魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

サナギ化

2024年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、カスハラ解消の動きが盛んだが、カスタマーハラスメントは30年の不況が生んだ日本の萎縮であり、サナギ化状態なのかもしれない。
幼虫も成虫も積極的に動くが、変身前のサナギは外界に働きかけず、閉じこもり、死んだように制止している。

日本の接客を伴うビジネスは、バブル崩壊のショックで戦う気力を失い主張をやめ、ひたすら受け身になり、相手の意に沿うことだけで、買ってもらおうとしてきた。
「ひざまずき接客」や「ひたすら謝罪」、商品開発より値下げ販売。誰も異を唱えないが、不様で惨めを売りにする乞食ビジネスであり、データ詐称や認証不正も「貧すれば鈍する」の例だ。
この「乞食」という言葉を不適切用語として抹殺する言葉狩りもまた、クレームと萎縮の相関から起こるカスハラの類なのだが、それすらも当たり前になっている。言葉は本来ただの記号であって、言う者も聞く者もそれに勝手な価値を持たせているに過ぎない。差別さえも実害が起こるまでは聞き流せるものだ。言葉と実害は直接の関係はない。

バカヤロウと言われて怒るのは、自分が馬鹿と利口のタテ型思考をしていることで、その基準の下にされたと思うからだ。人には様々な能力があり、自分は他人が勝手に決めた基準に属さないと思えば、『あなたの基準はそうですか』と笑い飛ばせる。
物理的な差別なら、訴訟など物理的に対応するしかないが、言葉に抗議や禁止を求めるのは、バカヤロウと言われて「何を!」と胸ぐらを掴むのと同じで、むしろ、被害主張自体が物理的実力行使だ。

武士の商法
30年の逃避が、外では中韓のクレーム外交に屈服し、内では被害や差別を主張する大声に、誰も抵抗できない常識を作ってしまった。
「いらなきゃ買うな」と言える商売は、武士の商法かもしれないが殿様商売ではない。武士の商法は同時に、職人の商法でもある。
殿様は恩着せがましいが、武士や職人は筋を通す。媚びや騙しの商売はできない。自分が納得できる商品しか売らないのは同じだが、礼節を気にしない職人に対し、武士は礼節を知っているので商取引は可能だ。

東京は武士と職人の街で、関西から行くとカルチャーショックを受ける。半世紀前は江戸の息吹が色濃く、冬の寒い日に灯油が切れて近所の燃料店に買いに行くと、店は開いてるのにオヤジが奥から「もう閉めたよ」と言って、売ってくれなかった。オカミさんだったら売ってくれたかもしれない。
かと思えば、御徒町に小物の買い出しに行って、支払おうとしたら量を見て、「おたく、業者?」と聞くから「ええ、まあ」と答えると、「じゃあ、計算し直さなきゃ」と、一言も値切らないのに勝手に卸値にしてくれた。逆に、値切ったらこうはいかなかったかもしれない。少なくとも良い顔はされなかっただろう。これは、いわゆる気っ風の問題だ。

メタモルフォーゼ
その東京も含め、近年は日本全体が卑屈な商売をするようになった。社会に何かを提供する気概や自負を失い、とにかくお金が欲しいだけになった。卑屈が卑屈を強いる社会に、今まで物も言えなかった卑怯者が湧き出して、言いたい放題やりたい放題になったのが、カスハラ、炎上のクレーマー暴走だ。クレーマーとは過激な被害主張者のことだろう。

カスハラ対策はクレーマーを押さえ込もうとしても、本当の被害者である売り手側の信念がなければ解消しない。
暴言を吐く客をつまみ出し、状況次第では逆提訴で企業側の信条を広報する、それぐらいの屈しない姿勢と信念を持つことによって解消するし、それが企業の信頼性を高める戦いにもなる。そして、それを是とする社会啓蒙にもなる。
錦の御旗のように、弱者という立前を掲げれば何でもまかり通ってしまう日本社会の風潮は、出る杭を打ち何もしない冬のサナギであり、表面的な静止故に裏ではエネルギーの流れが偏り、格差という見えない変貌が進んできた。

もう、30年の眠りから大きく変身し、新しい大空に羽ばたく時がきている。
ただ、この変身の時が最も危険な時であることは、国民すべてが覚悟すべきだろう。
今はまだ、80余年前と同じ暗黒の戦中戦前の中にいる。