羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

宣伝させてください

2016年01月28日 14時49分08秒 | Weblog
『私の「戦後民主主義」』岩波書店編集部編 岩波書店 これほどの方々に混じって、私でよかったのだろうか?と思いつつ、ページをめくっている。
 しかし、田原総一朗さんの『正しい戦争などない』74頁から、加藤登紀子さんの『自分を裏切らずに、自分を選択する勇気を』、鳥越俊太郎さんの『「戦後一期生」として』、赤川次郎さんの『民主主義と母の涙』、尾木直樹さんの『平和を学ぶことは危険なのか?』、その次に羽鳥の『からだの民主主義』が掲載されている。
「おッ!」 
 本の真ん中少し後にあって、ありがたいやら、うれしいやら、でドキドキしてしまった。
 6人目にきているのだけれど、その先もふくめて話がきれいにつながっている。
 それぞれの生まれた年が、それぞれの行動の違いとして、鮮やかに描き出されている。
 つなげて読んで、私自身が言いたかったことや考えていたことが、より鮮明になった。
 
 第一次世界大戦1914年生まれの野口三千三が生まれる以前の吉岡町から出発して、旅を始めたわけだけれど「からだ」のとらえ方が、時代によってどのように変化するのかが、近現代史に沿って見えてくる。
(遠慮なく言わせていただけば)そのこととしっかりオーバーラップする6話のつながりだ、といえるような気がしてきた。

 2000字で、というご指定をしっかり守って書いたのだけれど、2000字でまとめている方もあれば、減ることはなく増えている方の方が多いことに気づかされて、卓上計算機を横においてどれだけ苦労して文字数を数えただろう、と思い出してつい笑ってしまった。
 初稿ゲラが出てきたときに、“あと1行は足していただけます”という付箋にしたがったが、慣れないってことはそういうことなのだ。

 二日目、これが、私の宣伝広告であります。
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『私の「戦後民主主義」』

2016年01月27日 09時46分39秒 | Weblog
 一昨日、岩波書店の編集のNさんが、本日発売になる『私の「戦後民主主義」』の見本を届けてくださった。
 帯には、《「ありえない」ことが連続するいま、これだけは言いたい》38人のメッセージとある。
 各界を代表する方々に混ざって、自分の名前を見つけたときには、ドキッとして付箋が入っているページをめくってしまった。
 書いていたのは昨年の9月~10月だった。
「1950年生まれまでの方に、おねがいしました」
「すると私が1949年なので、若い方なんですね」

 まだ丁寧に読んでいないが、「戦後民主主義」というテーマで語られた内容は、38人、38通りであることだけは伝わって来る。
 戦争をかなりの年齢で体験した方、戦争を十代で体験した方、戦後生まれの方、短い文章がまとめられているところに読む醍醐味がある。

 どうぞ、手に取ってお読みください。
 書名  『私の「戦後民主主義」』
 野口体操公式ホームページにリンクしました。
 実は、ここから入っていただくと、岩波書店のホームページ内にある本の内容を見ることが、楽にできます。

 
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「ホメオスタシス」と「アロスタシス」

2016年01月24日 12時32分04秒 | Weblog
 朝日カルチャー「野口体操講座」の2016年1月期から、『野口体操 感覚こそ力』をテキストにレッスンをしていることは、以前のブログにも書いた。
 昨日、23日土曜日は、『「体液主体説」と「ゆり・ふり」』を取り上げる予定で、刷り物も配布し、レッスンを始めた。

「ゆり、ふり」「ゆらぐこと」がテーマだったこともあって、丁度、23日付け「NIKKEI プラス1」で見つけた、北村昌陽さんの記事も紹介しながら、すすめることも決めていた。

 さて、「ホメオスタシス」は、「恒常性維持」と訳されて、ほとんどの日本人には馴染みのある言葉となっている。
 一方、「アロスタシス」は、「動的的適応性」と訳されていて、こちらは馴染みがない方もいるかと思う。
 記事に従えば《運動時には、血圧や心拍数が高まり、休むと速やかに下がる体の方が健康だととらえる》
 で、記事の主眼は、「心拍のゆらぎを知ろう」というもので、呼吸と心拍数の関係を解説している。

 呼吸のうち「息を吐く」ときは、肺の酸素濃度が低くなって、心拍はペースダウンし、血流も当然のことにダウンする。
 呼吸のうち「息を吸う」ときは、肺の酸素濃度が高くなって、心拍はペースアップし、血流も当然のことにアップする。
 つまり、心拍リズムというものは、微妙に揺らいでいて、よく揺らぐのは健康なあかし、だという。
 これが動的適応力=アロスタシスである。

 心拍と呼吸の図が載っていて、一目瞭然。これをもとにさまざまな動きで確かめてみた。
 自分でチェックする方法のイラストを参考にしたが、ここでは二人組でやってもらった。
 というのも自分の腕で脉をとってもらった時、
「あぁー、脉がない!」
 そうおっしゃる御仁もおられたこともあって、今回は、二人組の方法を選んだ。
 すると
「私、生命力が枯渇していて、はっきり揺らがないかもしれない」
 最初から自信なげに逃げ腰の方もおられた。

 どこまでできるか、まったくはじめてのこころみだったので、不安半分、期待半分で「いざ、はじめましょう!」
 時間の経過のなかで、繰り返し交替しながら、確かめてみた。
 昨日のテーマ「ゆり、ふり」。
 そのなかでも「寝にょろ」は、抜群の結果が出てきたのである。
 生命力が枯渇しておられるという、女性を試したときのこと。
「よーく分りますよ!ゆっくり吐いてもらったときと、吸ったときでは、心拍が変化してます」
「まぁ~、嬉しい」
 どこで感じられたのか、というと床から少しあげて左右に揺れを起こし、胴体に伝えていく「寝にょろ」を行うために持った相手の足で脉を感じたときだった。

 皆さん、面白そうに、試すこと40分以上経過。
「最初のテーマは、どこにいったの」
 内心、慌てる私だった。
 しかし、脉をとることに、これほど関心が深いとは!?
 初めてはないが、今回は前回の比ではない。
 皆いちおうに熱心で、それぞれが何かをしっかり感じているようだった。

《吸っているときは多くの酸素を取り込もうとする》
《吐いているときは心臓が疲労回復をはかっている》
 一時も止まることなく働き続ける心臓にとって、《よく揺らぐ健康な心臓をキープするのに大切なのは、まず休息。「心拍は、体が休んでいるときに揺らぎやすい。略」(早野氏)》
 運動も大切で、オンとオフのメリハリをもつ暮らしのすすめである。
 
 今回は、心拍と呼吸の関係を確かめるために「寝にょろ」が選べたのは、野口体操ならではである。
 そしてレッスンの最後には、『野口体操 感覚こそちから』から、46頁、「ゆ」の音のこと、「ゆり・ふり」のことから、からだと心が一体になった野口三千三独自の“まるごとのからだ観”を表す言葉でしめさせてもらった。
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戯言

2016年01月21日 09時09分59秒 | Weblog
 年末年始、そして今月中旬まで、日常的にしなければならないことに加えて、2月から3月にかけての15回集中講義や4月から新しく始まる大学に提出する書類やシラバスつくりで、パソコンの前に座っている時間が長かったが、あとは内容の具体的な準備だけになった。ホーッ!一息。
 秋学期の授業も本日で最終日。後はテストとリポートを受け取って成績を出すだけになった。
 そんなゆとり気分からか、今週は自分の体操時間をたっぷりをとることができた。

 丁度、新年からのレッスンでテキストにしている『野口体操 感覚こそ力』を読み直し、調べ直し、DVDを見直して、野口三千三存命中に引き戻されて、気分一心、貴重な自習時間となった。
 が、それは残酷な現実を実感されられる時間でもあった。
 実に、実に、「上体のぶら下げ」等々、最近の練習は形だけを追う稽古になっていたことに、愕然とした。
 
 なんとしたことか、すっかり初心を忘れていた。
 なんとしたことか、 “佛つくって魂入れず” 状態であった。

 そうしたことを、からだそれ自体が教えてくれた。
「ごめんなさい」
 なんに謝ったのかはわからないが、「これではいけない!」とばかりに、見失いかけていた自分に還っている今週である。
 すると見えてくる景色が変わっていた。
 分っていると思いこんでいた動きが、まったくあやふやな理解に過ぎなかった、とからだが覚醒した。
 
『野口体操 感覚こそ力』は、野口三千三の授業を描く書き方をしていたことが、私にとってはよき教科書になった、と思っている。
 体操不得意、体操嫌いだったが、こと野口体操に関しては、不器用故にここまでやってこれらた、と否定しない自分に出会えた。1月期からの日曜クラス、多くの新しい受講の方々が、そろって本を読み込んでいらっしゃったことも刺激になった。考えてみれば、野口体操の本もDVDも沢山手元にあるではないか!
 自習の材料には事欠かない。

 さて、4月8日には67歳になる。これからどれだけ残された時間を生きるのかはわからない。
 70歳を前に、今が最後の出直しの時かもしれない。

 1月26日には岩波書店から『私の「戦後民主主義」』が出版される。
 子供時代の思い出から書きはじめたが、思えば随分遠くに歩いてしまった!
 予期せぬ出来事の連続で、今、ここに立って生きているんだなぁ~。

 確実なことは、自分のからだは正直で、ごまかしはきかない、ということ。
“自分に還る” 体操の自習時間は、私の自由時間でもある。
 授業のためでも、レッスンのためでも、本を書くためでもない。

 もしかすると、ようやく野口体操が羽鳥体操になり始まった、のかもしれない。
 そんな気がする大寒の朝である。
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記録と記憶

2016年01月17日 09時43分00秒 | Weblog
 2016年の朝日カルチャーセンター「野口体操講座」の土曜日クラスは、昨日で2回目が終わった。
 実は、昨年末に、ある方が大学の授業をするときに『野口体操 感覚こそ力』から引用させてもらいました、と話を聞いた。
 また、今現在、教室に通って、野口体操に熱心に取り組んでいる女性が、この本を読みながら自主練習をしていると、気づかされることが多い、ともおっしゃる。

 そこでしばらくぶりに、自分自身で読み返してみた。
 いっそこの本をテキストに、レッスンをやってみよう、と思い立った。
 そこで2016年の正を機に、本を読み返し、あたらしく野口先生によって委ねられた「もの」を、章ごとに思い出しながら、持っていけるものは教室に持参することにした。
 
 野口先生が亡くなってことしで満18年。
 1998年当初から、貴重な「もの」や先生の華麗な「ことば」は、封印してレッスンをしてきた期間が長かった。
 それはかずかずのものがないと野口体操が伝えられないのでは、指導できる人間が少ない上に、もっと限られて狭まってしまう、と考えたからだった。
 しかし、本格的に封印を解いてみよう、と年があけたのをきっかけに下腹に力を込めた。

 はじめてみて気づかされたことがある。
「もの」もさることながら、本だけではなく「野口三千三授業記録の会」でつくってきたDVD記録、柏樹社が月刊「柏樹」に連載させてくれた「野口三千三授業記録」の文章なども、テキストを読み解くためには大いに役立っている。
 記録は、記憶を、しっかり甦られてくれるのだった。

 例えば、ひとつだけ挙げれば、昨日のレッスンで紹介した1995年6月号No.147『柏樹』に書いた「遡ることは朔じまること」のなかで、体調を崩された先生から電話をもらい、駆けつけた西巣鴨のご自宅の玄関に挟まれていたメモのことが書いてあった。
『K病院に生きます。滝野川消防署』
 私の記憶のなかからは、すっかり消えていたことだったが、この一行にもみたない14文字によって、当時のことが、昨日の出来事のように隅々まで甦った。
 書き残しておくことの大事さをつくずくと知ったのだったが、それ以上に柏樹社の編集のNさんが書かせてくださっていたその思いも甦って、今になってありがたく、感謝のひとことを申し上げたいが、全く疎遠になってしまっていることが残念でしかたがない。
 
 そして同じく昨日のことだが、トライアルで参加された女性は、このブログを読んで飛んでいらした、という。
 野口体操の本を丁寧に読んで、自習し、ダンスをされているだけに、動きもかなり正確に捉えておられた。
 が、親御さんの郷里がこのところ触れている“私の「群馬の旅」”を読んだことが行動にむすびついたという。
 レッスンの途中でそのことを聞いて、まだ二回しかたずねていないのだが、すっかり“群馬びいき”になった私の思いが彼女に伝わったことがわかって、ものすごく嬉しかったのだった。

 本日は、日曜クラスの初日。
 新鮮な気持ちで、レッスンに臨みたい。
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夢のなか……佐渡奉行街道をゆく

2016年01月13日 10時10分32秒 | Weblog
 昨日、路線バスに乗って伊香保まで行ってみたいと、このブログに書いた。
 実は、野口先生の実家のある吉岡町大久保というところは、佐渡奉行街道の大久保宿場があったところ。
 調べてみると、「佐渡奉行街道」は高崎回りの三国街道が整備される前の三国街道古道で、江戸と越後・佐渡を結ぶ幹線道路であった。

 利根川の西側を午王頭川と駒寄川まで南北2キロメートルに渡って形成された宿場町。
 野口先生の実家からすぐのところに、大泉寺があり、養蚕農家群が残っている。
 伊香保街道と呼ばれる道は、大久保の宿場から佐渡奉行街道を西に別れて、水沢街道を通って伊香保に向かった。

 整理してみると次のようになる。

 三国街道は、高崎から金古、渋川を通って、越後へ六日町、長岡、関中島、渡ー(寺泊)
 佐渡奉行街道は、(新町)烏川(高崎城がこの川のほとりに建っている)、総社、大久保、八木原ー(渋川)

 日本橋を起点とすると、中山道を高崎城でおりて北上し総社、大久保をとおて渋川へ、そこから越後に入っていくルートだった。現在の上越線のルートなのである。

 つまり野口先生の実家は旧家と書いたが、なんでも江戸期の墓を少年時代に確認して、極貧の暮らしの中で、尊厳を取り戻したという話を伺ったことがある。その話を思い出して、先日たずねた大泉寺で、元禄あるいは文化文政の文字が刻まれた墓石が、墓所の一隅に集められている姿を写真におさめてきた。
 
 実家がこの街道筋(幹線道路沿)にあるという立地を考えると、地芝居に身代を傾かせたおじいさんの存在が以前にも増して浮かび上がって来る。
 人が行き交い、物流があり、文化が南北に交流する、さまざまな条件を想定してみると、野口三千三を育てた町の時間軸を引き延ばして見たくなる。
 
 そして越後から江戸へ下ってくる途中で、大久保宿から北・東・南・西へと見渡すと、上毛三山を背に山麓のなだらかな傾斜地から前橋(厩橋)・高崎方面にむかって利根川がゆったりと流れ、標高およそ二百メートルほどの高台から、標高百メートル以上の差があるところを見下ろす風景からは、或る種の開放感が得られるのではなかったか、と想像している。
 今では、元日の日の出スポットとして人気があるという上毛大橋に佇んで見た三百六十度の景観に、私自身が開放感を得た三日前の記憶が風の音とともに甦ってくる。
 
「群馬は捨てた、いや、群馬には帰れない」
 野口三千三の深層に、しっかりと根付いている郷里への思いが、こうした土地の条件や歴史に支えられていることに思いを馳せている。

 寛永寺の墓所を手に入れる交渉にご一緒した時のこと。
「この墓の位置は、高崎をむいているから、ここにしたい」
 それが最初の言葉だった。

 そして東京のご自宅があった西巣鴨は、旧中山道から一歩入ったところにあって、「旧中山道」という言葉を発するときの先生の声には、独特のニュアンスをいつも感じていたことを、はっきり思い出した。
 街道は人の記憶を辿る具体的な、まさに道程なのである。
 旧中山道、旧三国街道古道、佐渡奉行街道、水沢街道、伊香保街道、そして「大久保宿」という街道名や地名が、今や単なる名称ではなくなってきた。
 私にとっての群馬への旅は、そこに生まれ、そこで育ち、そこから出立して生きた人との時空を超えた交流を促してくれることだった。
 水沢街道・伊香保街道の路線バスに乗ってみたい、といった昨日の記述は、西巣鴨の旧中山道から始めることだった、と得心した。
 街道を歩く夢で目を覚ました中身は、こういうことだった。
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本気度

2016年01月12日 07時38分07秒 | Weblog
 今朝は、昨日とは打って変わって冷たい雨。雨だけでなく、シャリシャリと音を立てる小さな氷の粒が混じっていた。
 野口先生が晴れの天気を呼び寄せて、どんどん焼きを見せてくれたのに違いない。
 青い空にくっきりと浮かぶ山の稜線。
 上毛三山の赤城、妙技、榛名に加えて、大宮から乗車した「新潟行Max305」二階建て列車の中からは富士山、群馬に近づくにつれて行く手左前方には同様に白く雪を冠した浅間山かと思われる姿が見えていた。
 火山は裾野が広い。山麓がどこまでの広がり、美しい姿である。
 前回には見られなかったが、利根川も深い青をたたえている水が流れているところを上毛大橋の上から眺めることができた。

 この辺りは日本の多くの地方都市、市町村のご多分にもれず、一人一台の車社会である。車を持たなければ不便で仕方がない。上越線・吾妻線が停車する群馬総社駅の時刻表を見ると、東京在住で殆ど旅に出ない私にとっては唖然としてしまう。昼の11時台は1本しかなく、ほかはせいぜい2本なのである。
 ところが高崎駅では、上下線とも新幹線の接続はよくできているダイヤだ。
 路線バスに至っては2時間に1本という状況。
 たとえば、先生のご実家、大泉寺、大久保宿養蚕農家群、そこを繋いでいる伊香保までの旧街道を始発から終点まで、一度は乗ってみたいと思っているのだが……。これはちょっと無理かも。

 さて、さて、これからまだ最低で3回は、群馬を訪ねたい。
 いつになるのかは分らないが、近藤さんにご一緒していただき、町役場、先生が通ったり教えたりした小学校、上毛新聞社等々を回るのが一回。
 地芝居を見たり調べたり、最終的には佐治さんにも群馬縁の主だった所の写真を撮っていただきたいし。
 春夏秋冬、四季の空気・風・水、幸いというか何というか、空っ風にはあっていないのでどんなもんだろう、と思ったりしている。

 ここからは我が家の事情。
 昨日は連休最後の日ということもあって、混雑を予想してはやめに帰路について正解だった。
 勿体ないといえば言えるのだが、はやり一人残して行く母のことを思うと仕方がない。
 前日から母と過ごす時間を増やして、話をし、当日はお昼のお弁当をつくっておく。
 夕方はやめには帰宅し、夕飯はしっかりあたたかいものを食べてもらう。
 これだけははずさない事にしている。
 出かけるときも、相当な覚悟をして「さぁ~、出かけるぞ!」と心のうちに秘めて、準備をする。
 その本気度を察してくれているらしく、気持ちよく朝も早くから朝食を食べてくれる母だった。
 はやめに帰るということがお年寄りにはよいようだ。寂しくなるのは夕方から夜なのだから。

 そうした母への気遣いから、時間短縮の為に新幹線を使っている。たった二回のことなのに、乗り換えもスムーズにいくようになって、乗り換え時間内で買い物やトイレタイムもしっかり計算できるようになっている。万々歳であることも書いておきたい。
 そして在来線から下車したら、自分の足で歩いて土地勘を磨く。歩けるうちが花というものだ。
 時間をかけて、回数をかけて、通うしかない。といいながら、旅をするのは楽しい。知らない町を歩くのは楽しい。
 名所旧跡でなくても、ごく日常の暮らしの場、失われた過去の残像を求めて、歩くのはオツなものだ。
 吉岡町を例に採るならば、明治期に日本からの輸出額の半分を生糸が担い、そのうちの三分の一が群馬県産だった。養蚕農家としてはかつての吉岡村(駒寄・明治)はその中心でもあった。その産業はいまでは殆ど失われてしまった。
 現代日本の中心産業は生糸から自動車にとって変わられた。一方でアメリカではデトロイトが無惨なことになったことも記憶にあたらしい。トヨタに追い上げられたGMの姿は、映画『グラントリノ』でしっかり描かれていたし。
 世界を見渡せば、一つの産業の隆盛は、百年というところだろうか。時代の変化の中で、産業構造が大きく変化し、人々の暮らしぶりは時代とともにあることが、群馬の養蚕農家群をたずねてみると具体的な姿・形として目の当たりできるところがすごいと思う。
 昨日も、大きな家の敷地の一部に、桑の木を残している家を見つけた。正確には数えなかったが、その本数たるや20本くらいだろうか。
 かつて見渡す限りの桑園が赤城山や榛名山の山麓に広がっていた風景を想いながら、その残された桑の木に、やるせない気持ちが沸々と湧き、思いを寄せてみたくなった。
 
 そして高崎駅で求めた駅弁は、デコイチをデザインしたものだった。
『D51 498 上州D51』デコイチの顔が描かれた黒く丸いお弁当箱に、箸まで黒でD51 498 と印が入っている。
 観光用に春から秋に運転されているデコイチである。好きな人にはたまらない駅弁らしい。
 こうしたノスタルジーを味わうのも、旅の味わいなのだ、とどこかの観光案内にしっかり書かれているのと同様な思いをさせてもらったが、実は複雑なのである。
 さっ、今度は5月。
 野口三千三を巡る旅は、東京は初台である。
 昨日のうちに、ダンス公演「江口・宮アーカイブ『プロメテの火』」の切符を、セブンイレブンにとりに行った。

 
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どんどん焼き……大久保集落散策

2016年01月11日 14時52分16秒 | Weblog
 1月11日、群馬県吉岡町大久保集落センターで行われたどんどん焼きを見てきました。
 高円寺を朝6時56分の千葉行きに乗って出発し、前回と同じコースで群馬総社に着いたのが9時1分。
 9時10分から始まる行事には間に合わないと思い、タクシーに飛び乗って、火をかける寸前に間に合いました。
 風が強く、灰が降ってきましたが、このくらいの風は大したことはないのかも知れません。
 この場所は午王頭川のほとりにあって、新しい住宅も建っている場所でした。
 消防自動車が待機していたものの、火ではなく川に向けて放水していました。
 帰りがけに甘酒をいただき、お土産までももらいました。
 ビールや日本酒、おつまみ、ミカン等々、子供向けではなかったことに苦笑してしまいました。
 野口先生の話によると、昔は子供たちに振る舞われたものが楽しみであった、と。
 今日の参加者は子供よりも大人の方が多かったような印象です。

 それから三津屋古墳、大久保宿養蚕農家群から大泉寺、そして上毛大橋から利根川・赤城山・妙義山・榛名山を見ながら、動画を撮影。
 お天気がよく、風もあっても、上州の空っ風というには穏やかではなかったか、と思える程度の風に吹かれて、群馬総社へ徒歩で戻りました。

 思うことはいろいろありますが、今日のところはここまでのご報告です。
 二回目の群馬は、日和下駄ではなくスニーカーで散策、といったところです。

 
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かいこの村

2016年01月05日 13時37分23秒 | Weblog
 『かいこの村』撮影・熊谷元一 1953(昭和28)年 岩波写真文庫、その〈復刻版〉1988(昭和63)年の本が、昨日郵便受けに投函されていた。Amazonに申し込んだら、山猫山という古書店から届けられた。
 昭和28年、私が4歳だった当時の「信州伊那谷・会地村の養蚕農家の一年」を撮影したモノクロ写真集である。
 その谷は諏訪湖から天龍川に沿った谷、西は中央アルプス、東は南アルプスに挟まれている、と書かれていた。

 ページをめくると、信州と上州の違いはあるが、野口先生の実家の暮らしが、垣間みられる写真が次々に現れる。
 戦後の農村だとしても、江戸から明治、大正、昭和の戦前と、殆ど変化はないだろうと想像される。
 養蚕農家の地道な作業に明け暮れる日々が、しっかりおさめられているのである。

 ページをめくるたびに、「大変な労働だ!」と、溜息がでてしまった。その労働の見返りに、お米以上の現金収入が得られる。美しく絢爛豪華な絹織物文化を底辺で支える農家の仕事ぶりは、真逆にも真逆、いたって地味な重労働なのである。
 命ある虫、その虫を大切に育てる。しかしその命を奪うことで、絹糸を取り出す。
 文化とは、磨き(身を欠き、身を殺ぎ)、自然を傷つけることで成り立つ行為である、と改めて伝わって来る写真群だ。
 
 最後の方には、「田舎芝居」「地芝居」の写真が5枚ほど掲載されている。
《この村の芝居の傅統は古く、文政十一年と」記された緞帳がそれを物語っている》
 文章が添えられている。文化・文政期は、地歌舞伎が盛んになった時代。
 農民たちがくつろぎ、楽しんでいる様子を観ることができて、ちょっとホッとした。
 さらにおわりに近いメージには、子供が楽しむ「どんどん焼き」などもあった。

 私は、複雑な思いで何度も見直した。
 これがカラーであったら、印象が違うだろうなー。
 これが現代の感性で撮られていたら、違う印象を受けるだろうなー。
 ありえないことだけど、バリを撮り続けている佐治さんが撮影したら、モノクロ写真でもきっと違うおおらかさがうつしだされるのではないだろうか、などと無理な想像を巡らせてしまった。

 昭和28年ごろの感性と写真機が写し出す世界は、いかにも!なのである。
「僕は、養蚕農家の三男坊として生まれて、農家だけはしたくなかった」
 そうつぶやかれた野口先生の思いが、ずしずしと伝わってくる力が、この写真集にはある。
 
 先生はここから出立して、群馬の中心から東京へ。
 戦後を生き抜き、半世紀、野口体操を育て上げた。
 大層なことだった、ご苦労なことだった、と改めて胸に迫るものがある。

 初めて群馬のご実家周辺をたずね、帰宅して母に一日の報告かたがた話をした。
「野口先生は大変だったわねー。えらいことだったわねー」
 母が浮かべた涙の意味が、さらに深く理解できたような気がしている。

 静止画像であっても、その当時の生の記録が残っている。
 そのことの意味を、しみじみ噛み締めている。
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誤植、お詫びします

2016年01月04日 15時39分10秒 | Weblog
 一つ前に書いた「蚕」についての文章に、誤植が多く、先ほど訂正しました。
 大変失礼しました。


 http://blog.goo.ne.jp/ngc3003/e/2490e8c76fb64f8959fec43310db0a4d
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「蚕」にちなむ2冊の本、そして「はとり(羽鳥)」という姓について

2016年01月04日 13時54分43秒 | Weblog
 一冊目は、『蚕ー絹糸を吐く虫と日本人』畑中章宏著 晶文社刊 
 蚕が日本の文化を生み育て、近代にあっては世界に輸出された。外貨を稼ぎ明治維新を根底から支えた虫だった。蚕と日本人の深い関係を語っている良書。それが世界・日本の大恐慌とアメリカとの戦争、レーヨンといった化学繊維の出現で、一気に凋落の憂き目に会う。日本から養蚕農家が消失といってよい状況を生み出す恐さを読みました。
「お蚕様は人びとを豊かにし、国をも富ませた。」と帯にあった。

 二冊目は、『蚕の城ー明治近代産業の核』馬場明子著 未知谷刊 
 テレビ西日本のアナウンサーからディレクターだった女性の取材日記風の本。九州大学「遺伝子資源開発研究センター」で蚕の遺伝子に研究をしている話から始まり、歴史的な経緯を追いながら生ものとしての蚕について取材記録である。気が遠くなるような地道な保存研究が、失われた蚕業になるのだろうか。遺伝学に貢献する姿も記述されている。
「あとがき」にあった文章に涙す。
《目先の利に走らない姿勢は現代においてはとても難しい。国立大学では、来年度から成果が目に見える形で現れなければ、予算の獲得は難しくなった。しかし、声高な「成果主義」が世の中の基盤を取り崩す危険性を孕んでいることを、カイコを通して実感して頂ければ幸いである》2015年7月
 九州大学での100年に渡る蚕研究が、ここで立ち行かなくなるとしたら、非常に勿体ない。成果とは何ぞや? 今、役にたたなくても、役にたたないからといって切ってしまったらもう二度と戻らない大切なことがあることを忘れてはならない。
 この一冊が描き出す研究者の思いと行動と地道な研究は、蚕に限らない。

 偶然にも私の知り合いが、蚕の遺伝学を学んで、埼玉県の蚕糸試験所に勤務したこともあり、医薬に関わる研究を行っている。富岡製糸場とその遺産群が世界遺産に認定されたなかにある「田島弥平宅」の田島氏の親族のひとりである田島弥太郎は1935年に九州大学に貴重なカイコを抱えて入学したという。遺伝学にとって貴重なカイコだそうだ。その田島氏にも薫陶を受けた知人だった。82歳になった今、人生の最後にカイコの研究をまとめる仕事に入ったところだと、昨日の電話で伺ったばかりである。現在でも再生医療の研究で、医科歯科大学に週一回通っているという。ただ、ここでもすぐさま成果が上げられる研究ではなさそうで、研究費が底をつき、これから新たな研究費申請の手続きに奔走するとのことだった。

 この二冊に出会えたいきさつはこうだ。
 昨年末に新井英夫さんがFB上に紹介されていた一冊目の『蚕』という本飛びつき、一緒に『蚕の城」もAmazonで購入。注文したのは31日で、翌1月1日には、到着。近くのローソンに受け取りに行った。なんというか、年末年始に徹夜で働いている人がいることに、何とも複雑な思いを抱くが、片や歴史学・社会学・民俗学・女性史、近代産業(貿易)からの「蚕」についての本で、片や遺伝学を中心として生ものとしての「蚕」の地道な研究リポートであった。
 日本では失われた蚕業を、やはり掘り起こそうとしている人がいることに、かすかな望みを託したい。
 そして野口三千三が養蚕農家に生まれ育ったことの意味の深さ、それが野口体操の底流に流れていることの意義を、今まで以上に感じている。

 もう一つ、我が家の姓の「羽鳥」に関わっているのではないか、と思われる記述を『蚕』に発見した。「一ー蚕と日本社会 2-古代人と蚕」広隆寺境内の東に「大酒神社」の石標に次のような記述がある。
《「蠶(蚕)養機織管絃楽舞之祖神」「太秦明神 呉織加味漢織神》
《祭神として秦始皇帝、弓月王、秦酒公、別殿に呉織神*くれはとり(呉織女、兄媛命)、漢織神*あやはとり(漢織女、弟織命)を祀る》
 呉織神には“くれはとり”、漢織神には“あやはとり”、といったルビがついている。
 これは我が家の姓に違いない。もともと群馬県から埼玉県にやってきた養子が、大和という姓を「羽鳥(はとり)」と勝手にかえてしまったと聞いたことがあった。
 
 というわけで、縁が深くありそうな気配を感じつつ、なかなかに面白くなってきたところであります。
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気になる数字

2016年01月02日 09時14分29秒 | Weblog
 昨年から、気になって仕方がない数字がある。
《No.23 87K 155 M》
 実は、87Kの前に「上越線下り」という文字が入っている。
 この数字は、上越線・吾妻線の群馬総社駅下車して、野口先生の実家がある吉岡町に行くために渡らなければならない「植野踏切」看板の下の方に書かれていたものである。つまり改札口が一方にしかなく、この踏切まで5分くらい歩くことになる。
 因みに、上越線は、上州と越後を結ぶ路線で、群馬県高崎駅から利根川沿いに新潟県長岡・宮内駅まで伸びているが、吉岡町には駅はなく、群馬総社でおりて徒歩15分ほど。

 踏切について調べているのだが、どこを見てもこの数字の意味がわからない。
 いっそ、JRの駅で尋ねてみようか。
 昨日、散歩がてらに立ち寄ってみた。
「87kねー、高崎駅からの数字じゃないですね。上野でもなさそうだし、東京駅からだったら100kはくだらない。なんだろうなー」
 しばらく時刻表を見ながら考えてくれた。
 奥にいる駅員さんを呼んでくれた。
「高崎? 上野?いやいや、これは大宮駅だ! 大宮を起点にしてるんですよ」
 (上越線を大宮駅に起点するには複雑な理由があった。鉄道の歴史の面白いところだ。)
「No.23は、大宮駅から出発して23番目の踏切ってことだと思いますよ」
「ありがとうございます。じゃ、155Mは なんでしょう。標高ですか?」
「エッ、標高? 違うんじゃない。ちょっとわかりませんね」

 その場は、丁寧にお礼を言って退散した。
 群馬県の吉岡町の標高は、およそ190メートルで、実際にこの踏切を超えて幹線道路の抜け道になっているような二車線道に出るまでに、長い坂道を上った足の記憶が甦った。(我が町は海抜約50メートルだから、かなり高いことがわかる)
「でも、約35~40メートルの差があっただろうか」
 確かに吉岡町は総社町に比べて高い位置だった。
 総社町よりも少し北にのぼった「桜が丘の百庚申塚」の近くから利根川の河川敷らしき薮は、ものすごい傾斜だった。

 この地域は、榛名山麓を流れる幾筋もの河川によって洪積台地の地形が浸食されて出来たところだ、というから155 M
という数字もまんざらではないかもしれない。
 もともと吉岡町の吉岡は、川の名前からきている。線路沿いにも午王頭川という名前の一級河川も流れている。

 23、87、の数字の謎は解けた。
 残った155 M ははたして何を表しているのだろう?
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謹賀新年

2016年01月01日 08時35分24秒 | Weblog
 あけまして おめでとう ございます

 皆様にとりましてよい一年でありますようにお祈りいたします。
 世の中の雲行きの危うさが案じられますが、からだとの対話はどこまでも楽しく・おだやかに・たおやかに・したたかでありたいものです。
 ますます「丸ごとの體感覚」が、大切になってくると思いつつ元旦を迎えました。
 本年もよろしくお願いいたします。

  平成二十八年元旦


 
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