羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

野口三千三ゆかりの川へ

2018年04月26日 19時02分11秒 | Weblog
『私が「烏川の川原によい砂がある所はないかなあ」というと、子供たちは早速調べてきてくれました。職員会議に図って、組ごとに、全校生徒が川原へ砂を採りに行った。こうして砂をとり換えた砂場は、たちまち子供たちにとって自分の愛する友だちに変わったのです』
 野口が短期現役兵のつとめを終えて、本格的に小学校教師として生徒たちと接した時の話だ。
 鉄棒を磨く、藁でマットをこさえる、そういった子供たちが直接に道具と向き合った記述が『野口体操 からだに貞く』に書かれている。

 本日、午後、何気なく手にとった。
 久しぶりである。
 最初から読み始めて、26ページ、「烏川」の二文字に、一瞬にして目が点になったところだ。

「体操による人間変革」ー鉄棒がかわいくてたまらないーである。

 今年の正月に群馬を訪ねたおり、明治期になって「高崎歩兵十五聨隊」となった場所もあるいてみた。
 かつて高崎城があったところだ。
 烏川のそばには、本丸と西の丸がつくられていた。
 この城は山代ではなく、平城である。
 したがって、烏川は敵が攻めてきたときに侵入を防ぐ堀の役目を担っていた。
 
 その様子は、高崎市役所の23階にある360度展望からはっきりと見て取れる。
 川は榛名山方向から流れてくる。
 今では、護岸整備が進められていて、砂を採りに行ったことなど想像もつかない。

 それでも文章の中にこの記述を見つけて、ハッと驚く同時に、懐かしい心持ちになった。
 以前、読んだ時にはない心境の変化である。
「烏川」の二文字に全く気づかず、気に留めなかった。
 
「現地を訪れて見る」ということはこういうことなのだ。

 そのときには、川に近づくこともしなかった。なんてこった!後悔先に立たず、である。
 実に残念なことをした。

 実は、7月になったら、野口ゆかりの川を、実家近くから探しに行こうと思っている。

 その折に、高崎に立ち寄って、この川のほとりに立ってみよう。
 夏の風に吹かれてみよう。
 空を眺めてみよう。
 川の蛇行をこの目で見て確かめてみよう。
 
 文章を読む、ということはこういうことなのだ。

 私の旅は、終わりそうもない。。。。。
 
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一歩ずつ・・・一歩ずつ

2018年04月24日 19時46分39秒 | Weblog
 昨年9月から始めた母のための種々の手続きが、3月には終わった。
 そして本日、変更した手続きが、全て順調に回っていることが確かめられた。
 具体的なことは書けないが、一つ一つをクリアして、完全に終了するまでに8ヶ月かかったことになる。

 本日も午後になって母の施設を訪ねた。
 まだ、私のことをしっかり覚えていてくれる。
「髪を切ってもらったのね」
「そうね、最近だと思う」
「短くカットすると、若く見えるわね」
「子供っぽくなるでしょ」
「そんなことないわ!」
 そんな会話をしていると、母に入浴の番が回ってきた。

 ロビーで待つ時間は、穏やかに過ぎていく。
 窓から見える樹々は、すでに新緑から深い緑に移りつつある。
 施設の真向かいにある早稲田大学の校舎の周りには、何種類ものツツジがびっしりと植えられ、今が盛りの満開である。
 
「スープの冷めない距離、という言葉が流行ったことがあるなぁ〜」
 それよりは少し遠いようだが、自宅から施設まで徒歩で15分以内で到着する。
 心理的にもちょうど良い距離感である。

「先取りの悲嘆」はない。
 むしろ日常の暮らしの安心感が、母と穏やかに過ごせる最後の時間をもたらしてくれた。
 今度は、一歩、また一歩と、自分のことに取りかかることができそうだ。

 これは69年間生きてきて、はじめて得られた「ゆとり」だと言える。
 言葉にしにくいこの感じは、若いときに感じたことはなかった。
 ゆったりと満たされている。
 一方で、できることを一つずつ、丁寧に行っていけばよい、というさっぱり感もある。

 これからは周りの景色をゆったりと眺めながら、山道を下ることができそうである。

 誰のためでもない、自分を生きる時間が、ようやく得られたのだと思う。
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旅の企て・・・・

2018年04月17日 14時30分00秒 | Weblog
 昨年、6月5日に介護施設に入所した母は、今年に入って非常に落ち着いてくれた。
 ひとえにスタッフの皆さんの尽力の賜物と感謝以外の何ものでない。

 93歳になっても、良い方に変化する力を持っている人間の可能性に、娘として驚きすら感じている。
 食事への意欲もある。
 排泄もちゃんとさせてもらえる。
 専門の口腔ケアも受けながら、入浴も定期的にさせてもらえる。
 からだの気持ち良さが土台となって、次第に、生きる意欲が湧いてきたのだと思う。

 これからどのくらいの期間はわからないが、しばらくこの状態を維持してもらえたらありがたいと思っている。
 私の中でも母をお預けして、安心できる状態に達した。

「母・娘、共依存から脱皮できたのは、どんな理由ですか」
 先週末の土曜日に、新宿駅への帰り道でたずねられた。
 その時はうまく答えられなかった。
 今になって言葉にしてみると。。。。。
「生きよう」とする意欲が、母のからだの快適さによって生み出されてのではないか、と思える。
 膝が痛い、腰が痛い、肩が痛い。一切ないのだ。
 身体的な不快感を全く訴えない母である。

 先ほど、介護施設の提出書類の書き方で、介護支援専門員の女性と電話で話をした。
 その際、感謝の言葉を添えて、この話をすると彼女の答えが返ってきた。
「ユニット長の男性が、非常に明るいことが項を奏していると思いますよ」
「確かに!」

 個室には、夜になって寝に行くだけの暮らし方で、常に誰かの目が母に届いている。
 来る人ごとに話しかけてもらえている状態が、入所時期よりも元気になった一本道である。

 そうはいっても、今のところは安定していても、いずれは施設からの呼び出しがかかる日が必ずやってくる。
 その前に、目的なしの旅に出たい、と急に思い立ったのは、15日日曜日のことだった。
 それくらいは神様も許してくださるだろう、とタカをくくった。

「野口三千三伝」の取材では勿論ない。
 40年の仕切り直しである。
 早速、日曜日に宿を予約した。
 16日・月曜日には、新幹線の往復座席をとった。

 かくして東京脱出ゴールデンウィーク作戦では、伊豆天城の山中近くにある温泉で過ごすことにした。
 耳では、蓄音機でレコードが聞ける。
 舌では、ジビエ料理を味わわせてくれるらしい。
 昭和に還る旅。
 といっても、たった二泊三日のことである。
 何れにしても、デジタル世界から、しばし離れる贅沢をさせていただこう。

 天気予報は、今のところ、”曇り時々小雨”である。
 温泉はあったかくても、外は寒そうだなぁー。
 まぁ、小雨にけぶる風景もまたよし!としよう。
 
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サーカス「玉乗りの玉」の色!

2018年04月10日 14時13分17秒 | Weblog
 先日、4月8日のこと、昭和30年に東京藝術大学美術学部油絵科に入学したYさんにお話を伺った。
 戦時中の体験から、戦後になって野口三千三の授業を受けた時を中心に語ってくださった。
 正確に話をなさろうと、時に目を閉じて当時の情景を浮かべていらっしゃるのか、できるだけ正確に思い起こそうとなさっておられた。
 持参した「野口体操の会」会報 創刊号に最後に掲載した「サーカスの玉乗り用の玉」の写真を見ながら呟かれた。
「この玉は色がついていたんですよね」
 迂闊だった。
 全く想像しないまま、目の前にあったサーカス玉ばかりを見ていた。
 こうした迂闊さは、おそらく随所にあるに違いない。
 google検索で「昭和20年代のサーカス玉乗り用の玉」を検索した。
 上から3、4番目に「羽鳥操の日々あれこれ」2005年12月8日
 野口体操との出会い12
 見つけた。

 思わず読み返した。
 忘れていることもあった。
 佐治さんからのコメントも貴重だった。

 先入観を持ちすぎるのも問題だが、想像力欠如も問題だ。
 自分の知らない時代を、知っていても幼すぎた時代を、全く知らない世界を、どのように理解するのか。
 ものすごく大切なことに気づかされた「サーカス玉の色」であった。
 Yさんが懐かしい玉の写真を見た、まさか瞬間に発せられた”言葉・声・表情・身振り”等々が、昭和30年ごろの「色付きの玉」の存在を確実に伝えてくれた。
 あの生々しさは、かけがいのない出会いだった。
 所縁の方々に会ってお話を聞く醍醐味は、こうした何気ない予期せぬ瞬間に語られる言葉に出会うことである。
 ここがいちばん肝心なところだ。
 
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身体講座の伝統・・・そこから見つけられた我がライフ・ワーク

2018年04月08日 07時00分51秒 | Weblog
 今年に入ってから、2月と3月に、会の中身は異なるものの、朝日カルチャーセンターで「身体系」の講座を受け持っている方々と席を共にする機会を持った。
 身体といっても、からだだけの問題ではなく、40年前には「こころとからだ・心身一如」的な講座の流れを組む講師たちである。

 野口体操が朝日カルチャーセンター新宿校で開講されたのが、確か1979年だったと記憶している。
 1970年代から80年代は、「身体の復権」の時代だった。
 敗戦後、長らくアメリカ的な価値観による医療や訓練法一辺倒だったが、そこに風穴が開けられたのがこの時代である。
 それまで座布団の下に隠されて息を潜ませていた東洋的・日本的な身体の見方に光が当てられたのだ。

 ホリスティック医学(医療)、野口整体、西式健康(呼吸)法、漢方、鍼灸、ヨーガ、太極拳・・・・・様々なものの活動が始まった。
 欧米内におけるアンチ西洋的な活動としては、アレクサンダーテクニークやフェルデンクライス、少し遅れてロルフィングなどが日本にもたらされた。
 哲学はメルロポンティ。文化人類学も脚光を浴びていった。
 野口三千三の野口体操は、哲学や文化人類学の視点から、戦後における「第一次身体ウェーブ」にふわっと乗せられた感がある。

 それからほぼ20年。
 野口が1998年に亡くなった頃から必修科目であった大学の体育が選択科目になった影響から、スポーツやトレーニング中心に加えて、ヨガや太極拳、インド武術等々、古今東西の文化的な価値観の裏付けを持つ身体技法を学ぶ講座が正課体育中に導入された。身体のコンディショニングの東洋版でもあった。
 つまり野口没後、「野口体操」は、唯一日本生まれの独自価値観による体操として選ばれ、芸術系とは別の東京六大学の正課体育に導入された経緯がある。
 この時期が「第二次身体ウェーブ」と言えるかもれない。

 20年経ったこの時は、第一世代の大御所のほとんど鬼籍に入られていた。
 したがって、その方々の助手的な存在だった数少ない人材が、登用されていったような印象を持っている。

 さて、大学とは別に、朝日カルチャーセンターでも、70年代・80年代の第一ウェーブについで、さらに積極的に講座が次々と生まれていった。
 第二次ウェーブは、若者から年齢の高い方々まで網羅して、単なる「健康志向」だけではない方向が求められている。

 ここまで経過をたどってみる。

 第一次ウェーブは、身体に軸をおいた哲学的な欲求を持つ人々に選ばれた活動。

 第二次ウェーブは、感性・感覚を軸としたもう少し幅広い一般人をも巻き込んだ活動に変化していった。

 第三次ウェーブは、東西が融合されるかのような新たな時代が到来している。
 それは、まさに、今である。
 第一次の始まりから、ほぼ40年の節目、今年になってより顕在化してきた感がある。

 ブログの最初の話に戻ると、それらの活動を中心として担っていくであろう指導者に、図らずも、直接、出会う機会が得られたことは偶然ではない、と思っている。
 久しぶりに会った同年輩の方からも、あまり馴染みない若手の方々からも、必ず私に託される言葉がある。
「僕たち(私たち)が、こうして今あるのは、朝日カルチャーの二階さんのお陰なんです。お会いになったらよろしく伝えてください」

 40年前、まさか、このような流れになるとは、彼女とて想像だになさらなかっただろう。
「二階は、何をやっとる」
 上層部からの批判の声を聞いたのか聞かなかったのか、それはわからない。
 しかし、直接世話になった方々も、ならない方々も、カルチャーの身体(心と体)講座の伝統に組み入れられて、それぞれが立ち位置を持ち得るのは、伝説の二階のぶ子を置いて語ることはできない、と私は確信した。

 10年ひと昔、というけれど。
「あれから、40年である」
 長かった。いや、あっという間でもあった。

 私は思う。
「老兵は去るのみ」時も近い、と。

 時代が、逆巻いて変わっていく。
 今、この時、変わらないのは何か?

 最近になって、変わらないものの手がかりとして、残しておきたいことが見つかった。
 残された時間で、我がライフ・ワークを丁寧に紡いていくことができたら幸せ。
 そんな気持ちを後押ししてくれような太陽の光を浴びた灌仏会の朝である。
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暮らし方

2018年04月06日 07時24分54秒 | Weblog
 昨日、誕生日を祝う手紙をいただいた。
 そうか、花祭りの4月8日はもうすぐ目の前に来ているのだ、と手紙を手に郵便受けの前で立ち止まってしまった。
 69歳。
 数え歳では70歳になる。
 そんなに歳を経たような自覚はまったくないのが、正直な心持ちだ。
 
 野口先生の70歳ごろを思い出してみると、お若くもあり、老練でもあり、流石に戦争をくぐり抜けて「野口体操」を創造し続けた一人の体操教師としての尊厳を感じさせてもらっていた。
 龍村仁監督の「お手本は自然界」セゾン3分CMでの活き活きした姿や話ぶりや動きは、70歳代を生きている貫禄と華やぎに満ちたものだった。

 当時、教室に通ってくる皆さんにとって、歳をとる「お手本は野口」だった。
 一週間の終わりに教室に入ってレッスンを受けることで、リフレッシュされている方々の集いだった。
「これでいいのだ」
 会社や、家族や、友人知人・・・・・、なんとなくの違和感や不自然さを、野口レッスンで洗濯させてもらって英気を養う。
 レッスンのあとの一杯のビールが美味しい!という方もいらした。
 心身がほぐれて乗り込んだ電車の中でのうたた寝が、気持ちいい!という方もいらした。

 そんなことを思い出しながら、これからの自分の70代をいかに生きようか、と問いかけている。
 哲学的な答えを求めているわけではない。
 目の前の、いや足元の日常の暮らしを、少しだけ変えていきたい、と思っている。

 母が入所して8ヶ月。
「ここらあたりでよかろうか」
 老いの身丈にあった暮らし方を、ぼちぼち本気で探すことにしたい。
 焦りは禁物。
 しかし、のんびりし過ぎてもよろしくない。

 周りを見回すと、危ういことばかり多い。
 現在のカオスが、新しい良き事を生み出す動揺であるならよいのだが。
 果たして、世界を覆う右傾化が、不気味な怪物を生み出さないことを祈りたくなる。。。。。。

 東京の桜花はすでに散った。
 新緑が眩しい灌仏会の日は間近い。
 無信心の私でも、お釈迦様に見守られていることを感じる誕生日なのであります。
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「野口体操の会」2年目の春・・・・巡礼の時はじまる・・・・

2018年04月04日 08時31分37秒 | Weblog
 今朝、Facebookを開いたら、一年前に書いたブログのことが知らされていた。
「あの日、2017年4月1日は、寒かったなー」
 懐かしく思い出された。

 さて、「野口体操の会」創立2年目の春。
 施設入所した母の様子も落ち着いたこともあって、積極的に野口三千三ゆかりの方々に連絡をとって時間をいただき話を伺っている。

 鹿児島に93歳になられるNさんを訪ねたことは、このブログでも報告させてもらった。
 先日は、拙宅に野口体操教室の先輩Tさんが、わざわざ来訪してくれた。
 戦後、野口が演劇に関わった昭和20年代後半から30年代の貴重な話を伺うことができた。

 今度の日曜日には、「ぶどうの会」「民藝」の演出家・岡倉士朗に野口をめあわせた藝大の卒業生の方とお目にかかれる約束がかなった。
 また、5月になってからは、野口とは時間のズレはあるものの、戦後の間もない頃に江口隆哉・宮操子舞踊研究所にいらしたモダンダンス界の大御所の方にも話を伺うことができそうだ。

 早、野口三千三が亡くなって21年目に突入した。
 皆さまかなりのご高齢である。
 しかし男性は矍鑠とし、女性は凛とされて、揃って素敵なお歳のめされ方をなさっている印象である。 

 それとは別に、3月23日(金)には、座・高円寺で催された「ソマティック・ダイアローグー竹内敏晴ー」に参加して、かつて「竹内レッスン」に在籍していた方々に会うことができた。
 
 手紙や電話で打ち合わせをすることからも感じられるのだが、これまでも、ここからも、お目にかかる人に共通していることは、「からだ」と「ことば」への関心が深く、独自の価値観をしっかり育んでおられることだ。
 すでに泉下の野口と出会っていらっしゃる方も少なくない。
 もっと早く動き出したかった。
 が、こればかり言ってもせん無いこと。

「野口三千三・野口体操についてお話聞かせてください」
 何方もそれぞれの青春と重なっている。
 ご自分の来し方を振り返って、丁寧に誠実に語ってくださる。
 聞く私には、戦前・戦中・戦後と、過ごされた時代と社会の様子が、ありありと伝わってくる。
 これは醍醐味である。

 野口体操は「個を尊重する体操」である。
 にも関わらず、俯瞰してみると、時代と社会が求めた独自の体操でもあると思えてならない。

 こうして人を訪ね、土地を訪ねる”私の巡礼の時”は、始まったばかりである。
 
 ひとえに、会報『早蕨 SAWARABI』に、「野口三千三伝」を載せましょう、と提案してくださった事務局の近藤早利さんのお蔭です。
 そして快く引き受けてくださるお一人おひとりの野口への熱い想いに支えられていることをお伝えします。

 


 
 

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見えるものを見たままに描こうとする執念・見えないものを見えるものに転換して描こうとするイマジネーション力

2018年04月01日 09時11分56秒 | Weblog
 特別展『人体 神秘への挑戦』科学博物館について、話をしているうちに、思い出したことがある。
 それは2014年3月〜6月、ちょうどこの時期に開催された特別展『医は仁術』である。
 100年に一度しかできない素晴らしい特別展だと、監修・企画・調整の鈴木一義氏が話しておられたこと。
 たまたま会場に入った時、数名の方に説明しながら、会場を回りはじめた鈴木氏に出会って、何気なくその後をついて話を伺った。
 贅沢なギャラリートークは、1時間を超えてしまった。
「漢方」は、日本で洗練され、深められた優れた医療行為であることが伝えられた。

 今朝、その時の和綴じ本形式で作られた解説書を探し出した。
 今回の「人体」の解説書とは全く趣が異なる。
 つまりそれを意識して和綴じ本にした企画者の並々ならぬ思いを改めて知ることができた。

 どちらも「見たものを見たまま描写する執念がある。同時に、見えないものも見えるものに視覚化するための飽くなき挑戦」の賜物だ。
 同じ人体を見ながら、双方の違いはイマジネーションの傾向の違いで、表現された世界は相当に異なって見える。

 ただし、西欧のリアリズム、微細なもの・見えないものまでも道具を使ってでも描き出す欲求度・熱量は、想像を超えて高いものがあることを今回も感じさせてもらった。
 DNA解析・ゲノムデータから復元された縄文人は具体的な例である。すでにゲノム情報を超えた先の情報も研究対象になっているという。
 見えるもの・見えないものを視覚化する先に、単独の臓器と脳の関係から、臓器同士の情報のやりとりによって生体が維持され「生きる」ことを支えていることの発見。
 ガン細胞と血管の関係。
 本日、午後9時NHKで放送される「毛細血管」の話等々。
 西欧のとことんリアリズムの姿勢が求めた先にある、次なる世界の扉がすでに開かれていることを、特別展ではさらりと示していた。
 その研究は、欧米人だけではなく、国境を超え人種を超えて、生命科学に関わる多くの人の共同研究によるものであることは、誰でもが知ることとなった。

「医は仁術」の解説書と「人体」の解説書を並べて見ていると、双方の文化の違いを否応無しに見せつけられる結果となる。
 しかし、良し悪しの問題・上下関係の問題を超えて、「漢方が目指す先の医療」と「西洋の医療がこれから進めようとしているあり方」双方を視野に入れることは「人間とは何か、自分とは何か、自然とは何か」野口体操の問いを続ける上で大切な要件なのではないかと、気付かされた。

 アルファベットの世界の捉え方、漢字のみの世界の捉え方、漢字とひらがな・カタカナの世界の捉え方、今はまだ混沌(カオス)の中にあることが、いずれ新しい道を見つけ出すのではないか、大風呂敷を広げている夢を見た。
 野口体操に引き寄せれば、生身の身体に根ざした「リアル」と「イマジネーション」の関係を読み解きたくなってきた・・・・・・わけであります。
「自然直伝」とは、よく言ったものだ!
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