
今週は定期の病院行き、この辺りをDrによくお聞きしたいと思っている。(糖尿由来の水虫も完治ならず)

 久しぶりに友人が電話してきて、「電話の声に張りがないな~、大丈夫か?」というから、「夏バテだ」「大丈夫だ」と言っておいたが、相手はすっかりお見通しである。「もうしばらくは元気で居ろ」と有難いやら胡散臭い励ましをもらった。友人は88歳を目標に生きているという。
「微妙な数字だな」ときいたら、「そこまで行けば後はおまけ・・」だそうな。88は御父上の没年だそうだ。

 今日の熊本は又32度とか33度とか言っている。散歩に出ようかと思っているが、奥方から10時以降は外出禁止を命じられている。
そして「朝早く出かけたら?」と奥方は言うが、起床はできるが体がすぐには反応しない。
熊本の日の出は6時17分、二三年前は、暗闇の中を歩いたものだが・・どうしましょう・・


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■熊本史談会10月例会・ご案内

2021-10-10 09:27:33 | 熊本史談会

                                                                      
           日時:令和3年10月16日(土曜日)
                 AM10:00~11:30(90分)
           場所:熊本市民会館・第9会議室

           演題:熊本の明治維新ー熊本洋学校教師ジェーンズの業績
           講師:ジェーンズの会副会長・前ジェーンズ邸館長 黒田孔太郎氏

            一般参加自由:
                    参加費300円を申し受けます。
              資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤) 
              尚、開会前に当会会合を催しますため、入場は9:50頃からと致します。
              又、当日はコロナ対策の為マスク着用ならびにご記名をお願いいたします。

          尚、次回11月例会は、熊本県文化協会理事長並びに公益財団法人・永青文庫 理事・吉丸良治氏の講演を予定しております。         
          11月上旬に、熊本日日新聞文化面並びに当サイトで告示いたしますので、たくさんの皆様のご出席をお願いいたします。
        又、当会の新規加入は随時受け付けておりますので、ご入会もご検討くださいませ。
   

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■川田順著「幽齋大居士」一〇、明智と細川

2021-10-10 06:29:25 | 先祖附

     一〇、明智と細川

 前章において、筆者は、いささか史實を離れ想像を書いた。藤孝、本能寺の變を聞
くと同時に田邉城で薙髪し幽齋となつたと云ふのが、史實である。また一説には、京
都にて剃髪すとも傳へらる。
 當時、明智・細川兩家は親密の間柄であつた。光秀が武略の達者なりしことはいふ
迄もないが、文藻や茶道にかけても凡人ではなかつた。新撰莬玖波集に名の見える明
智政宣は、光秀の祖父光繼(群書類従一二八明智系圖には頼典とす)の近き血族であ
るらしい。かやうの次第で、藤孝と光秀とは互に話がよく合つた。兩人は共に信長の
麾下に在つて、石山城攻にも雑賀征伐にも、常に勞苦を同じくした。後者の女が前者
の嗣子に嫁いだ烈婦ガラシャ夫人なることは、餘りにも有名だ。光秀の從弟に左馬介
光春あり、光秀の妹の子に名將齋藤内蔵助利三あり、利三の女に春日局が出た。明智
の血統の優秀さは、細川のそれに劣らない。惜哉、老之坂で馬首を東へ回らしたことか
が、末代までの不覺となつた、光秀は天正五年丹波に封ぜられ、藤孝は同八年丹後に
封ぜられた。封ぜられたといつても、辭令一枚でやすやす入城したのではなく、それ
らの地方に割據せる豪族を斬り從へ、實力で入部せねばならなかつた。兩丹征伐には
明智も細川も共に苦勞したが、親密の間柄とて援け合つた。一色義定に忠興の妹を配
したのも、光秀の仲介であつたらしい。
 光秀叛逆のとき、彼は細川父子が何人よりもいち早く味方に馳せ参ずるものと信じ
てゐた。然るに案に相違して、父子共に薙髪云々と傳聞したときの、光秀の苦悶は想
像するに難くない。六月九日、すなはち本能寺襲撃ののち七日目に藤孝に贈つた書狀
の中に「御父子もとゆひ御拂之由、尤無餘義候。一旦我等も腹立候へ共、思案之程か
やうにあるべきと有候雖然此上は大身を被出候て令入魂希之事」云々また、
「我等不慮之儀存立候事忠興など取立可申とての儀に候」とまで書いてゐる。
 藤孝は大義に順應して、叛逆者の誘惑には一顧も與へなかつた。治國平天下が藤孝
の初一念である。逆賊はいかに勇でも、いかに智でも、天下を治めることの不可能な
るを、藤孝は疑はなかつたのだ。山崎合戦に敗れた光秀は、兵を班して暫時勝龍寺に
留まつた。桂川西岸の北の城砦は、曾つて藤孝が長岡の領主として居館したところで
あつた。敗殘の身を此處に寄せた光秀、藤孝のことを考えていまいましかつたに相違
ない。

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