魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

事実真実

2017年01月08日 | 占いばなし

おめでとう」の語源は「めづらしい」と同類だと、勝手に推測したが、本当は、最初に使われた文献を挙げて、証明すべきだろう。現代人は科学的に考えるから、あらゆる事において、事実を持って、ものを言わなければ相手にされない。
ただし、この科学的思考は、異なる事実が現れると、また、一から考え直さなければならない。

物質的知見の蓄積には、この思考法は有効であり、近代文明は、これによって進歩した。そして現代人は、事実だけを真実と考えるようになった。
だが、その結果、かえって事の本質、大切なことは何かが解らなくなっている。ものの道理が見えなくなったようだ。

ここで言う、ものの道理とは、常識や正義のような社会通念のことではない。天然自然の摂理のことだ。
よく、道理を口にする人は、この社会通念を道理と間違えて語る。親子や家族の愛を当然の道理などというのは、慣習や社会通念であって、道理からはむしろ外れている。
自然は、人間の秩序など気にしない。災害は人間にとっては災害だが自然の摂理であり、それが自然の秩序だ。そうした大きな道理に添ってこそ人は生きられる。

人間が温暖化を招き、滅びるとすれば、それも自然の摂理であり、道理を見失った人間の当然の結末だ。が、一方で、人間が自然と鬩ぎ合うのも自然の摂理の一つであり、それも人間の宿命だ。自然の一部としての人間は、岩と水のように、自然と鬩ぎ合うために生まれた砥石のようなものかも知れない。道理とは、そうした残酷とも言える自然の都合、摂理だ。だから、人間は道理という波に上手く乗らなければならない。

一歩ずつ歩む科学思考は、その局面、局面では間違いがないが、必ずしも道理に沿っているわけではない。人間の視野の枠の中でしか理解できない。
大海に向かう水は、西に向かい東に向かい、時には真逆に進みながら海を目指す。だから、真理と思われるものも、その時の真理であって、理路整然と説明さているからと言って、大海に向かう道理とは限らない。
生きていく上で大切なことは、科学思考より、この道理をかぎ分ける力を持つことだ。物を造る能力より大切なことは、何のためにそれを造るかを知ることだ。

情報が少なかった昔の人は。現代人のように、溢れる情報に翻弄されたり、ポケモンを追いかけることも無かった。動物を追ったり、石を磨いたり、ひたすら自然と対峙していた。そして、何も知らなくても、自然の道理を体得していった。
学校も寺子屋もない時代には、伝説や神話が、現代の科学のように社会通念として君臨していた。しかし、その前提となる知識は、誰でもが自分の体験に照らして簡単に納得できるものだったから、人は自分の考えを持って生きることができた。

もう一つの窓
占い的思考法が現代に役に立つとすれば、科学的ではない視点に立つことだ。決して、占いを信じることではない。現代の常識から、一歩離れた視点からものを見る。物事を、あえて論理や証明から離れて把握しようとする、自分で考えようとするところに意味がある。

占いを盲信する人は、自分の目を磨こうとする人ではない。同様に、占いを頭から否定する人も、科学の信者に過ぎない。占いは参考にして考えるヒントにするものだ。
どういう方法であれ、目先の言葉や論理に惑わされない、道理を体得した自分の目を持ち、それによって生きていくことが重要なのだ。
占いという切り口は、その一つの入口として見れば有効となる。様々な方法で、個々人が、自分の見解を持つことで、社会は発展する。さもなければ、情報が溢れ複雑化した現代では、自然の道理を見失った人々は、思考を停止し、皆、笛吹き男について行くことになる。
今や、世界中に笛吹き男が現れて、笛を吹き始めている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿