羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

不完全燃焼

2006年06月30日 20時57分15秒 | Weblog
 あっという間の半年だった。
 年々歳々、一年が早く過ぎていく。
 一年の折り返し点、明日、7月1日は土曜日の朝日カルチャーから始まる。

 そこで、明日の準備で、勇んで東急ハンズに出かけた。
 残念ながらお目当てのビンは手に入らなかった。残念!
 スメクタイト水分散液を大き目のビンで作りたかったのだが、いわゆるペットボトルでいいのかもしれない、と肩を落として帰宅した。
 せいぜい50mlの今現在手元にあるビンがいちばん大きい方だったのだ。
 せっかくだから赤系のビーズだけを買って、戻ってきた。

 野口先生が砂を入れるビンを探し当てるまでにも、いろいろなビンを試された。双眼実体顕微鏡で観るときに、像が歪まないビンは、今、スメクタイト水分散液の入っている同じビンの中で、いちばん小さいものだった。
 これは理科実験用具のフラスコや試験管売り場にあるものだった。他の階もみて回ったが、結局、この実験用器具売り場のものが、製品としてよかったのだ。

 丁度いい物に出会うのは、歩くしかない。インターネットで検索したり、買い物したりできる時代ではあるが、しっかりものを見て、手で触れて、確かめてみることの重要性は変わらないようだ。

 大き目のビンにスメクタイトとビーズが、ゆったりと流れるさまをみたいと思ったが、今日のところはお預けになった。またにしよう。

 ここにあるたくさんのビーズが入っているスメクタイト水分散液は、安定感がある。シャカシャカ振って揺すって、元に戻して静置すると、あっという間にゲル状態に変化する。おそらくビーズが安定感を生み出しているのだとおもう。
 ビーズを入れなかったとき、数が少ないときには、ゲル状になるにはもう少し時間がかかっていたように記憶している。

 なかなか面白い振る舞いを見せてくれる粘土鉱物だということが日毎に実感されてくる。
 ということで、なんとなく不完全燃焼の午後を過した。
 明日は、明日だ!
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身体へのまなざし

2006年06月29日 08時27分17秒 | Weblog
 6月28日付けの朝日新聞夕刊「マリオン」ページを見て、ある感慨を覚えた。
 1998年(平成10年)に、野口三千三先生を失って、この先一体どうなっていくのか、皆目見当がつかなかった私は、とりあえず2年間持ち堪えてくれたらいいとおもって活動をはじめた。
 
 それから8年と3ヶ月が過ぎた今「身体と心のエクササイズ」というキャッチフレーズで、朝日カルチャーセンター・新宿では、21もの身体系の講座が活況を呈するなか、私が担当する「野口体操講座」は、なんと3コマにも増えている。
 人事のような言い方になってしまったが、「野口体操」「羽鳥操」という文字を見た瞬間、客観視している自分がいる不思議な心の動きが見えてきた。

 その中身を言葉にしてみると、ひとつに「身体を取り巻く状況」の変化をひしひしと実感していることだった。
 新聞やテレビその他の報道による、想像を絶する事件の数々・少子高齢化・年金や社会保障の問題等々はあるが、人々の関心は自分自身の「身体・からだ」に還ってきているのではないかと。
 からだは自分を生きるまっさきの拠点であることを、それほど明確な意識はなくても、思っている人はふえてきたのだろうか。
 きっと、そういった人々は、あるがままの自分自身を肯定するところから、生命への慈しみの行為ははじまることをなんとなく感じている。
 そのことが他者への肯定へ、さらには他者と共に生きる当たり前の「共存への意志」へと通じるはずだと。
 極端な言い方をお許しいただけば、からだは愛の対象として、真っ先に大切にされるものだと私は思っている。

 からだに向けるまなざしが、決して色眼鏡でないこと、斜めの視覚でないこと。
 まなざしを真っ直ぐに向けるには、実際に「からだを動かしてみること」からはじめていきたい。すると、とんでもない自分が見えるかもしれない。しかし、そのとんでもなさが「本当は真っ当な自分」かもしれない。そこから、一歩、歩き始めれば、地が足についたものになる可能性はあると思う。(実は、30年前の自分がそうであったように)

 自己の確立・アイデンティティー・自我・精神と身体・意識と身体・世界と自分・善悪……、もろもろの問は、とりあえずそっとそこに置いて、「自然の分身」としての自分のからだと、教室に集う他者のからだと、真正面から向き合ってみることで、「今」という瞬間を生きる実感がしっかり受け止められるようになるかもしれない。

 新聞広告を見ながら、そんな思いがからだの中を巡った。
 いずれにしても身体がこれほど関心をもたれる時代の先駆者として野口三千三先生の存在を思わずにはいられない昨今である。
 それにしても『原初生命体としての人間』、ご本人は固辞されたと伺っているが、1970年代によくぞ出版されたものだ。
(「当時は、かなり変人扱いだろうなぁ~」蔭の声が聞こえています)
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流動

2006年06月28日 13時51分10秒 | Weblog
 トモさん、きたむらさん、コメントありがとう。
 ありったけのビーズを入れた「スメクタイト」は、ジャポジャポ鳴る音にビーズのシャカシャカいう音が加わってにぎやかです。

 さて、「腰まわし」から「上体のぶらさげ」につなげてみるときに、反時計回り・左回りから右に上体をぶらさげ、時計回り・右回りから左へ上体をぶらさげてみることを試してみました。
 実は、以前にも試したことがありました。
 柏樹社から「三軸修正法」を戴いて、読んだときでした。
 
 が、今度の方が左右の差があまり大きく出ませんでした。
 以前は、反時計回りから右に流す方がやりやすく、その反対の動きはぎごちなかった記憶があります。
 ところがゾル・ゲル変換(揺変性)を、手の中の揺れの感覚と視覚と音によって味わいなおしてみると、生きものとしての器用不器用を超えたからだになっていくような感じがします。左右の違いはなくなって、上下方向・鉛直方向だけの「ものの流れ」にイメージが集約されていくような感じです。
 コメントから戴いたイメージで、「腰回し」をゾル状のコロイドが流れて、ふっと止まると一瞬にしてゲル状になって止まる。決して急ブレーキをかけたような止まり方ではなく、流動している中身が静かにそこに安定する実感は、なかなかいい感じです。
 そこから「斜め上体のぶらさげ」にはいるときには、またゾル状に戻す。
 あるいは「腰回し」も「斜め状態のぶらさげ」も途切れなくゾル状で流し込むイメージ。
 どちらも甲乙つけがたい「いい感じ」です。

 お二人からいただいたコメントで思い出して、「腰回し」から「斜め上体ぶらさげ」を何年ぶりかに試してみました。7月最初の土曜日のレッスンで、みなさんでやってみましょう。以前は、お風呂の栓を抜いたとき、渦を巻きながら水が流れていくのをイメージしていました。

 ところで、スメクタイト分散液の中を細かいビーズが流れるさまは、「真正粘菌」の粘菌アメーバの動きを連想させてくれます。オパール光沢にはなりませんでしたが、粘菌アメーバのようでした。
 野口先生が作られた「海と貝」、佐治嘉隆さんが作られた「アトミックス」。それらのモデルと比べてみると、「流れのイメージ」が拡がります。水を含むものに対して乾いたもの。しかし、……なんです!

 土曜日にもって行きます。
 乞う、ご期待!
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歩き遍路

2006年06月27日 15時21分13秒 | Weblog
 住友ビルを出ると、梅雨の晴れ間が広がっていた。
 とはいえそれほどの暑さではない。
 4月期の火曜日クラスが終わって、こころにほっと隙間ができていた。
 朝日カルチャーのレッスンでは、3ヶ月ごとの区切りの意識はあまりない。ところが今回は、なぜか一区切りの感がある輪郭を描きながら、心の隙間に入ってきていた。理由ははっきりしていない。なんとなくそんな気がするのである。

 いつにない心模様を抱えながら自宅に近づくと、クロネコヤマトの配送員が、ポストに何かを入れている姿を、自宅の少し手前で認めた。配達員とすれ違って、戸を開け右手にあるポストから入れられたばかりの書籍小包を取り出した。

 二階に上がって、着替える間もなく封を開ける。
 一冊の本は、『歩き遍路』辰濃和夫著。
「まぁ、お久しぶり」
 文章の神様といわれた辰濃さん久々の単行本である。
 鶯色のバックにタンポポの綿毛が白く浮き上がり、表紙の半分より少し幅広の白い帯には、「土を踏み 風に祈る。それだけでいい」と著者自筆で書かれた朱文字がやさしい。清楚な装丁は、文章の柔らかさを、読む前から想像させてくれる。

『旅はいつも、いくばくかの哀しみに似た感情を背負って出発することになる。昔はそんな感傷をわずらわしく思う気持ちが強かったが、いつのまにか、懐にそれを迎い入れ、静かにもてなしてやる気分がでてきたのは年の功とでもいったらいいのだろうか。「やぁ、またか」といった気分で感傷とつきあい、多少は甘やかしてやることにしている』
 まえがきに書かれていた。

 1930年生まれと奥付に記されている。
 朝日新聞ニューヨーク特派員から、『天声人語』を13年間書き続けられたジャーナリストは、数えると76歳になられる。
「するとはじめてお目にかかったときは60代の頃の辰濃さんだったのね」

 その翌年くらいに『野口体操 感覚こそ力』を差し上げた。その時、とてもほめていただいて嬉しかったことを昨日のことのように思い出す。
 10年くらいの年月がたった。
 辰濃さんと野口三千三先生との間で、多少の行き違いがあって、そのとき若輩ながら仲立ちにはいった私は、以来、親しくお話をさせていただいた。
 それからずっとご著書を上梓されるたびにお贈り戴いている。何冊もの本が書架に納まっている。
 
 白い有田焼の茶碗に注がれた初摘みの新茶の緑を思わせる新刊の装丁は、一服の清涼剤を戴くようだ。
 さて、辰濃さんを先達さんとして、遍路道を辿ることにしよう。
 
 人の縁とは不思議なもの!
 野口先生は、今頃、天国で苦笑いをなさっていることだろう。(どう贔屓目にみても、あのときは野口先生に非があったのよねぇ~)もう少しすると時効になるでしょうから経緯をかいてもいいのかなぁ~? なんて思いつつ、すこし蒸し暑くなってきた午後、本を傍らに今日のブログを書いている。

 『歩き遍路』海竜社、7月1日発行である。
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カボションカットとイナバウアー

2006年06月26日 15時54分33秒 | Weblog
 昨日についで、今日も、オパールの話から。
 水にぬれたオパールが非常に美しい「遊色」を見せてくれるし、壊れることがないと書いたが、水にぬらしたままではオパールを身につけることはできない。
 
 たとえば、「ブルーアンバー」などは、太陽が燦燦と降り注ぎ紫外線が強い日ならば、ブルーに少しだけ変化して見えるかもしれない。しかし、あまりはっきりとしたブルーにはならない。美しく見えるためには、紫外線照射器で紫外線を当てるとか、ブラックライトの光の下で、神秘的なブルーがかもし出させる状態を作り上げるしかない。普通の可視光線では、大きな変化は望めない。まさか、ネックレースやブローチにしたブルーアンバーを美しく見せるために、小さな紫外線照射器で照射しながら歩くなんて馬鹿げたことはできない。

 しかし、オパールの場合は、あるカットを施すと、水にぬれてなくても、安定した状態を保つことができる。
 そのカットは、「カボションカット」と呼ばれる。フランス語で「爪」を意味する言葉で、シンプルな半球形のカットというわけだ。
 
 ところで球形というのは、ものの形として非常に強い。このカボションカットは半球形だが、「ノジュール」と呼ばれる、楕円に近い球形の石の中から古生代の示準化石である三葉虫が取り出されることがある。このノジュールの形は、安定して壊れにくいので、中にある「化石の保存状態がいい」という言い方がされる。
 地球上で「球形」や「卵型」や「半球」は、壊れにくい形であり、壊れにくいということは内部を守るのに強い構造だということになる。
 
 だから、仰けに反る姿勢に対して、しゃがみこんで丸くなる姿勢は、自分の身を守る時に生物が自然にとってしまう姿勢だといえる。その証拠が、モロッコから産出した岩に残されている。突然の天変地異によるものか、大型の生きものに襲われそうになったのか、原因は特定できないが、いっせいに丸くなったが無数の三葉虫の化石がある。
 
 それに対して逆説の美を見せてくれたのが、荒川静香の「イナバウアー」である。こちらは惜しげもなく、無防備に、自分の身を捨てて、命がけで何事かに向かう真摯な姿勢ゆえに、世界中の人々に感動を与えた。生物にとっていちばん弱い姿勢を畏れずにみせてくれたからこそ、喝采が贈られたのだ。
 
 つまり、球形は地球の代表的な形だし、地球上に生を受けたものにとって内臓を守る共通の姿勢でもあることが証明された。

 さて、カボションカットのオパールの指輪が、光に照らされて輝くには、コンサートホールの灯りの下でも十分に美しい。しかし、ほんとうの美しさは、母岩あってのものだという眼の力を野口先生によって開かれた。原石・ミネラルの世界に足を踏み入れ、価値観が変わった。鉱物の結晶だけを取り出す楽しみより、母なる岩が共にある石が、どれほど面白いかを。

 そして、生命は宇宙から「命の種」が飛来して生まれたのではなく、地球物質から生まれてきたという考えに共感する。
 生物進化は分子進化と“ひとつながりの地球の出来事”だといわれる説に納得する。
 さらにそこから、個体発生は系統発生を繰り返すという考えにも共感していく道が開かれた。

 話をオパールに戻そう。
 鉱物の色と形を美しいと感じるのは、森羅万象に通じる人間のイマジネーションに導かれるからに違いないことを、オパールの遊色は教えてくれる。
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0・2ミクロンの世界……オパール効果

2006年06月25日 16時57分28秒 | Weblog
 スメクタイトの水分散液は、揺変性を見事に見せてくれた。
 ゲル状では、千億の昼と百億の夜、そっとそこにい続ける「静けさ」を保つ。
 それが、一度、揺すられ振られると、一気にゾル状に変化して流れだす。

 今日は、緑と青のビーズを、スメクタイト水分散液に入れてみた。
 ここまでたくさん入れてみると「蛙の卵」には見えなくなる。

「もしかしてオパールのような感じになるかもしれない」
 思い立って、ライトをかざしてみた。

 まったく違う雰囲気。
 思わず、ため息がこぼれる。

 オパールの遊色の美しさは、この世のものではない。
「比較するほうが間違っている」

 人がつけた色の名称は、オパールの色に当てはまるものはない。
 炎のように揺らめく遊色たち。
 なんとなくあきらめきれずに、ビーズとオパールを何度も見比べてしまう。

「かなり細かいビーズなのに」
 大きさの違いは、天と地のほどに違うからだろうか?

 そういえば、走査型電子顕微鏡で撮られたオパールの結晶構造は、同じ形のシリカの粒が、整然と並んでいた。
 なんでもシリカの粒同士の間隔は、0・2ミクロン。そのためにシリカは0・2ミクロンに近い可視光線を繰り返し反射して強めるのだという。
 光がそれぞれの色ごとに異なった方向にはね返されている。
 冷たい炎が水の中で、消えることなく燃え盛っている。

 オパール効果は、普通の結晶体でも見られるという。ただし、こちらは原子レベルのことなので、間隔も0・2ミクロンの1000倍も小さくて、X線に対して反応するらしい。

 成分に水をたたえているオパールは、水が枯れるとひび割れてぼろぼろに崩れてしまうそうだ。
 原石のオパールが水の中で美しく燃えるのを見ながら、このブログを書いている幸せ。
 水のなかで生まれた鉱物だから、とものの本には書かれている。

「そうか、水なのか……」

 再び、ため息。
 でもこのため息は、さっきのため息とは違う。

 人の命も、また、水に生まれ、水に生かされ、水にただよい、水の中でゆらめく炎なのだ。
 人のオパール効果は、愛という光に照らされたときに、輝きを増すものかも……(なんちゃって!)
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直感

2006年06月24日 20時56分59秒 | Weblog
 スメクタイトの「ゲル状」のなかに、ビーズを入れてみた。
「なんか蛙の卵みたい!」
 たしかに生きもの的な様相を呈する。

 無機界から有機界を結ぶ「粘土鉱物」が、日一日と身近なものになっていくような実感がある。
 野口先生が『原初生命体としての人間』を書かれた当時、こういった物質は手に入らなかったはずだ。
 すると、先生には直感とイマジネーションが、いかにすぐれていたのかが浮き彫りにされてくる。
 
 5月・6月と、『「もの」と「生命」』をテーマにすすめているが、何処からが「生命」なのか?
 
 命あるものが平等に与えられている「死」とは何か。
 なかなか核心に迫ってきたような感じする。
 
 如何せん、勉強不足を痛感する日々である。

 
 ※今日のレッスンで感じたことを、コメントしていただけると嬉しいです。
 お願いします!

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山陰の山奥に

2006年06月23日 08時41分31秒 | Weblog
 吉永小百合が主演した「夢千代日記」は、当時、日本人の哀しみを誘った。
 映画にもテレビにもなったこの作品、山陰のひなびた温泉街の風情に人々の心が揺さぶられて、忘れかけていた「愛」が「悲哀」のなかで開花することを教えられたような記憶が残っている。
 映画は1985年。
 早坂暁氏が紡ぎだした名作である。

 その町からさらに山奥にはいると、安泰寺という修行寺がある。
 兵庫県新温泉町という名に代わっているらしいが、私が記憶している地名は、美方郡浜坂。
 というわけで「新温泉町」という名に、かすかな抵抗を覚えながら、日経新聞夕刊「Why 英語 How ③ 言葉のある風景 お坊さん 話せて当然?」という寺の紹介記事を読んだ。

 ここは曹洞宗の禅寺で、広大な山林を利用した自給自足の暮らしをしている。
 非常に厳しい修行の場であることは、かれこれ30年近く前と変わりはなさそうだ。
 しかし、大きく変わったことは、九代目の住職さんがドイツ人で、15人の外国人と5人の日本人が暮らしていること。
 実は、知人がこの寺で修行していたころ……25・6年くらい前のことだが……当時は、まだまだ日本人の寺のイメージだった。しかし、この記事を読む限り、インターナショナルな場に変貌をとげたようである。
 ドイツ・フランス・ポーランド等々、英語圏以外の出身者が多く、なんと公用語が英語で日本人の方が外国人だという。

 知人は、この寺を離れてアメリカに渡った。20年くらいは、アメリカで暮らしたのだろうか。最近になって家族と共に帰国したという話を、風の便りで、耳にしてはいるのだが。

 10年一昔。
 30年も過ぎれば、大きな変化がおきても不思議はないのだが、思いは複雑微妙である。
 なんでもこの寺に登っていく石段は百九段あって「煩悩がひとつ多い人がくるところ」と聞いたことがある。真偽のほどは確かめていない。
「煩悩ね~」
 今や、懐かしい言葉になってしまった観がある。

 この記事を読みつつ、何時しか、20数年前に時計の針は巻き戻されていった。
 ふと、机に頬杖をついて、溜息がもれた。
 今にも雨粒が落ちそうな初夏の夕暮れのことだった。
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地球の細胞

2006年06月22日 20時43分04秒 | Weblog
 最近、「スメクタイト」の話をこのブログでは、何回も書いている。
 それにつれて「粘土鉱物」という言葉も、頻繁につかってきたようにおもう。
 そこで、基本的なことばを、この場を借りてやさしく整理しておきたいと思い立った。

 まずは、「鉱物」とは、何ぞや?
「元素鉱物」という言葉を聞いたことがある方は多いと思う。炭素とか、硫黄とか、一種類の元素からできている鉱物のこと。炭素からできている元素鉱物で世界でいちばんの価値を与えられているのは「ダイヤモンド」に違いない。

 鉱物研究家の堀秀道氏は「結論から言うと、それは地球の単位である。動植物でいえば細胞にあたるもの。山を、岩石を、混じりけのない単体にまで分解したのが鉱物」だと一般啓蒙書『たのしい 鉱物と宝石の博学事典』(日本実業出版・1999年)の「まえがき」でいっておられる。

 最近、粘土鉱物に興味をもちはじめて、とりわけ気になっているのは「花崗岩」である。この「岩」という文字がつく「岩石」というのは、単体ではなく、いくつかの鉱物から成り立っているものを指す。
「花崗岩」は、雲母と石英と長石の三つの鉱物から成り立っている。つまり、岩石は鉱物と違って、鉱物が交じり合ってできているものを指す。
 
 鉱物は、それ以上分けることができない単体としての存在なのだ。そこから「岩石は地球のセンテンス、鉱物はワード」と呼ばれているらしい。

 鉱物についての知識や結晶学等々は、西欧で発達し整理され、貴族の教養のひとつなのだそうだ。結晶学やルミネッセンス(蛍光現象)を研究する学者は、地すべり的に生物物理学に携わり、なかでもウィルキンズのX線回折の研究・実践が、ワトソン・クリックのDNA二重らせん構造模型の制作に深くかかわっていった。

 西欧における宝石には、母岩があって、その上で結晶を取り出しているように、西欧で生まれた科学には、しっかりした「母岩」があって、そこから抽出した「科学上の原理」があるということだ。
 
 話が次第に外れはじめたが、鉱物というのは、地球の細胞だ!という視点から言えば、まさに粘土鉱物は地球上に生まれた「生命体」に深くかかわった「地球の細胞」であり、「生命体の母」である可能性があるらしい。

 今までは日本人になじみが少なかった「鉱物趣味」もかなり一般化した。
 そろそろ趣味の域をでてもいいと時期に来ているとおもう。
 科学の「母岩」としての鉱物をたのしんでみようではありませんか。
 とりあえず地球にありふれた鉱物「粘土鉱物」がもつ、独特の性質を味わってみましょうね!
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星空の音

2006年06月21日 20時40分02秒 | Weblog
 いつのことだったか、もう、2ヶ月くらいは過ぎただろうか。
 自然音の専門家で、野口体操の仲間の高野昌昭さんから、連絡をいただいたのは……。
「末期の癌で、今年の11月か12月ごろまでだと宣告されましてね」

 骨シンチとPSA(前立癌用の血液検査)で、580という高いPSA値が出たという。
「手術はもうできません。手遅れですって、主治医がいったんです」
 電話の向うの声は、実に張りがある。
「何かの間違いじゃないんですか」
 思わず発してしまった言葉だった。

 抗癌剤治療は、していないのだという。
 先日も、電話で話をした。元気なのだ。
「痛みがないので、助かりますよ」
「じゃ、やっぱり、何かの間違いじゃないんですか」
 同じことばを言ってしまった。

 しかし、癌を罹患していることは間違いなさそうだ。
 一昨日送られてきたコピーは、」「がんサポート」第33号 2006年7月号だった。
 高野さんを取材して、6ページにわたる大きな記事になっていた。
「よく『がんと闘ってください』と人は言うよね。僕も『がんは悪い奴だ』と思っていた。でも考えてみたら、僕が死ぬときはがんも死ぬんだな。がんは自分自身なんですよ」

 痛みがないという言葉にほっとした。
 高野さんは現在西洋医学に頼らない方法も試しつつ、がんの治療を続けていると、冊子コピーには書かれていた。
 もうそろそろ黙るのだそうだ。
 編集後記を記しておきたい。
「……自然音の専門家、高野昌昭さん。スタジオにお邪魔した際、高野さんの作品を実際に見学させていただいた。記事中のモノクロ写真では伝わりきらないが、「星のカーテン」が、音を奏でながら風に揺れてきらめく様は、まさに星空。実際に聴いたことはないが、きっとこれが星空の音なのだろうと感じた」

「おーい、がんよ、もっと話し合おうよ」という表題が、高野さんらしいと思った。
 シリーズ がんと生きるー25(がんサポート 株式会社エビデンス社 03(3526)5022 発売:株式会社創英社 三省堂書店)
 
 父も5年間、肺癌・大腸癌・肝臓癌を患った。
「苦しくないときは、もっと生きたいと思うよ。でも、苦しい日は、早く楽になりたい」
 人の死というものは、「だいたい何時ごろ」と命の期限が切られても、なかなか死なないような気がする。そして、ある日突然に息を引きとるとしか思えない。
思い残すことはないといえば嘘になる。しかし、穏やかな表情の父と最期の別れをしたとき、高野さんがおっしゃるように「癌もいっしょに死んでくれたのだ。やっと楽になれたのね」しみじみと思った。

 人は何処から来て、何処に行くのか。
そうだ、「星空の音」を聴かせていただこう。
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植物も、動物も……

2006年06月20日 20時22分57秒 | Weblog
 昨日のことだが、松の盆栽に毛虫を発見。
 もっと早く気がつけばよかったのでが、松葉を相当食べられてしまった。
 
 昨年は、青虫にくちなしを丸坊主にされた。今年は青虫が育つ時期に葉がなかったので、食べようがなかった。6月に入って、新芽が伸び、ほとんど回復してくれた。花の時期には、まだまだ葉が伸びていなかったので、一輪も咲かなかった。
 そこで安心しきっていた。
 まさか、松にはつかないと思っていたのは、迂闊だった。

「僕は、殺虫剤や殺菌剤は使わないで、手でひねり潰すの。全滅はしないわけね」
 野口三千三先生のことばを思い出して、虫をひねり潰すことにした。
 なるほど今朝も枝や葉を見ると、数匹の毛虫が残っていた。それも心の中では祈りながら、またもや潰させてもらった。
 
 先日の「からたち」の棘を切り落とす作業でも、はじめての経験をした。
 からたちの棘は、葉の裏側に隠れていて、最初は、見えるところの棘ばかりを鋏で切り落としていた。
 ある枝を手にとって、長い棘を切り落としたとき
「痛いっ!」
 かなり太くて長い棘が隠れているのに気がついた。
 からたちの枝には、長い棘・短い棘と、いろいろな成長振りを棘が見せてくれる。きっと、こんなに痛い枝には、虫もつかないのではないかと思ったのだ。
 そういえばからたちの枝が、のしかかっていた塀の上を、猫が歩くときには、うまく枝をよけていたのを思い出した。
 母猫に連れられた子猫も、はじめは痛い思いをしたようだったが、ちゃんと学習して、上手に枝をよけていいる動きを何度も見かけた。

 植物は、育っている場所から動けないし逃れられないので、自らの棘で身を守っている。
 そして、動物はからだを傷つけない「動きの知恵」を幼いときから身につけていく。
 都会の密集したところでも、自然の営みを体験できるのは、貴重だと思う。

 さて、6月も半ば過ぎて、初雪鬘が日増しに白く変わっていくのが、目に見えてめだってきた。春から初夏にかけて撫子色の葉が、真夏に向かって初雪を思わせる「真白」に変化する。
 植物も動物も、確実に四季を感じとっている。
 しかし、人間の暮らしの中から季節感が失われること、そのことが自然への感覚を麻痺させる大きな要因だろうと、植物の変化に気付かされる。

 明日の朝も、きっと、松の枝と葉を見ることだろう。
 朝、水遣りをすると、暑い季節ならではの木々の匂いがただよう。
 ボーっとしているからだが、しゃきっとする瞬間でもある。
 今年も汗をかくことが快感になったら、それは「健康」の証拠だろう。
 
 梅雨の晴れ間に太陽光が、この二日間、植物に元気を与えてくれていた。
 明日は、雨かな?
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地湧きの体操

2006年06月19日 19時40分54秒 | Weblog
 例のスメクタイト報告。
 昨日の朝から、ゲル状態が非常に安定して、斜めにしても、逆さまにしてもまったく流れ出さない。
 揺変性とはその名の通りで「揺する」事によって、ゾル状態に変化する。ビンを手に持って方向を変えるくらいでは、ゲル状態のままである。
 まだ、ビーズは入れていないが、想像するだけで面白そうだ。
 
 それにしても化粧品関係は、このゲル状態のものが非常に増えた。クリームやファンでションや微粒子のアイメイク・頬紅・透明感を出すパウダーなど、どれもが粘土鉱物のように見えてしまう。
 
 なるほど、すべてが地球につながっているか。
 そこでイメージを膨らませてみよう。
「生命の起源 地球が書いたシナリオ」の骨子である「生命は地下で発生し海にでた」ということを信じるとすれば、昨日のブログに書いた「地湧きの思想」というテーマのたて方は、すごいとおもう。1970年代末に行われた講演とシンポジウムなのだから、先見性はたいしたものだと言わざるを得ない。

 このシンポジウムが終わったとき、控え室に集まった講演者を囲んで、柏樹社の皆さんと各先生方のお供の方々が、一堂に会した。前日と当日、野口先生の助手としてステージ上で実技を披露した私もそこにいさせていただいた。
すっかり忘れていたのだが、そのときに、私は逆立ちをやっていたようだ。記憶はすごく曖昧で、逆立ちの練習をはじめたのはもっと後とばかり思い込んでいた。しかし、野口体操をはじめて4年後には、野口先生の包助によって、人様の前で逆立ちを披露するところまでいっていたのかとおもうと、感無量である。

 話がそれたが、いいたかったことは、生命は地球と一体のものだということ。その一体感を味わうのが「野口体操における逆立ち」というわけだ。
「からだは地球物質のひとつのまとまりかた、こころはその働きのひとつ」という考え方は、人によっては抵抗があると思う。私は、この考えが好きだ。好き嫌いでいえるものではないとは思うのだが。
 野口体操を「地湧きの体操」といってみたいもの。
粘土鉱物との出会いの意味は大きい。一冊の本との出会いがイメージを再び蘇らせてくれた。

「地湧きの思想大会」から、かれこれ30年近くの歳月が流れた。長かったとも短かったとも思える。情熱を込めて麦わらを手に「麦わら一本の革命」を語られた福岡さんの表情が、私の目の中に映し出されている。それは60代半ばの福岡さんである。
 
 講演した講師の皆さんが、共通して「大地」に根ざした思想を持たれていた。
 イメージを蘇らせて、自分が立っている真下の大地を、しっかりと踏みしめるように、今朝は、ゆっくりと「四股」を踏んでみた。
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ツーショット

2006年06月18日 20時16分28秒 | Weblog
 グルグルさん、6月15日にいただいた「粘土団子」のコメント、ありがとうございます。

 さて、自然農法の福岡正信さんと野口三千三先生のツーショットがあるのをご存知だろうか。昭和54年(1979年)11月24日・25日の二日間、東京市ヶ谷の自治労開館で開かれた「第一回地湧きの思想大会」でのことだ。
 その記録は翌年の4月に『地湧きの思想➀ ―未来を啓く人間観―』と題して企画した柏樹社から、単行本としてまとめられた。
 この写真は202ページに掲載されている。

 写真を見ると、福岡さんは当時からあまりお変わりにならないようにお見受けする。
 実は、このときの野口先生は、高熱をおして出席された。

「福岡先生ちょっとすみません、ここへ来てください。私の胸と背中に掌を当てて、僕の動きにつれて適当に動いてください。この掌の中の私のからだの中身がどれだけ大きく変化するかを感じ取りながら、中身ですよ、前に曲がりました。相当深くなりました。今度は後ろにそります。中身はほとんど変わらないですね。今度は……《ほとんどまっすぐに立ったまま、前後に波打つような動き》
 一体どちらが効果があるやり方なのか、量多く与えれば効果があるというのか、そんなことはないです。」

 写真は野口先生の右脇に立って、胸と背中を触る福岡さんがからだの中身を感じ取ろうと目をとじているかのように見受けられる姿を写している。

 この動きは、前屈運動と後ろに大きく反り返る運動を一組にして、そのときのからだの中身の変化を最初に確かめる。そして、その感じを記憶してもらう。それから野口体操の「波の動き」を立ったままで行う。みたところは最初の動きに比べて、ほとんど動かないように見える。
 しかし、前後方向に胸の中身が波立つ動きは、比較にならないくらいに、微妙に精緻にそして蠢くのである。柔らかくそして細やかでありながら、手に伝わってくる感触は、大胆な動きでもあるのだ。言葉の上では矛盾がある。しかし、実際に行ってみると、まさにその言葉通りの実感が得られるのだ。

 柏樹社の著者が集まって行われた「第一回・地湧きの思想大会」は、「自然とは何か」を問う企画だった。
「科学文明の中にある人間生活の健全さを回復ため、自然はどのように生かされるべきかを各々の面から提示されたのがこの大会であった」とまえがきに書いておられるのは、独自の教育法を実践しておられる和田重正氏だった。
 そのほかには、竹熊宣孝氏、橋本敬三氏、が壇上に立たれ、司会はNHKの金光寿郎氏。

 一日目は、各氏の講演。
 二日目はパネルディスカッションだった。
 いづれにしても柏樹社がなくなってしまったことは、非常に残念なことだ。
 ステージ上の福岡・野口両氏のツーショットを見ながら、時代という怪物に命運は左右されるものだと、複雑な心境にとらわれている。
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揺変性実験

2006年06月17日 20時20分33秒 | Weblog
 可逆的ゾル⇔ゲル変換、みごとに成功した。
 朝日カルチャー土曜日のレッスンが終わってから、教室で実験開始。

 まず、電子秤を佐治さんが持ってきてくださっていたので、ビンの重さを測り、水の重さを測り、難しかったのは「スメクタイト」0・75グラムを測りいれることだった。
 そこで登場したのは、化学専門の方。なんと「神の手」を持っていらした。50グラムの嵩をみて、おおよその見当がピタッと当たったのである。

 あとは、書かれている通りの手順で、事務所からもらってきた割り箸で攪拌の後に、振って振って止めた。
 新宿駅に着くまでの間に、ゲル状態になってくれた。
 
 数名の男女混合の大人たちが、ビンを見つめながら歩く姿は、奇怪か? いいえ、和気藹々とにこやかな雰囲気を漂わせていたはず。

 新宿西口交番の横に立って、ゲル状態のスメクタイトをゾル状態へ。
「音がする!」
 雑踏の中、ひとり一人にビンを手渡し、耳元でジャボジャボ鳴る音を聞いている情景は、これは異様だったろうなぁ~、と正直おもう。
「科学の実験を新宿駅で行うなんて」
 非難しないでいただきたい。時間的な条件で、そうなってしまっただけのこと。

 スメクタイトと水。非常に弱い結合状態は、柔らかな振動ですぐ崩れてしまうわけだ。
 そこで、しっかり、野口先生の言葉を思い出す。

『崩れこそ動きの原点である』野口三千三
 
 とうとう、粘土鉱物「スメクタイト」は、野口体操になくてはならないものになった。

 帰宅して化粧を落とすクリーナーは「ゲル状態」だった。
 手のひらにチューブからオイルジェルを絞り出す。じっと見るとスメクタイトによく似ている。ビンで作ったスメクタイトの触感よりは、少しだけ硬さを感じた。が、非常に近い状態だ。
 それを顔に塗って、ぬるま湯で落とすと、さらりとみごとにお湯に溶けていった。
「なるほど」
 再び、手のひらに「メイククリア オイル ジェル」を取って、しばらく見つめながら「フムフム」と頷く。

 やっぱり、伝をたどって一斗缶でスメクタイトを分けてもらってこよう!
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「面倒だ!」と「気がすすまない」の微妙な違いは?

2006年06月16日 17時18分13秒 | Weblog
 比較的年齢の高いクラスで、「面倒だ」とおもうことが最近特に増えたとおもう人に挙手をお願いした。
 なんと全員が手を挙げた。
 やっぱり、年とともに先送りすることが多くなるのは、しかたがないのかもしれない。
 
 ただ「面倒だ」ということのなかに「なんとなく気がすすまない」という要素も入っていることがある。
 この気がすすまない感覚というのは、危険を避けられたり、しなくてもいいことをしてしまうことを避けられたりして、結果として「やらないでよかった」と胸をなでおろすこともある。

 しかし、「面倒だ」とおもう気持ちが多くなるのは、あきらかに老化の兆候なのだろうか。若い人だって「面倒くさい」とおもうことがあるだろうけど。

 そこで今週は、「面倒」という言葉が脳内を掠めたら、そこでちょっと立ち止まって、できることはすぐやってみることにした。「面倒」の中身を整理してみたのだ。
 
 たとえば料理の場面で、掃除の場面で、日常の暮らしのさまざまなシーンで、こまめに動くことを心がけてみた。そうしたら気のせいか暮らしに快適さが得られたのだ!
 
 いくつか挙げてみよう。
 ひとつに、隣家の庭にある「からたちの枝」が、塀を越えて我が家の二階近くまで伸びていた。それを出入りの大工さんにも手伝ってもらって、切り落とした。すごく長い棘から短い棘まで、枯らす前に枝から切る作業をした。
 家の北側の風通しがよくなって、時間帯によっては日差しが戻ってきた。

 ふたつに玄関を入った正面の床に、夏の飾りを置いてみた。
 母が実家から持ってきた「舟板(水を含んでかれた後に独特の風合いが出ているもの)」と呼ばれているのもので、舟を解体してのこった板を台に転用したものに、知人からもらった飾り物とホテイアオイと金魚の陶器を浮かした白い水盤を置いた。
 この飾りものは本をひらいたような木枠に、一方はガラスがはまっていて赤い金魚が二匹と黒い金魚が一匹描かれている。で、もう一方の枠は左側の三分の一に細い数本の木が縦に渡してあって、その右側の空間に風鈴を下げるように作られている。高さが50センチほど、平らに開くと60センチくらいになる一品ものの夏飾りである。
 帰宅したときに、なんともほっとする空間になってくれた。なんとそれを見るお年寄りの表情が和むのだった。

 そのほかにも何かとこまめに動いてみた。うっとしい梅雨にもかかわらず、動きつけると、身が軽くなる。
 電話もかければ、郵便も送る、というように人との関係もこまめにとった一週間だった。
 
 思えばこのブログも、なんでもいいから書き続けていることに意味がありそうだ。こまめに書くことで、書くことが面倒でなくなる? 
 実は何を書いていいのか、困るときがある。
 そんなときは頭の中は真っ白。しかし、そのままパソコンの前にとりあえず座ることにしている。
 で、何行かフレーズを書いては消し、消しては書くうちに、いつの間にか話がひとりでに歩き出してくれる。

 というようなわけで「面倒だ」という気持ちが起こったら、気が進まないのか、ホントに面倒なのかを見極めて、気が進まないことは止めておき、面倒だったらちょっとだけ動いてみる。
 この一週間の収獲は大きかったことをご報告!
 来週は、分かりませんが……。
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