津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■逆流性食道炎

2021-10-30 16:09:40 | 徒然

 一年ほど前病院での定期検査の折、胃痛があることを申告したら、「逆流性食道炎」だとの診断で、すごく飲みにくい漢方の薬を処方された。ㇳ
一ㇳ月にも満たない薬用で痛みは消えてしまつたが、一週間ほど前からまたぞろ同じ症状が出て不愉快極まりない。
今日も欠かさず散歩に出たが、この痛さで途中で引っ返そうかと思ったほどである。
病院も休みだし、これは市販の薬を買おうと決心した。が、気分が悪く出かけようという気にならない。
そこで、奥方にメモ書きをして買ってくれるように依頼をした。
「明日、選挙の帰りにね」とあしらわれてしまつた。実は奥方、ようやくコロナワクチン接種の一回目を一昨日にうけて、少々頭痛がすると言っている。(娘から、孫には会えないよといわれてのことだが・・・)
そうなると無理強いできない。mmmm  あと一日我慢だ。

この症状はどうやら繰り返すらしい。常備薬になりそうな気配である。

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■こんたつ

2021-10-30 10:23:11 | 歴史

 「部分(ぶわけ)御舊記・軍事部‐八」という史料に於いては、「有馬一件ニ付武功御吟味并働之面々覚書」を掲載しているが、ここにある個々人の記録を、現在「新・肥後細川藩侍帳」に反映させるべく作業を進めている。
その成果は一々提示することは不可能なので、又長きにわたるが近々、せめてその内容をご紹介したいと考えている。
お付き合いをお願い申し上げる。

 「有馬一件」とは、天草島原の戦いのことだが、この資料はこの戦いに於ける細川藩士の働きを詳細に書き上げている。
このような資料を眺めていると、思いがけない文言が出てきて驚かされたり、その一言が深い意味合いを語り掛けてくる。

 寺尾元馬なる人物は、「二丸ニ而鑓合頸取申者」の12人のうちの1人として紹介されているが、その文章は「一、二月廿七日二ノ丸ニ乗込敵ト鑓合鼻とこんたつを取申候 藪熊之允見申候 證人口相違無御座候以上」とある。
他の史料でも見られるが、この戦いに於いてはいわゆる功名として敵の首を取る事はしていない。「捨て置」としてただその行為は證人の証明によって後の加増や褒賞に係わる事になる。
相手は侍ではなく、一揆の衆徒であると判断したのであろうか、元馬は証拠として「鼻」を切り落とし、「こんたつを取」と記している。
まさにその相手が切支丹であることを示す「こんたつ」を取っている。「こんたつ」とは「ロザリオ」のことである。
数万の人々がすべて殺されたとされるこの戦いには、武器も持たぬ人々も多くいたであろうし、ロザリオを首に掛け、また握りしめてむなしい抵抗をしながら死んで行ったのであろう。
そしてそのロザリオは華やかなものではなく、紙のこよりや、麻の紐に通された粗末なものであったかもしれない。
この一言をして、この戦いの無残さを語っているように思える。

    鉛の十字架  サイト「おらしょ・こころ旅」から引用

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■川田順著「幽齋大居士」三〇、籠城

2021-10-30 06:15:03 | 書籍・読書

      三〇、籠 城

 慶長五年夏、會津上杉氏討伐の爲家康の出發した虡を狙つて、石田三成等大坂に擧
兵を畫策した。三成は幽齋父子を説いたが、無効に終つた。元來、忠興は三成と善く
なかつたやうである。やがて忠興の夫人は、大坂で襲殺された。父の幽齋、憤然とし
て東軍に投じた。
 かう簡単にいふと、幽齋は私怨によつて去就を決した如く聞えようが、ゆめゆめさ
うではない。治國平天下の悲願から觀て、三成を與すべからざる人間と考へたゆゑで
あつたらしい。筆者は若い頃から三成贔屓だが、こゝで筆を曲げるわけには行かぬ。
彼は知慧者であり、快男兒であり、英雄であつたけれども、人格の上に何か缼陥の
あつたことも爭ひ難き事實らしい。前年、前田利家薨去の後、加藤、福島、淺野、池
田等の七將が三成を彈劾した事件が起つた。これは單に武功派と文治派との立場の相
違といふことだけではあるまい。三成の人格に、何か信ずべからざるものが看取され
たからだ。元來、加藤や福島は拳固ばかり強くて脳味噌の足らぬ連中だと論ずる一部
の人があるけれども、筆者は、いくら三成贔屓でも、さうは考へない。我が幽齋も、
必ずや、三成では天下は治まらぬ、と洞察したのであつた。
 於是幽齋は寡兵を率ゐ、眇たる田邊城に楯籠つた。六十七歳の老軀に鎗を提げて、
「さあ來い」と身構へた。昔とつた杵柄の「藤孝」がよみがへつたのである。西軍こ
れを圍むこと五旬餘にして陥らない。彼は愛藏するところの和歌相傳、二十一代集、
源氏物語などが戰火の灰とならんことを惜み、
 いにしへも今もかはらぬ世の中に心の種を殘す言の葉
  もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへれ和歌の浦浪
の二首を副へ、門弟の三條西實條に託して、これらの古典を禁裏及び式部卿智仁親王
に獻上した。朝廷におかせられては又「達道の國材」幽齋死なば歌道衰へ、古今傳授
も廢絶せん、宜しく彼を救ふべしと、大坂の秀頼まで勅旨を傳へられた。秀頼謹んで
急使を馳せ、圍みを撤すべしと命令したが、兩軍決戰の無我夢中で、耳に這入らな
い。この事また天聽に達し、實條が勅旨として直接丹後に遣された。幽齋は彼を城中
に迎へ、畏みて古今傳授の型を行つた。九月十二日、やつと休戰したが、それは關ヶ
原役の三日前であつた。幽齋去つて高野山に入る。
 老幽齋の健闘ぶりは田邊城合戰記や關東軍記大成などに精しく書いてあるが、敢へ
て孫引は致さぬことにしよう。

 

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