羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

よい新年をお迎えください!

2010年12月31日 14時07分44秒 | Weblog
 さすが年末である。
 ここ数日は、年内にやっておくことを順繰りに終わらせていった。
 29日には松飾、室内の正月飾りも終えて、昨日は料理に精を出した。
 そして、本日は、残っていた掃除も買い物も済ませ、今、パソコンの前に座った。

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 お蔭様で今年も無事に過ごすことができました。
 これからのことも念頭に、新しい道を歩き出す年にしたいと思っています。
 
 来る卯年、皆様にとって、よい年になりますように。
 
 
 
 
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「象山隆利展」と‘ふたたびのMac’

2010年12月27日 19時18分26秒 | Weblog
 地下鉄の階段を上がる。まっすぐ日本橋方面に向かい、メリサを右折、二つ目の交差点を左折すると巷房はある。古いコンクリートつくりのアパートは、不思議な空間である。アンティーク品、メガネを売る店、画廊があったり、迷路のような空間に、銀座であることを忘れさせられる。

「象山隆利個展」をまず拝見。
 現代造形の空間は、冷たくもあり、見方によっては温かくもある。何故だろう。作品の分厚さかもしれない。彼の作品は十年以上前から見ているけれど、歳月とともに先鋭化したものに思索の柔らかさが加わっていくような印象がある。
 独特の‘白’、いや、内側に墨のような黒がこもっている白の造形。
 巷房の廃墟一歩手前の空間で、泳ぎ出すような作品群だった。

 それからGinza Macに立ち寄って、iMacに触った。
 これでほぼ心は決まった。最初のパソコンはMacだったから‘ふたたびのMac’である。
 まずはPC環境をあらためて‘ととのいました’の状態にしてから、お正月に出直すことにしよう。
 今日のところは見積書をもらって帰宅した。

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CMにあらわれる孫さんの怒り?!

2010年12月25日 09時10分02秒 | Weblog
 最近のソフトバンクのCMだが、お父さんが宙に浮いたり、浮いたまま回転したり、最後は隕石が地球に向かったりしていた。それが直近では、‘光の道’A案、B案の会議風景まで飛び出してきた。ドラマかと見ているうちに、あああぁ~ッ、隕石が衝突するのか?
 白戸家は理解不能な家族構成ではあるが、好感度の高いのどかな物語から一転している。
‘光の道’シリーズは、いったいどこまで話が進展するのだろう。
 SMAPグループ編も、かつてNYの街角でiPhoneを楽しんでいたものとは一転、黒ずくめの衣装でかなり危なげなシーンが挿入されている。
 双方ともにインパクトはあるが。
 
 さて、孫さんがTwitterを始めて、そろ一年になるという。私も3月から追っかけるようになってすっかり彼への親近感を得た。
 龍馬伝だって一緒に見ているような気持ちであった。
 この12月に入ってからの日曜日は、ぽっかり穴があいたような気分を共有しているようだ。知り合いでもなんでもないのに、である。
 そう振り返るとTwitterって恐い!! 気をつけなくちゃいけない、と思っている。

 で、一昨年、iPhoneのためにドコモからソフトバンクに移ったが、もうドコモに戻る気持ちはもうとうない。
 おそらく来年には、iPadを手にするに違いないのだから。

 しばらくはソフトバンクのCMと孫さんのTwitterから目が離せそうもないなぁ~。
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寂寥感

2010年12月23日 18時28分22秒 | Weblog
 必ずしも‘寂寥’という言葉がぴったりとは思えない。
 むしろ和語の‘物悲しさ’の方が私の気持ちに寄り添った言葉かもしれない。
 如何にも唐突な物言いとなってしまったが、今日、年賀状の宛名書きをしているときにふっとからだに忍び込んだ情感なのである。

 本当は来客があるはずだった。しかし、よんどころない事情から、来られない電話が早朝に入った。
 空いた時間に、賀状書きとなったわけだ。父が亡くなり、母も八十歳をとうに過ぎて、最近では自分で書くことをやめてしまった。そこで私が代わりに、両親の関係者にも出すことになって数年がたつ。
 階下からそうした方々の住所録をもって上がり、‘あ行’からページを繰った。
 めくるごとに、父がつけ、続いて母が印を入れた物故者が多くなっている。
 あの人も、この人も、亡くなってしまったのか。
‘な行’のところを開いたとき、胸の中に寂寥とした風が吹き込んだ。
「野口三千三」の名前のところに、その印を見つけたからだった。
 昨年も、一昨年も、認めた印だったのに、なぜ、今年に限ってそのような気持ちになったのだろう。

 もう一度‘あ行’から、亡くなった方々の名前を確かめた。
 母の寂しさが、わかる気がした。老いるということはそういうことなのだ、と。
 年賀状を書く気持ちを失う。多分、住所録を見ると辛くなるのだろう。

 その年齢に達しなければ、その年齢の気持ちはわからない。
 還暦には還暦の、喜寿には喜寿の、白寿には白寿の……。
 
 今年は、宛名書きをしながら、一人一人のお顔を浮かべながら、過ぎ行く時の重さをずしりと感じた。
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粗忽、授業、クリスマスプレゼント等等

2010年12月22日 19時09分18秒 | Weblog
 ようやくお礼状を二通書いて、ポストに投函した。と、その瞬間‘エッ、年賀に入れてしまった’。すでに向かって左側の投函口は‘年賀’用、右側の大きな口が‘一般’郵便に変わっていた。
 まだ年賀状を書いていなし、今週土曜日に朝日カルチャーのレッスンが終わらないと年末にはなっていない。
 もしかすると年内に届かないで、来年、元日なのだろうか。よほど郵便局で聞いてみようかとも思ったが、仕方がないとあきらめた。
 今年もまだまだ、粗忽ぶりを発揮するかもしれない。

 とはいえ昨日で、年内の授業はすべて終了した。
 いま二つの大学で合計4クラス4コマ担当している。
 来年4月から、大学で野口体操の授業を任されるようになって10年目に入る。
 誰がこのような人生を予見できただろう。私自身が驚いているが、野口先生もきっとあちらでハラハラしておられることだろう。
 なんと言っても‘体育’の授業なのだから。いや、‘野口体操’なのだ!
 今年はこれまでの経験に新しいテーマも組み入れることができた。
 若い学生に伝える場をいただけたことは、有難いの一言に尽きる。
 正月あけには、リポート提出と一人ずつ見せてもらう実技テストを行う予定だ。
 
 そして今日もステキなクリスマスプレゼントが届けられた。
『切りとれ、あの祈る手を <本>と<革命>をめぐる五つの夜話』佐々木中著 河出書房新書
 装丁も凝っていて、手触りも‘本’ならでは。電子書籍の時代になっても、やっぱり紙の本は残るよね!残したい、とつくづく思った。 
 著者は1973年生まれ。37歳。息子くらいの年齢差にちょっとドキドキ。
 中は、これから、ゆっくりと拝読。
 感謝。
 
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ポエム・ルージュ(訂正:ボエム・ルージュ)

2010年12月21日 09時27分53秒 | Weblog
 最近になって、万年筆に戻る知人が増えた。
 私も、30年ほど前には、父が使っていたモンブランの太字と細字を譲り受け、その二本を長年重宝につかわせてもらっていた。
 筆記がパソコンに変わってから、いつしか万年筆で手紙を書くことが少なくなって、引き出しの奥にしまったままになっていた。
 
 再び万年筆に戻ってみよう、と取り出してみたところ、インクが出ない。
 そこで修理したのが2年ほど前。
 しかし、太字は書けるものの、細字は如何にも使い勝手が悪い。

 先日、母方の88歳になる伯父が、どんな風の吹き回しか、私にクリスマスプレゼントをくれるという。
 そろそろこの世に別れを告げる記念かもしれない。
 高価なものでよいという。
 恐る恐る申し出た。
「モンブランのボエム・ルージュでもいい?」
 文房具に関する雑誌で知って以来、ずっと気にかかっていたが、手が出なかったものだ。

 そして、昨日、手元に届いた。
 全体が短めで小ぶりに出来ている。人造ルビーがついていて、美しい万年筆だ。
 手触りもよし。書き心地もよし。
 豚に真珠?の嫌いはあるが、弘法だって筆を選ぶ(嘘)のだ。
 最初にお礼状を書かねばなるまい。

 ついでにモンブランの公式HPをのぞいてみたが、センスがいいことこの上ない。
 そして音楽家に因むブランド名を持つ筆記具類は、さすがに文化そのものである。
「ボエム・ルージュ」を握りながら、誇りと伝統を維持する凄さを、手の中にすっぽり包み込む心地よさを体感している。

‘贅沢きわまりなし!’だが、時にはお許しいただこう。
 何世代ににもわたって使えるのだから。
 これは私の遺品となるだろう、きっと。
 その前に、せっせと手紙を書かなくちゃ。
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携帯電話とパソコンと野口三千三と

2010年12月17日 08時26分16秒 | Weblog
 1994年頃と記憶しているが、野口先生は亡くなる四年ほど前に、半年近く入院生活を余儀なくされたことがあった。
 実は、それよりも以前から、一日に4回ほど、私は定時に先生からの電話を受けていた。
 朝の8時半、昼は12時半、夜は7時半、そして就寝前の9時であった。
 その間にも不定期に電話がかかる。
 とくに池袋や新宿、東京駅周辺、有楽町等々、外出先からの電話内容は、珍しいものや興味深いものに出会っての連絡や、多少高価な買い物に迷ったときなどである。

 90年代に入って、初期の携帯電話が市販されるようになったときのこと。
 最初に興味を示されたのが野口先生だった。
 特に、入院時に何が何でも欲しい、と言う希望をかなえるべく、池袋西口の店を尋ねた。確かNTTだった気もするが、はっきりしない。

 当時の携帯電話は、とても大きく重かった。初期の頃(60年代末~70年代)のビデオカメラ同様にセパレート(?)だったような記憶がある。
「大きくてもいいです」
 先生の希望は出先から自由に連絡をしたい、というもの。
 当方は、固定電話で受信するわけ。
「えええっ、受ける身にもなって頂戴」という思いが去来した。

 それはそれとして、携帯電話の電波利用範囲を確かめた。
 わかったことは、まだまだ一般利用には、便利さよりもむしろ無理があることが判明した。
 
 1、地下道では電波が届かないので使用不能。
 2、ビル内も窓近くで微弱電波を受け取れる場合もあるが基本的に使用不能。
 3、木造の家屋でも隣接する建物の大きさと高さによって使用不能。

 使用できるのは、東京都内・電波障害のない広々した屋外のみである。

 それから歳月は流れた。
 
 
 ところで、週刊『ポスト』の孫正義さんのインタビュー記事。
 飛び級で2年早く大学に入学した孫さんの同期には、ゲイツ、ジョブズ、S・マクネリ、E・スミットなどがいたそうだ。彼らは、大学1年のときにマイクロコンピューターのチップが個人で買えるようになって、個人がパソコンを手作りできる時代がはじまった、という。
 20年後のこの世代は「今からちょうど15年前にインターネットという黒船を見た」と言う。
 そこから孫さんの嘆き節「米国は彼らを大切にしてネット企業を成長エンジンにし、日本はダメにして成長エンジンを失っている」と語る。
 悔しい!! 同じ時代を生きたのに。
 
 ちょうど野口先生が携帯を欲しがり、その後PCを奨励した時と呼応している。
「若い人は、どんどん、やる方がいい。活字体が好きよ」
 その一言で、先生の板書を打ち出して差し上げるようになった。確か1986年~87年頃だった、と思う。
 その後、私のワープロは必然のようにパソコンに変わった。

 きっと、今、先生がご存命なら、携帯電話は必需品に違いない。
 受ける方も当然のことに携帯だ。
 私は、定期便の時刻に、自宅にかならず居る必要はない。
 懐かしい思い出だ。
 同時に、‘隔世の感’を身に沁みて実感!
 日本は、取り返せない20年なのか?! 嘆息。
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第四世代携帯(4G)

2010年12月15日 18時43分05秒 | Weblog
 2015年以降、第四世代携帯の実用化が、現実味を帯びてきた。
 12月14日、日経新聞によると、政府は参入業者をオークション(競売)で選ぶ方針を固めたらしい。数千億円の国庫収入が見込める、という。
 電波の利用権を無償で与えることはしなくなるわけだ。
 記事には、海外では40カ国以上がオークションを採用している、とある。
 適正価格以上に落札額が高騰し、携帯通信会社が事業を断念した事例も起きているとか。

 それとは別件だが「光の道」問題で、孫正義氏は総務省の決定に‘怒り心頭’である、とTwitterに書いておられた。

 いずれにしても2014年頃から、大きな変化の波が押し寄せてくる。
 社会の変化にどこまで‘人間のからだ’がついていけるのだろう。
 年々歳々過ぎ行く時間が極端に早くなっている。これは変化の速度のせいではないか、と思えてしかたがない。
‘一番乗り’をするといった時間との競争に、勝つことが目標になっていく。

 今年もあと半月。
 菅政権が、いつまで持ちこたえるのか。
 政治主導どころか、社会の変化においてきぼりの‘後手後手政権’では、あまりにも心もとないの~、と多くの人が抱く懸念だ。
 やはりご維新以来の大変革の時代に生きている、のだ!!

 いよいよ日本も4G世代携帯周波数を競売で割り当てる時代に突入。
 高速通信の時代に、ある意味で遅かった措置なのかもしれないなぁ~。
 この先、どんな社会に暮らすことになるのだろう。
 今後、数年で六十代半ばを迎える自分の暮らしのイメージは、まったくつかめない。
 覚束ないことこの上なし。
 
 しかし、いろいろな意味で‘情報力’は大事だ、ということは、私にも理解できる。
 
 
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カンブリア宮殿 電子書籍

2010年12月13日 18時53分46秒 | Weblog
 12月9日「カンブリア宮殿」を、知人からDVDにコピーしたものをいただいて見ることが出来た。
 その冒頭で電子書籍にまだ入っていない本を取り込むサービスの話がでてきた。
 オ・ド・ロ・キ!!!!!
 
 そしてサジさんからは、自炊(自分の本をスキャンしてデジタル化する行為を言う)する機器・ページスキャナーは三万円~4万程度で、すでにヒット商品になっている話を伺った。
 それなら電子書籍端末を買って、自炊するのも悪くないかな、と心が動いた。
 
 また週刊ポスト「孫正義が熱弁90分」のインタビュー記事コピーもいただいた。
《「光の道」構想で紛糾、国際競争力は低下の一途。「日本病」をどうすべきか》
 
 米国GE社が、日本の医療現場に乗り込んでくる記事も読んだ。
 もうこの道は止められないだろう。
「ITおのぼりさん(私のこと)新宿を行く」体験から、それなら乗ってみようじゃないの!って、見栄を切りたいところだが、ついていけるのかな?

 二週間前の朝日カルチャー土曜日クラスで‘電子書籍’と‘電波’のことについて熱弁を振るってしまったが、皆さんが関心を持ってくださった。
 そのお蔭で、いろいろと情報をいただけるのは、まことに有難い。

 カンブリア宮殿の短いダイジェスト版をここでみることができます。
 http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/
 
 電子出版社を設立した村上龍氏の話が聞けます。
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新宿でIT機器おのぼりさんが電子書籍に触ってみる

2010年12月12日 09時34分55秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャーでのレッスン前ではあったが、紀伊国屋書店本店と隣のビックカメラとソフトバンクに立ち寄った。
 実は出かける前には、ソニーの「リーダー」を予約することでほぼ心は固まっていた。なぜってソニーのWebサイトで、しっかり内容も見て「これっていいよね~」ちょっとワクワク気分だった。だから、実際に触ってみよう、という気持ちがうごめいた。
 それは正解だったのだ。触って見なければわからない、ということで正解だった。
 実際に「リーダー」を読んでみると、とても読みやすいし、付箋も線引きもメモも出来る機能は、本と変わらない。
 しかし、である。次の瞬間、からだの中から違和感が首をもたげた。
 ページをめくって、次のページが開かれる間、ものすごく短い時間だけれど、画面が暗くなる。めくる作業をするたびに‘明暗のチェンジ感’が目障りなのだ。もう少し何とかならないのかなぁ~。
「やっぱり、ページめくりの滑らかさはiPadなのか~」
 とにかくここは比較が肝心だ、とばかりに隣のビックカメラに平行移動。

 シャープのガラパゴスに触り、文章を読んでみた。
 持ち運びには5・5型だが、10・8型の画面は、文字の鮮明さの桁が違う。映像もとても美しい。ページめくりも滑らかだ。日本の技術にはiPadをしのぐものがある!心の中で拍手する。日本人としてそこは嬉しかったですネ!!!! 
(でも、コンテンツの面でiPadにかなわないのかな?ムムムッ)

 しかし、まだ、やらなければならないことがある。
 その店を出るとすぐのところにソフトバンクがあるからだ。感覚が薄れないうちに、触ってみること。
 店の入り口近くにiPadが展示されていたことは、事前に確かめていた。ここでもお試しができる。何度か触ったことがあるが、初めて触れる感じで、先入観を棄てて取り掛かる。
 やっぱり、日本の本や新聞や雑誌をよむことが目的なら、‘ガラパゴス化した’と言われる悪口もなんのその、私の中ではシャープに軍配を上げているのである。

 そこで、はた、と考える。思い浮かべる。
「どんな姿勢で読んでいるの?」
 それはいろいろだ。机に向かって読むこともある。椅子に腰掛けて読むこともある。寝ながら読むこともある。もちろん乗り物に乗って読むこともある。
 つまり、ヒトの特権を駆使して、多様な姿勢で読んでいる。
 それにすべて対応することは、端から望んでいない。望んではいないが、これまでの紙の本の姿勢に対応する汎用性は凄いぞ、って感じだ。

 次に考えたこと。
 我が家には光が入っているが、今は有線で使用している。無線LANにするにはどうしたらいいの? この問題解決はそれほど難しくなさそうだ。

 しかし、その点を解決してもまだ、何かありそうだ。
 それは品揃えだ。
 欲しい本や雑誌や新聞が他の端末でしか読めないとしたら、そりゃ不便でしょ。
 配信サービスをクリアするためにすべての端末を持つなんてしたくない。いやいや、できないよね。

 といったわけで、都立中央図書館で感じた‘待ち判断’に帰結。
 帰宅して思ったこと。
 2002年から使っているパソコンを何とかしよう。
「来年は、我が家のIT環境を大幅変更するぞ」ってこと。
 パソコンの性能はよくなって、価格は驚くほど下がったのだから。
「今頃何をおっしゃる」と、言われそうだが、耳をふさぎたくなる喧騒の街・新宿で‘IT機器おのぼりさん体験’が、そうした決意を促してくれた、のでありまーす。
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「人は一代、名は末代」

2010年12月10日 08時42分33秒 | Weblog
「日本ことわざ文化学会」は、明大和泉校舎 山口政信研究室に籍を置いている。
 山口先生とは、授業と授業の合間、短い休み時間に、週に一回お目にかかっている。
 先日、『ことわざに聞くーその魅力と威力』日本ことわざ文化学会編 人間の科学社刊をいただいた。

‘ことわざ’は、まさに‘こと(言・事)のわざ(技・業)’で、生きる知恵の宝庫であることがこの本から読み取れる。
 日本文化は、この‘わざ’抜きではなりたたない。その道の玄人は、わざを身につけた人のことだ。

《わざ(技)は、技術・技能の意で、会話にも文章にも使われる基本的な和語。
因みに外来語のテクニックは、物事を巧にこなすための特殊な技をさす。小手先の技術を連想させやすい、とある。
 わざ(業)は、行為・仕事といった意味合いで、やや改まった会話や文章に用いられる古風な和語。》
 以上『日本語 語感の辞典』に対して、『岩波 古語辞典』によると次のような意味が記されている。
《わざ(業・技)は、こめられている神意をいうのが原義。ワザハヒ(災)・ワザオギ(俳優)のワザ。深い意味・意図のこめられた行為。技術。芸。手段。たたり・あだ・害。》

 子供のころから会話の中で、行為と結びついて耳から身につくのが‘ことわざ’らしい。人生訓をやさしく教える‘言技’なのだ。
 そして和語のワザには、たたり・あだ・害まで籠められているのは、日本人の宗教観、つまり「神意」の受け止め方が顕されている。全てが裏表。仇名す神もいる、と言うわけだ。
「棄てる神あれば拾う神あり」みたいに、意地悪でやさしいのがことわざ。
 ほっとしつつギョッとしつつ、波間に漂うごとき人生の浮き沈みに、どう対処するのかを自然に教える社会があったことをうかがわせるのが‘ことわざ’の世界らしい。

「最近はことわざの英訳に取り組んでいるんです。でも、難しい。たとえば‘膝が笑う’英訳するのが大変」
 困った!とおっしゃりながらも、山口先生は笑みを浮かべながら話された。
 クソ真面目にうけとれば「膝は笑いません」。それじゃダメじゃん、はじめから話にならん。
「英訳すると説明をつけなければならないんです」
「説明すると、鬱陶しいですね」

 説明と言うのは合理性と整合性があってなりたつ。
 しかし、身体感覚としてピタッとした表現‘膝が笑う’感じは、この言葉でしか伝わらない。説明でないところに含蓄が隠されているのが‘言技’。合理性だけで解決しようとすると、世の中がギスギスする。結果といして閉塞感から脱せられなくなる。
「ひっくり返してみる」と、出口が一つでないことが発見できるんだよね。
 
 私が思う‘ことわざ’がもつもう一つの魅力は、俳句や川柳の伝統から生まれたところから来るチェンジ感だ。
 短くスパッと言い放つ‘キレのよさ’が、笑いをさそい諦めを促し、次なる行動へと駆り立てる。いつまでも根に持ってぐずぐずしない良さだ。

 今日もまた、だらだらとしたブログになった。
 ご免! 最後にひとつ。

「人は一代、名は末代」
 海老蔵君、背負っているものが、実に重いですな~!
 

 
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「たかが酒飲みの喧嘩」と乱暴に言い放ってみたものの……

2010年12月08日 07時24分32秒 | Weblog
 昨晩、NHKの8時台の番組で「海老蔵 無期限で出演停止」のテロップが流れ、8時43分には臨時ニュスが挿入されて同じ内容が知らされた。更に9時からのニュースではトップの扱い。謝罪会見が長々と流された。

 この一件、酒のみの喧嘩で片付かない理由をあげつらったら、なにやら危ない先方の事情も含めていくらでもある。としても騒ぎすぎだ、と個人的には思う。
 落ちたヒーローの姿を、一目みたいのか?
 NHKまでもが大仰に取り上げていたのには驚きつつも、正直なところ私だって顔の傷がどんな様子か?だけは、非常に気にかかって見ておきたかった。
 昔から、額を中心に顔の出血は傷の割には華々しいが治りやすい、と言われている。
 ご本人の違和感や不自由さは別として、見たところに関しては、虎ノ門病院の威信にかけて全力を尽くしたことがはっきりわかる。あの程度ですんでよかった、と胸を撫で下ろした人は多かろう。

 さて、会見を茶番劇とまではいわないが、あそこまでしなければならないということは、双方に曰く言いがたいドロドロを見据えた計算があるんだろうな~、と勘ぐってしまう。
 願わくば将来の人間国宝団十郎さんには、もっと粛々とおさめてもらいたかった。まだ、終わってませんけど。

 そこで言わせてもらえば、かつて‘芝居もん’は、もっと奇麗に遊んだのよ。また周りも遊ばせてくれたことを思えば、海老蔵さん、遊びの修行が足らん!
 いまや歌舞伎は日本文化を代表する‘藝術’になってしまった。
 人間国宝なんてクソ食らえ!くらいの気概があったら、大馬鹿もんになって羽目をはずすがいい。しかし、いまや、それは許されないことが今回の事件で明白となった。素行はさておき、舞台がよければいい、とはいえない時代なんだ。
 
 なぜか瀬戸内寂聴さんの顔が浮かんできましたね。
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「もやしもん」いや「電波もん」、いるわけない!

2010年12月07日 18時58分03秒 | Weblog
  朝のラッシュ時の車内で、携帯電話をする40代男性を注意した60代男性との間で、揉め事となったらいい。
 車掌が仲裁に入ったらしいが、ホームに降りも諍いは終わらなかった。
 そのためにドミノ倒しのように後続電車が、次々に止まってしまった。
 車内の迷惑行為を注意した60代男性の勇気が、何万人もの人々に迷惑をかける結果を招いた。なんと皮肉で不幸な出来事だろう。
 すでにそうした傾向が強いが、迷惑行為に対して恐くて注意が出来なくなる。
 困ったものだ。
 ただその場に居合わせたわけではないから、本当のところの詳細は、ニュースの範囲ではわからない。
 しかし、百歩譲って、ムカッとくるような注意のされ方だったとしても「ごめんなさい」と誤ってやめれば済むはずではなかったか、と思う。
 この二人にこれといったお咎めはなかったそうだが、電車を止めた弁償を求めるのか検討しているとか。悩ましい話だ。
 
 空間を彷徨う菌がことごとく見える主人公「もやしもん」のように、飛び交う電波が見える「電波もん」がいたら、生きるのが大変だろうなぁ~。目障りでいけない。うるさくてうるさくて仕方がない。車内のような狭い空間だったら身を置くことが苦痛になるはずだ。
 
 なんとも便利は不便。
 如何にしたものか。
 このところ書いている、電波問題は、実に身近な問題だった。
 770~800MHzをあけわたす期限は、地デジ化に完全移行まで!
 時はすでに迫っているの?
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携帯シンドロームにご注意!!

2010年12月06日 19時17分44秒 | Weblog
 日曜日の昼さがり。
 電車のドア脇に立っている若い女性が目に入ってきた。
 背中には管楽器らしきものを背負っている。耳にはiPodのイヤホーンが差し込まれ、音楽を聞いているらしいことが傍目にもわかる。そして、片手にiPhoneを持ちながら親指を器用に使ってメールを打っているらしい。なんと親指の動きの素早いことといったらない。

 そして本日。
 御茶ノ水から乗った電車では、男性二人の中に腰掛けた。
 右となりは30代とお見受けした。ドコモの携帯でメールを夢中で打っている。昨日の若い女性ほど速さはないが、それでもかなりのスピードである。
 左となりは初老の男性。こちらはメールを読んでいるが、とても小さな文字だった。さすがに目から携帯までの距離が相当に離れていた。老眼であることがはっきりわかる。そのとき電話が鳴った。立ち上がってなにやら会話をかわしすぐに腰をおろした。

 こうした風景は当たり前の日常となった。そしてスマートフォンが増えてきた。
 私がiPhoneをもったときには、この機種を見かけることはほとんどなかった。時々気障なおじさんがこれ見よがしに使っている姿が鼻についた。
 それが今年になってから急に増えたこともあって、もう目障りでもなんでもなくなった。
 
 電車のなかは老若男女を問わず、携帯空間である。
 電源を切るように指定されている‘思いやり席’に座っている高齢者が携帯を見ているのだから、禁止したって無理だ。

 あれよあれよ、という間に、普及してして、出先まで追っかけてくる電話やメール。
 いやはや、目の疲れ、うつむき姿勢の肩こり、親指腱鞘炎になりませんように、と祈る車中での私。
 我ながら、お節介この上ない!昨今である。
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iTunes U 情報公開 ……そして

2010年12月05日 08時59分47秒 | Weblog
 ウィキリークス問題が世界を揺るがしている。
 国家的機密に対して、言論の自由、出版の自由、IT上の表現の自由の問題が、緊急の課題として論じられている。
 とにかく時代は大きな革命的転換点にあることを、連日、実感させられる。

 さて、私の身近でも‘時代が変わった!’そんな知らせが届いた。
 毎月、郵送される「明治大学広報」の‘論壇’に、「iTunes U」から、今年8月に、明大が東大・慶應・早稲田とともに、大学情報を配信するようになったという報告があった。世界中にくまなく配信されるから驚きだよね!(←一昔前の人間の繰言かも)
 
 このサービスは世界中800以上の大学の授業コンテンツを配信し、また大学紹介の広報戦略にも活用されている、という。
 情報氾濫時代に、受け手側による情報選別の幅を設けることが重要と考えられるようになったことが積極的な参加の思惑。
 つまり、ホームページだけの発信では、適切な誘導手段とはなりえない、ということがこのサービスを利用する発端であるようだ。

 参加するにあたっては、アップル社が配信コンテンツの教育的な質やサービス開始後の継続的運営などについて厳格な審査を行っているという。
 さっそく私も購読してみた。自分のパソコンから居ながらにして、欲しい情報をアッという間に選び出すことができる。世界の大学の授業を学び、どのような大学かを知る。まさにIT時代の凄さなのだ。

 だが、待てよ、こうした配信も電子出版等々も、すべて米国の一企業であるアップル社の見識を、まず、信じることから始まる。なんという時代が到来したことか。
 もしかして、私たちは、これまで‘幻想としての権威’にすがっていきてきたのかしら?!と思い知らされる。これってかなり重要な気づきに違いない。権威に対する眼は自分の中で育てなきゃならんぞ!ってこと。本来、何をよしとするのかは、自己責任の領域にあるのだ。

 そして別件だが、日経新聞12月5日朝刊によると、「家庭用光回線 速さ1000倍」大容量映像・遠隔医療……の記事にも目が釘付けとなる。
 情報通信研究機構とNTTなどの民間8社は共同で、インターネット回線の通信量を1000倍に増やせる技術を開発した、と言う内容の記事だ。居間の壁全面を覆う巨大ディスプレーで映画館並みの鮮明な映像を遅延なく楽しめる。それだけでなく遠隔地の患者の映像を見ながら治療や手術方法を指示する‘遠隔医療’にも利用できる、という。
 いやはや、この変革の超高速スピードについていけない人間のからだ!に危惧の念をいだきしつつ、関心を向けてしまう自分に苦笑している。

 本日のブログ:電磁波の民生(教育・医療)での利用に、どこがどのようにかかわっているのかを知る手立てとなる二つの記事から。
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