竹芝桟橋を10時に出発、母島に着いたのは翌日の15時半。
ここまでたどり着くのに、本当に遠かった・・・・。
それでも同じ「東京都内」とは信じられませぬ。
母島は南北細長く、人が暮らしているのはこのあたりの元地と静沢周辺のみ。
昔は母島といっても、南北2つの村があった。
北部は「北村」、真ん中あたりより南は「沖村」。
昔の北港は北村小学校、郵便局、村役場、駐在所、鰹節工場などなど建ち並び、賑わっていた。今は桟橋だけが昔の名残だそうです。
ユースホステルのお母さんが出迎え。
4年前に来たときはご一家が内地に行ってしまい、すれ違いでした。
8年ぶりの再会。とても短い間ですが、お世話になります
ここに来るのは本当に4年ぶりだなあ・・・と懐かしさがよみがえってきました。
観光協会の横に大きなヤシの実が成っています。
これは・・・・沖縄でもよく見かける「アリアケカズラ」というお花ですね。
ハイビスカスに似て非なるもの、キョウチクトウ科だそうです。
(これはネットで調べたもの)
ヨングク君の作品。
2000年オープンからお世話になっています。
母島が好きになってしまったのは、このユースホステルのおかげかも?
内装はオープンのときと変わらずのピカピカなのに、潮風の影響なのか輝いていた黄色が・・・。
日本最南端のユースホステルは沖縄県の八重山諸島・竹富島にあります。
ここは国内で最も遠い、ユースホステル。
ここに来るまではオーナーは北海道出身、お母さんは青森県出身かと思っていましたが、反対でした。
オーナーの田沢さんは長年ユースのお得意様。旅行や仕事で出張するときも必ずユース。
私はユースを利用するとしたら、父島と母島だけなのは、宿泊者は同じような目的を持って来られているわけなので、交流しやすさもあるからでしょうか。
田沢さんは沖縄で農業をしながらユースをやってみたいと夢見るようになり、経験を積み重ねるために放浪の旅に出かけた。
すぐに沖縄に向かったわけではない。北海道の酪農、次に渡ったのは大島、八丈島、青ヶ島、小笠原。母島に着いた翌日、乳房山の山頂から眺めに感動し、「沖縄はやめた!ここにしよう」と決めたのは1981(昭和56)年のこと。
20年の間に国内だけではなく、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、ブラジル、イギリス・・・飛び込みで雇ってもらいながら生活するつわものであった。
1981年に当初の目標を立てたとおり、2000年に念願だったユースホステルをオープン。
田沢家の元気な子供たちと一緒にリビングルームで食事するのが慣習になっているので、それが心地よいのかリピーターも多いらしい。
父島の「小笠原ユースホステル」は母島ユースホステルの先輩。
1985(昭和60)年オープン、特に若者に大変人気のある宿。
ゴールテンウィーク、夏休み、年末年始は予約が殺到し、なかなか予約が取りづらくなっています。
昔はババ抜きで皿を洗う当番を決めたりしていたけど、今回はヘルパーさんが6人もいらっしゃるので、ババ抜きはありませんでした。
「おが丸」が出航する前夜は恒例の「出航パーティー」が行われます。
さらにユース滞在中に誕生日を迎えると、ヘルパーさん手作りのケーキで祝ってもらった思い出があります。(ずっと昔の話ですが・・・)
あのときはとても嬉しくって、父島と母島に泊まるなら両方とも「ユースホステル」にしようと決めたわけです。