1970年代の先生は、甲骨文字の探求と共に、やまとことばの「オノマトペ(擬音語・擬態語)」をとくに、大切にされていた。
やまとことばの語源を調べていくと、オノマトペ起源のことばが少なからずあったから。
いずれにしても動きのイメージをより鮮明にするには、オノマトペのもつエネルギーが重要だと説いておられた。
例えば、五十音図をもとにして、自由に勝手に音を組み合わせて、新しいオノマトペをつくってみるとか。(実は、それはなかなか難しい。が、やってみるところに意味があった)
あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの
はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ
わゐ(ウ)ゑを ん
実際には、母音+ら行・子音+ら行で、音を組み合わせるのが、いちばん普通にオノマトペになった。
そこで、「ら行」というのは、母音や子音のもつクオリア(感覚質)に、動きの質(お誤記のありかた)を、表現する行。そうした質感を確かめ、実際にその動きのイメージをからだの中に探るというようなことを繰り返す、つまり、フィードバックしておられた。
文字(漢字)の形・文字(漢字)の音・文字(漢字)の意味、そして平仮名一つ一つの音が内在させる質感をさぐる作業も、字源や語源を遡り、本質に到達する一つの方法として試しておられた。
「ことばの肌理」「ことばが語る肌理」の質感を、オノマトペほどよく表現できるものはない。
五感のおおもとは「触覚」である。すると「肌理」というのは、主には「手触り感」。その意味を拡張して、五感を総動員して本質を瞬時に動的に直感的に捉える行為から得られる「クオリア(感覚質)」の別名と、私は勝手に解釈・借用している。
当時の先生の授業では、耳で聞く音、目で見るもの、舌で味わうもの、鼻で嗅ぐもの、肌で触れるもの、そういった五感を通して「感覚したもの」から、その奥に潜む本質をそっくりそのまますくいとる行為を、「からだ」と「ことば」を手がかりにして、体操することが「野口体操」なのだといわんばかりの内容だった。
オノマトペは、「肌理」を表現するのになくてはならない「ことば」なのだ。
光を失った人が街に立ち、街を歩くとき、足の裏や杖を通して、皮膚感覚や音や匂い・すれ違う人の呼吸や動きの気配によって、「街の肌理」を感じ取って、世界を造り上げていくと言う。
野口先生は「空間に光の波として伝わることば」「空間に音の波として伝わることば」、そうした「ことばの動き」の中に「肌理」を感じ、「肌理」から選られる「感覚質」によって、動きのイメージを豊かにしていくことを楽しんでおられた。
因みに、『イメージと人間』の著者である藤岡喜愛さんは、野口体操を称して「イメージ体操」だといわれた。
藤岡さんが野口体操教室に参加され、野口先生のご自宅へも訪ねられたのは、1970年代半ばのことだった。
あぁ~。。。時は流れる~。。。藤岡さんもすでに鬼籍に入られてしまった。
やまとことばの語源を調べていくと、オノマトペ起源のことばが少なからずあったから。
いずれにしても動きのイメージをより鮮明にするには、オノマトペのもつエネルギーが重要だと説いておられた。
例えば、五十音図をもとにして、自由に勝手に音を組み合わせて、新しいオノマトペをつくってみるとか。(実は、それはなかなか難しい。が、やってみるところに意味があった)
あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの
はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ
わゐ(ウ)ゑを ん
実際には、母音+ら行・子音+ら行で、音を組み合わせるのが、いちばん普通にオノマトペになった。
そこで、「ら行」というのは、母音や子音のもつクオリア(感覚質)に、動きの質(お誤記のありかた)を、表現する行。そうした質感を確かめ、実際にその動きのイメージをからだの中に探るというようなことを繰り返す、つまり、フィードバックしておられた。
文字(漢字)の形・文字(漢字)の音・文字(漢字)の意味、そして平仮名一つ一つの音が内在させる質感をさぐる作業も、字源や語源を遡り、本質に到達する一つの方法として試しておられた。
「ことばの肌理」「ことばが語る肌理」の質感を、オノマトペほどよく表現できるものはない。
五感のおおもとは「触覚」である。すると「肌理」というのは、主には「手触り感」。その意味を拡張して、五感を総動員して本質を瞬時に動的に直感的に捉える行為から得られる「クオリア(感覚質)」の別名と、私は勝手に解釈・借用している。
当時の先生の授業では、耳で聞く音、目で見るもの、舌で味わうもの、鼻で嗅ぐもの、肌で触れるもの、そういった五感を通して「感覚したもの」から、その奥に潜む本質をそっくりそのまますくいとる行為を、「からだ」と「ことば」を手がかりにして、体操することが「野口体操」なのだといわんばかりの内容だった。
オノマトペは、「肌理」を表現するのになくてはならない「ことば」なのだ。
光を失った人が街に立ち、街を歩くとき、足の裏や杖を通して、皮膚感覚や音や匂い・すれ違う人の呼吸や動きの気配によって、「街の肌理」を感じ取って、世界を造り上げていくと言う。
野口先生は「空間に光の波として伝わることば」「空間に音の波として伝わることば」、そうした「ことばの動き」の中に「肌理」を感じ、「肌理」から選られる「感覚質」によって、動きのイメージを豊かにしていくことを楽しんでおられた。
因みに、『イメージと人間』の著者である藤岡喜愛さんは、野口体操を称して「イメージ体操」だといわれた。
藤岡さんが野口体操教室に参加され、野口先生のご自宅へも訪ねられたのは、1970年代半ばのことだった。
あぁ~。。。時は流れる~。。。藤岡さんもすでに鬼籍に入られてしまった。