羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

スマート・メーター

2014年07月29日 12時28分18秒 | Weblog
【電気メーター交換協力願い】の知らせが、郵便受けに入っていた。
 今度の金曜日に「スマート・メーター」に交換されるようだ。
 この地域では、平成27年度7月以降、新たなサービスがはじまるらしい。
 より細かな電気の使用状況が、インターネットで見られるそうだ。見てどうするの。省エネするのかって、これ以上は無理!

『2022年姿を消す可能性の高い10の職業』という記事をFBで読んだことがある。
 1位 郵便配達員(そうだと思う。昨今、手紙を出さなくなったし、もらわなくなった。Faxも使用しない)
 2位 農家(機械化が進むんだそう。でもすごーく問題あり) 
    メーター計測係(いよいよ我が家も……)
 3位 新聞記者(この記事をシェアしていたのは、元新聞記者の知人だったので、不謹慎承知で笑ってしまった)
 
 9位まで書かれている。読みながら“さもありなん”、という思いと、第一次産業が人手にかわって機械がこなすようになることへの微妙な思いが交錯する。
 数日前のニュースで、林業に携わる女性を紹介していたが、やはり機械化による女性登用化現象だった。まだ見習いで寄り添っている高齢男性の親方が「まだまだだ」と口では厳しい言葉を吐きながら、顔はいたってにこやかだった。

 我が家の電気メーターがスマートメーターになっても、嬉しいと感じないのはなぜだろう?
 因みに、チラシの真ん中に一段と大きな文字で「費用はいただきません。」とあった。東電社員を装った詐欺・窃盗、悪質な勧誘にご注意、と書かれていた。

 以前読んだ『原発ホワイト・アウト』だったかな、書名は間違っているかもしれないけれど、メーター計測係の人たちが、その町の住民調査を行っている、云々とあったことを記憶している。本当かな?!信じたくないけれどね。
 今や、ブログ、FBやSNSで、本人自らが個人情報を出してますから。
 あ~おそろしや、おそろしや。
 そういいながら、ブログに書いてしまった。
 
 かくして望む・望まないに関わらず、生活の土台が次第に変化していくんだな~。
 感慨深し、真夏の昼下がり~。
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「母の日」そして “ケセラセラ”

2014年07月28日 09時32分47秒 | Weblog
 先週の土曜日で、前期が一区切りついた。
 4月には、最後まで無事に終えられるかどうか、心配しながらの始まりだった。母の状況が読めなかったし、何が起こるかわからなかった。
 淡々と日常を過ごしてくれていた。

 昨日の日曜日は朝日カルチャーのレッスンもなかったので、母の日にしようと前々から思っていた。
 去年、12月21日から、毎晩からだを拭き、足を洗い、歯磨きや洗顔に朝晩つきあっていたが、さすがに入浴の必要を感じていた。
 で、午前中に手と脚の爪切り、髪染めをすまし、午後は雑談をしながらハンドマッサージを何気なくしつつ、夕方4時に風呂場へと誘導した。
 我が家の深めの湯船に浸かり、そこから上がる足使いがいちばんの心配の種だったが、何事もなく上手くクリアしてくれた。建て替えの時、三カ所に手すりをつけたことが有効だった。知人の勧めにしたがっておいてよかった。からだは自分で洗って、私はときどき声をかけて見守り、要所要所で幇助するだけですんだのはありがたかった。
 落ち着いたところで飲んでもらった冷たい麦茶を“美味しい”という一言で、7ヶ月ぶりの入浴が気持ちよかったのだと得心。
 実は、野口三千三先生も肝臓内結石の大手術後、カテーテルを残したためにお腹に穴があいていて、そこに蓋がされた状態が半年以上続いていたときに、絶対に水が入らない入浴用パットが病院から出されていたにもかかわらず、からだ拭きですましておられた。そのときの記憶があって、今回の方法に自信がもてたのかもしれない。

 というわけで終日、母に寄り添って過ごし、前期の綱渡りはひとまず無事に終了した。
 9月の後期はじまりまで、夏バージョンの日々が今日からはじまったが、前もってあれこれ思い悩むことはない、と教訓を得た。
 いやはや、ケセラセラ!
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1914年、漱石の「心」、百年後の読書から

2014年07月16日 13時11分46秒 | Weblog
 毎朝の楽しみ。
 それは朝日新聞朝刊の「心」を読むこと。
 回も重なって、本日は六十一回となった。
 すでに佳境に入っている。
 先生の過去が、明かされていく。
 読みながら、思う。
 単行本だと途中挫折しそうだが、新聞小説だと一日分量としてちょうどいい、ということ。
 現在の新聞小説に比べたら、倍とまではいかないまでも分量は多い。それでも読み易い。
 高校生の頃読んだものの何も理解できなかったわけだが、それもそのはず、であると納得している。
 
 野口三千三先生、我が父、二人の病と死に立ち会って、その後のさまざまな経験があって、小説に書き込まれている内容が、少しは理解できる今なのだと思うこと多し、ってわけ。

 もう一つの楽しみは、「回顧一九一四年」の付録を読むこと。
 百年前、第一次世界大戦の勃発と終戦とその後が、時代の大転換期であることがよく伝わって来る。
 ヨーロッパでは、戦場から負傷して帰国する兵士のために、義足・義手・義眼、車椅子、等々が次々につくられ改良され、それがそのまま現在の医療現場でさらに性能を良くしていくキッカケとなった。
 作曲家のラベルは、戦場で右手を失った親友のピアニストのために「左手のためのコンチェルト」を作曲したのだから、音楽とて戦争の悲惨さを担っていくのだ。

 翻って日本。
 一昨日のブログにも書いた「体育研究所」は、この大戦の教訓から、「体育」を学際的に研究する必要を慮って創設されたことを知ったばかりだ。
 戦争は医学・医療を進歩させ、人間の肉体への関心を高める皮肉な現象を引き起こす。

 さて、隣の新聞ページに掲載されている「リレーおぴにおん ー漱石と私」10回目は、芸大の美術解剖・評論家の布施英利さんがご登場となった。
 漱石の髭の形から、心境や作風の変化を読み解く、布施さんらしいお話だった。
 髭というものは、実は人工的なものだということを改めて読ませてもらった。
 残すにしても剃るにしても、髭の手入れをする行為は男子たる者、社会的に生きるコインを持つようなものらしい。表は責任、裏は虚勢の現れなのだ。この感覚は想像するしかない私だが……。
 
 実は、野口三千三先生は髭を伸ばそうとしてうまくいかなった。
 戦時中、カミソリを持ち歩けないので毛抜きで抜いていたという。その程度で間に合ったということをご本人は考えず、戦後になって髭をはやそうとしてみたものの茶色と白が混ざったもの、がぽちょぽちょと出てくるだけなので、諦めてやめたそうだ。
 そんな経緯があって、体操教室に参加する男性が髭をたくわえていると、遅かれ早かれ追い出されてしまっていた。教室に残りたければ、髭を剃るしかない。

 さて、漱石の髭だが、布施さんによると晩年の作品は、病気、職業や家庭といった「世間」と、自由や愛を貫く「自然」との葛藤が描かれている、という。したがって髭も、若いときいのようなねじ上げた形ではなく、自然を選びとった形に変化していく、とおっしゃる。
 なりほど!

 その話のあとに東大の解剖学教室にある「標本室」に保存されている漱石の脳について思い出を語られている。朝日新聞社には「デスマスク」があることも、この掲載記事で知ったところだ。
 脳といいデスマスクといい、亡くなってからも顔の立体遺影やからだの一部が残っているところに近代を背負った漱石の生きた時間の重さを感じさせられる。
 
 私にとってのデスマスクといえば、ベートーベン他、音楽家のそれを思い出す。写真がなかった時代には、楽曲を楽譜に残すだけではなく、顔を写し取ることで生きた証を残したのだろう。
 さらに養老孟司著『身体巡礼』で訪ねられた墓に納められている棺の話。また1988年頃だったと記憶しているが、岩波『図書」に書かれたフランスの「ジサン」と呼ばれる棺の上に施された亡くなったときの全身彫刻の話を思い出す。
 ジサンのなかには心臓を取り出す、内臓をとりだす、その後に縫いあわされた傷跡をそのまま彫刻したものまであるという。
 
 漱石がデスマスクを残し、献体までも行った、その心はいったい何だろう、と問いかけずにはいられない。
 答えは簡単にでそうもない。
 が、日本人には馴染みのない死の文化を、漱石が体現したことに驚きを覚える。

 当時の欧化政策に生きたエリートの責任感、使命感、行動の徹底ぶりに、日本の近代化の善し悪しを超えたエネルギーを感じる。
 一方で、神経衰弱に悩まされ、最期は胃潰瘍で亡くなったわけだが、からだの底に刻まれた心身の葛藤にも思いを馳せずにはいられない。
 大量の吐血で、自然な身体の暴走をくい止めることができない“からだの事実”が、突きつけられたのだろう。
 当時の日本人として、東洋と西洋との狭間で、自らの心身との孤独な闘いを、小説を書くという行為に転化したと読んでみると教科書にのっている小説家の姿がゆらゆらと歪んで見える。
 日本が負った近代化の意味に、一人の作家の身体性がしっかりと顔を出し、その他の多くの日本人のからだが透けて見える様な幻覚に襲われるから不思議だ。

 著名人の献体の先駆けとして解剖を受けた漱石の脳が、標本室にホルマリン漬けの状態で残されていることの重さも改めて感じる。拙著『野口体操 感覚こと力』に、養老先生のご案内で野口先生のお供をして見せていただいた時のことを書かせてもらった。見てはいけないものを見てしまったあのときの衝撃は、一生忘れられない。視覚がシャッターを押した何枚もの写真が、私の脳の記憶として残っている。

 いずれにして野口先生が生まれた1914年は、日本にとってターニングポイントの年であった。
 百年後に漱石の「心」を再掲載する企画は、なかなかに憎いのであります。
 お蔭で、何重もの意味を探る「心」を読む楽しさを満喫している。
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素麺入りみそ汁の味

2014年07月15日 11時31分58秒 | Weblog
 東京のお盆は7月。
 明日の夜は送り火を焚く。
 手順を考えてお棚をつくり、お供物を備え、位牌を置いたのが日曜日のことだった。
 
 早朝、花の水を取り替え、前の晩に冷蔵庫にしまった供物をとりだし、今年は素麺を茹でてお茶といっしょにお供えしている。
 身支度を終えた母と一緒に手を合わせ、供えた素麺を階下におろし、朝餉のためのみそ汁にいれていただくことにした。
 あたたかいみそ汁に素麺は、ことのほか美味であった。
 二日目の今朝は、夏の味覚であるナスとミョウガの具に素麺のつるつる感が、お盆を一層に感じさせてくれた。 きっと三日目の明日も、素麺入りみそ汁にしたいと思っている。
 具は何にしようか。あれこれ味を思い浮かべるのも楽しみである。
 
 父が亡くなって今年は十三回忌である。半年後、はたして師走の法要に母が出席できるだろうか。
 神のみぞ知る。
 お任せでーす。
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気づく・ハッとする・なんだ?・もっとはやく気づけばよかった!

2014年07月14日 14時17分19秒 | Weblog
 今朝のこと。
 好きな団扇の地模様を眺めていた。
 以前にも、こうして眺めてたことは、1回や2回ではない。何度も繰り返している。
 その団扇は、立教大学創立130年記念の年に、大学の敷地に隣接し寄贈された江戸川乱歩旧宅の修繕が終わった時点で一般公開された時に配られたものだった。
 もっと正確に書くと、同時期に東武百貨店で開催された『江戸川乱歩と大衆の20世紀展』でくばられたもので、裏側にはタワーマンションの宣伝が大々的に印刷されている。
 表のデザインが気に入って、ずっと大切に使っている団扇である。
 独特の書体の黒字で「乱歩」とあり、その文字に書庫兼書斎として使われた蔵に4匹の蝙蝠飛び交い、その他には怪人二十面相の立ち姿をはじめ時代を象徴する絵がいくつも小さく描かれている。
 この地が、おそらく大正末か昭和初期の東京地図であった。
 向かって中央左隅に赤い文字で書かれた「体育研究所」にハッと目が止まり、そのまましばらく釘付け状態となった。場所は甲州街道・京王線から少し入った幡ヶ谷である。
 何度も確認した「東京体育専門学校」、「東京体育専門学校」、「東京体育専門学校」のあった場所に間違いない!

 さっそくウエッブ検索してみた。
《体育研究所(たいいくけんきゅうしょ)は、かつて存在した文部省直轄の研究所である。》
 とあるではありませんか。

1924年(大正13年)10月25日、体育に関する研究、調査、教授、指導する研究所として文部大臣所轄の研究所として代々木西原に創設された、とある。
 解剖・整理・化学・衛生・心理・教育・体操および遊戯の部にわかれていて、主要な事業は体育に関する各部専門の研究連合調査、講話会、体育研究会、講習会、研究生指導、講演会、出張指導、体育相談、出版等々、広範囲に渡って「体育」を研究する場であった。

《第一次世界大戦後の世界的な体育研究への関心の高まりを背景に、他の教育科学に比して立ち遅れていた日本の体育研究の基礎を固める役割を果たした。しかし1930年代以降の時局の悪化により研究所としての機能の発揮が困難になり、1941年(昭和16年)3月に廃止され、体育指導者養成のための東京高等体育学校に改組された。1944年(昭和19年)4月の「東京体育専門学校」への改称を経て、1949年(昭和24年)5月、学制改革にともなう新制東京教育大学に包括され同大学体育学部の構成母体となったことから、体育研究所は筑波大学体育専門学群の源流の一つの見なされている。》

 立教大学は、今年、創立140年記念の行事が行われている。
 すると10年間も、夏になるとこの団扇を眺めていたことになる。
 いや、はや、今年になって幡ヶ谷のこの地を訪ねなければ、この隅にある文字に気づかなかった。
「なんてこった!」
 この研究所に、大谷武一、本間茂雄が奉職していた、と思うと団扇を大切にしていた大きな意味に出会ったような感動を覚えた。
 体操の本間氏が群馬の小学校で素晴らしい成果を上げていた野口三千三を訪ね、東京体専への大抜擢の道をひらいた話が思い出された。
 古い地図は、歴史的事実を浮き彫りする。
 世界的な体育研究の高まりは、第一次世界大戦がその背景にあったことを突き止められた。

 今の時局に照らせば、思いは複雑である。
『江戸川乱歩と大衆の20世紀展』、蔵のある乱歩の旧宅公開から、はや10年の歳月がながれたことになるのかー!
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暑中お見舞い

2014年07月12日 09時11分28秒 | Weblog
 夏休み前の授業も残すところ、僅かとなった。とくに前期だけで終了する3クラスは、ラストスパートをかけてあとは、テストとリポート提出を待つばかりである。
 20日過ぎには、成績を出す大仕事が残っているが、あっという間に春学期が終わるといった印象だ。
 
 この間、今年は、本も読むことができた。
 テーマは「戦後の日本人は、身体とどのようにかかわってきたのか」。
 敗戦後から昭和24年~30年代半ば~を第一次身体ブーム。
 昭和40年代~55年~を第二次身体ブーム。
 平成10年~現在を大三次身体ブーム。
 非常におおざっぱに区切ってみた。
 野口体操は戦後から、現在まで、静かな関わりを途切れることなく持ち続けてきた。
 
 八月から九月半ばくらいまでは、明大のシェイクスピアプロジェクトに、今年もかかわることになっている。
 昨年からため込んだ問題を整理する時間も取れそうな気配を感じているところ。
 が、しかし、今夏の暑さは厳しそう。
 いや、突然の豪雨、台風、地震、ほどほどの気象であってほしい、と祈っている昨今です。
 
 梅雨明けはまだですが、はやめの「暑中お見舞い申し上げます」。

 

 
 
 
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