魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

家族売買

2021年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム

木星が魚座に来ると、ペットの状況にも改善がある。
韓国では犬食禁止の動きがあるし、世界的に代替肉の話題も盛んだ。
先日フランスは、ペットショップでの犬や猫の売買禁止を決議した。もともとペットショップは少ないそうだが、日本よりは正しい判断だろう。
単純に正しいと言い切れないのは、動物愛護団体の情緒的な圧力は生命全般を考えたものではなく、生命を恣意的に区分けしてのことだからだ。
豚や牛は食べるためにあり、猫や犬は友達で、イルカやライオンは自然の許す限り守ってあげなければならない。実に傲慢な感覚で、自らを疑うことがない。

それでも、日本よりましなのは、一応、仲間と認めた存在を売買するようなことは、筋が通らないと解っているからだ。
日本のように、売買を前提にしながら、平気で「ペットは家族」などとは言わない。
モンゴルの羊の話を聞きながら、日本のタレントが「どこで買ってくるんですか」と問うと、モンゴル人はしばらく答えられなかった。日本は何でも「店」で買うことに慣れ過ぎている。

昔は、北の宿で編んだ手編みのセーターは最大の愛情表現だったが、その後、工業製品のブランドに押しのけられてしまった。今や日本人は、飛び込んできたスズメの子に餌をやるのは動物虐待で、魚釣りはリリースで帰してやるものだとしながら、一方で、命はちゃんと金を出して買うのが、正しい方法だと信じている。
これは、欧米の形を真似ただけの態度だ。ご都合主義の欧米だが、食肉文化としての行為にはそれなりの論理があり、ペットと家畜は別けている。

ただ、逆説的に考えると、「家族」を買える感覚は、生命は皆等しいと考える仏教的な、ある種の東洋的達観によるものなのかも知れない。
東洋の人間観や社会観は、人間中心の欧米的「存在権」では測れないものがある。自殺の多さや人身売買、民衆の奴隷化、あるいは個々の隷属意識なども、欧米的な「自我意識」ではありえない人権の希薄さだ。しかし、裏を返せば、黒人は人間ではないと考えて区別をしていたというわけだ。
何が正しいのかは測れないが、例え東洋であっても、身売りも自殺も最大の悲劇だ。
ペットを家族と考えたいのなら、売買ではなく、縁によって出会うべきものだろう。

買って来た人形を一生大切にする人もいるが、飽きたらゴミ箱に捨てる人もいる。ペットが捨てられるのは、買える物だからだ。欲しくなったらまた買える。
しかし、家族は買えない。親は選べないし、願っても子供が得られない人もいる。
家族は良くも悪くも、縁による。常に自分に都合の良い、愛すべき存在とも限らない。むしろ、苦労や足かせにもなる。
血縁でなくても結婚や養子縁組で家族にはなれるが、金が絡んでいると、金の切れ目が縁の切れ目となる。
やはり、家族は金ではない

P.S.
なお、売買によらないペットは、保護センターなど色々方法がある


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