羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

やっとわかった! 「ゆらぎ」

2016年02月22日 10時02分41秒 | Weblog
 野口先生はよくこうおっしゃていた。
「動きには、隅から隅まで意識でコントロールしようとするのではなく、“非意識の自動制御能”が大切なんだ!」
 すると
「自動制御能ですか? 自動制御能力ではないのですか?」
 何度もそうした質問を受けたことがあった。
「はい、自動制御能です」
 それ以上、答えることはなかった。
 聞いた人は納得がいかないものの、そこで話は終わっていた。

 さて、さて、私も「そうしたものか」ですまし、「どうしたものか」と自分に問いかけることをしてこなかった。
 それから30年?!
 最近になってやっと納得できた。
 それは、Homeostasis 恒常性維持と Allostasis 動的適応能 のうち、後者の「動的適応能」という訳とその意味を知って、呼吸と心拍数の関係を実感したことで、考える時間をもったことからえられた納得だった。

「能力」というのは、一般的な辞書によれば「成し遂げる力」のことである。
 それに対して「○○能」という場合は、「機能」であり「働き」である。
「非意識の自動制御能」は、成し遂げる力ではない。
「Allostasis」は、生体が快適に健康に生きるために必要な機能である。
 一方の「非意識の自動制御能」は、動きに関わる主に筋肉(腱・筋膜)の働きに注目した言葉だった。
 それは動くことが楽しく気持ちよく、快適であるために必要な機能なのである。
 共通項は「ゆらぎ」である。
「ゆ」を語頭に持つことば群……ゆらし、ゆすり、ゆり、ゆらゆら、ゆるめ、ゆるし、ゆたか……。
 “ゆらぎ方”が鍵なのである。

 野口先生は「構造(物)」と「機能」という捉え方を常にされる方だった。
 たとえば「脳」という構造物に対して、「心」「精神」「感情」諸々は「脳の機能」と捉えておられた。

 非意識の自動制御能が活かされる“動きの質”を求めるのが野口体操である、とようやく自信をもって言えるようになった。
 ひとつの言葉に納得し、わかった!と言えるようになるまでに、随分と時間がかかったものよ!
 おー、一言で30年、と言ってみて、溜息であった。
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『私の「戦後民主主義」』で思い出された文章

2016年02月11日 13時43分19秒 | Weblog
 今はなくなってしまった出版社である柏樹社から毎月出されていた「柏樹」の1998年3月号No.174に掲載された「野口三千三授業記録」の文章を、最近になって読み返した。ちょうど『私の「戦後民主主義」』に書いた、京都清水寺での体験とそこからつながった話であった。
 辻邦生の『嵯峨野名月記』を読んで、“光悦垣”を見に、嵯峨野へ行った帰りに清水さんに寄せてもらったときのこと。そこから野口先生の煎茶道と庭造りの話を書いている。
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野口三千三授業記録(第25回) 「伝統のDNA」 羽鳥 操

 今にも小雪でも舞いそうな早春の京都を、私は旅したことがあった。二十数年前のことである。その旅のおわりに、十六才の歳から、夏休み毎にお世話になっていた清水寺に立ち寄った。寺の本坊である成就院の庭を拝見しながら、一服のお茶を戴く。清水でなければ味わえない時間をもとめてのことだった。
 洛中を俯瞰する成就院の庭自体は広いとはいえない。しかし、閑雅な趣の庭に初めて立った殆どの人は、思わず息を呑むという。私もその例外ではなかった。二重の籬(まがき)を巡らした庭の向こうには、視覚を遮るものはなく、東山のパノラマが広がっている。庭を見る目は、向かいの峰の中腹に置かれた一つの灯籠に吸い寄せられる。更に、灯籠が人のまなざしを峰の稜線へと導く。「借景」の装置であることに気づく頃には、梢を渡る風の音に、身を委ねてしまうのである。

 鶯張りの廊下に正座する私のからだの芯に、東山三十六峰の冷気が深々と凍みとおる。意識は自然の中に溶け出し、私は山のただ中にいるような錯覚の虜になっていた。ふと、微かな人の気配で我に返った。どうやら墨染めの衣をまとった若い僧侶が、茶を運んできてくださったようだ。ゆっくりした足取りで部屋に入り居ずまいをただし、冬茶碗を両手に抱いた。その茶碗の重さに、意識の重心も今一点に呼び戻された。緑美しい茶が季節を先取りし、命溢れる新緑の頃へと私を誘い出してくれるのだった。

 それまでその時々に供される茶菓は、一度として同じものはなかったが、いつも共通していることは、一服の茶が和菓子の甘さを引き出してくれることであった。ここでいただく抹茶は、舌の上にどっしりとのり、厳粛さを秘めた甘い香りの奥行きは深かった。特別なお茶事ではなく、日常的な来客へのもてなしだから、それほど凝ったお茶であろう筈はない。しかし、京都の人々が、長い時間をかけて育て伝えてきた宇治の味に、いつも私は魅了されていた。

 その時の旅では、自分への不甲斐なさの思いや、将来に対するなんとはなしの不安、わけもない苛立ちが、東京を発つときから私を捕らえて離さなかった。ところがあたたかくもったりとした抹茶によってもたらされる静寂に、全身を委ねているうちに、そうした思いは鎮められていった。

 それから三年ほどして、野口体操を始めた私はある年の正月、野口先生のお宅にお年始に伺ったことがある。当時六十代だった先生は、野口流煎茶道を模索しておられた。茶碗は、銘こそないが、お気に入りの中国の小さな酒杯。急須は舜園作の対の朱泥であった。一つの急須には風神、もう一つの急須には雷神が彫られている。確かその時の先生は、風神の急須を選ばれたと思う。
「普通、一煎目は香り、二煎目は味……、というように、味わい方を区別するんです。でも僕は、味は香りと共にあるし、香りは味とともにあると思っているので、一煎目も二煎目も、どちらも全体を大事にし各々を味わいたいんです」
 酒杯に半分の煎茶。少量の液体は、さらりとした甘さを舌にもたらし、鼻腔を香りにみたした後、味わいを拡げていく。逆説的だが、煎茶は、少量故に、かえって全身を包み込む力を潜めませているように、私には感じられた。

 恰度その頃の先生は、ご自身で「甲骨(文字)病だ」と自称なさりながら、授業のなかで漢字の字源や和語の語源に遡り、「言葉」と「からだ」の関係の裡で動きについて情熱をもって語り、ご自身も自在に運動をこなしておられた。
「どんな抽象語も遡ると身体語にたどり着きます」
 喩えは過激だが、機関銃でも打つかのように、次々と言葉の字源・語源の説明をした後に、必ずご自身の説を加えておられた。思えば、不器用で殆どの動きができなかった私は、そうした先生の言葉への情熱と、動きの理論を構築する論理の展開に導かれて毎週の授業に参加していたのだったが、ダイナミックに生き生きと授業をなさる先生が、お宅では、殊の外、静かな時間をもっておられることを知った。
 そしてそこには、あるがままの自然と共生する庭があった。当時から、庭には、盆栽の鉢植えであろうが地植えであろうが、植物を孤立させた形で完結させずに各々を解放し、全体として溶け合う一つの自然が造りだされていた。
 先生の私的な空間と時間のなかで、私は、野口体操の奥行きの深さの源に、お茶の味わいと庭造りの裡にもあることを得心したのだった。

 それから二十数年が経った今、「借景」という造園法を持つ成就院の庭のことを思い返しながら、野口体操のあり方を解読する一つのヒントを得た。借景は、自然全体を視野に入れることで、人工がもつ危うさを救い、常に全体としての自然の威力を感じさせる。同様に、野口体操は人間の言語文化や、自然現象全体、特に地学の時間空間の拡がり等の借景をもつことによって、からだと動きの問題を、狭い体育の世界から解き放ち、自然と文化・人間の本質を、まるごと全体の世界で探る道を切り開いてきた。

 なんと不思議なことだろう。いや、決して不思議ではない。伝統も生きもの同様にその遺伝子を脈々と伝えているのだから。伝統の遺伝子を乗せて流れる川は伏流となって、あるとき全く関係がなさそうな土壌にあらわれ命を復活する。野口体操は、借景という「伝統のDNA」を乗せた川の流れを受け継ぎ、新しい流れをすでに生み出しつつある。
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『私の「戦後民主主義」』いただいたメッセージ -2-

2016年02月02日 15時55分41秒 | Weblog
 本日は、手紙が何通か届けられた。
 お読みいただいたぞれぞれの方が、ご自身の幼いとき、若いときのことを思い出されているようです。
 野口体操の本とは、一味も二味も違うメーッセージをいただきました。
 吐露される内容が、今までとはあきらかに違っているようです。
 ここにいくつかのメッセージをご紹介します。

 一通目
 羽鳥先生にも寄稿させようとした編集者の慧眼におどろきます。
 思考の原点としてのからだーこのことを政治的レベルで説得力をもって語るのはなかなか難事です。
 今回のエッセイ、野口先生もお喜びと思います。(O.K)

 二通目
 あまりにも民主主義をバカにして せせら笑ったりする輩が たとえば国会の答弁席に坐っていたりするのを見ると こうした企画がとても新鮮な刺激に感じられました。それぞれの人生がーーー。(F.U)

 三通目
 (羽鳥)先生の野口体操にかかわる真意でしょうか。この時期にこのことをつかみ取っていける先生の資質のすばらしさを感じます。(中略)私事を書きます。大学で法律を学びました。「立憲民主主義」をどのように実現するのだろう、と考えていたことを思い出しました。(中略)結局、佛教の修行の中にその回答を得ようと努力しました。先生の文を読みながらこの発想が間違っていなかったなーとフッと頭に浮かんできました。(S.T)


 いただいたメールから
 一通目
 戦後民主主義ということについて、様々な立場の人が書いていて面白い本です。
 からだからの発想という、何かなかなか、羽鳥さんの固定観念から抜け出せずにいる私にとっては、
 緊張をしてしまうタイトルなのですが、この道をあゆみだしてからの人生のほうが長いのですものね。
 興味深く読みました。(W.K)(小学校時代からの親友。二人で体操の落ちこぼれでした。)

 二通目
 羽鳥さんのメッセージを真っ先に読ませていただきました。羽鳥さん、私のちょうどひとまわり上でいらっしゃいますから、戦後復興の時代にご幼少の時期を過ごされたのですね。そして戦前、戦後で価値観が180度転換した時代を生きられた野口先生の右腕となり、後継者となられ、戦後70年の今、お書きになった最後の4行が実に野口体操の羽鳥さんらしいです。安倍総理は「身体感覚に根ざした最良の選択をしぶとく繰り返す」ようなことをしているとは到底思えませんね。安倍総理も野口体操やるべきです。
 他の錚錚たる方々のメッセージもゆっくり読ませていただこうと思います。(N.E)

 電話での話
 朝のうち夫が久米宏さんのラジオ番組で、岩波の編集者をよび、この本のいきさつを語っていたのを聞いていて、夜になって、私に届けられた本を見て「これだこれだ!」と大騒ぎになったのよ。(笑)
「深層の令嬢」のような雰囲気で、ここに書かれていたようなことはまったく分らなかった。(笑)
 かなりラディカルな人だったのね!(笑)
 身体からはあなただけじゃない。いやいや野口体操をここまで続けてほんとによかったわね。よくやったわ!(笑)
 野口先生のお通夜と告別式を思い出すわね。今となったら懐かしいけど。(笑い)
 知っている執筆者が沢山いて、読みはじめたらやめられなくなって、ほとんど寝ていないの。(N.N)(敏腕企画者)

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コメント

『私の「戦後民主主義」』いただいたメッセージ

2016年02月01日 17時50分46秒 | Weblog
 本をお読みいただいた近藤早利さんから、読後感想をいただきました。
 読書家でいらっしゃるので、メールをいただいて相当に厳しいお言葉を想像しながら、おそるおそる拝読しました。
 でも、随所に優しが感じられて、ホッと胸をなでおろし、ご本人の了解を得てここにご紹介いたします。

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 羽鳥先生

 土曜日はありがとうございました。
 2回おやすみして3週間ぶりだったので、とても効いて、昨日はマッサージでいうところの「揉み返し」みたいな感じで、あちこちが痛かったり、勝手に筋肉?が動いたりしていました。
 今日は「リセット」された感じです。

『からだの民主主義」、拝読いたしました。

 戦後の新宿西口の風景、人びとの姿、街で耳にする言葉から始まり、人びとの生活、個人的体験、それらのすべてが、野口体操への「一本道」を造っていたとの述懐。

 野口体操を教わっている身としては「なるほど!」と思うところでした。
 スティーブ・ジョブズが、若いときにすることは「点」なんだけど、あとですべてを繋げる何かと出会うことがある、といっていたエピソードを思い出しました。
 
 笑ってしまったのは、新聞の切り抜きを持って「ベトナム戦争反対!」の演説をされたエピソード。幼き「操ちゃん」の姿を想像すると可笑しくもあり、また、小学生の作文でクラスでただひとり、佐藤総理とジョンソン大統領の政策について書いた自分と重ね合わせてもいました。国立の附属ではなく、新宿や荻窪の進学校に行っておられたら、学生運動の闘士になっておられたかもしれないですね(笑)。

 そこから野口体操の考え方を紹介されて、ふたたび「民主主義」の話にかえってくる。
 紙数の関係で仕方ないとはいえ、野口体操の中身を読者にもっと知って欲しいですね。

「身体感覚に根ざした最良の選択をしぶとく繰り返す営み」
 
 本当に、身体感覚だけが人間の行動選択の最後の「倫理」を支えるのだと思います。

 残念ながら、日本でも諸外国でも、そうはなっていないように思いますが、若い人たちに「希望を託したい」。ほんとうに、そう思います。

 最近、思うことは、戦後70年のうち56年間生きることができたのは、本当に稀なしあわせだったということ。この巡り合わせにこころから感謝しています。
 他方で、身体感覚に根ざした成熟した議論を、社会に根付かせることができなかったことは、われわれの責任だと思います。
 残されたあと何年かの人生においては、そのことを忘れずに、身近なことから実践していくしかない、そんな思いを新たにしました。

 そんなことを考える機会をいただきまして、改めてご恵贈ありがとうございました。
 他の方々の論考もぽつぽつと読んで参ります。

 また、今度の土曜日、よろしくお願い申し上げます。

 近藤早利
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