羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

シューズを脱ぐ-2-「素足」

2016年04月26日 14時27分02秒 | Weblog
 入院中の佐治さんから「素足」について、メールをいただいた。
 一部転載。
《成蹊大学で法律を教えている先生にスアシスト(素足人)を名乗る人がいます。
 以前から彼のサイトはよく見ていて、Macのこと、SIGMAカメラのことなど大変参考になります。
「百年」での写真展には大学にも近いので案内状をお送りしました。
たまたま私がいない日でしたが見に来て下さいました。

 塩澤さんは普段は5本指に別れた靴を愛用していて、(見た目はちょっと不気味ですね)
 最近は通学途中の田舎道では素足になって歩くそうです。
 わたしもバリ島に行くとよく素足生活していますが、
 東京では勇気が要りますね。危険物も落ちていることだし。
 でも彼の考え方はよくわかります。》

 そこで野口先生の戦時中はどうだったのか、と気にかかって『DVDブック アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司』(野口三千三、養老孟司、羽鳥操 春秋社)の冊子をめくってみた。
 56頁~57頁:野口先生の指導のもと、体操をしている小学生たちは、皆、素足である。
 服装は、上半身裸で、短パンらしきものを履いているだけで、「逆立ち歩き」や「高い石垣のようなところからバク転をして地面におりるうごき」を行っている。
 ただし短い休み時間でも鉄棒運動の練習が出来るようにと、生徒たちに促したその時は、普通に服をきて楽しんでいる。
 
 野口先生は、校庭の真ん中を視察に訪れた男性と校長らしき男性、二人と共に歩く服装は生徒たちと同様で、上半身裸で短パン・素足である。
 この出で立ちに決めたのは、野口先生自身だと聞いた。
 戦時中で次第に物資がなくなっていくなか、体操服など用意できなくなった。それが理由だと言う。
 しかし、49頁に掲載している群馬師範学校の屋上で撮ったらしい「野口・片手逆立ち」は、体操用白い長ズボンに同色のランニングシャツ、茶色いゴム底の靴を履いている。
 いずれにしてもすべて戦争が激しさを増す時代の写真である。

 実は、この上半身裸、短パン一枚で体操をする、と決めたことによって、野口先生は後になって猛反省することになる。
「僕はね、からだに自信があったから、裸になることに躊躇いはなかったんだ。……なかったんだが、洗濯板のような体つきの先生もいたわけ。配慮が足らなかった。どんなにか恥ずかしかっただろう、と敗戦後にやっと気づいたんだ! 当時、校長の采配もあって、群馬県内の小学校をくまなく指導して回っていたから、恨みに思う先生は大勢いたと思うよ。なにしろ戦時中は、成績優秀でも、体が貧弱で体育不得意の生徒は、肩身が狭かったからね。まして指導者だったら、恥ずかしいを超えて、教師を辞めたいくらいの心境だったに違いなんだ……」
 
 戦後は、“群馬の郷里には帰らない、いや帰れない” と、何度も伺ったことがある。
 体育の服装の件も、ひとつの理由なのだそうだ。
 
 物資も次第に豊かになってきた戦後の先生は、体操競技用のシューズを常に履いて、授業やレッスンにのぞんでおられた。床との関係で何を履くのか、履かないのか、履くとしたらどのようなシューズが適当なのか。先生なりにあれこれ試されたことは想像できる。
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シューズを脱ぐ……清水の舞台を飛び降りる心境で……

2016年04月23日 11時29分49秒 | Weblog
 野口体操をはじめてかれこれ40年が過ぎた。
 その間、野口三千三先生が履いていらしたのと同じ体操競技用のシューズを愛用してきた。
 体操のレッスンや授業のときに、そのシューズを脱いだことはなかった。
 動きとともにシューズがあった。
 シューズ無しに体操は考えられなかった。というより履かない、という選択は、考えたこともなかった。

 さて、今月から始まった大学の教室は、空手道場であった。
 ここは、教室とは呼ばない。「教場」である。
 中央の位置には神棚がある。
 歴代の空手名人の写真が飾られている。

 さて、ここではシューズは厳禁。靴下もできれば無し。
「檜の床を何十年と磨きあげてきたので、ぜひ、素足で床を味わってくださいッ!」
 
 初日には、さすがにシューズだけ脱いで、靴下のまま過ごさせてもらった。
 そして今週の二回目の授業から、恐る恐る素足を決行した。
 おっしゃる通り、滑らかな檜の肌触りは、格別だった。
 授業を順調にすすめることができた。

 ところがである。
「腕たてバウンド」は、弾みが上手くとれない。
 鰭のような状態のつま先で、自然にうまれていたスナップが利かずに、動きが重くなってしまうのだった。
「あれ~、どうしよう」
 その瞬間、顔には出さず、密かな宿題にすることにした。

 ふと、思った。
 幼稚園児か小学校1年生くらいのころだったか、島田歌穂さんのおばあさまに連れて行ってもらった映画「赤い靴」を思い出した。物語をしっかり覚えているわけではないけれど、鉄道の線路の枕木の上に赤いトウシューズが置かれていたシーンは記憶している。クラシックバレーと言えば、トウシューズなのである。

 ふと、思った。
 クラシックバレーに反旗を翻して、素足で踊ったモダンダンスの革新。女性を縛っていたコルセットとトウシューズを脱いだことで成り立つあたらしいダンスの幕開け。

 ふと、思った。
 NHKの「みんなの体操」はシューズを履いていただろうか?確かめてみた。履いてました!つまり体操というのは底が薄く柔らかいシューズを履く「これ、常識」。
 それにはいろいろな意味があるが、野口先生が言ってらしたことは「怪我を避けるため」であった。

 ふと、思った。
 野口体操は、まぎれもない「体操」なのである。

 夢ー「郷に入っては郷に従え」かなー、「それとはちょっと違うかなー」
 夜中に何回も同じ夢で目覚めるほど悩んだ「シューズを脱ぐ」という選択。
 その選択をしてみて檜の床はなかなかよい感触だったが、やりにくい動きだってあるのだ、ということを知った。
 この空手教場だけが、いくつもあるこの大学の武道系教場の中で、唯一の檜の床だ。
 そして清々しい雰囲気を醸している伝統をなにより誇りにしている。
「そうなのだ」
 この大学の授業を、ここで続けるためには蔑ろにしてはいけない、と思いつつも複雑な心境である。
 
「檜の床」に、いろいろ考えさせてもらっている。

 でも、冬になって冷気に耐えられなくなったら、真っ白な足袋をはかせてもらおうか。
 でも、そうすると “こはぜ” が、動きの邪魔になるかしらね~。
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佐治嘉隆写真展、のこり三日

2016年04月16日 08時42分59秒 | Weblog
 3月30日から始まっていた「高田渡 1971/TOKYO 70’s」は18日(月)までです。
 昨日の様子が佐治さんのブログ「芭璃庵」にアップされていました。
 最終日は、片付けのために8時までだそうです。
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泉下の三千三先生に……ご報告

2016年04月08日 20時28分53秒 | Weblog
 かれこれ50年ほど前、中学の同級生のお母さんの実家があった熊本の玉名市に旅行したことがある。
 夏休みに帰省する友人の家族につれられて訪ねた。しかし、その友人とも最近ではすっかり疎遠になってしまっている。
 ご親族の方がいらっしゃる筈だ。

 昨晩、起こった地震の被害が、どの程度なのか。
 心配である。
 なんとか被害が大きくならないことを祈っている。
 いまのところ原発被害の報道はされていないが、大きな断層の真上に、こともあろうに原発がある、とわかった時点で、最善の判断をしてもらいたい、と切に願っている。

 さて、野口体操の報告をさせてもらう。
 新学期のクラスも昨日ですべて開いた。
 明治大学は2014年度で定年退職しているが、2016年度の今年は立教大学に加えて、新規に中央大学法学部の学生に野口体操を教えるコマをいただいた。
 朝日カルチャーセンターも、土曜日、日曜日ともに順調に開講している。
 9月には、同じ曜日、同じ時間のままだが、教室の階が移転するらしい。
 実に、朝日カルチャー新宿校に通いはじめて、今年の4月で満38年を迎えた。野口三千三先生の助手として20年間、没後は18年経過したことになる。過ぎてしまえば速かった、と感慨深い。

 月並みな言い方だが、野口体操を中心に充実した日を送ることができているのは支えてくださる方々のお蔭をひしひしと感じるこのごろ。
 没後、困惑のなかにあった私に、ある方からこう言われた。
「仕事は人生の一部です」と。
 先生の病気と看取り、重なるようにして父の病気と看取りがあり、現在は母をみている。
 常に、病院と縁がきれない時間のなかで、野口体操は人生の一部ではなかった。
 少なくとも数十年間、生きる時間の殆どが、野口体操関連の事柄に占められていたように思う。
 あえて言ってみれば、仕事というよりミッションだった。

 4月8日で67歳になった。私に残された時間の限りが見えてきたが、もうしばらくの間、ご縁のある方に手渡していくミッションをつづけることをお許しいただこう。
 と、綴りながら、泉下の野口先生に、よい報告ができる幸せを身にしみている。

 2016年4月15日快晴。
 清々しい春の朝である。
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『武満徹・音楽創造への旅』立花隆

2016年04月07日 12時47分41秒 | Weblog
 ちょうど朝日新聞「人生の贈りもの」に、立花隆の連載が始まったころ、一冊の本を読みはじめた。
 書名は『武満徹・音楽創造への旅』文藝春秋社刊 2016年2月20日である。
 最初に手に取ったときには、781頁・二段組みの分厚さに、いささか読み止しに終わりそうな気配を感じていた。
 しかし、それも杞憂にすぎない、と今は思っている。
 まだ半分ほどしかすすんでいないが、ぐんぐんと引き寄せられる快感に、ページをめくる手も先へ先へと急がれるのである。
 なにより立花氏が学生時代から、現代音楽に造形が深かったことに驚かされた。
 田中角栄研究のイメージが強く、音楽をこれほど身の内に醸成されておられたとは、予想だにしなかった。迂闊であった。
《 没後二十年 六年にわたる「文學界」の連載が完結後十八年のときを経て、ついによみがえる! 》
 帯にそう書かれている。

「ノヴェンバー・ステップス」をはじめて聞いたのは、いつのことだっただろう。
 高校生のころ現代国語の先生のお宅だったか?
 自分のときの記憶は、朦朧としている。
 あのとき、雷が落ちたような驚きを感じたことだけは鮮明だ。
 はじめて目にするのだが、この本のなかに琵琶の図形楽譜(ペータース社)が載っている。
「こんなだったんだ!」
 
 オーケストラに尺八と琵琶の組み合わせ。
 トロント交響楽団と最初の音合わせの様子を小沢征爾の言葉を引用して『37「天才指揮者、小沢征爾」』の章を締めくくっている。
《 びわが鳴りだす。西洋の音階にはない四分音が、ばらばらとび出してくる。二人だけのカデンツァにくると、オーケストラの連中はまるで凍りついたみたいに、ほんとに氷になったみたいにシーンとして、目の玉が飛出で、耳が三倍くらいになったようなツラをして聴きいっている》
 なんと臨場感のある言葉だろう。指揮者でなければ語れない言葉だ。
 この27行を全部ここにうつしたいのだが、それはやめておこう。
 立花はこの小澤の言葉群を「活写」といっているが、本当にそうだ。

 音楽を學ぶとは、どういうことなのか。
 まったく独学の作曲家の作品を聞きながら、誰もがその問いを発したに違いない。

 さて、武満徹は1930年生まれ。昭和でいうと5年である。昭和6年9月に勃発した満州事変前の年、大恐慌が日本を襲った年である。生まれたばかりの徹は、家族に連れられて満州の大連に渡った。6歳の小学校入学までそこで過ごす。多く住んでいた白系ロシア人に囲まれ、父親の聞くジャズで育つ。
 帰国後、軍国少年だった徹は、勤労動員にかり出されて陸軍の食料基地で働いていた。その時、半地下壕で見習士官が持ち込んだ手回し蓄音機から鳴る一曲。レコードから聞こえるその歌が、彼にとって決定的な出会いとなった、という。
『パルレ・モア・ダムール(私に愛を語って)』シャンソンだった、という。

『満州国演義』で、昭和3年から終戦直後まで、通史として読んでいたこともあって、この時代の少年の実体験を読んで、時代の深淵をのぞかせてもらったような気がしている。一軍国少年が、長じて作曲家となって、あの衝撃的な作品を書き上げたのだから。因みに、小沢征爾の父親は満州で活動した人物として『満州国演義』に何度も登場している。
 
 知の巨人・立花隆が書き残す日本の音楽の時空は、戦後の昭和文化の記録としてだけではなく、満州を舞台に繰り広げた昭和初期からのつながりのなかで捉えてみると、昭和文化の創造と、昭和文化の没落を、否応無しに描き出していることに気づかされるようだ。
 
 さぁ~、キーボードを打つ手から、本のページをめくる手に戻ろう、と思う。
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最近のこと

2016年04月01日 07時01分21秒 | Weblog
 3月28日(月) 母のための一日。

 3月29日(火) 午前、母を補聴器テストにつれていく。午後、2016年度4月から始まる中央大学法学部の授業のために、打合会に出席。4月1日から施行される「障害者差別解消法」にともなって、改善されたドアなどのことを知った。学生の健康診断の中に心電図検査を実施し、その結果によっては体操の別メニューを与える等々、これまでにない体育指導上の注意事項の話もあった。

 3月30日(水) 二階さんと一緒に「佐治嘉隆写真展ー高田渡」を「百年」に訪ねた。どこに写真があるのか、最初は戸惑った。所狭しと並べられ、独特の感性で集められた本の背表紙がまず、目に入って来るからだ。視界を窓際の天井付近にうつすと、静かな佇まいでモノクロ写真が語りかけてくる。「やぁ~、昭和だ」60年代~70年代がそこにはあった。ひとしきり佐治さんと話をして、吉祥寺の街へ。少し歩いてお茶をして、焼き鳥屋の「いせや」から、井の頭公園で7部咲きの花を愛でる、というかすでに花見客でごった返していたなかを通り抜けて帰路につく。
 で、「芭璃庵」ブログに、佐治さんが載せた写真展「一日目」「二日目」の今でも吉祥寺に残っている昭和の写真、風雪に耐えた高田渡のポスターなど、カラーがまた新鮮。モノクロ・カラー、そして吉祥寺!なんで、「百年」で?のわけが無言のうちに伝わってくる。

 3月31日(木) 昨年秋から読みはじめていた『満州国演義』船戸与一著 新潮社 1巻~9巻を読了。このことについてはいずれ書いておきたい。重かった!しかし読んでよかった!
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