野口先生はよくこうおっしゃていた。
「動きには、隅から隅まで意識でコントロールしようとするのではなく、“非意識の自動制御能”が大切なんだ!」
すると
「自動制御能ですか? 自動制御能力ではないのですか?」
何度もそうした質問を受けたことがあった。
「はい、自動制御能です」
それ以上、答えることはなかった。
聞いた人は納得がいかないものの、そこで話は終わっていた。
さて、さて、私も「そうしたものか」ですまし、「どうしたものか」と自分に問いかけることをしてこなかった。
それから30年?!
最近になってやっと納得できた。
それは、Homeostasis 恒常性維持と Allostasis 動的適応能 のうち、後者の「動的適応能」という訳とその意味を知って、呼吸と心拍数の関係を実感したことで、考える時間をもったことからえられた納得だった。
「能力」というのは、一般的な辞書によれば「成し遂げる力」のことである。
それに対して「○○能」という場合は、「機能」であり「働き」である。
「非意識の自動制御能」は、成し遂げる力ではない。
「Allostasis」は、生体が快適に健康に生きるために必要な機能である。
一方の「非意識の自動制御能」は、動きに関わる主に筋肉(腱・筋膜)の働きに注目した言葉だった。
それは動くことが楽しく気持ちよく、快適であるために必要な機能なのである。
共通項は「ゆらぎ」である。
「ゆ」を語頭に持つことば群……ゆらし、ゆすり、ゆり、ゆらゆら、ゆるめ、ゆるし、ゆたか……。
“ゆらぎ方”が鍵なのである。
野口先生は「構造(物)」と「機能」という捉え方を常にされる方だった。
たとえば「脳」という構造物に対して、「心」「精神」「感情」諸々は「脳の機能」と捉えておられた。
非意識の自動制御能が活かされる“動きの質”を求めるのが野口体操である、とようやく自信をもって言えるようになった。
ひとつの言葉に納得し、わかった!と言えるようになるまでに、随分と時間がかかったものよ!
おー、一言で30年、と言ってみて、溜息であった。
「動きには、隅から隅まで意識でコントロールしようとするのではなく、“非意識の自動制御能”が大切なんだ!」
すると
「自動制御能ですか? 自動制御能力ではないのですか?」
何度もそうした質問を受けたことがあった。
「はい、自動制御能です」
それ以上、答えることはなかった。
聞いた人は納得がいかないものの、そこで話は終わっていた。
さて、さて、私も「そうしたものか」ですまし、「どうしたものか」と自分に問いかけることをしてこなかった。
それから30年?!
最近になってやっと納得できた。
それは、Homeostasis 恒常性維持と Allostasis 動的適応能 のうち、後者の「動的適応能」という訳とその意味を知って、呼吸と心拍数の関係を実感したことで、考える時間をもったことからえられた納得だった。
「能力」というのは、一般的な辞書によれば「成し遂げる力」のことである。
それに対して「○○能」という場合は、「機能」であり「働き」である。
「非意識の自動制御能」は、成し遂げる力ではない。
「Allostasis」は、生体が快適に健康に生きるために必要な機能である。
一方の「非意識の自動制御能」は、動きに関わる主に筋肉(腱・筋膜)の働きに注目した言葉だった。
それは動くことが楽しく気持ちよく、快適であるために必要な機能なのである。
共通項は「ゆらぎ」である。
「ゆ」を語頭に持つことば群……ゆらし、ゆすり、ゆり、ゆらゆら、ゆるめ、ゆるし、ゆたか……。
“ゆらぎ方”が鍵なのである。
野口先生は「構造(物)」と「機能」という捉え方を常にされる方だった。
たとえば「脳」という構造物に対して、「心」「精神」「感情」諸々は「脳の機能」と捉えておられた。
非意識の自動制御能が活かされる“動きの質”を求めるのが野口体操である、とようやく自信をもって言えるようになった。
ひとつの言葉に納得し、わかった!と言えるようになるまでに、随分と時間がかかったものよ!
おー、一言で30年、と言ってみて、溜息であった。