羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

第25回東京国際ミネラルフェア

2012年05月31日 07時48分16秒 | Weblog
「第25回東京国際ミネラルフェア」が、明日6月1日(金)~5日(火)まで、新宿スペースセブンイベント会場(ハイアットリージェンシー東京+第一生命ビル)で開催されます。
 特別展示は「水晶の文化と科学」です。
 石の趣味は、「瑪瑙から始まり瑪瑙に終わる」と言われていますが、石英の結晶体(玉随)で、色も透明度も文様も多様な瑪瑙と同様に、水晶もまた地球上のあらゆる所から産出される、ある意味でありふれた鉱物です。
 無色透明で六角柱状の結晶形に代表される水晶ですが、「水精」とも書かれ「水玉」という別称もあります。
 
 占いに使われる傷がなくどこまでの透明な水晶の玉は、まさしく水晶のうちの水晶かもしれませんが、「山入り水晶」「草入り水晶」「針入り水晶」と名付けられた、水晶の中に水晶が畳み込まれるようにあるもの、ルチルなど多の鉱物が入り込んで味わい深いものも見逃せなません。
 
 野口三千三先生からいただいた透明でグレーの「煙水晶」のネックレースは、今の時期に必ず身につけて出かけます。それよりももっと色の濃い「黒水晶」や、昔はアメジストと呼ばれ最近では「アメシスト」と濁らない発音に変わった「紫水晶」など、透明白色ばかりが水晶の楽しさではありません。
 とりわけ初夏から夏の装飾品に、水晶は欠かせない鉱物といえるでしょう。
 
 逸品は、「ハーキマー・ダイヤ」と呼ばれる、小粒の両剣水晶が何十粒も瓶に入ってみせてくれる輝きと煌めきは、一度見たらとりこになること間違いありません。水晶なのにダイヤと呼ばれるだけのことはあります。

 そうした自然が生み出す多様性に呼応するかのように、それぞれの民族文化が、水晶との関わりを深め、物語を紡いでいる姿を見るのも興味津々です。
 
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哀悼

2012年05月29日 04時51分10秒 | Weblog
 フィッシャー・ディスカウ、吉田秀和、畑中良輔、あいついで旅立たれた。
 音楽に目覚め、音楽に浸り、音楽に満たされた日々に、この方々が常にいました。
 人は、いつか召されるのだけれど、訃報に接して鬱々とした気分は拭えない。
 こうして時代が移り、文化が変容していく。何かががらがらと崩れていく。
 この寂しさをしばらく胸に抱えていたい。
 
 しかし、感動の記憶がよみがえって、祈り、そして、ありがとう。
「記録は消える、記憶は残る」とは五木寛之さんの言葉だ。
 感動の記憶は、語り継がれ、伝えられていく。
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瑠璃も玻璃も照らせば光る

2012年05月27日 07時56分18秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャー「野口体操」では、このテーマで話をすすめた。
 先週から“ミネラルフェア週間”として、第25回「東京国際ミネラルフェア」の事前準備を始めている。
 いよいよ今週、6月1日から始まる。

「瑠璃も玻璃も照らせば光る」
 その意味を広辞苑にたずねれば《つまらぬ物の中に混じっていても、素質のすぐれたものは光を当てれば輝いてすぐ分る》とある。
「瑠璃」とはラピスラズリで「玻璃」とは水晶のこと。
 因みに、「水晶」、石英(quartz)、二酸化ケイ素(SiO2)が結晶してできた鉱物。六角柱状の綺麗な自然結晶。無色のものを水晶(rock crystal)と呼ぶ。石英は地殻を構成する非常に一般的な造岩鉱物で、火成岩・変成岩堆積岩のいずれにもしばしば含まれる。水晶としては花崗岩質ペグマタイト・熱水鉱床などに産出する。石英はモース高度7。ガラス光沢。条痕白色。比重2・7。蛍光なし。
 
 さて、レジュメを
※『野口体操 自然直伝 野口三千三語録』柏樹社 参照
 *「生命を遡り 石と語る」
  『無数の巨大隕石の衝突によって、原初の地球は誕生した。その後も、絶えず隕石などの宇宙物質が注ぎ込まれて地球は成長し、その地球の初期には、生命体はなかった。つまり、岩石・鉱物などの無生物から生命は生まれた。岩石・鉱物は地球型(炭素系)生命体の母であり先祖である。岩石・鉱物は地球の歴史の証人であり、化石は、地球生命の血統・系図を示している。そこで「生命を遡り石と語る」が朔る。からだは、地球物質の循環の一断面であり、岩石・鉱物もまた同じ。この物質のそれぞれは、地球四十六億年の歴史の創造に参加し、今もその創造は続いている。』野口三千三
 
 *『石 戦終わりて無為の日のみつづく。 
   石の眠りは深くして、 花落つれども、ただ、しづか、石の眠りは昏くして、雨ぬらせども、ただ沈黙(しじま)。  
   摩(さす)りつおもふ、石の夢、ほのむらさきの土の底、三檣舟(さんしゅうせん)のゆくありて みどりの波も咽(むせ)ぶらむ。  
   老鶯(おいうぐいす)の鳴く庭に、石としたしむ、ひぐれどき、生と無生のへだたりに こころ音なく沈むとき。
   石の眠りは深くして、花落つれども、ただ、しづか、石の眠りは昏くして雨ぬらせども、ただ沈黙。』
    西条八十 注:檣(ショウ・ジョウ ほばしら 帆柱)
 
 *野口体操が目指す「生命体操」の発想は、無生物と生物の間に区切りをもうけるものではない。生あるものにだけに価値をおくのではない。時間・空間を遡り、森羅万象全てが等しく関わりをもち、相互に関係を保ちながら、自然に内在する地球の息吹きを感じ取ろうとする営み。
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麦秋と石

2012年05月26日 09時07分44秒 | Weblog
 麦が色づき、日差しを受けた畑は黄金色に輝く季節。
「麦秋」と書いて、バクシュウ、むぎあきと読む。
 なぜか理由はわからないが、陰暦四月の異称だというこの言葉が、以前から好きだった。たとえば手紙の封印に「〆」ではなく「封」でもなく、季節の植物の名を記すことがあるが、とりわけこの文字「麦秋」を記すときは、気分が違う。無理矢理に野暮な理屈をつければ、「一年も半分まで過ぎてしまった。無為に過ごしたわけではないが、なんとわなしの甘い後悔の念からくる“振り返る心持ち”につく溜息がいい」のだ。
 
 九州地方はすでに麦秋の時を迎えている。梅雨に入る直前の5月下旬から6月にかけて、季節の変動が大きいときでもある。
 麦の穂が風に吹かれて、うねるように波立つ初夏の風景は、詩心をそそられる人も多かろう。
 いやいや、不調法な私は、この言葉が好きというだけで、一句も詠むことができないだけなく、麦酒の美味しさも嗜めないなんて、なんとも哀しいが。
 それはおいても、暖房も冷房もいらない季節の心地よさを、今朝から満喫している。
 
 さて、午後からの朝日カルチャーセンター「野口体操」のテーマは『瑠璃も玻璃も照らせば光る」のことわざにある「玻璃」つまり「水晶」である。
 ミネラルフェア週間は、すでに先週から始まっている。日本にも石のコレクション趣味は定着したのだろうか。
 石というと「水石」や「盆石」が最初に浮かぶ国だが。
 東京国際ミネラルフェアも今年は25回だ。野口三千三先生に導かれて、足を踏み入れた「石の世界」。
 会場のそこここに、先生の思い出が残されている。理屈なく楽しかった。

 麦秋と石。普通には何も関係はない。しかし、私の中では二つが密着して、心が揺れ遊ぶ季節である。
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金環日食と木漏れ日

2012年05月21日 18時50分48秒 | Weblog
 今朝は、なんとなくそわそわ感があった。とはいえテレビをつけたまま、朝の片付けをこなしながら、東京の金環日食の情報に耳をそばだてていた。
 はじめのうちは曇り空だったが、次第に晴れ間もみられるようだった。
 ふと見ると万年塀に、影と光が見えてきた。隣家の木の枝が我が家にかかってきて、その木漏れ日が映っているのだ。太陽が食べられていく。ちょっと欠けた状態の太陽が、何枚もの木の葉の間で揺れている。木の葉の数だけ太陽の光が形を見せてくれている。
 はじめは、信じられなかった。短い時間をおいて、万年塀を見に行った。欠け具合が微妙に変化していく。
「間違いない。金環日食の影だ」
 枝が風に揺れると、いくつもの太陽が音楽を奏でるように、右へ左へ、斜め方向へと、微妙に移ろう。
 僅かな時間だが、魂が抜かれように、その様を見ていた。
 
 気がついて、朝の仕事に戻るため、家に入った。が、間髪を置かずに、にわかに辺りが暗くなってきた。
 外が騒がしい。
 あわてて階下に降り、木戸の鍵を開けて道路に出た。
 少し離れたところで、ご近所の旦那衆が代わる代わる眼鏡をかざして、東の空を見上げている。
 
 さっと近づくと、無言で眼鏡を渡してくれた。雲が晴れて金環日食が、まさに、この時のタイミングだった。なんと運がいいのだろう!
 先ほどの木漏れ日が描く絵といい、リングの輝きといい、思いがけず見ることができたのだった。
 五分はかなり長い。次々、通りかかる知らない人にも、眼鏡を差し出し、その度に歓声があがっていた。

 新聞で読んだことだが、天文の知識がなかった庶民や兵士は、不吉な現象として恐れた。ところが宮廷に近いところにいた平家方は日食の知識を得ていたために戦いに勝つことができた、という話もあながち作り話ではなさそうだ、ということが納得がいく。

 次回、見られる保証はない。
 しばし、浮き世の憂さを忘れて、太陽が食べられる呪術といいたい現象に、時を過ごした。
 その後、大学の二限の授業が始まる前には、学生たちと「金環日食」で、話が弾んだ。
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「扁」「遍」「偏」「変」……「へん」なミーティング

2012年05月15日 09時11分27秒 | Weblog
 5月13日(日)、羽鳥の自宅で「野口体操のこれから」を考える始めてのミーティングを行った。
 参加者は、この日に暇だった私をいれて6名。
 3時間半はあっという間。入り口に立ったところで時間となった。それでも一歩前進することができたのだ。
 進行役のAさんは、自由な発言を引き出す名手で、参加された方々は教室とはひと味違った素顔(?)というか、味のある人柄がそのまま顕われて、忌憚のない意見や感想や思い入れが伝わってきた。

 誰が書いたかわからないのが原則。3分間ほどでポストイットにメモを何枚も書き、模造紙にランダムにはりつけ、大まかな範疇(分類とは異なるゆるやかな範と疇に分ける)を試みた。
 そこに漢字を当ててみた。
 内容については略すが、三つの範疇は次のようにまとまった。

1、【効ーからだ 効ーこころ、交と學】
2、【礎ー人生・仕事・生命と生活】いちばん多いメモが残された。さすが野口体操ゆえの言葉だった。
3、【扁ー「遍」と「偏」、「変」】それぞれの愚痴っぽい内容がメモされた。
 とりわけ「これからどうする?どうしたらいいのか?何ができるのか?どうにもならない!」といった羽鳥の愚痴から始まっただけに、3番目の漢字群は、出るべくして出てきたことばであった。
 この結果を受けて、漢字がもつ意味の深さに感服しつつ、ニンマリしているところだ。
 
 藤堂明保編『漢和大字典』学研によると次のような意味が連なってくる。
「扁」は、うすくたいらな名札。門口にはりつける戸籍票。戸+冊。
「遍」は、まんべんなく広がる。全体にいきわたる。
「偏」は、平にのびれば行き渡る(遍)。周辺に行き渡ると周辺は中央から離れるの意を派生する。中心から離れてかたよった意をあらわす。
「変」は、「變」で「糸」+「言」の会意文字。乱れた糸を解こうとしても解けないさま。変にもつれた意を含み、乱と同系のことば。「變」は、「戀(心を抜いた文字。パソコンにありませんでした。もつれる)」+「攴(動詞記号、積極的な行動をあらわす)」の会意文字で、不安定にもつれてかわりやすいこと。
 
 実に、肝が据わってくるよね!

 さて、最後におこなった「アイスブレーキングゲーム」。7項目設定された「自己紹介」に書きつけた紙を、別の人が読み上げながら、話を膨らませたり、突っ込みに答えたりすることで、爆笑の中にも本質が浮き上がってきた。
 とりわけKさんとOさんの名演技。見事に他人になりすまし、そのなかに本人の本音が顔をだす。失礼ながら「あなたって、そんなことを思っていたのね!」と非常に面白かった。
 というわけで、ミーティングは有意義だった。
 今回のキーワードは、「へん(變・扁・遍・偏)」とあいなりました。
(出席者以外には、わかりにくい今日のブログ内容となったこと、お許しを)
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ゲームもかわった、音楽鑑賞もかわる、その中で……

2012年05月09日 08時33分46秒 | Weblog
 DeNAやグリーに対して、消費者庁が警告を出したニュースが流れている。
 IT相手のゲームは、ゲーム会社が個人のデータを詳細に掴む仕組みになってしまった。一度ゲームにはまり込むと、あおられた射幸心は増大する。コントロールはゲーム会社に握られてしまうのだ。
 一回は僅少な金額だが、繰り返すうちに止められなくなって、気がつくと大枚をはたいているハメに陥る。
 ゲームに限らずクラウドやSNSは便利でそれを使い始めると、自分の脳の中に潜在している落とし穴に落ちるのだ。
 おそらく、対人間、人間を介して行われる何かならば、落ちる前に落とし穴に気づくこともあるだろうし、丸ごとの身体運動を伴う行為には、身体の奥から発せられる声を聞き取ることもできる。しかし脳がフル回転し指先一つの打鍵で全てが行われる行為は、危険から身をかわす身体的な制御がロックされてしまう。
 想像するに、競馬ならば、馬の美しい走りを見るだろうし、競輪ならば人間の筋肉の極限を賛美する気持ちが起こるだろうし、競艇なら水上を高速で走る際におこる水しぶきの軌跡を網膜に焼き付けることができるだろう。
 言いたいことは、まるごとの身体感覚の生な実感が呼び覚まされるなかで、射幸心が浮遊している状態になるのではないか。
 しかし、PCやスマホ等々の高機能端末の画面では、生な世界がそぎ落とされ、虚構のなかに埋没する射幸心だけが牙を剥くのだろう。(ごめんなさい。賭け事はやったことがなく、ゲーム体験もなく発言してます)

 一方、音楽の聞き方もこれからますます変化を遂げるニュースが報道された。
 英国の音楽配信会社スポッティファイが、クラウド音楽配信を日本でも近々に始めるらしい。
 1600万曲が聞き放題のサービスで、すでに始まっている米国では、月額4・99ドル、プレミアムだと9・99ドルだそうだ。日本円にして、昨日今日の為替レート79円で計算すると394・21円と789・21円になる。因みに、利用しているDropBox は約76円時に99ドルで契約したので、7500円ほどの支払いで済んだ。単純に喜べない日本経済なのに、その時のお得感はありましたね。
 それはさておき、音楽業界はこの会社の参入で危うくなり、配信業界は競争が激化する。
 
 なんともはや、手元の簡単な操作ひとつで、音楽も文学本も自然科学本も人文科学本も、世界の美術館巡りも、賭け事も、etc. お手軽に安価で楽しみ味わうことが出来る「FAST CULTURE」の時代はすでに始まってしまった。しかし、手軽さや安価さというのは、案外にくせ者なのだ。

 思い巡らせば、「初ミクだって歌姫」だが、生オーケストラバックにコンサートがひらかれ、熱狂的なファンがそこに集まり、からだを寄せあって揺れて、かけ声をかける現象は、「デジタル機器の中だけの触れ合いでは本当の触れ合いではない」、と満たされない人間最後の身体的欲求がなせることだろう。

 で、飛躍をお許しいただこう。
 この変革時、まるごとの身体に直接働きかける身体文化は、これからが真価をあらわすべき正念場にさしかかっている、と思う。
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「私が原子力に反対するわけ」小出氏のインタビュー

2012年05月07日 07時41分53秒 | Weblog
 野口三千三先生がご存命のころ、歌人で爬虫類研究家の故高田栄一さんから、月刊誌『原子力文化』が西巣鴨のご自宅に送られていた。『自然の詩』という扉のエッセーを、高田さんが連載されていたからだった。
 野口没後、替わって私の手元に届くようになって、そのまま継続されている。
 
 ところで、2012年5月号[通巻511]特別インタビューには、とうとう原発反対の小出裕章氏が登場された。内容は、他の媒体で主張されていることなので、ここに転記することはしないでおこう。

 ただ、『「トイレのないマンション」などには人はすめません。自分が生み出す核分裂生成物を無毒化できないかぎり、原子力を使うべきではありません』小出氏の言葉は重い。
「将来、無害な核分裂反応が利用できれば、原子力を使ってもいい?」のインタビュアーの質問に、こう答える。
『……すでに私たちがつくってしまった毒物が厖大にありますし、それを将来の世代に少しでも負担にならないようにしたいです。そのための専門家、研究組織は残したいと願います』
 長期にわたってやり続けなければならない重大な問題が横たわっている。
 今あるものを、どうするのか。
 一日もはやく研究者の海外流出を止めて、ちゃんと動く組織を作って、予算をつけ、処理問題研究を継続させていかなければ、島国・日本には住めなくなるのは必定。それどころか生存そのものが脅かされる。
 
 何でも、地球上に原子力の燃料となるウランはせいぜい500万トンしかなく、そのなかで核分裂するのは0・7%。石炭に比べると数十分の一の資源しかないのが現実らしい。資源を巡る争いも起こってくるだろうし、そのような資源にエネルギー依存すること自体が、はじめから無理だし未来を託すなど間違いだ、ということがインタビューから読み取れた。
 
 このような冊子で、小出氏のインタビューを掲載することの意味を、今一度深掘りしてみよう。
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肥満度チェック BMI

2012年05月06日 09時30分48秒 | Weblog
 テレビ東京の朝の情報番組に出演したことがあった。
 大きなくくりで言ってしまうと、映像に映るアナウンサーやキャスターの女性は痩せ過ぎ傾向で、映像に移らないスタッフの皆さんは太り気味傾向にあった。
 テレビは二割増、と言われように、実際よりもふくよかに映るので、痩せ気味をキープしようと努力する。その努力を怠ると、おそらく想像だが干されるのではないだろうか。

 さて、十代後半からの若者が集う大学に目を転じると、太めの学生もいれば、痩せ過ぎの学生もいる。
 女子学生に限れば、データをとったことはないが、どちらかといえば痩せ過ぎとまではいかないが、痩せている傾向がある印象を持っている。
 たとえば、授業中に、ダイエットしたい人に手を上げてもらうと、ほとんどが挙手する。同時に体を柔らかくしたい人に手を上げてもらうと同様な結果が出て来る。
 どうやら今の若い女性の一つの理想は、ほっそりとしたやせ型であってもからだは柔らかくありたい、と望んでいる傾向がみられる。
 大学で正課体育のなかで野口体操を教えるようになって10年が過ぎたが、この間にこの傾向は変わっていない。
 痩せたい願望を持つ学生を見ると、それほど肥満ではない。
 一方のからだの柔らかさを関節の稼働域が広いことだけにしぼると、まちまちの結果がでてくる。なかには本当に硬い、と言える学生もいるが、全体的には20年~30年前の女子学生に比べたら、相当に柔らかくなっている。

 本日の朝日新聞「GLOBE」の特集は「肥満」だった。
《人類は太り続けている。10年前、14億人だった地球の「太り過ぎ」人口は、19億人に膨らんだ》
 1位ナウル、24位アメリカ、47位イギリス/ロシア、83位ドイツ、108位イタリア、120位フランスと続き日本は166位とスマートな日本という結果を出している。

 この数字をみると、遺伝子レベルで太らない体質か、あるいは健康シンドロームにかかっている人が増えて、運動をするようになっているからだろうか?真偽のほどはわからない。

 米国では貧困層ほどファストフードを食べ肥満になっている、とも聞く。
 日本でも米国のファストフード店がない町がない。ただし、日本の場合には、立ち食いそば・回転寿し・立ち食いどんぶり等々、安くて速くてお手軽な店も多く出店されている。厳密にはファーストフード店として括ることいができないとしても、和食系の選択肢も豊富にある。そもそも江戸時代の屋台などは、日本版ファストフードだ。
 
 ところで学生も気にかけるBMI(Body Mass Index)を簡単に調べられるフィトネスサイトがある。自己診断プログラムだが、懇切丁寧に教えてくれる。
 体重÷身長(m)の二乗
 打ち込んで試してみたが、なんと理想の体重に近い数字が出た。もう少し体重が増えてもよいと教えてくれた。ごくごく少しですよ!
 自分の日常を振り返ってみる。
 特別に健康に関して気にかけた暮らしはしていない。
 思い当たる節は、殆ど外食をしない暮らしを続けているからかもしれない。実は、この肥満の記事を読む前に「ファストフード」について調べていた。店一覧表を見つけて目を通したが、なんと、驚くなかれ、一軒も入店したことがなかった。
 いやー、変人か? 一般的日本人としてはかなり特殊な部類に入る、と思った次第。
 
 若い女子学生に話をするために、「肥満」、「健康」、「ダイエット」のためのフィットネス常識を検索した。思うに、痩せてる人を太らせる方が難しいじゃないのかな。
 それはさておき、ここからが野口体操の出番である。
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「おませ」と「おしゃま」、違いわかります?

2012年05月03日 05時16分23秒 | Weblog
「……とにかく、言葉って、面白いですよ」
 Y先生は顔を紅潮させて、一気に話し終えた。
「『舟を編む』ですね」
「そうそう、恋の話も上手く書けてるしね」
 某大学、4限授業前の短い休み時間に交わされた話だ。
 場所は体育館の講師控え室。
 この教授、体育の先生だが、身体と身体運動と言葉の三つ巴関係を探るうちに、“ことわざ研究”の道に入られた。
 朝の通勤電車の中で読み終えた熱気が、午後になっても覚めやらず、そのまま伝わってくる。すっかり本屋大賞第一位のこの本に、ご自身を重ねている声の調子だ。

 翌日、熱をもらった私は、雨が降り始める前に済まそうと出かけた買い物ついでに、近くの書店で手に取った。
『舟を編む』三浦しをん著 光文社刊
 手から離せなくなった。
「言海」に漕ぎだす小舟を、執念と情熱で作り上げていく物語だということは書評で知っていた。が、こんなに面白かったのか。
 言葉もイキイキ、登場人物もイキイキ。
 深刻に、重々しく、高尚に、書き上げようと思えばできる。しかし、あえてその道を捨てて、軽妙洒脱に筆をすすめていく。だからといって、言葉が貶められるわけではない。読むうちにリアルになる。読むうちに言葉への愛が芽生える。読むうちに『大渡海』辞書編集部全員、そしてその関係者にエールを送っている自分がいる。
 
 十五年かけて一冊の辞書を作る。言葉によって人が育ち、育てられた人が言葉をさらに育てていく過程を楽しく読ませてもらった。

 いやいやいや、野口三千三先生が「甲骨病だ」とおっしゃりながら、漢字の字源とやまとことばの語源の海に漕ぎだした小舟に、、、、、もしやあれは筏だったかも、、、、、とにかく二十数年の間、落ちることもなく同乗させてもらっていた時のことが甦る。
「言葉があったから、体操音痴の私でも、野口体操が続けられた。楽しかったよなぁー。」
 声を張り上げて叫びたい衝動に駆られる。

 そうだ、今、整理中の資料とその解説を本にする時は、「玄武書房」の馬締(まじめ)さんに編集をお願いしたくなったのよ~。
 あれあれ、すっかり虚実がわからなくなってしもうた!?
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