『原初生命体としての人間』第五章「ことばと動き」を読んだとき、これが体操の教師が書いたものなのか、と天地がひっくり返る驚きを覚えた。
こんなことを言う人にはじめて出会った。
野口体操に、いや 野口三千三に惚れてしまった。
いつの頃からか気がつくと、周りの心配をよそに「野口体操ファーストの人生」を歩きはじめていた。
それはそれとして、2017年から『野口三千三伝』の本格的に資料を集め、ゆかりの人に会い、野口が生きた場所を巡っている。
ところが、一昨年からは『「野口体操」ふたたび。』の執筆と昨春の出版、その年の秋から今春の『早蕨 特別号「野口三千三先生を偲ぶ」』の編集と発行で「三千三伝」に集中できなかった。
疲れたー!
でも、そろそろ歩き出さなくちゃ。
勢いつけに6月最後の日曜日、鍵本景子さんの紙芝居『おきなわ 島のこえ』丸木俊 丸木位里作 を見せてもらうことにした。
紙芝居がおわってから、初めて出会った方々と話を交わすことができた。
行ってよかった。その思いを胸に夜10時過ぎの中央線で帰宅した。
その週の水曜日、この機を逃してはいけないとばかりに、埼玉県東松山市唐子「丸木美術館」を訪ねた。
美術館に寄せられた祈りのことば
池袋から東武東上線に乗り、森林公園駅を下車しタクシーに乗りこんだ。
何気なく窓から外を眺める。
「ずいぶんと一戸建てやアパートが多く建っているんですね」
思わず運転手さんに尋ねた。
「ここに住んでいる人たちは、どこに勤めているんですか」
「この先に工業団地があるんですわ。百社はくだらないかなー」
5分もしないうちに、綺麗に舗装された道の両脇に、次々と会社名の入った工場が現れる。
「昔、ここは陸軍の松山飛行場だったんですよ。飛行場として使われる前に終戦になちゃったんですけどね」
「陸軍ですかー、その後は工業団地に」
「いえいえ、戦後は農地として開拓されたんです。でも日本が工業化に突き進んだ時代に工業団地に転用されていったんです」
戦中、戦後の歴史がそのままここにはある。
そうこうするうちに、美術館のある唐子地区に差し掛かると景色は一転。
雑木林や長く伸びた夏草に囲まれた細い土の道に分け入っていく。
車は急にスピードを落とす。
そこからは数分だろうか。
美術館に到着した。
美術館を取り巻く自然 鶯が鳴く比企丘陵
この空間に気持ちがほぐされる
平和のありがたさが身に染みる
あの日から、今日で三日。
明日と明後日のレッスンの準備も兼ねて、『原初生命体としての人間』「ことばと動き」に野口が引用した部分を、木下順二『沖縄』の台本に探した。
ページをめくる。
鉛筆で引かれた何本もの線は、野口の情動をそのままに、曲がり活字にかぶさっている。几帳面な野口とは思えない勢い余った手の動き。
台本は文字だけ(当然だけど)だから、鍵本さんが紙芝居に仕立てた『おきなわ 島のこえ』の絵も、美術館に展示されていた「原爆の図」も貴重なのだ。
野口三千三は戦地には行かなかった。
戦争の悲惨は、東京大空襲の後片付けに出向いた東京体育専門学校の生徒を引率した時に経験した。その悲惨な情景を野口は語らなかった。その時の様子は、体専の生徒たちの手記で私は知った。
台本を繰っていく。
「においまでがー」
「沖縄」に引かれた最初の棒線に、頭が真っ白になって教師としての体面を保とうと必死だった自分がいた、という野口の言葉を思い出した。
〈一年の始まりは正月ではなくて8月15日だ〉
終戦ではなく「敗戦」と言い続けた野口にとっての戦争体験をわずかでも想像したくて出かけていった美術館だったなぁ〜。
喘いでいる。
ため息をついている。
「三千三伝」を今書き始めるには、エネルギー不足かも。
とんだ男に惚れてしまった!
「後悔してる?」
「いや それはない。たぶん(小声で)」