以前、このブログにも書いた睡眠前の習慣は三日坊主に終わらすに続いている。
就寝前の入浴前に、丁寧に野口体操を行う。
すると、よく眠ることができるようになった。
何十年ぶりのことだろう。
そもそもこの習慣を復活させたいと思ったきっかけは、睡眠導入剤を服用している人が、思いのほか多いことを知ったからだった。
母が暮らしている施設の入所者はもとより、「あなたが?」と思わず聞き返してしまう友人・知人など、予想を超えていた。
人生の三分の二は野口体操とともに生きてきた私としては、入浴前の体操習慣を復活させてみよう。
朝までの睡眠時間を確保してみたい。
お蔭さまで、生きているうちに体操の恩恵にあずかることが出来つつあるような気がしている。
得られた安眠法に加えて、もう一つわけがありそうだ。
このことも何日か前のブログに書いたことがきっかけになっている。
それは「古稀」という歳月への気づきと驚きである。
実父は、80歳で亡くなった。
野口三千三先生は、83歳だった。
長い方をとって、83歳までとすると、私に残された時間は15年を切っていることになる。
実質的に何かが出来る時間は、15年には満たないはず。
迂闊なことというより、考える時間の余裕がなかった。
これまでに自分に残される時間を想像できなくても仕方がないと、自分をなだめている。
だからこそ、今が、思いを馳せる時にちがいない。
もっと年齢を重ねてからでは、思考がついていかなくなる可能性が大きくなるから気づいてよかった、と胸を撫で下ろしている。
なんともめまぐるしい心模様だろう、と苦笑する。
さて、
「無事に過ごせて、10年くらいの時間で出来ることは、何?」
いくつかの問題を、“時間の断捨離感覚”で、殺ぎ落としてみた。
まず、“しなければならないこと”から、一つずつ捨て”したいこと”を吟味する。
“したいことの中身”を、さらに分けて、そこから捨てられることは何か、と問いかけてみた。
時間という軸を鉛直方向に立てるのだ、と心に決める。
すると枝を落とすように、どんどん捨てることができた。
「捨てすぎると、後悔するよ」
誰かが囁いてくれた。
そこで、一つにせずに、二つにしぼってみることにした。
「これでよし」
残した二つに確信が得られると、そこには安心の地平が広がっていた。
10年は、決して短い時間ではない、と次なる答えが返ってきたのである。
あとは、その二つのことに必要でない“もの”を捨てればよい。
すぐさま、頭の中には、捨てるものの一覧表が浮かんだのだけれど、瞬時にして量の多さに押し倒されそうだ。
はたまた捨てる作業に、10年かかりそうな嫌ーな予感がする。
「どうする?」
その言葉を打ち消して
「気張らずに生きましょ」
一番茶を注いだ安泰寺の湯のみ茶碗を仏壇に供し、お鈴を叩いて手を合わせた。
「昨晩も、よく眠ることができました。おかげさまです」
するともう一つ、答えが返ってきた。
「10年で、無一物になれたら、それって幸せかも!」
ですって。
就寝前の入浴前に、丁寧に野口体操を行う。
すると、よく眠ることができるようになった。
何十年ぶりのことだろう。
そもそもこの習慣を復活させたいと思ったきっかけは、睡眠導入剤を服用している人が、思いのほか多いことを知ったからだった。
母が暮らしている施設の入所者はもとより、「あなたが?」と思わず聞き返してしまう友人・知人など、予想を超えていた。
人生の三分の二は野口体操とともに生きてきた私としては、入浴前の体操習慣を復活させてみよう。
朝までの睡眠時間を確保してみたい。
お蔭さまで、生きているうちに体操の恩恵にあずかることが出来つつあるような気がしている。
得られた安眠法に加えて、もう一つわけがありそうだ。
このことも何日か前のブログに書いたことがきっかけになっている。
それは「古稀」という歳月への気づきと驚きである。
実父は、80歳で亡くなった。
野口三千三先生は、83歳だった。
長い方をとって、83歳までとすると、私に残された時間は15年を切っていることになる。
実質的に何かが出来る時間は、15年には満たないはず。
迂闊なことというより、考える時間の余裕がなかった。
これまでに自分に残される時間を想像できなくても仕方がないと、自分をなだめている。
だからこそ、今が、思いを馳せる時にちがいない。
もっと年齢を重ねてからでは、思考がついていかなくなる可能性が大きくなるから気づいてよかった、と胸を撫で下ろしている。
なんともめまぐるしい心模様だろう、と苦笑する。
さて、
「無事に過ごせて、10年くらいの時間で出来ることは、何?」
いくつかの問題を、“時間の断捨離感覚”で、殺ぎ落としてみた。
まず、“しなければならないこと”から、一つずつ捨て”したいこと”を吟味する。
“したいことの中身”を、さらに分けて、そこから捨てられることは何か、と問いかけてみた。
時間という軸を鉛直方向に立てるのだ、と心に決める。
すると枝を落とすように、どんどん捨てることができた。
「捨てすぎると、後悔するよ」
誰かが囁いてくれた。
そこで、一つにせずに、二つにしぼってみることにした。
「これでよし」
残した二つに確信が得られると、そこには安心の地平が広がっていた。
10年は、決して短い時間ではない、と次なる答えが返ってきたのである。
あとは、その二つのことに必要でない“もの”を捨てればよい。
すぐさま、頭の中には、捨てるものの一覧表が浮かんだのだけれど、瞬時にして量の多さに押し倒されそうだ。
はたまた捨てる作業に、10年かかりそうな嫌ーな予感がする。
「どうする?」
その言葉を打ち消して
「気張らずに生きましょ」
一番茶を注いだ安泰寺の湯のみ茶碗を仏壇に供し、お鈴を叩いて手を合わせた。
「昨晩も、よく眠ることができました。おかげさまです」
するともう一つ、答えが返ってきた。
「10年で、無一物になれたら、それって幸せかも!」
ですって。