羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

2013年09月26日 06時54分41秒 | Weblog
 8月8日「からだとの対話」鴻上尚史さんとのセッションを終えて、佐治さんから渡されていた当日の写真と録音が入っているSDカードを開いたのは昨日のこと。
 だいぶ前にカードリーダーは用意してあったのだが、パソコンがフリーズしたり、Keynoteが消えてしまったりする怖さを感じて、一段落ついたところで接続した。
 録音はどこに機器がおかれていたのか、気づかなかったが、音はしっかりとれていた。
 文字にするのは、もう少し時間が出来てからにしたいと思っている。
 こうした記録が残るのは、ありがたいこと!

 あとは、自室に積み上がった本と資料、蔵の一室にとりあえず入れてある石やおもちゃ類の整理は、涼しくなったところで始める心づもりだ。

 いよいよ、今年もあと三ヶ月。
 一年のまとめをする季節となった。
 
 そして、本日、3限と4限のクラス、2コマが開くと、後期授業の全てのクラスが始まる。
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「からだとの対話」9月21日、写真アップの案内

2013年09月23日 14時26分45秒 | Weblog
 先週の土曜日、無事に終了した朝日カルチャーセンター講座「からだとの対話 龍村仁監督を迎えて」の写真が、アップされました。
 雰囲気がよく出ている写真です。
 ご覧ください。
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お礼

2013年09月22日 07時59分34秒 | Weblog
 昨日、「からだとの対話 龍村仁監督を迎えて」ご参加の皆さんに深い感動を与えて、終了しました。
 監督には、野口三千三・野口体操に哲学的・美学的な光を当てていただき、この企画のサブテーマ「野口体操を再考する」貴重な時間となりました。

「3分CM 人物映像度キュメンタリー 野口三千三編」も大きな画面で、監督自らの説明付きで見ていただけたことはこれまで何度か見ていた方々にも新鮮に映ったようでした。
 また、用意したKeynoteでは、野口先生の「自然観」を、写真を通してお伝えできました。佐治さんの写真がなければ出来なかったこと。先生と佐治さん、二人並んだスナップを最後にお見せできました。
 鉱物の蛍光現象は、説明を充分することは出来ませんでしたが、実物を見ていただくだけで、とどめておきました。しかし、監督の一言で皆さんが、石を取り巻いて歓声を上げてくださったことだけでもよかったと思います。

 新井さん、北村さん、お二人の細やかな配慮も、充実した講座の大きな助けとなりました。

 その後の「野口体操講座」は、余韻を超えて熱気に包まれました。「からだとの対話」が生み出した感動と満足が、そのまま教室に持ち込まれて、嬉しい限りでした。

 皆様、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。
 懐かしい方々との再会もあったのですが、お一人おひとりにご挨拶が出来なかったことが悔やまれます。

 何かの方法で記録を公開できればよいと思います。
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電磁波に貞く

2013年09月21日 05時14分52秒 | Weblog
 「からだとの対話」、今回もMacのKeynote(Windowsでいうところのパワーポイント)を用意している。
「写真が多い方がいい」
 という前回のご意見に従って、言葉よりも写真を増やした。
 とりわけ鉱物の蛍光現象は、実際に見ていただく前に、まず写真で紹介することになりそうだ。
 美しさもさることながら、この蛍光現象を起こす”電磁波”全体は、現代社会、現代文明の基礎となる“情報”と“エネルギー”に関わってくることなので、取り上げたかった。
 Keynoteをつくりながら、写真の途中に電磁波の説明を入れてみた。が、しっくりこない。せっかくの佐治さんの写真が、そこはかとなく醸し出す雰囲気を壊してしまうので、あえて入れることをやめた。
 考えてみれば野口先生は、知的な理解を最初に持つことよりも、実際に「あなたの目で見て欲しい!」。そこで何を感じることができるのか、「実感」を大切にされていた。

「私は、はっきり見た!」
 と思った感覚を問い直すことでもあった。
「本当に、見る!」
 それは一体何を基準に見ているのか、という問いかけだった。

 電磁波についてここに書き取っておきたい。

 電波 …… mm  ミリメートルの世界
 赤外線 … 1μm  マイクロ波の世界
 可視光線… 0.7μm~0.3μm 
 紫外線 …… 数nm(UV 紫のそとへ)可視光線(紫の端)に重複 ナノメートルの世界が中心
 X線 …… 10nm~1pm  一部が紫外線に重複しているがピコメートルの世界。
 ガンマ線  …10pmより短い

 野口先生が「鉱物の蛍光現象」にいたく興味を持たれて、執着されたのには、大きく二つの理由が挙げられることに気づいた。
 一つ目は、鉱物が紫外線のエネルギーを吸収して励起状態から基底状態に戻ろうとするとき発光現象が見られる。それには不純物がなければならない、ということ。
 非常に僅かな不純物が存在することの意味に注目した。
 
 二つ目は、可視光線の紫の端に紫外線が重複することで、私たちの目は「蛍光現象」を見ることができる。つまり現象の重なり領域への興味だ。このことは紫外線からX線の場合にも似たような重複が見られる。

 興味の中心は、なんといっても「ひとつながりの自然」の有り様だ。
 からだはもちろんのこと、自然現象は明確に区切られたものではなく、一続きのなかで現象が移っていく。ある閾値を超えるとその特徴が明確になるが、その境界領域こそが「ムーブメント」に違いない。認識の助けという意味で「鉱物の蛍光現象」への興味もあった。いや、まずは美しい!という感性の覚醒が大事だった。
 顕在化し、明確化し、鮮鋭化することの前に、移りゆく「曖昧領域」「現象の重なり領域」を疎かにしないでありたい、と言いたかったに違いない。

「からだから切り離された腕は、所有権はあるだろうけれど、もうその腕は腕ではない」
 この例をよく話されていた。
 繋がり、伝わり、関係のなかで、まるごとの存在としてある、その事実を忘れないこと。
 部分を繋いでも全体にはならない。

 不純物であったり、境界領域であったり、曖昧領域であったり、そこに動きの本質を見ていた。
 つまり、丁寧にその領域を探ることが、野口体操なのかもしれない。だから「ポーズ」という言葉はいっさい使わなかった。むしろ嫌っていたほどだ。顕在化する前の“もやもや感”、もやもやしていてもどこか鮮明である、というような矛盾を含む。何かがはっきりと立ち上る前の“揺らめき感”をいとおしく思う、というようような在り方。

 上手く言えない。きっと、龍村監督の話を伺ううちに、もう少し言葉になってくれるような予感がしている。
「電磁波に貞く」とは、“現代文明のゆくへ”をさぐることだ、ということだけは自分の中ではっきりしている。
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明日の「からだとの対話」準備いろいろ

2013年09月20日 18時51分29秒 | Weblog
 昨日、予定とおり「からだとの対話」で皆さんにご覧に入れる「もの」と「石」を、朝日カルチャーセンターに運び終えた。
 細腕には結構な重さで、手首に近い腕に痣をつくってしまったが、右腕は消えてなくなり、左腕はほとんど色が薄くなった。
 
 別件だが、11月の明治大学シェクスピアプロジェクトのパンフレットに掲載される400字目安のコメント締め切りが本日で、朝方に添付ファイル送信をして、ほっとしたところだ。

 もうひとつ別件だが、玄関についている手すりの片方が、緩んでしまって、本日、直しの工事が午前中いっぱいかかった。結局、バランスの問題で、左右均等に壁に檜の板をつけ、その上に手すりを設置してくれた。玄関を開けると、新しい檜の香りがして気分がいい。
 8年前に設置した時、きちんと土台を確かめなかった。ということで代金は工務店もちとなって、ありがたいことです。

 明日のためにも常備菜をつくりおきしたり、合間に資料を読んだり、調べものをしたり、しているうちに夜になってしまった。

 あとは、明日、持っていくものの確認をしなければ!

 尚、8月8日に「からだとの対話」鴻上尚史さんとのセッションの写真が、ホームページにアップされています。龍村監督の写真の下にスクロールしてください。
 8日以降、明日のセッションの準備もようやく整った気分が得られたのかもしれません。
 今頃になってのお知らせ、遅くなりました。
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ルミネッセンス……錬金術師とその系譜

2013年09月19日 09時25分37秒 | Weblog
 昨日、龍村仁監督の「地球交響曲」第七番を見直した。
 そこでは「ネイティブ・サイエンス」の考えが語られている。西欧の科学思想・研究・方法も、ネイティブ・サイエンスの一つだ、という考えに同感している。
 それは音楽についても同様の味方が出来るからだ。

 さて、もう一つ、調べ直しているのは「蛍光現象」についてである。
 やはり、西欧の科学は、ルネ・デカルトの二元論からその輪郭を鮮明にしていったことの線上にあることを思わずにはいられない。
 そもそも固体物質でルミネッセンス効果が最初に認められたのは、Bolognaの靴屋でかつ一時錬金術師でもあったVicencio Casciarolaが行った実験であった、と『宝石学』R.Webster著にあった。
《1602年、硫酸バリウムの鉱物を仮燃したところ、たぶんその不純物による燐光を発するアルカリ土族の硫化物が出来た。》
 17世紀初頭のことである。
 さすがさすが、錬金術師である。つまり科学者なのである。

 1859年、A.E.Becqerelが行った、蛍石・方解石・ルビー・ダイアモンド等の物質のルミネッセンス研究が、発端と言える。
 ほぼ同じころ、J.Herschel や D.Brewster卿、A.Verneuil といった研究者たちは「光ルミネッセンス」についての知識に貢献したそうだ。

 その後、G.G.Stokesによって、正確な「光ルミネッセンス」研究が行われ、「Stokesの法則」と呼ばれる一般則が確立された。(正確な年号は見つからなかった)

 19世紀末には、宝石学の世界で、この研究はさらに深められていった。

 その他、いくつかの発見の年代を移しておく。

 1801年  紫外線の発見
 1888年  電子波の確認
 1893年  真空紫外線の発見
 1895年  X線の発見

 これらの発見の間に「光ルミネッセンス」が研究されている。
 因みに1895年は明治28年、首相は伊藤博文。身近なところでは、樋口一葉が『たけくらべ』を発表した年である。

 西欧の金と宝石への飽くなき追求は、ネイティブ・サイエンスを生み出す原動力であったのかなぁ~、と感慨も一入というより「ビミョウ」である。
 つまり、野口先生に導かれた「石の世界」で、原石の楽しさを味わわせてもらった。カットされ磨かれたダイヤモンド、ルビー、サファイア以外の美にも目覚めさせてもらったことだけは確かだ。

 21日の「からたとの対話」では、野口先生が最後まで磨いていらした「琥珀」と、どこかの部族長か酋長さんが祈りの儀礼の際にかけるような大きな琥珀ネックレースも用意させてもらった。
 
 尚、当日は、こうした話に時間をあまりさけないと思うので、事前にブログに書きました。
 いつものことですが、ちょっと調べると教えたくなるのが素人の浅ましさ、と言われそう。
 錬金術師とその系譜の面白さを伝えたかっただけかも!
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移ろいやすい音程、移ろいやすい人生、バンザーイ!!

2013年09月18日 08時17分14秒 | Weblog
 今日の「あまちゃん」、水口君は出番じゃなかったけど、とってもよかった。
 80年代のアイドルたちが、25年の歳月を経て見せてくれる人生の機微。なかなかのものだ。
「移ろいやすいのは人生だ。だからすてきだよね!」
 いやいやいやいやいや、じぇじぇじぇじぇじぇ、五つ星です。

 さて、昨日のこと。
 来る9月21日、「からだとの対話 龍村仁監督をお招きして」の準備のうち、当日、皆さんにご覧いただく「蛍光石」や「おもちゃ」、いくつかの「もの」の選定が終わった。
 透明な箱、二個を用意して、そこに詰めてみた。一晩寝て起きたら「もっと厳選しなくちゃ」と、少し減らす作業にとりかかった。が、しかし、思ったようには、はずせない。
 ふぅー。
 今日のうちになんとかしたい。

 ひとこと。
 持っていく「蛍光石」ついて。
 医療現場で使われるために一般的によく知られているX線は、1895~96年にレントゲンによって発見された。実は、その前に「蛍光(フルオレッセンス)」を発見したのがストークス、ということは世の中に知られていない。しかし、この「蛍光現象」の発見がなければX線の発見にもつながらない。
 広義には、蛍光現象もX線も「蛍光(ルミネッセンス)」と呼ぶことができる。どちらも光は「波動」。電磁波である。
《 光も物質のエネルギー形態である 》
 そう、定義されている。
 
 さて、岩石・鉱物の発光現象(ルミネッセンス)は、炎の燃焼のような熱の発生を伴なわない冷たい光、つまり“冷光”と呼ばれる現象だ。この美しさは、鉱物好きの御仁たちにとっては、たまらないのだ。

 この“冷光のかたまり”といってもいい、野口先生没後に手に入れた、一部に小さな水晶の結晶が輝く単結晶の「蛍石(フルオライト)」を、今回は真っ先に探し出した。蛍光現象の発見のそもそものきっかけとなったイングランド地方の蛍石である。
 当日の会場である朝日カルチャーセンター新宿の7階にある教室は、ブラインドを閉めると暗闇が創出する。
 
 他にも岩塩なども二種類、もちろんフランクリン鉱も用意した。ただ、残念なのは、持っていける量には限度あがって、ほんのさわりでしかない。仕方があるまい、と私自身をなだめているところだ。
 明日か、明後日のうちに、事前にカルチャーに、届けておきたいと手順を考えているところだ。

 こうした準備をしていると、つくづく感じる。
 野口体操は、体操であって体操でない。
 では、何だ?
 ちょっとオカルトっぽくなる言い回しが気にかかるが、こんな風に言ってみよう。
「潜在している感覚の眠りを覚まし、深く折り畳まれた感性の襞の機微に一枚ずつ光を当てていく身体ムーブメント」だ、と。書きながら祈る。受け取る人の感覚を信じよう、とね。

 ということで、絶対音のよさもある。しかし、絶対音だけが価値ではない。移ろいやすい音程にしか出せない光の揺らめきがある。まさに紫外線を受けて冷たく光を放つルミネッセンスは、炎の揺らぎとはまた違った心模様を映し出してくれる、とここではまとめておきたい。

「あまちゃん」は来週の土曜日で終わるのが心惜しい。
 今週の土曜日は、久方ぶりに龍村監督に再会できる。野口先生の映像を映し出し、蛍光現象を見てもらいながら、しばし語らう時間をもてるなんて、とても嬉しい。

「移ろいやすい音程、移ろいやすい人生、その味わいに、バンザーイ!」
 さぁッ、この胸のときめきをもちながら、今日の仕事にとりかかろう。
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「野口三千三の自然観」と題して……

2013年09月08日 15時13分52秒 | Weblog
 九月も中旬にさしかかってきた。
 久しぶりに何もない一日。龍村仁監督を招く「からだとの対話」の資料つくりに精を出した。

 前回、8月8日は、「野口三千三と野口体操」と題して、A4二枚分でまとめてみた。
【自然直伝 まるごとのからだに貞く】【からだの価値観】【生きることを問い直す体操へ】という内容だった。
 
 今回、9月21日は、「野口三千三の自然観」と題して、同じくA4二枚分にまとめてみた。
【遡ることは朔まるこ】【自然のうちなる人間……「からだ」と「こころ」】【字源・語源を遡る】。
 野口語録をいくつも配置した。
 それにあわせてKeynoteは、文字数が多いと後ろの方から見えにくいという言葉もいただいたので、前回のものに写真を大幅に加えて、文字のページを少なくしたものをすでにつくりあげている。

 前回は、1968年の「合唱団のためのウォーミングアップ」。合唱サークルという月刊誌に寄稿掲載されたものをお土産として差し上げた。
 今回は、以前、ブログにも書いたが、「CULTURE」朝日カルチャーが出していた冊子に掲載されたもののコピーを用意した。それに合わせた内容にしてみたというわけだ。

 DVDしかり、資料選択しかり、配布用レジュメしかり、改めて野口体操を見直すことになることを実感している。当日もさることながら、その日までの準備は、意義あることにしていきたい。

 私の中では、積み重なっていくことで、今までにない野口三千三+野口体操の地平が見えてくるような気がしている。
 
 そろそろ来年の企画も、おぼろげながら見えてきている。
 これがメモリアルを行うことの意味なのだろう。
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”幸せ感”に支えられた没後16年に気づく

2013年09月05日 12時01分35秒 | Weblog
 今朝は、様々な気象警報が出て、交通機関も乱れる予想から、午前中に予定していた稽古が急遽とりやめになった。
 そこで9月21日に予定している「からだとの対話」龍村仁監督とのセッションの準備をかねて、野口三千三授業記録の会でつくったDVDを見る時間に当てた。
 選び出したDVDは、野口先生に導かれて、隕石・化石・鉱物・砂、といった「石の世界」に開眼していく、その過程を記録しているものだ。
「地に貞く-1-」と「地に貞くー2ー」である。

 実に、1990年代、今から二十数年前に引き戻されて、思いはさまざまに巡る。
 教室でのレッスン、ミネラルフェア会場、羽鳥の家で催した石を見る会、先生を中心にそこに集まっている体操の仲間たち。
 皆、若かった!と思うと同時に、既に亡くなった方も少なくない。時の流れそのものを、愛おしみたくなる。
 
 野口先生は、70代後半に差しかかっていたが、実に元気だ。充実した学びと思考と判断と、そしてユーモアがどっしりと落ち着いた物腰のなかに溢れている。言葉はよどみなく、感性はキラキラして若い。
 今になって思えば、沈み行く太陽が周りを赤々と照らしながら、輝きを増す晴れた日の夕暮れ前のようだ。
 そして一気に日が落ちて静まりかえる前の瞬間を、ものすごく長いスローモーション映像で見せてもらうようだ。情感に溢れた同じ時間を共有できたことが、とても幸せに見えるし思える。
 80年の人生を生きた野口三千三が、晩年にみせてくれた笑顔だ。
 80年の体操の教師として生きた野口三千三が、晩年に語ってくれた本物の価値だ。
 ささやかであっていい。ささやかのなかにも豊かさは宿る。
 常識的な美しさだけが価値ではない。
 すべての存在に、それそれに貴重な命が宿っている。その命を懸命に生き、生かすことが出来る可能性を見せてくれている。
 野口先生だけではない、レッスンでも、フェア会場でも、我が家での集まりでも、そこに映し出される皆の表情が、優しく素直で明るく楽しげで、幸福感が漂っている。演出もなし、仕掛けもなし、企みもなく、素のままで、そのままで、石も人も双眼実体顕微鏡さえ綺麗なのだ!
 
 さてさて、21日には、先生が残された「もの」を持っていきたい。
 そう思って選ぶ基準をどこにおこうか、と見始めたDVDだが、見れば見るほど「あれもこれも」になって、実際には削ぎおとさなければならない、と思っていた。
 ところが思い悩むうちにどちらでもよくなった。
 濃密な時間。濃密な味わい。記憶の中で薄れかかっていた濃密な楽しみを、もう一度しっかり抱擁していればそれでいいような気がしてくる。
 
 これほどの幸せ感に支えられた没後の16年だった!
 それは私だけではないはず。
 この充実した楽しみのありようが、野口体操の真髄でなくて何だろう。
 
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雲 行く夏の雲 空の碧さに

2013年09月03日 14時22分11秒 | Weblog
 …… 空を押し上げて
    手を伸ばす君
    五月のこと どうか来てほしい
    水際まで来てほしい
    つぼみをあげよう
    庭のハナミズキ ……

 一青窈の「ハナミズキ」を聞きながら、空を見ていた。
 朝の中央・総武線。
 東中野から大久保に向かう。
 
 蒼い大きな空にモクモクと湧いて出たような白い雲。いくつもの固まりは、あまりにも柔らか。
 秋の雲ではない。
 晩夏の雲だ。
 久しぶりに空をみたような気がする。

…… 薄紅色の可愛い君のね
   果てない夢が ちゃんと
終わりますように ……

 このさびがいい。

 なんでも9・11のあとにつくられた、とか。
 水際は三途の川、という解釈をする人がいたりするけれど、それってひねくれている、と思う。

 歌詞の解釈より、この歌の雰囲気がすごく好き!
 
 今年の夏は暑すぎたよ。
 今日も、まだ、残暑だ。
 あぁ~、私は、これから若者たちに「呼吸と発声」のお話をするんだ。
 はじめて野口三千三先生の『原初生命体としての人間』第三章『息と「生き」』がちょっとだけ読めるようになってきた。今まで何を読んできたのだろう。「つもり」の世界で、読んでいただけだった。
 でも、からだってすごい。
 でも、生きるってすごいことなんだ。

 百年先に生きる人、までいかなくても、今を生きる若いあなたちに私の思いを伝えよう。
 iTunesからiPhoneに入れた「ハナミズキ」を聞きながら。
 行く雲を眺めている。
 昨日の竜巻など微塵も感じさせない、何処までもぬける蒼い空、何処までも白く日差しに輝く雲。
 悲しみを知ったとき、人は歌う。
 鎮魂歌こそ、歌のはじまり。

   *********

 ピアノパート楽譜、演奏付きを今みつけた。いまやここまできたのか、おどろきを隠せない私。
 
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