羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

時間の断捨離……10年で無一物

2017年10月25日 07時33分58秒 | Weblog
 以前、このブログにも書いた睡眠前の習慣は三日坊主に終わらすに続いている。
 就寝前の入浴前に、丁寧に野口体操を行う。
 すると、よく眠ることができるようになった。
 何十年ぶりのことだろう。

 そもそもこの習慣を復活させたいと思ったきっかけは、睡眠導入剤を服用している人が、思いのほか多いことを知ったからだった。
 母が暮らしている施設の入所者はもとより、「あなたが?」と思わず聞き返してしまう友人・知人など、予想を超えていた。
 
 人生の三分の二は野口体操とともに生きてきた私としては、入浴前の体操習慣を復活させてみよう。
 朝までの睡眠時間を確保してみたい。
 お蔭さまで、生きているうちに体操の恩恵にあずかることが出来つつあるような気がしている。

 得られた安眠法に加えて、もう一つわけがありそうだ。
 このことも何日か前のブログに書いたことがきっかけになっている。
 それは「古稀」という歳月への気づきと驚きである。

 実父は、80歳で亡くなった。
 野口三千三先生は、83歳だった。
 長い方をとって、83歳までとすると、私に残された時間は15年を切っていることになる。
 実質的に何かが出来る時間は、15年には満たないはず。

 迂闊なことというより、考える時間の余裕がなかった。
 これまでに自分に残される時間を想像できなくても仕方がないと、自分をなだめている。

 だからこそ、今が、思いを馳せる時にちがいない。
 もっと年齢を重ねてからでは、思考がついていかなくなる可能性が大きくなるから気づいてよかった、と胸を撫で下ろしている。
 
 なんともめまぐるしい心模様だろう、と苦笑する。

 さて、
「無事に過ごせて、10年くらいの時間で出来ることは、何?」

 いくつかの問題を、“時間の断捨離感覚”で、殺ぎ落としてみた。

 まず、“しなければならないこと”から、一つずつ捨て”したいこと”を吟味する。
“したいことの中身”を、さらに分けて、そこから捨てられることは何か、と問いかけてみた。
 時間という軸を鉛直方向に立てるのだ、と心に決める。
 すると枝を落とすように、どんどん捨てることができた。

「捨てすぎると、後悔するよ」
 誰かが囁いてくれた。

 そこで、一つにせずに、二つにしぼってみることにした。
「これでよし」
 残した二つに確信が得られると、そこには安心の地平が広がっていた。
 10年は、決して短い時間ではない、と次なる答えが返ってきたのである。

 あとは、その二つのことに必要でない“もの”を捨てればよい。
 すぐさま、頭の中には、捨てるものの一覧表が浮かんだのだけれど、瞬時にして量の多さに押し倒されそうだ。
 はたまた捨てる作業に、10年かかりそうな嫌ーな予感がする。
「どうする?」
 その言葉を打ち消して
「気張らずに生きましょ」
 一番茶を注いだ安泰寺の湯のみ茶碗を仏壇に供し、お鈴を叩いて手を合わせた。
「昨晩も、よく眠ることができました。おかげさまです」
 するともう一つ、答えが返ってきた。
「10年で、無一物になれたら、それって幸せかも!」
 ですって。
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「わろてんか」と昭和時代のテレビ劇場中継

2017年10月24日 09時20分00秒 | Weblog
 朝ドラ「わろてんか」の舞台は、大阪船場に移った。
 東京人としての私にとって、大芝居がかった臭さに、多少の抵抗は感じている。
 が、その臭さの奥に、懐かしさが潜んでいることに気づくまで、それほどの時間はかからなかった。

 ちょっと、話は、横道にそれることをお許しをいただこう。
 テレビを見るという付き合いが長い私の思い出話から、はじめさせていただく。

 昭和28年に日本テレビが開局したとき、私は4歳だった。
 その当時の出来事だが、今でも覚えていることがある。
 どのようないきさつだったのかはわからないが、たった一度だけコマーシャルに出演したことある。
 麹町にあった日テレのスタジオであった。
 待ち時間に、母のかわりに付き添っていた祖母が、ディレクターの目にとまったらしい。
 急遽、祖母と二人で手をつないで、設えられた小径を歩くことになった。
 祖母の手はからだ同様にふっくらしていた。その手が、あたたかかったことをはっきりと覚えている。
 そんなエピソードとともに、思い出されるのは、間もなくして、当時としては珍しかったテレビが我が家の居間には鎮座していたことだ。
 当然、私は、テレビから目をはなせない子供になった。
 つまり“テレビッ子”はしりである。
 毎日見ていた放送は、ニュース映像や映画は別として、生放送の時代だった。
 記憶にあるのは、昭和30年代から40年代初めにかけて、頻繁に劇場中継が放送されていたことである。

 歌舞伎、新派、宝塚、東宝芸術座、松竹新喜劇、寄席、コマ劇場等々の中継。
 名優の名をあげたらきりがないが……
 團十郎、勘三郎、猿之助、……花柳章太郎、水谷八重子、大矢市次郎……天津乙女……志ん生、志ん朝、圓朝、圓生、文楽、文雀、夢楽……
 みなさん、先代、先先代の時代だ。

「わろてんか」で思い出された「松竹新喜劇」では、渋谷天外、曽我迺家明蝶、藤山寛美……

 はしから顔が浮かび、声が聞こえ、仕草が見えてくる。
 
 さて、話を戻す。
 繰り返すが、朝ドラをを見ていると、明治・大正・昭和の戰中に生まれた日本人の心を揺さぶる松竹新喜劇を思い出すのである。
 当時、見ていた「新喜劇」は「喜劇」といっても、単なる笑いっぱなしの演劇ではなく、いやらしいほど物語性が強い。
 ハラハラ・ドキドキ主人公を応援しながらも最後はハッピーエンドに違いない、と安心して見続けている。
 舞台には、オイオイと泣かされたかと思うと、クスッと笑いやゲラゲラ笑いに癒される趣向がある。
 なにげなく人生訓も挿入されていて、子供ながらに為になって、得をしたような気分をもらっていた。
 理屈はあっても、表に出さない。
 見ている者は、感情の波に乗せられる。
 そうこうするうちに、肚の底をかきまわされたことに気づくが、時すでに遅し。
 すっかり演出家の意図にはめられるのである。
 これが子供ながらに見ていた「松竹新喜劇」であった。
 つまり「わろてんか」には、その匂いを感じるのである。
 
 10月から始まったばかりの朝ドラに、はばからず言わせていただけば、「朝から、キツおますッ!」。
 それでも昭和人の私には、懐かしさの方が勝っているようで、結局、毎日、見せられてます。
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身辺整理の優先順位

2017年10月21日 10時25分30秒 | Weblog
 今年も残すところ、正味二ヶ月となった。
 来年十二ヶ月と三ヶ月で、元号・平成もおわりを告げることが朝日新聞に掲載されていた。
 記事を読みながら、不思議な感覚にとらわれた。
 自らの年齢のことを思うのである。
 数え年では、来年には古稀になるー。
 平成がおわりを告げる再来年の四月には満で70歳となるわけだ。

 学生をはじめとして、若いかたがた、つまり誰それとなく外から見れば、年は年なのだろう。
 しかし、古稀の自覚を微塵ももつことができない。

「人生百年の時代を生きる覚悟を……」
 世間の声は、あれこれとかまびすしい。
 それならばまだ三十年も残されているではありませんか!

 とはいえこれからの片付けはますます難しくなることだけは想像の内だ。
 とばかりにいよいよ身辺整理をする気持ちになった、とは言いがたいのが実情である。

 数年から十年以内のことを想定して、実際にひとつだけ動き始めたこともある。
 それにつられて一気に行動に移すために、まずは箇条書きをにしてみることにした。

 あれよあれよと項目が増えていく。
 目眩がしそうだ。
 取りかからねば始まらないので、半分溜息をつきながらも、遺言書の作成をはじめた。
 するといやが上にも、来し方を振り返ることになる。
 日頃は忘れていても、こんな時だけは70歳の自覚が持てるから面白い。

 振り返ると、まんざら悪くないなーって、思える。

 さて、朝から御託を並べていないで、残された時間を美しく生きるために何を優先すべきか、本気が芽を出してきたようなムズムズ感がある。
 ムズムズ感には、楽しそうな気配も含まれているから、ちょっとは救いがあるのかな?
 何事も受け入れ、捨て去るものは捨て去って、いざ、楽天的にいきましょう。
 なんちゃって。。。。。ふぅー。
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危うさの歴史を読む

2017年10月15日 10時00分41秒 | Weblog
『帝国と立憲 日中戦争はなぜ防げなかったのか』坂野潤治著 筑摩書房を読んでいる。
〈1874(明治7)年から1937(昭和12)年の日中戦争に至る歴史を「帝国」と「立憲」という構図のもとに感銘に描き直す〉
 これは朝日新聞に掲載された齋藤順一氏による書評である。
 さっそく読みたいと思って手に取った。

 ここでいう「帝国」とは、大陸に出兵するために軍拡を進めることで、「立憲」は、その帝国化をおさえようとする政治制度であり、民主化の方向であった。

 本書で語られていることは、歴史のなかで、帝国と立憲は交互に現われ、併存することは例外であった、という視点から日中戦争へと突き進んでいく日本を描いている。立憲が帝国をなぜおさえきれなかったのかと解き明かしている。

 実は、この本を手に取ったわけがもう一つある。
 師範学校のなりたちと歴史を調べていたからだった。

 師範学校は、明治維新・文明開化の夜明けだった1872(明治5)年に、明治政府が教師を養成するための官立の学校をつくった。その後に、学制を発布して全国府県に師範学校を次々とつくっていく。

 二つの問題を照らし合わせながら読んでいると、師範学校は「立憲」と「帝国」の狭間で、揺れ動いた教育がなされていたことが想像できる。
 とりわけ1929(昭和4)年から1939(昭和14)年、10年間はまったく「富国強兵」の「強兵」に重きが置かれていた。

 そもそも師範学校は、貧しい家庭の子供であっても優秀な人材を入学させるために、学費免除し兵役期間を極端に少なくした。さらには税金面等でもさまざまな優遇措置がとられていた。
 この学校の卒業生の殆どは、小学校の教諭として赴任していく。
 それだけではない。真面目で優秀であり、国のお墨付きを得ている男子には、豊かな家に婿養子として望まれることが多かったとも聞く。生活の安定は、すべての面で保障されるのである。

 しかし、「強兵」へと傾いた向いた時代の教師には、赴任した小学校において子供達に軍事や戦争の意義を説き、将来の兵士として活かすべく体力を向上させ、戦地へと進んで赴くことを厭わない少年をつくりあげる使命が課せられていた。

 1936(昭和11)年、野口三千三は最初の小学校に赴任している。
 この時代にあって、野口の教育方法は、実にユニークだった。
 当時の教え子から野口を慕う言葉を、昭和もおわりに近づいた時に聞いた。
 その言葉に涙したのだったが、それでも野口戦後は終わらなかった。
 戦争を真面目に真剣に生きた人間にとって、戦後を簡単に清算できるものではないことを知った。

 これら二冊の本を前にして、私は、敗戦後の野口自身の混乱のなかから、野口体操が生まれてくるその意味を探り考えている。

 繰り返しになるが、師範学校の成り立ちと歴史を調べるうちに、『帝国と立憲』という本に出会った。
 野口が残している「ことば」の意味を、探り直さなければならない、と思う気持ちが募るなか、、、、、、、
 時、まさに選挙。
 うーむ!
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おそるべし、野口体操!いやいや、羽鳥体操の自覚……

2017年10月14日 09時33分40秒 | Weblog
 母が施設に入所して4ヶ月が過ぎた。
 こちらは、私自身の生活のリズムは、なかなかつかめない状態で、年末まで突入しそうな気がしている。

 先週から左肩の痛みがぶり返していた。
 前にこれに近い不調になった時に行っていた肩を直接治療するよりも、“離れたところをほぐす”ことを思い出した。
 そこで20数年ぶりに夜の入浴前の野口体操を再開した。
 野口先生が亡くなり、父が亡くなったあとに、この時間帯に落ち着いて体操が出来なくなっていた。
 とりわけ夜の時間は母の自宅介護に当てていたこともあって、自分の時間として活かすことができなかった。
 最近では夜中にもおき出すこともあって、睡眠が妨げられたり、浅い状態が何年も続いていた。

 秋になって施設での暮らしにも慣れてくれた様子に安堵し、数日前から入浴前の体操時間を復活させた。
 肩の不調は左側。また足の不調も左側、ということで左足の関節を指の付け根からはじめてくるぶし、膝の後ろ側へとほぐしをしてみた。
 これがなかなかに良き結果を生み出してくれそうである。
 肩の痛みの軽減もさることながら、何十年ぶりにぐっすり眠ることができる日がつづいている。
 これは有り難い、の一言である。

 思い返せば、野口先生と実父の病いと死に接し、その後は母を不幸にしたくない思いから気張って生きた15年目にして、ようやくたどり着いた自由な時間と空間である。生活のリズムと素敵な折り合いがつきそうだ。

 体操をせずに就寝し、夜中に目が覚めて眠れない状態のなかで野口体操をすることが多かった。それはそれでよかったが、入浴前に体操を行って、ぐっすり眠って朝を迎える習慣がかえってきた喜びは一入である。

 三日坊主日になりませんように。
 願って今日も、一日が始まった。
 乳幼児のころの注射がもとで、太ももの外側の固くなっている筋肉の一部があって、それが左足を不自由にし、肩にまで悪さをもたらしてくる原因である。
 もし、野口体操に出会わなかったら、今頃は歩けなくなっていたに違いない。

 すでに老いに逆らわず、老いと向き合うこの頃、これからが私にとっての野口体操の正念場・正念時であると、自然に言えるようになってきました!
 キッカケは何であれ、人に伝えるための野口体操ではなく、羽鳥体操の時間が秋の夜長を楽しいことにしてくれそうだ、と言えるようでありたいものよのー。
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リポート 第一回「野口体操の会 “早蕨塾”」2017年9月24日

2017年10月10日 11時43分37秒 | Weblog
 このブログでも報告しましたが、「野口体操の会」公式ホームページ「明日へのまなざし」に、当日のリポートを写真付きで掲載しました。

「Fascia」についての話を羽鳥がリポートしました。

 活気溢れた当日のライブでは、終始楽しく学ぶことができました。

 2017年9月24日(日)早蕨塾 「國廣哲也氏講演+実習」の記録
 
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「芝居小屋」……朝ドラ「わろてんか」で発見!

2017年10月03日 08時25分21秒 | Weblog
 昨日から始まったNHK朝ドラ「わろてんか」の祭礼の場面で、芝居小屋が出て来る。
 二日目も芝居小屋が映し出され、主人公が笑いの殿堂を作るきっかけになる旅芸人との出会いのシーンが間近いことを暗示して終わった。

 実は、九月に創刊した「野口体操の会」会報『早蕨 SAWARABI』vol.01『私家版 野口三千三伝−1「三千三名前の由来』に「小屋掛け」と呼ばれる芝居小屋の骨組図を載せた。 
 モノクロ線書きの「骨組図」は、野口が生まれた村の郷土史『吉岡村誌』から転載させてもらった。
 私はテレビ画面に映し出された肉付けがされた芝居小屋に、イラストの骨組みを重ねていた。

「これだったのだ! 名付け親の祖父が、地芝居を演じた舞台は……」

 初回には、ヒロインの“藤岡てん”が、落語が上演されている舞台上で、ドタバタ劇を演じるシーンがあった。
 何故かわからないが胸が躍った。それどころか、懐かしさすら覚えるのだ。

 朝のドラマは明治期から始まった。
 三千三の祖父が、村芝居の役者として活躍した時代とまったく重なっている。
 そんなこともあって、私のなかのイメージがものスゴイ勢いで動きだしてくる。
 京都と群馬という地域の差はあっても、旅芸人の一座が芝居を打つその “場” の雰囲気が伝わってくるからだ。

 創刊号をお持ちの方は、ぜひ小屋の骨組図を見直していただきたい。

 これまでも江戸期のドラマ等で、こうした芝居小屋を目にしていた。
 にもかかわらず、今回の見え方は全く違うのである。
 今年の夏、二年越しで集めた地芝居の資料を読み、写真集を見たりしながら、「野口三千三伝」を書くにあたって、地芝居のイメージを立体化し生きたものにするための作業を繰り返していた。
 見え方の違いは、それだ!
 朝から、膝を打っている私がいた。

 さて、始まったばかりの朝ドラだが、明日以降、祭礼にかけられる芝居のシーンが見られるだろう。
 じっと目を凝らして、ドラマの背景を隅々まで、みることになりそうだ。
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Fascia から思い出された「筋肉は感覚器である!」

2017年10月01日 10時29分42秒 | Weblog
 9月30日のブログに加えて、野口三千三の語録から。
 
『筋肉が運動器であるということは、「筋肉が感覚器である」ということにおいて運動器なのである』
 
 私は、第一回「野口体操の会 “早蕨塾”」で、國廣哲也さんの「Fascia」の講義を聴いてから、この語録を読み返し、全身に戦慄が走った。わなわなと震えるほどの感動を覚えた。 
 先を読むと、“感覚器として働く運動器としての筋肉の役割に”について、次のようなことばが続いている。
『その主な役割は、からだの中の比重・硬度・密度・圧力・張力・温度などを感じとり、その総合としての重さの感覚や動きの感覚を生み、平衡状態(バランスとアンバランス)の変化を調整することである。空間・時間の感覚もそれらを通じてつくられていく』
 そこで「筋肉」を「Fascia」に置き換えて読み直してみる。

 実は、講義ではじめて知ったことだが、「Fascia」には、内耳の前庭器官と連携して、筋肉の約10倍もの動きを感知するセンサーがあるという。
 野口の語録は、筋肉のことであると同時に「筋膜」のことでもある言える。
 語録出典は、1987年8月30日「野口手書きのノート抜き書きⅠ」である。
 1987年にまとめられた語録抄だから、発想はその前になる。
 この頃、 Fascia の知識は一般には殆ど知られていなかった。
 ましてや研究が深まるには、それから数十年の時を待たなければならない。
 
 今でこそ認識が変わって来たが、当時は中央集権としての「脳」が指令を出し、すべてを司る時代だった。
「感覚器としての筋肉」などという発想は、殆ど受け入れられない。
 皮肉なことに、『唯脳論』の著者でもある解剖学者の養老孟司先生と野口対談を1991年1月朝日カルチャーで行った。その時に、養老先生が「筋肉は、感覚器であることによって運動器として働く」という野口の発想を、かろうじて肯定されておられた記憶がある。
 昨晩のことNHK「人体」を見ながら、その程度の認識しかなかった時代を振り返っている。

 さて、「Fascia」について専門的な講演と実習を通して得たひとつの結論を言うと、野口三千三のすぐれた感覚と大胆でしかも緻密な論理思考に、改めて脱帽し、新しく見直している。
 が、しかし、こうした発想はどこから来たのだろう、と考えずにはいられない。
 野口は当然にことに「Fascia」についての知識をもっていなかった。
 そのなかで『原初生命体としての人間』の発想が生まれた。

 1960年代は、狭義の「筋・筋膜」ついての研究論文が、ぼちぼち出始めて時期である。
 いずれにしても、その後にあらわれる本質的な「Fascia」について知見は、『原初生命体としての人間』の具体的な裏付けの一つである、と言える。
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9月30日、記念すべきレッスン……もの・ことば・うごき

2017年10月01日 09時45分05秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャー土曜日クラスのレッスンは、私にとって記念すべき日となった。
 野口三千三が目指していた「もの・ことば・うごき」の三位一体の授業が、実現したからである。
 9月24日の「早蕨塾」で國廣哲也さんの講義と実習体験に、「Fascia」の私なりのまとめと補足を加えたのちに、持参した「海綿」と「偕老同穴(Venus’Flower Basketビーナスの花かご)」と戯れることから得られた実感をもとに、体操の動きに入った。
 始めに乾燥した状態の海綿に触っていただき、用意した水にひたす。水をたっぷり含んだ海綿に触れてから、水をしぼる。しぼり方も程度をかえて味わってみる。
 因みに「海綿」は、古生代カンブリア紀以前の原生代:エディアカラ紀(約6億2000万年〜5億4200万年目)〜現世まで続く、多細胞生物である。多細胞と言っても、細胞間の結合はゆるく、明確な器官等の分化は見られない網目状の海綿質繊維からなる生ものである。

 非常に細い繊維質が密であって、たっぷり水を含んだ時に感触や水分の重さによる形の安定感は他のものでは味わえないものであった。

 もう一つの「偕老同穴 ビーナスの花かご」は、ガラス質からなる細い繊維は、形をしっかり保つものである。格子に螺旋が巻き付いていて「Fascia」の構造のイメージに繋がる。こちらは水に浸しても、柔らかくならず変形しないのである。それもそのはず二酸化珪素で「ガラス海綿」と呼ばれる海の花である。

 一人ひとりが実感として得た感覚(触覚)は、ことばでは表現できない。
 触っている時に息づかい、触っている時の驚き、触っている時の気持ちよさ、触っている時にからだに深部に伝わる海の感触、触っている時の重さの変容、……。。。。。。。
 
 気がつくと、1時間以上の時間が過ぎていた。

 それから動きに入ったのだが、教室は海と化した。
 波にゆれ、渦にまかせ、陸上の6倍の重力はどこへ行ったのか、と思えるほどの柔らかな穏やかな緩やかな動きがそれぞれに生まれたのである。

 こんなことは滅多にない。
 いずれにしても「Fascia」の話から、野口先生にいただいてあった「海綿」と「偕老同穴 ガラス海綿」を思い出して、30年ぶりに蔵から見つけ出して持参した。
 なぜ先生がこの二つのものをくださったのか、今頃になってその大切な意味が解った。
 ここまで書いて、上手く表現できない“もどかしさ”ぐっと手を握りしめている私だ。
 
 いかにも遅い! 怒られてしまいそうだ。
「先生、ごめんなさい」
 本日のレッスンに間に合わすべく、水に濡れた海綿を乾かす方法を考えた。
 それは、人間の脳を思わせる大きさと形の“ギリシャの海綿”である。

「もの」だけでもだめ「ことば」だけでもだめ「うごき」だけでもだめ。
 いやぁ〜、野口体操はたのしい!
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