津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」一七、孤松

2021-10-17 08:57:54 | 書籍・読書

      一七、孤松

 春霞と共に攻防の戰塵は立つたのであつたが、秋風の吹きそめた頃北條氏終に屈
し、小峰城頭にへんぽんと翻つた三鱗の大旆も、落日を待たずして引きおろされてし
まつた。
 六十歳に近き幽齋は健康を害して、秀吉に暇乞し、七月十五日歸國の途に就いた。
從者は數騎にすぎなかつた。いかなる都合か東海道を上らず、足柄山の竹ノ下から河
口湖の岸に出て、甲府を經、諏訪湖上の月明を眺め、木曽路では、曾つて直江山城守
も泊つたといふ福島の興禪寺に一泊、寝覺ノ床を朝霧の底に見おろし、犬山城のほと
りで木曾川を西へ渡り、虫の音しげき青野ヶ原を踏みわけ、夕陽に近く美濃のを山に
脚の疲れを休めた。
「恩齋。」
「何御用で。」
「汝は一足先に不破の宿驛へ急ぎ、今夜の宿を命じておけ。」
 老僕のうしろ影を見送つた彼は、更に他の從者達をかへりみた。
「汝等は南宮神宮に参詣して來い。」
 獨りになつた幽齋は、孤松の根もとに佇み、太い幹を撫でながら、身の來し方に思
ひ耽つた。東國陣道之記には此の時のことを敍して「濃州をのぼりけるに、みののを
山、信長公御代、公方御入洛の御使に、度々見馴れし所」云々とある。公方とは前述
の覺慶、すなはち足利義昭のこと。
 幽齋の頭の上に枝々をさしのべた老松は、古今和歌六帖に歌われた「ひとつ松」で
なく、その枯死した跡への植ゑ繼ぎに相違ない。それでも既に數百年の風雪を凌いで
來てゐる。古來數しれぬ旅人が、さまざまの境遇と感慨とを持つて、この樹の蔭に休
んだことだろう。幽齋も亦その一人だ。奈良一乘院から救ひ出して近江の某所に隠し
てあつた義昭を、信長が援助の下に、將軍として入洛せしめんため、幽齋、當年の藤
孝は、幾度か京都と岐阜との間を往來し、奔走した。それは皆、自分の利害のためで
なく、治國平天下の初一念のゆゑであつたのだ。懐奮に堪へられぬ幽齋は、ふと一首
 幾かへりにののを山の一つ松一つしも身のためならなくに
 これは詠めたと自信した瞬間、心は少しも明るくなつた。
 不破の宿から飛脚を出して、一如院へ一通の手紙を届けさせた。手紙には「拘和離
の譚を承り候てより恰も十年、東國陣の歸路にて、幾かへり美濃のを山の」云々とし
たためてあつた。
 京都の旅館に着くと、すでに一如院からの返書が來てゐた。とりあへず封を切れ
ば、何の挨拶も書かずに、唯七文字。
「贏得風流五百生。」

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■出過ぎたことですが・・

2021-10-17 06:38:30 | オークション

      〈細川重賢〉俳句 短冊 「雨隠に菊に嵐の流れかな」 極箱 九曜紋表具 肥後熊本藩主 江戸時代後期

 重賢公の俳句の色紙が御軸にしつらえられたものがオークションに出品されている。
是を見ると「雨隠に菊に嵐の流れかな」とあるが、意味不明であまり上手とも思えないし、風景が見えないなと思った。
処が色紙をクローズアップで眺めてみると、大いなるミステイクがあった。
本当は写真のように「面障子菊に嵐の(まもり)可奈 華裡雨」とあるから、随分と違う。「華裡雨」は重賢公の雅号である。
意訳としては「菊には雨風を避けるために障子が建て込まれている。これが嵐から守っている」といった処か?
「菊」とは「肥後六花」の一つである「肥後菊」であろう。ちょうど重賢公の時代に栽培が始まったという。
大事/\に育てられている景色が目に浮かぶ。

                

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