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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



まだ先のことなのだが、5月に二台ピアノで、
モーツァルトのピアノ協奏曲第27番 第2楽章を弾かせて戴くことになり、
このところ、そろりそろりと、練習している(笑)。
(もちろん、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第5番もまだやっている。
こちらはとうとう第3楽章終盤まで来たので、あと少しだ。
ちなみにツェルニー30番は、今ちょうど折り返し地点の15番をやっている。)

A.de Larrocha - Mozart Concerto No.27 in B flat, 2nd mov(YouTube)

この曲は、意外に思われるかもしれないが、譜を拾うだけなら極めて易しい。
ピアノの心得がある人なら、一日で弾けるようになるだろう。
難しいところが、ほぼ一箇所もない。
強いて言えばトリルや装飾音で、少し技術的な巧拙が出るかとは思うが、
とりあえず、何かモーツァルトをやってみたい、という初心者にはお勧めだ。

しかし毎度のことながら、本当の意味で難しいのはその先だ。
こういう音数の少ない曲では、弾き手の力量が一発で露見してしまう。
大人の弾き手なら、技術的には初心者でも耳年増ではあるので、
最初のフレーズを弾いてみただけでも、
「ホントは、こんなんじゃない。ちがーう(--#)」
というのが自分でよくわかるはずだ。

しかし、もうこうなったら開き直って、ショもないオバさんピアノでも、
「いっぺん、ソリストというものをやってみる!」
と頑張るしかないだろう。
私のような弾き手にだって、それなりの強みが、無いことはないのだ。
それは、「(全然頼まれてもいないのに!)弾きたいから弾いている」、
「ここまで弾けるようになったところを、みんなの前で、かたちにしたい」、
という、アマチュアならではのパワーだ。
期待に応えなくては、とか、恥ずかしいものは聴かせられない、等々の
社会的なハードルは何もなく、ただただ私的な世界の追求を皆に見て貰うだけだ。

実際、つい先日も、高校の同級生で現在ピアノ教師をしている友人と、
電話で話したときに、彼女が、
「大人で初めての人が、『エリーゼのために』を弾くと言うのよ。
しかも、初心者用に書き直した楽譜もいっぱい出てるのに、
そういうのは駄目で、オリジナルの、そのままがいい、と言うのよ。
それでその人、3年もやってるのよ、『エリーゼ』だけを。
途中の速いところは弾けないから急にゆっくりになったりするの。
でも凄くビシビシ伝わって来てね。打たれるの。聴いてて涙が出て来るのよ」
と言っていたのだ。
これぞ、愛好家にしか到達できない、究極奥義ではないか!
義務感もあり矜持もあるプロの弾き手では、あり得ない境地だろう。

まあ、私が弾くとなると、聴いて下さる方々は、
こんな辱めを受けるモーツァルトが、あまりにも可哀相で涙が出る、
という可能性がありそうで、とても心配だが(爆)、
それでも私なりに、何かひとつ完成させることができれば、
と今は願っている。
モーツァルトほどの天才であれば、音楽の可能性も見通していただろうから、
もしかしたら、自分の作品が、そのようなかたちで弾かれることも
許容してくれるのではないだろうか。

ときに、モーツァルトの協奏曲、特に2楽章は、プロであれば、
装飾音の入れ方がソリストのひとつの腕の見せ所だろうと思う。
私はそこまで行けないから、多分、楽譜の通りに弾くことになると思うが、
自分の持っているこの曲のCDを聞き比べてみると、2楽章は本当に楽しい。
冒頭に貼ったラローチャもところどころ美しい変奏を入れているが、
フー・ツォンのはもっと華やかに感じられ、これまた興味深い。
幼い私を、モーツァルトの世界に誘ってくれたのはギーゼキングだったが
省みると、近年はずっとフー・ツォンが私にモーツァルトを教えてくれている、
ということにも、この協奏曲を練習し始めてから気がついた。

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以前、友人某氏と話していて、つくづく意見の一致を見たことなのだが、
私たちが中学生の頃というと、インターネットをやるどころか、
テレビをビデオ録画するということさえ、あり得なかったので、
海外のアーティストに実際に触れることができる機会は、
本当に本当に、一生に何度あるかというくらいに、限られたものだったと思う。
ゆえに、うっかりそんなことが実現しようものなら、その感激はただごとでなかった。

1970年代の中学生の情報源は、雑誌くらいしかなかったから、
例えば私が77年にQUEENのファンになり、彼らの情報を得たいと思ったときでも、
窓口になってくれるのは、本屋にあったMUSIC LIFEとRockShowだけだった。
海外の雑誌などそんなに輸入されていなかったし、田舎で買えるものではなかった。
日本で発売されるレコードと、ラジオで放送される番組を除けば、
国内の洋楽雑誌記事とその掲載写真しか、私たちの手に入るものがなかったのだ。
当然、「動いている」彼らを見る機会など、普通、なかった。

私自身が、映像で初めて「動いている」QUEENを見たのは、
何かテレビの深夜番組で洋楽を紹介するコーナーがあったときで、
どうしてそんな、「11PM」より遅い時間にテレビを見るのかと父親に呆れられた。
そこでQUEENが観られる、という情報だって、ネットで検索する時代ではないから、
新聞のテレビ番組欄を見ていて、偶然に気がついたことだった。
同様に、「動いている」KISSを初めて見たのは、
初来日武道館公演がNHK「ヤング・ミュージック・ショー」で放映されたときだった。
家の和室にあった14型テレビの前で、正座して観た。

そのような状況だから、地上波(しかなかった)の映像でも、
私たち世代は、ファンともなれば息をするのも忘れるくらい懸命に見入った。
録画も出来ない時代だったので、放映中に観られるものがすべてだった。
テレビの前にテープレコーダーを置いて録音していたら、家族が入ってきて台無しに、
……という経験を持つ人も少なくないと思う。
こんなことでも本気で泣いて抗議するほどの、取り返しのつかない損害だった。
雑誌記事は穴があくほど熟読し、これぞという写真は切り抜き、
透明の下敷きに丁寧に挟んで、学校に持っていったものだった。

街中では、レコードコンサートやフィルムコンサートが行われることがあった。
アーティスト本人たちが来るのでは勿論なくて、
広い会場で大音量のレコードが聴けるとか、映像が上映されるとかいう催しだ。
こういうものにも、我々は血道をあげた。
映像に向かって本気で歓声をあげたり、拍手をしたりした。

アホか、と今の若い人には思われるかもしれない。
しかしあの頃の、些細なひとつひとつが「一期一会」だった、切実な感動は、
もしかしたら、今時の人たちには決して味わえない、
非常に純度の高い「至福」ともいえるものだったのではないか、
と、私はときどき思うことがある。

21世紀ともなった今は、アーティスト本人が多くの場合簡単に来日でき、
彼らがテレビ出演するなら、ファンは当然のごとく自宅で録画可能で、
ものによったら海外の番組でも日本に居ながらにして見られ、
DVDも各種販売され、ネットではYouTubeなどで今の新曲も過去のライブも見放題だ。
そんな恵まれた環境と較べると、70年代のファンの手に入ったものは
あまりにも不十分だった筈なのだが、
そのぶんファンの一瞬一瞬に対する思い入れは、今とは全く違った。
断片のような瞬間の中にさえ、貴重な貴重な、輝くばかりの至福があった。

あのような時代、何であれ映像を所有することすら難しかったのだから、
ましてや、来日した本物のアーティストに会えるとか、
彼らの演奏を直接に聴けるなどというのは、
大袈裟だが「死んでもイイ」くらいの感動だったのだ。
特に私のように田舎に住んでいた中学生にとっては、
「一生に一度でいいから、本物のQUEENが、生のフレディの歌が、聴きたい」
というのが、「死ぬ前に一度は叶えたい、究極の夢」だった
(これは1985年5月に、本当にただ一度だけ、叶った)。

もう一世代前、1966年のビートルズ初来日の武道館に居合わせた人たちが、
その後、申し合わせたように、
「カーっとなって、何を聴いたか全く覚えてない」
と言っていたのを、何かのラジオ番組で聞いたことがあるのだが、
それはもう、感激のあまり、その場でイってしまいそうな
或いは気が変になりそうなくらいの、陶酔の時間だったに違いないのだ。

私が今でも70年代までのロックを特別なものとして記憶しているのは、
自分が多感な中学生だったという時期的な要素もあるかもしれないが、
それ以上に、あの時代背景が理由となっているのではないかと思う。
特に、QUEENやJAPANのように、あの時代を超えることなく、
自分の中で終結してしまったバンドに対する思いは永遠だ。
息詰まるような幸福感とともに、彼らの姿は今も、私の中で特別な位置を占めている。
彼らへの思いは、その後に出会ったバンドに対するものとは、決定的に違う。

余談だが、CDが登場しネットが普及し楽曲ダウンロードの時代になっても、
あのときと全然変わらないで、ヘーキでビジネスの波に乗っているKISS、
というのも、けったいな、じゃない、恐ろしいバンドだなと思ったりする(苦笑)。
彼らが利用した媒体や、ビジネス戦略の内容を省みると、それはそのまま、
70年代後半から現在までの、この業界の変遷を知るための、
有益な資料となるのではないだろうか。
35年間彼らとともにあり続けているファンは、
その意味では実に貴重な歴史を共有したのだと思う。

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悪魔  


昨日、娘は学校で、多分アレルギー性と思われる鼻炎になったそうだ。
朝はなんともなかったのに、高3のための卒業記念礼拝で
高校部全員で学校内のGホールに入った途端、
娘ひとり、急激にクシャミ連発になり、
礼拝の間じゅう、ヒドいめにあったということだ。
ホコリか、花粉か、原因はよくわからなかった。
帰宅してもまだ娘は鼻をグスグス言わせていた。

転娘「もうね、ホールで座った途端に、ヘグヘグ!ってなって、
 わたしゃ、礼拝の間中、邪魔したと思うよ。居てはいけないヒトだった」
転夫「『牧師様、くしゃみが止まらない!こっ、これは!!悪魔のしわざ!!』」
転娘「はははは!鼻の穴くすぐるなんて、えらいセコい仕事するね悪魔!」

っていうかー
神様や十字架の前に出た途端に、ひとたまりもなく発作を起こすなんて、
娘本人が「悪魔」だってことではないの?
にんにくをつきつけられて、急にジタバタする吸血鬼みたいなもんで。

とうとう正体をあらわしたわね、転娘!

……って感じ~~?


悪魔→反キリスト的→♪I am an anti-Christの歌詞を連想してしまい、
懐かしくなったので検索したら、あった。
Sex Pistols - 『Anarchy in the UK』Studio Version(YouTube)
(伝説的パンク・バンドSexPistolsのデビュー曲。1977年)

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最近、なぜか目覚める直前に大抵夢を見ている。
起きてから眠いとか体がだるいとかいうことはないので、
眠りの質は別に悪くないと思っているのだが、
起床直前の眠りの浅い時間が前より長くなって、そこで夢を見ている、
という気がするのだ。
そして、この夢の内容は、ほぼいつも、疑問も何もない簡単なものだ。
自分がどうしてそういう夢を見たかが、はっきりと説明できる。

例えば今朝の夢は、
「主人と海外旅行に行く予定で、それが明日なのに荷造りができていなくて、
右往左往した挙げ句に、二泊三日じゃないのだから布のバッグじゃだめだ、
スーツケースにしよう、という話になり、家の物置に取りに行くのだが、
新婚旅行以来まったく使用していなかったスーツケースは、
なんと、中でネズミさんたちが家をつくって住んでいて、到底、使えなかった。
折しも、巷では何やらウイルス感染症が流行していて、
こんなことなら予防注射をしておけば良かった、と旅行を前にして私は後悔していた」
という内容だった。

心理学的に夢判断をすれば、何か暗示的な意味合いが引き出されるかもしれないが、
夢見の当人である私は、それぞれのエピソードがどこから来たか全部わかっている。
まず、「海外旅行」というのは、前夜、主人と娘が観ていたクイズ番組で、
優勝したチーム全員にハワイ旅行がプレゼントされる、
という決まりになっていたのが、出どころだ。
そのとき「我が家ならハワイ旅行は今したいとは思わない」と私達は異口同音に言った
(行きたくても行ける状態じゃないくせに、実に態度デカい発言なのだった↑)。
主人はリゾートに興味がなく、絵画鑑賞を楽しめない場所には行きたがらないし、
私も舞台や音楽会のないところには用がなく、娘は泳げるくせに海が嫌いだからだ。

そのとき私は、「うちのスーツケースは古すぎてもう駄目なのでは」と思っていた。
16年前、いやそろそろ17年前か?の新婚旅行で使ったのが最後で、
あれ以来海外旅行などしたことがなく、スーツケースは物置でホコリを被っているのだ。
中は無事か?虫食いなどでぼろぼろになったりはしないものだろうか、という私の心配と、
寝る前に読んだ井上靖『額田女王』の中に大量のネズミの描写があったのとが
夢の中では合体して出てきたに違いないのだった。

最後の、感染症の話は、さきほどのクイズ番組の問題で「食中毒」に関するものがあり、
ノロウイルスがあるから冬場の食中毒は多い、という説明があったのを聞いたからだった。
私はそのテレビ音声を耳で聞きながら、ノロには予防接種がないから困るよなぁ、
などと思っていたので、それがかたちを変えて夢の中で再現されたわけだ。

以上、『なんであんな夢を見たんだろう?』と首をかしげる余地が、全然ない(爆)。
前夜の記憶がそのまま再現され、脳がそれを無理矢理につないで物語にしただけだ。
このところ見ている夢はどれもこれもこういう具合で、とてもつまらないのだった。

という話を、今朝していたら、学校へ行く準備をしていた娘が言った。
「私も最近、毎朝、起きるとき夢を見よるよ。あんまり覚えとらんけどね」
やはり寒いからか、気象の関係か何か知らないが、娘もこのところは夢が多いらしい。
「ああ、でもね、今朝の夢は、覚えとるよ!」
「どんなの?」
「スマップが、四人になった夢だった」
「へ~(笑)。誰が居ないの?」
「香取くん(笑)」
「なんで?脱退したという設定?」
「いや、最初からおらん、みたいな。自然に、おらんかった」

この世から香取くんだけが居ない、パラレルワールドがあったらしい(笑)。
香取くんは娘にとって、何か特別な人だったのか?

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某掲示板で紹介されていたので、読んでみたらウケたウケた。
はるな檸檬『ZUCCA×ZUCA(講談社MORNING)

宝塚に熱中しファンライフの何たるかを知っている人なら、
ここに取り上げられていることの多くは身に覚えがある筈だ。

第33場 不動産、アパートではないが観劇のためのホテル探しが毎回コレだった。
値段以外の縛りは「日比谷の東宝に一本で行けるか」、ただこれだけ
(西の宝塚大劇場のほうは最初からホテルが限られるから問題ない)。
有楽町か日比谷、銀座、悪くしても東銀座(←歌舞伎座にも行くから・爆)。
舞台そのものを見るばかりでなく、贔屓の生徒さんの楽屋入りと楽屋出にも
行かなくてはならないので、行き帰りに便利な立地のホテルでないと困るのだ。
部屋の綺麗さや設備の内容、レストランの善し悪しなど些細な問題だ。
あとは部屋で自由にビデオが観られると、ポイントが更に高かったものだ。

第28場 面接、私も昔、仕事で某放送コンクールの審査員をしたとき、
エントリーしてきた高校生の中に、そりゃ宝塚の芸名ちゃうんか、
と思える名前があって悶絶したものだった。
悶絶の理由を同僚の誰にも言えないし、ましてや本人には訊けないし。

第21場 全国ツアー、めちゃめちゃわかる(爆)。
独身時代の私は、こういうことのために仕事をしていたようなものだった。
旅行の趣味は元来全然なかったのに、旅公演を観るためだけに各地へ行った。
地域の美味しいものも名所も何も知りゃしない。行ったのは劇場ばかり。
初めての場所へ、地図を頼りに電車を乗り継いで行き、宿を取って泊まる、
ということに慣れたのは、ひとえに宝塚(とその他)関連の「道楽」の御陰だった。
私はこの活動を通して、知らない土地へ行っても、顔見知りの人間が居なくても、
目的のためなら大抵のことが、ひとりで解決できる人間になった(爆)。

第11場 用事、これは本当に身につまされる。
贔屓の生徒さんがいるときは、彼女の出ている公演期間はこちらも超多忙だ。
舞台は観られる限り何度でも通い、遅い日はショーだけでも観るようにし、
それができない日でも、「入り」と「出」には行けるように、
こちらの仕事の内容や時間を調節する必要があった。
初日や千秋楽などの大事な日(笑)は、特に早くからスタンバったものだ。
また、長い公演期間中には、えてして様々なことが起こる。
贔屓が風邪ひいたり怪我したり、場合によっては代役騒動になったり。
その都度、ファンは安穏としてなどいられない。現地に駆けつけなくては!
断っておくが、どれほど贔屓にしていても、こちとらは生徒さんの身内じゃないし、
多くの場合、顔見知りでさえないのだ。
「忙しいのよ、今、公演中だから」
は、ファン同志なら問題なく通じる説明だが、一般人には絶対に理解できない。
もしも言おうものなら、
オマエが出演するわけでもないのに、何が「公演中」だ?
と呆れられるのが関の山だ。

第10場 夏のイベント、これまた一般の人には意味不明なものが
宝塚ファンには非常に価値がある。
男装して目の上を青くしているお姉ちゃんたちが好きだ、
というところまではわかって貰えても、
なんでそんなおじーさんの作品まで必死で聴きに行かねばならないのか、
普通の生活をしている人たちには理解できまい。
どの生徒さんがどの時期の何に出演して、その役名がどうで主題歌が何で、
だから、この人が今の時期にこれを歌うのが、思いがけない豪華さなのだ、
等々と把握している者同士でないと、こういうものの価値はわかり合えない。

第8場 お誘い、宝塚ファンの大事な心得のひとつに、
『見られる舞台はすべて観る』というのがある。
声がかかったら、贔屓組でなくともとりあえず『行く』と返答する。
行けるかどうかなど考える必要はない。都合をつけるのは、それからだ。
どの公演でどんな出会いが(←舞台上の生徒さんとの)あるかわからないし、
更に、往々にして「あのとき、あの舞台を観ておいて良かった!」
としみじみと思い知る瞬間が、数年あとにきっと訪れる。請け合ってもよい。

第2場 カレンダー ①、これも本当に大切なことだ。
各組の公演お稽古が始まる日を「集合日」というのだが、
退団予定者があるときは大抵、その日に発表される。
ファンクラブに入っていれば、前日や当日朝に会員向けには、
「卒業させて頂くことになりました」等の封書が郵送されて来るが、
そういうツテがないときは、劇団発表、または仲間からの速報、がすべてだ。
気に入った生徒さんすべてのファンクラブに入ることなど、普通できないだろう。
「集合日」は仕事をしていても朝から落ち着かない(笑)。
携帯というツールができてから、私は仕事中も携帯は机の上に出しておいていたものだ。
○○ちゃん退団!の知らせが仲間から来ると、仕事部屋から走り出て、建物の外で、
「どうする!もう今度の○○の公演が最後だよ!お稽古待ち、とりあえず、この土曜日!」
みたいな打ち合わせをしたものだった。


それにしても、なんだか、とても懐かしい気がしてしまった。
今、私はそこまで必死の思いで熱中する贔屓の生徒さんが居ないので、
もはやこういう生活も、しなくなって久しい。
宝塚歌劇は見方もわかっているし楽しいので、今でも機会があれば観るが、
以前のように、「各公演一度は観る」という熱意はなくなった。
これは私が宝塚ファンとして終わったということなのか、
それとも、ファンとしての「モラトリアム」の時期に入っているだけなのか。
前者であることを祈りたい。家族のために(爆)。

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寒い  


昨夜から粉雪が降っていて、今朝はさすがに市街地でも
うっすらとだが一面真っ白になっていた。
私の実家のある村などは、おそらくもう埋まっているだろう。
ニュースサイトを見ていたら
『最低気温は広島市で氷点下4.6度(平年1.6度)』
とあり、やはりこの冬一番の冷え込みとなったようだった。

主人は、ワンワンみたいな人なので(笑)、朝からどこかへ出かけた。
この人はとにかくじっとしていられず、活動していないと気が済まないのだ。
休日に家にいようものなら、「せっかくの休みを無駄にした」気がするそうだ。
私はネコ型というべきか、休日に家でごろごろ過ごすことができると、
それこそ「お休みを満喫した」気がするのだけど。

主人は9時過ぎには家を出て行った。
どこへ行くか聞かなかったが、多分市街地で書店めぐりをして、
デパートの物産展か何かを見て、あとは何か食べて来るのだろう、
と想像できたので、私は私で、朝のコーヒーを淹れ、
フォトンで温もった和室に戻り、休息しつつ、井上靖『額田女王』を読み始めた。
娘もまた私と似ていて、予定のない日曜日は昼近くまで寝坊するので、
午前中は何も用事がなかった。

ああ、なんと良い休日なのだろう。なんと穏やかな時間なのだろう。
我が家は今、幸いにして介護や通院を必要とする人がいなくて、
さらに受験生も居ないので、こうしてどこへも出ずに過ごすことができるのだ。
寒いから家に居ることにしよう、と自分の気持ちひとつで決定できるなんて、
ちょっとあり得ないほどの幸せではないか!と今朝はしみじみ思った。

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・朝は曇っていたがそう冷えるとまでは感じなかったし、
午後からは更に晴れてきたので、荒れると言う天気予報はハズレではないか、
と途中までは思っていたのだが、夕方前から急に風の音がしてきて、
モウモウと白い雪が舞い始めた。
このぶんでは、明日はやはり市街地でも多少の積雪があるかもしれない。
日頃、雪の積もらない地域は、ちょっと白くなった程度でも交通機関が大混乱だ。
センター試験の二日目なので受験生はダイヤの乱れや道の渋滞が心配だろう。
こんなとき出来る対策は、とにかく「早めに出る」ことだけしかないように思う。
娘の学校の生徒の場合、会場は系列の女子大だと聞いたような記憶があるのだが、
あそこは住宅地の間の細い道を、山の斜面に向かって登っていくような立地なので、
狭いし、大学に通じる道も何本もあるわけではないし、天気の悪い朝は込みそうだ(--#)。

・それにつけても思い出すのは自分の共通一次試験のことだ。
あの当時、前期後期などの区別はなかったから、国公立はたった一校しか出願できず、
全員、問答無用の5教科7科目が必須、かつ1000点満点で傾斜配点も何も無かった。
しかし推薦入試やAO入試など基本的に無い時代だったから、一次を受けないことには
国公立大学を受ける機会が皆無になるので、日頃の成績がどうだろうと受験するほかなかった。
あの数学の、正解をマークするときに欄が余ったり足りなかったりしたら*印をマークする、
というワケのわからない問題は、今もあるのだろうか
例えば解答のマーク欄が3つで、自分の答が2桁になったときは
余った欄に*印をマークする、とか、
逆に欄が3つまでしかないのに、自分の答えが小数第3位まであって書ききれないときは、
書けるところまで書いて最後の欄は*を塗っておく、とかいうヤツだ。
終わったあと、*印を使う問題がいくつあったか、を友人同志で答合わせした記憶がある。
試験当日、一度も使わなかった私は、何かを間違えていたことをその時点で悟ったものだ(泣)。

・きょうの午前中は舅姑の墓掃除と墓参りに行き、舅宅にも行ってきた。
きょうはなぜか、墓地にはすずめが何羽か来ていた。
「ちゅんちゅん、きょうはみんなでお墓参りに来たのかね~」
などと、能天気の極みのようなことを言っていた私は、うちの墓を見て噴火した。
すずめどもの、立派な××が、いくつもしてあったからだ。
見ると、よそのお墓にもあちこち、してあった。
新年から、ウンのつき始めかよ(--#)。
ぞうきん絞って墓石を拭いて、後始末をさんざんさせられた。
年末まではこのようなことは全くなかったと思うのだが、
すずめたちは、お正月用の生花として供えられた南天などをつつきに来たのか?
なお、舅宅のほうでは、二階の洗面所前でゴキが2体倒れていた。なんまんだぶ。

・年末休みのあたりから昨日までにかけて読んだ本。
『モーツァルトとベートーヴェン』(中川右介)青春新書
『楽しい古事記』(阿刀田高)角川文庫
『影まつり』(阿刀田高)集英社文庫
『残酷な王と悲しみの王妃』(中野京子)集英社
『一房の葡萄 他四編』(有島武郎)岩波文庫
『救命センター当直日誌』(浜辺祐一)集英社文庫(再読)
『唐詩選のことば』(石川忠久)明徳出版社
『英語教育が亡びるとき』(寺島隆吉)明石書店
『サロメの乳母の話』(塩野七生)中公文庫(再読)
『春日局』(杉本苑子)集英社文庫

・このあと読む予定なのは、
『袋小路の男』(絲山秋子)講談社文庫
『額田女王』(井上靖)新潮文庫
『父・こんなこと』(幸田文)新潮文庫
『奔馬――豊饒の海(二)』(三島由紀夫)新潮文庫 ←去年から読みかけ
『中国宰相列伝』(守屋洋)社会思想社 ←舅宅で発掘した昭和51年の本

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80代女性、はねたダンプにしがみつき600m
14日午前9時40分頃、神戸市須磨区大田町の県道交差点で、手押し車を押しながら横断していた80歳代の女性が、同区内の建設会社の大型ダンプカーにはねられた。』『女性が運転席付近にしがみついたまま、ダンプカーは約600メートル走り続けたが、後方を走行していた同僚運転の車からの合図で停車した。女性は軽傷という。県警須磨署は道交法違反(ひき逃げ)などの疑いもあるとみて、ダンプカーを運転していた会社員男性(35)から事情を聞いている。』『現場に横断歩道はなく、歩道橋が設置されている。発表では、ダンプカーは交差点で信号待ち後、発進したという。』(2011年1月14日13時38分 読売新聞)

見出しを見たとき、妖怪ジェットばばあが出たのかと思った。すみません(汗)。
あと、なんでしたっけ、経帷子を着たばーさまの幽霊が、
走行中の自動車の屋根に貼り付いてケーケケケケ、とかいう怪談もあったよな(殴)。

この見出しでは、ひかれて倒れた筈のばーさまが、
「オノレ、逃がしてたまるか~~っ!!」
と、この世のモノでない形相でしがみついてきたところを、つい想像してしまったが、
もしかしたら、最初にトラックにどこかが引っかかったとか、挟まれたみたいなかたちで、
女性は体が自由にならなかったのではないか、と記事内容を読んで思った。違うかしら。

『県警須磨署は道交法違反(ひき逃げ)などの疑いもあるとみて』
いや、しがみつかれて、結局、逃げ切れてないし>ダンプカー (大汗)

ともあれ、女性が軽傷で何よりだった。
女性側が強引な横断をしようとしていた可能性があるが、
横断歩道はなく歩道橋のみ、という道を渡ることは、
手押し車を使っている高齢者には、過酷な状況だっただろうと思う。
歩道橋があるだろうが!と車のほうは思っているだろうけれど、
あの階段をのぼることは、足腰の状態が万全でないと容易ではない。

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久々に『Pogorelic』で検索していたら、12月半ばのポーランド公演の記事があった。
スクロールして行くと12月16日付けで出て来る、写真つきの文章だ。
A jednak Ivo Pogorelić w Poznaniu, choć koncert w stroju... nieformalnym

ポーランド語からの機械翻訳で読んだ範囲では、
このときポゴレリチは前日夜にミュンヘンから空路で来たが、
悪天候のためポズナンへのフライトはキャンセルになり、
やむをえずワルシャワ経由となったようだ。
そして更に困ったことに、途中で荷物が行方不明になった。らしい。

それでも演奏会はあった。
著名アーティストやポーランドの若い演奏家なども詰めかけ、
客席は満席だったが、ポゴレリチは一切を失っていた(笑)ので
仕方なく、普段着のストライプのシャツ姿でリサイタルを行った。
「皆さんは正装していらっしゃいますね。私は囚人服で弾きます」
とポゴレリチは言った。

この日の曲目はショパン、ブラームス、ラヴェル。
聴衆は総立ちの拍手喝采となったが、アンコールは無かったそうだ。


世界中で弾いていれば、実に様々な目に合うものだろうとは思うが、
旅行中の私物や演奏会用衣装の一切合切がどこかへ行ってしまうとは。
これまで見た範囲では、彼は演奏会用の靴にもコダワリがある様子だったから、
きっと、いろいろ困ったのではないだろうか。
「乗ると必ず荷物がなくなる○○航空」というのを、昔、友人から聞いたことがあったが、
それにしても、いくら旅慣れたポゴ氏と言えど、バゲージクレームで待っていて、
最後まで自分の荷物が出て来なかったときには、さぞかしビックリしたことだろう。
楽譜などはさすがに機内持ち込みで離さなかったということか。

しかし今回、私が何より感心したのは、ポゴレリチが、
自分の服装のテイストをかなり客観的に把握している、という点だ。
シマシマの服だから『囚人服』、だなんて。

じゃあラマ僧も「王様と私」も半ズボンもブタ首飾りも、
皆がどう思うかはわかった上での確信犯なワケだね。


Ivo Pogorelić's first Poznań recital ever!(Henryk Wieniawski Musical Society of Poznan)

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昨日、寺島隆吉『英語教育が亡びるとき』(明石書店)を買った。
この本には実は12月31日に梅田の某書店で出会って、
店頭で目次を見てとても心惹かれたのだが、
旅行中だったし荷物が増えるのがいやで、即座には購入しなかったのだ。
(ちなみにその本屋の店先で立ち読みしていたとき、別行動中だった主人が私にメールで
『(三十三間堂での目撃に続き、きょうも)また手を洗わないオッサンをハケーン。しかも
などとわけのわからないことを、わざわざ知らせてきたものだった(--#)。
近くにいた娘にメールの文面を見せてやったら、
「えっ、同じヒト?」
と素っ頓狂なことを彼女が言い、
「京都と大阪だぞ。んなワケねーだろ!!」
と私は呆れた(--#)。)

この本は、世間で信じられている、
「小さい頃から英語をやらなかったから日本人の英語力は貧弱で使い物にならない」
「英語の先生なんだから英語で授業をするのは当然でしょう」
という俗説に、英語教育の各種現場を経験済みの、専門家の立場から反論したものだ。
新高等学校学習指導要領で唱えられている「英語の授業を英語で行う」という部分が、
一般の高校生にとっては、どれほど無意味な、
それどころか、どれほど有害な考え方であるかが検証されており、
またロシアの心理学者レフ·セミョノヴィチ·ヴィゴツキーの近年の論文から、
「母語と外国語の習得過程は逆ベクトル」であるという説得力のある箇所を引用し、
読解や文法を二の次にして「せめて日常会話くらいは英語でできるように」、
というのが、外国語習得過程の本来のあり方に逆らった無茶な発想であることも、
大変きめ細かく述べられている。

さらに、英語を母語とする人がフランス語を習得するのは比較的早いが、
同等の時間数ではロシア語習得は無理で、
日本語となると更に長い学習時間を要する、という事実から、
日本語と英語の言語的な「距離」がかなり遠いことがデータ的に裏付けられており
(日本語より中国語や韓国語のほうが、英語への「距離」はもう少し近い)、
したがって、TOEFLなどにおけるアジア諸外国の実績と比較して、
「日本人に英語力がないのは、英語教育が間違っているから」
と結論づけるのは早計であることも、この本を読めばよくわかる。

私も著者の主張に概ね賛成で、外国語として英語に取り組むときには、
まず読解、それには土台となる「文法」の知識をないがしろには出来ないこと、
次いで英語作文の力を時間をかけて養うのが実用面からも有用であること、
これらは同等以上のことがまず母語(日本語)で出来てから始めるのが良いということ、
読解と作文の力さえ高ければ、英語の口頭表現力はあとから磨けばついて来ること、
等々を、日頃から考えていたので、全く、溜飲の下がる思いだった。
私自身の考えを言うなら、更に理想的には、
日本語と英語の発想の違いも、折に触れて学習すべきだと思うのだが、
こういうことでさえ、対立概念としての日本語が最低限身についていないと始められない。
その意味でも私は、幼児や小学校低学年での英語学習には意義をほとんど見出していない。
むしろ、母語による抽象的思考力が高まる十代前半以降、
具体的には中学入学時、または小学校高学年くらいが、
英語学習の第一歩には適した時期ではないかというのが私の考えだ。

しかし、勿論、山の頂に至る道はたったひとつではないし、
人の能力や適性にも違いがあり、また登りたい山の種類も人によって違うものだろう、
ということも私は想像できる。
母語の習得過程同様に、理屈抜きで英語漬けになるのが有効だ、
天気や買い物の話題で気軽に雑談できる英語力がまず必要だ、
と信じる人が、その道を選択する自由はあって良いだろう。
たがその実現を、公立学校の英語の授業に対して求めるのはかなり無理がある。
私は昔ながらの40人以上が、「学級活動」の場としては適切だという感覚を持っているが、
それは、語学、とくに口頭表現力を磨くときのサイズとして考えるならば不適切だと思う。
先生と1対1で逃げ場もなくイジメ抜かれる(笑)のが、「慣れ」優先の語学習得には最適だ。
生徒が教室に20人もいたら、他の人たちが喋っているときにサボるから、
何時間かけたって「普通の日常会話」など上達しようもない。

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以上、教科教育法としての英語という側面においては、著者の見解に、
私はほぼ同意するし、大いに説得される部分が多々あったのだが、
筆者の主張する「メディア・コントロール」と「ことばの教育」に関する部分には、
必ずしも全面的に賛成できないところがいくつかあった。
平和教育や民族教育、護憲か改憲か、などの問題について、
教育がメディアによる操作から自由になり、生徒には多様な考え方と現状について教え、
最終的には生徒自身が選択できるような土台を与えていく、
という方向性そのものには賛成なのだが、
「多様な考え方を教える」過程で、完全に「メディア操作から自由になること」が、
実態としてどのようなことを指すのか、私にはまだ見えてきていない。

主立ったメディア操作から自由になったあと、
別のマイナーなメディアや主義主張に取り込まれてしまうとしたら、意味がない。
そうなる危険性は教師側にもあるし、若い生徒たちには尚更あると私は思う。
世の中の大勢の人間が騙されているが自分は違う、という発想は、
中身が何であれ、それ自体が若い人にとって魅力的だからだ。
思想信条は自由だから、生徒たちは最終的にはそれでも良いかもしれないが、
公人としての教師は、そうならないよう自分を戒める必要があるだろう。
コントロールするメディアが入れ替わっただけ、というのでは何も改善していない。

また、誰しも自分の学び得た範囲で自分なりの正しさに辿り着いているのだから、
生徒や子供たちに、世の中の多様性について、なんら偏向することなく、
純粋な知識としてのみ、様々な考え方を教えることは、
教師にとって、本質的にかなり難しいことではないかと私は感じている。
著者の姿勢そのものは、そうしたことを探求する際の、
手本のひとつだとは心から認めるけれども。
思い返せば私などは「頭のおかしいみたいな先生も、おったな」という経験から(殴)
逆に学ぶところはあったし(逃)、……いや、話のレベルを落として、すびばせん。

それと「英語のみで授業(講義)を行う」のはいかに無理があるかの証言として、
なんと私の母校の大学の卒業生の話が出て来るのだが、
たったひとりの述懐をもとにして結論に結びつけられるのは、
私には、あまりにも強引な我田引水であると思われた。
少なくとも、もうひとりの卒業生である私の知っている母校の講義は、
書かれているような雰囲気とは全く違ったものだったので、
「こんなことを思っていた人もいたのか?へ~、ホントに??」
と、読んで俄には信じられないような気がした。これまた、すみません(逃)。
ダグラス・ラミス先生の講義は実際に受けましたので(「現代文明とエコロジー」)、
久々に御名前を拝見し、思い出して懐かしかったですが。

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(以下は、特に、この母校の件が気になる方のために補足)

私の母校の大学の話が出てきた箇所は、次の通り。
『また私の知り合いで、英語教育で有名な○○大学の出身者がいます。当時の○○大学でも英語で授業をする外国人教師や日本人教師がいて、その先生はAFS奨学金をもらってアメリカ留学をした学生のみを相手にして得々と英語のみによる授業を進めていたそうです。しかし、その他の多くの学生はその会話についていけず、授業も非常に白けた雰囲気が漂っていたと聞きました。彼女はこの授業で英語が嫌いになったと語っていましたが、英語ができることで○○大学を目指した学生でも、このような思いをしていたとすれば、一般の公立高校では生徒がどのような思いをするであろうかは、想像するに余りあるものがあります。』(p.164)

英文学科や国際関係学科の話だとすると、私にはこういう状況は想像しにくい。
私の知らない、非常に独善的な先生が大学の一角にいらした可能性はあると思うが、
ここに書かれているのは、ひとつの、不運な個人の体験談ではないだろうか。
『英語で授業をする外国人教師や日本人教師がいて、その先生は』
と、特定の先生だけが独自にそういう「変わったこと」を試みていたかのように書かれているが、
英語で行われる必修科目は一年次からいくつでもあり、誰でも普通に受けていたし、
そのことが発端で白けていた人というのも、私の記憶の範囲には居なかった。
この話の場合、問題があったとすれば担当教員の「態度」や「姿勢」のほうであって、
「英語だけで授業をすること」とは関係がなかったのではないかと私は思う。

母校では入学すると、正規の講義が始まる前に「認定テスト」の案内と告知があり、
英語圏での生活経験のある人たち、或いは英語力に最初から自信のある学生は、
志願して受験し、これに合格すれば、会話や作文などは受講免除になった。
だから実際の授業は、学校英語(だけ)がたまたま得意だったから英文に来た学生、
つまり私のような、公立学校で受験英語ばかりやってきた生徒が主な対象だった。
学生は、1年次は確かにモタモタとしか話せず、全く流暢ではなかったが、
著者が後半で奇しくも述べているように、
『頭の中で英作文をしながらゆっくり喋る』(pp.256-257)
という次元のことは、ほとんどの学生ができたから、
先生方は耳を傾けて聞いて下さったし、授業は普通に成立していた。

一方、英語だけで行われる授業が日常的にあったのは確かだが、
かと言って、日本語を排除することが英語を学ぶ上で有効な方法だとも、
私は全く教わらなかったし、大学にも学生にも、そのような雰囲気はなかったと思う。
英語を使う環境に学生を押し込んでおけば、自然に英語がうまくなる、
という発想を私は授業内容やカリキュラムに対して感じたことはなかった。
卒論は英文学科では英語で書くことになっていたが、指導は日本語で行われたし、
私の場合だと、専門基幹科目の英語学概論・言語学概論・英語史・音声学など、
テキストは英語で書かれたものが多かったが、講義はほとんど日本語だった。

私の受講した専攻科目の範囲では、このほか、形態論と談話分析は、
担当者がアメリカ人だったため、英語による講義だったが、
これらはこの本の益川敏英氏の例と似て、科学的概念が優位となる分野だったので、
理論の理解や仮説の独自性のほうに評価の重点があり、日常会話とは直接関係がなかった。
上級生になれば学生は、英語の講義に出て英語で発言することは日常的にあったし、
ペーパーもゼミ論も英語で書き、海外の論文を英語で読むことも当然だと思っていたが、
その段階になってもなお大半の学生は、いわゆる「日常会話ペラペラ」ではなかった。
自分の論文のテーマでなら、アメリカ人教授と何時間でも話し込むことが出来ても、
映画スターのゴシップでアメリカ人の女子高校生と喋り倒す種類の英語力は
ほぼ誰も、持っていなかったのではないかと思う。

この本の中では、大学名を明記された上、ただ一人の『出身者』の話が、
著者の結論を支持するための例として、上記引用のように紹介されていたのだが、
彼女と等しく一人の卒業生である私が、母校で経験したことは
この話とはかなり違うものだったので、記述内容には違和感を覚えた。

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