羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「ヒカリ展」を見て想う

2014年10月31日 12時29分44秒 | Weblog
 朝一で国立科学博物館に出かけ、「ヒカリ展」を見てきた。
 丁度、中学生の団体と一緒になってしまった。
「間が悪い」なんてことは言いません。でも、音声ガイドのヘッドホーンを借りることで、彼らと彼女らの声とザワツキを回避しようと試みた。なんとも正解だった。

 歩きはじめてすぐにも、光なくしてこの世は存在しない、ってことを嫌ってほどに感じさせられる。
 しばらくすると、光学は宇宙に直結していて、日常感覚では捉えにくくはるかにスケールが大きい世界へとイマジネーションを開かなければならない、ってことを嫌ってほどに感じさせられた。

 もちろん生命体現象は光なくしてありえないし、私たちの暮らしは電磁波に支えられていることも同時に理解できる。
 最後の部屋では電磁波を使って時をはかる時代の到来で締めくくられている。なんでも世界初のレーザーは、ルビーから出た光だという。ルビーの赤は不純物のクロムの色。そこからさまざまなレーザーがつくられ、レーザーなくして、地球観測も宇宙観測も出来ず、国家間の安全保障も成り立たない現代なのだ。
 たとえばレーザー技術の発達によってつくられるこの時計は、セシウム以外の原子による光の周波数での共鳴を用いて、高精度の時計の開発を可能にしたのだという。
 使い方によって、これってすごく危険じゃないのかな?
 いやいや、すべての技術が、平和利用から軍事利用まで、日常的な便利さの向こう側で、両面裏腹の関係にあることがはっきりする展示物だ。

 ミュージアムショップで手に入れた『光マップ』を、今ひろげて見ている。
 電磁波がどのように利用されているのか一目瞭然の一枚である。たとえば近赤外線のところでは次のような記述がある。
《細胞手術では、近赤外線パルスレーザーに集光して、細胞内部を加工、刺激する》
 1μmから800nmの範囲に相当する領域だ。
 素人考えだけれど、おそらく生命科学実験を支える技術ではないだろうか。
 すぐその下には、こんな記述もある。
《さそり座のアンタレス(3,500°C)の黒体放射は800nm付近に赤く見える》
 よくわからないことだけれど、マップを見ていると極微から巨大まで、大きさの旅が並列した一つの時空におさまってしまう現象に見えて来る。
 実際に展示物を見ると、果てしない宇宙空間から極微の世界まで、空間と時間の違いが明瞭に感覚できるのだが。
 この「ヒカリ展」は、西欧科学の核心に触れる“宇宙から原子”までを網羅する「光学」の世界観の展示だ、ということは理解できた。
「神は光あれと言われた」
 光が世界を造るのである。
 メソポタミア・ギリシャ・エジプト・イスラムから、西欧近代への道のりに、どのような神の意思が働いたのだろうか。
 一方で、天照大神を祭る日本では、こうした光学的世界観と発想は皆無だったのは、なぜだろう。
 
 息をひそめて一歩ずつ進みながら、唯一、馴染めたものは、蛍光鉱物の石や蛍光蛋白質を持つサンゴ類の色と動き。
 そして蝶や昆虫の美しさには、おもわずホッとして普通の呼吸に戻された、というのが正直な告白だ。

 サルトルの戯曲名ではないが、科学の応用の中心核には悪魔と神が常に同居していることを忘れてはならない、と全体を見終わって寒気とともに感じていた。
 たしかに小雨が降っていた上野公園ではあったが……。
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難題……蔵の修繕

2014年10月30日 18時53分17秒 | Weblog
 今年の冬の大雪と経年によって、蔵の瓦屋根と雨樋との間に隙間が出来たところがある。
 今のところ北東の角のみである。このい樋は、曲線を描いている四本の鉄製の細い棒状のもので支えられている。その曲線がかなり歪んでしまったことが、原因らしい。
 この母屋を建て直した時の工務店の親方曰く「足場をかけて取り外し、鍛冶屋で修繕してもらうことになります。ただ応急処置にすますのならば、北側で表には見えないから、大きなトタン板を立てる方法が簡単ですね。もちろん蔵の外壁に立てかけるのではなく、木材で支えをつくって直接触れないようにするのかな~」
 その言葉に、たとえ一目につかない場所であっても、トタン板という物に抵抗を感じる私だった。

 そこで足場をかけるのならば、外壁を塗り直す提案をした。
「それは難しいです。というのは安易にペンキを塗ればすむという話ではありませんから」
 漆喰の白壁に、いつのことだかモルタルをかけて、グレーに塗られているのが現状である。
 それではどうすればいいの?

 それらの話を聞いて、しばらく待ってもらうことにした。
「よーく、考えます」
 大正15年に立てられた蔵は、今年で88歳になる。
 
 蔵の周りもか片付ける必要がある。
 蔵の中も片付ける必要もある。
 とにかく授業が一段落する来年の2月まで待ってもらって、それまでにいろいろと研究することにした。

 屋根や雨樋や外壁の塗り直しや三カ所の窓の鉄製音扉の塗り直しもある。
 本格的に修繕するとなると、そう容易いことではない。
 収益を上げられる何かに改造するのならば、意味があるかもしれないが、今の現状ではそこまでする必要は感じないのが正直な気持ちだ。私自身の年齢も考えにいれるとますます難しい問題である。
 
 まずは、自分でできる片付けを少しずつ始めることしかなさそうだ。
 難題……蔵の修繕のお話でありまーす。
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鞭……方向を変えるタイミングが命

2014年10月29日 13時19分48秒 | Weblog
 床に添わせるようにしてならす鞭の音もかなりいい音だが、空中で鞭を回転させて鳴らす音は、一段と乾いた鋭い音になる。
 実際を言葉にしてみたい。
 まず、音を鳴らすには、円を描く途中で、方向変える必要がある。
 そのタイミングをつかむコツは、言葉では表現しにくい。だから「コツ」なのだけれど。上手くタイミングがつかめないと怪我をするハメになる。
 野口三千三先生から伺った話。
「ある劇団で、勝手に振らないようにと注意して、ちょっとその場を離れたすきに、カッコいいからやってみたい衝動を抑えられなくなったらしい役者の卵が、自分の頬を傷つけちゃったことがあるのよ」
 鞭先きの通り道が大事で、逆方向に腕を伸ばすタイミングが悪いと、音がでないばかりか、顔に絡まってしまうのが空中でまわす危険と難しさである。

 この方向を変えるタイミングは、鞭先が残っているうちでないと、先端がいちばん遠い所を一番速いスピードで通り抜けることは出来ない。
 音が出るときのスピードは、音速から亜音速。音は衝撃波によって生まれる。
 その速度を得るための方向変えは、タイミングが命なのである。
 この時、先端が残っているかどうかを、目で見て確認してからでは遅い。
 目で見る感覚ではなく、からだ全体で鞭の動きを感じて、方向を変えるタイミングをはかるしかない。
 床に添わせて鳴らす場合も同じである。動体視力が相当よいアスリートは別かもしれないが、視覚よりも全体感覚が生きる“直感”を磨くことしかなさそうだ。

 大きく円を描きながら、方向を変える少し前に、肘を胴体に引きつける。そこで一呼吸の間をとって、僅か斜め上方に向かって一気に腕全体を放り投げる。そのタイミングがズレると、鞭の先端が自分の方に向かって来て怪我をするか、スピードがでないで不発に終わるかである。

 実は、方向を変えるタイミングは、毎回、異なる。
 私の場合、違いを感じるのは、からだの中心軸にある避雷針とでも言いたい長軸に添った何かで、鮮鋭化した意識ではない。むしろその避雷針に意識がすっと沈み込んで脚の裏とつながった感じのような実感が得られた時に、よい音が鳴ってくれる。
 自分が自分の意思で鞭を振る・鳴らすのではなく、鞭のなかに溶け込んでいくような感じだ。
 
 と、書いてきたが、どの言葉も虚しい。こまかなところが言語化できなーい。
 この感じ、もどかしさは、何処から来るのだろう?

 一つ言えることは、音が出る前の短い緊張感と音が鳴ったと同時に得られる開放感は、鞭でしか味わえない独自の快感であることに間違いない。

 何時、何処で、方向を変えるのか。
 方向を変えるとは何か?昨日のブログに書いた野口の問いかけは、永遠の課題だ。
 そう簡単に答えは出ない。
 鞭に限って言うならば、それは、きっと、生命活動の象徴だからだ。
 つまり、生命現象の運動(振動・波動・流動)は、円・波・渦・螺旋によって行われる。これらの動きがが短時間に集約して起こる結果が、鞭の音速・亜音速から生まれる音なのではないだろうか、と今のところ空中で鞭を鳴らしたときに得られるからだの実感である。
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野口最期のクリスマス演奏会……そして……

2014年10月28日 07時27分18秒 | Weblog
 昨晩、名器である通称「デンスケ」STEREO CASSETTE-CORDAER TC-D5M ソニー株式会社 MADE IN JAPAN で、バトルが歌うヘンデル『Ombra Mai Fu』ニッカ・イメージソングを聞いた。
 ソニーの不調が新聞の第一面トップで報道されたのは、今年の夏のことだったろうか?記憶が曖昧になっている。記事を目にした89歳の母が、「なんでソニーが??????」。ずっと問い続けていた。
 彼女の中で、ソニーのような優秀な会社が上手くいかなくなるとは、まったく信じられないし、信じたくないことだった。それから何日も同じ問いかけをしてきた。
 
 さて、デンスケの音はモニターで聞いてもそこそこ良き音だった。これが名器といわれる由縁である。
 すでにヘッドホーンやスピーカー接続端子が合わない。教室で皆さんにお聴かせすることはかないそうにない。
 いずれにしても隔世の感を、十二分に味わってしまった。

 それにつれて思い出されることがある。野口ノートである。
 1997年11月23日から始まって、98年2月28日まで書かれている最後のノートには、次のような記述がある。
《12/23(火)12/34(水)12/25日(木) CD 演奏用意、クリスマス 野口家演奏会》
 ご自宅の雨戸を閉め切って、大音量で『メサイア』『クリスマスキャロル』『ベートーベン第九交響曲』を聴いておられた。当然、バトルの歌も聴いておられた。
 テレビの音量も高くなっていた頃。目一杯ボリュームを上げて、指揮をしながらのコンサートに違いない。
 その4年前に先生から依頼されて、我が家出入りの大工さんと庭師を中心に、思い切ってご自宅の増改築の手配をし、皆さんにもお手伝いいただき、入院中に建て替えておいたことが功を奏した。
 晩年になって、お好きだった音楽を堪能していただけた。それもこれもわが両親の力添えがあって出来たことだったが、最後によいプレゼントができたような気がしてならない。
 
 その頃の先生は折に触れて『文明さん、お先にどうぞ』と、授業の中で何度も繰りかえしておられた。
 世の中の変化は、あまりにも急速に過ぎる。
 昨日も立ち寄った書店の一番目立つ棚に『永続 敗戦論ー戦後日本の核心』白井聡 こんな題名の本を見つけた。
 はたして、日本の優良会社・ソニーは、一体全体、何時何処で、間違ってしまったのだろう、と考えずにはいられない昨今の日本だ。
 先生が聴ていらしたレコーダーはソニー製だった。
 こうして、1997年12月25日は野口三千三最期のクリスマス演奏会となった。
 同じ日の野口ノートには、こう記されている。
《あらゆるもの・ことの変化において方向とは何か「方向を変える」とは何か……》
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ニッカウィスキーCM「Ombra Mi Fu」

2014年10月27日 07時03分42秒 | Weblog
 朝ドラ「マッサン」は、どうやら好評らしい。
 今回も魅せられている。
 モデルはニッカウィスキーの竹鶴政孝と妻のリタ。このお二人のことを書いた本も、興味深く受け入れられている、と新聞等々で報道されている。

 先週はとばっちりで大量の返品の山。そこで売れ行きが落ちた「太陽ワイン」を、いかに復活させるか。広告を巡ってエピソードが描かれていた。
 
 さて、CMで思い出したことがある。
 当方のエピソードは、野口三千三の行動力と、眼力の話である。
 昨日のこと、やるべき仕事を片付けて、ホッとしたのも束の間、そうだ!とばかりに、一本のカセットテープを見つけに蔵に入った。
「あった、あった」
 ひそかに歓声を上げた私。
 三カ所目に探り出し、開いた箱の中、いちばん目立つ上にそれは乗っていた。
《『私はおいしい ウイスキーを 知ってます』NIKKA WHISKY IMAGE SONG by KATHLEEN BATTLE 》
 このカッセトテープは、先生から届けられたもの。テレビCMに因む一本である。
 調べると1986年夏から、放送されたらしいことが判明。
 リリック・コロラトゥーラのバトルが、ヘンデルの「Ombra Mai Fu なつかしい木蔭」を歌っている。
 演出は映画監督でオペラ演出でも名高い実相寺昭雄とある。
「なるほど」
 雄大な自然をバックに歌うCMは清々しく、美しいつくりだった。
 ご記憶の方もおられるやも知れず。
 で、その歌声にぞっこん惚れ込んだ先生は、東京都内のニッカウィスキーに出向き、カセットテープをもらってきてくれた内の一本である。
 このCMが評判になったらしく、バトルのディスクが、同じ実相寺演出によって売り出されたそうだ。

 これから駿河台校舎で授業がある。
 帰宅してから、再生を試みようと思っている。
 はて さて 機材は動くだろうか。
 これが問題だ!

 それにしても野口三千三の行動力と眼力の確かさはなかなかのものだ!
 物が残る、とはこういうことなのだ。テープに向かって、頭を下げている私。
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『ヒカリ展」……蛍光石の物語

2014年10月26日 07時41分46秒 | Weblog
 2014年10月28日(火)から2015年2月22日(日)まで、東京国立科学博物館で『ヒカリ展』が開催される。朝日カルチャーの日曜クラスに通っているK.さやかさんが、チラシをおくってくれた。
「光の不思議、未知の輝きに迫る!」催しのようだ。
 裏をめくると、なんと!糸魚川フォッサマグナミュージアム所蔵の「蛍光鉱物」が展示される、とあった。
 私たち野口体操の仲間には、見慣れた蛍光石の写真が載っている。
「リシア輝石」「ルビー」「オパール」「方解石」、もちろん鉱物の蛍光現象発見の元になった「蛍石」等々。

 野口三千三先生からこの現象の面白さ、楽しさ、不思議さ、それだけではない「私がこの目で見た!」といいう発言の危うさまでも、これらの石を通じて実感させてもらってから、数十年の年月が経っている。
「野口が、興味をもったもの・ことは、遅れて注目を浴びたり、流行ったりするのよ」
 10年程度でそうなるものと、今回のような蛍光石のように、かなりの時間が経っているもの、先生の眼力の先駆性には、あらためて敬意を表したくなる。
「あわたしたち、とっくに知ってるわ!」
 なんちゃってね。
 我ながら俗物性に苦笑している。
 で、1996年ごろに書いた『冷光』の文章を張りつけさせていただく。

 *******


「冷光 ― ルミネッセンスの物語」             羽鳥 操

 毎年、初夏には野口体操創始者・野口三千三が生前に顧問をしていた「東京国際ミネラルフェア」が開催されている。そうした縁で、私たち野口体操の仲間は、欧米では趣味として市民権を得て長い年月を経ている“自然の石をそのまま愛でる”面白さを知ることになった。しかし、日本では未だにこんな質問をうけることがある。
「ミネラルフェア? それって水のフェアですか」
 すでに二十数回も開催されているにも関わらず、馴染みがない証拠である。この展示即売会には、国内はもとより世界中から隕石・鉱物・化石等々を扱う会社が百社以上も集まる。会場は、かつて淀橋浄水場があった西新宿のホテルである。実は、偶然にも私はこの近くで生まれ育った。もの心ついてから、遊び場だった浄水場を囲む土手は、鬱蒼とした樹木や下草に覆われていて、昆虫や蝶、蛇までも出るところだった。真夏の夜、闇に浮遊する青白い光を追って蛍狩りを楽しんだ記憶は鮮明に残っている。このように昭和二十年代後半から高層ビル街に変貌を遂げる昭和五十年代近くまで、そこには自然の暗闇が存在していた。

 さて、本題に入ろう。
 夏の夜を怪しく彩る蛍の光は生物発光現象であるが、岩石や鉱物にも蛍光現象があることをご存知だろうか。この発光現象は、ルミネッセンスと呼ばれる物理現象の一種である。ルミネッセンスとは、《 物質は物理・化学的刺激を受けるとそのエネルギーを吸収し、その一部を電磁波として放出する 》新版・地学事典(平凡社)現象である。日本では一般に光ルミネッセンスを蛍光と言うことが多い。野口は晩年になって、紫外線を受けて発光する岩石・鉱物の蛍光現象に強い興味をもち、際立って美しい石を多く集めた。

 そこでまずは電磁波の分類について簡単におさらいしておきたい。
「電磁波」とは、波長の長い順に、電波・マイクロ波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線、その他はるか彼方の宇宙からくる宇宙線等である。その電磁波のなかで紫外線が、『「冷光」ルミネッセンスの物語』に関わってくる。そもそも「蛍光」という命名は、鉱物の蛍石に由来している。古くから美しい蛍石が多く産出する所として、イングランド中部・ダービーシャー州は有名な場所だった。時は十九世紀、イギリス人のサー・ジョージ・ストークスという物理学者が、この地で太陽光線に含まれる紫外線を受けて青紫に輝く蛍石を発見した。彼は蛍石(フルオライト)に因んでこの現象を「蛍光(フルオレッセンス)」と呼んだ。
 しかし、蛍光は紫外線だけによって引き起こされるのではなく、X線によっても起こる現象だ。今日、半ば常識となっている《 光も物質のエネルギー形態である 》という考えがある。ルミネッセンスは炎の燃焼のような熱の発生を伴わない冷たい光、つまり“冷光”と呼ばれる現象で、これにはいろいろなタイプが含まれている。
 しかし、それらすべては、何らかの形のエネルギーを受けた物質中の原子が刺激されて起こる現象であると言われている。

 ところでメキシコとアメリカ南西部をまたがって流れるリオ・グランデ上流に暮らすプエブロ・インディアンは雨乞いの祭の期間、雷をまねて太鼓を打鳴らし、白色石英の切れ端を擦り合わせて電光に似た光を出して祈りを捧げたという。これは鉱物の摩擦ルミネッセンスである。   
 
 一方、先ほど来問題にしている紫外線に輝く蛍石に代表されるルミネッセンスは、光ルミネッセンスである。白い方解石が青緑に、透明な岩塩が紅に染まり、ウランを含む鉱石は黄緑に、タングステンの原材料となる灰重石は碧く輝き、アメリカ・フランクリン鉱山だけで産出される鉄にマンガン方解石等の鉱物が混ざったフランクリン鉱は濃緑と血のような赤と暗黒色というように、紫外線が照射された瞬間に石は怪しく発光する。

 それらに対して、はじめに書いた昆虫の蛍の発光は生物ルミネッセンスと呼ばれる現象である。
 これは生命体の中にある或る種の物質が酵素によって酸化されて起こる化学発光である。他にも二百メーターから四百メーターの深海に生息するホタルイカの発光は一般にもよく知られている。ホタルイカの生息地は、日中でも十分な光が届かない半暗黒の世界だといわれている。近年になって、ホタルイカは漆黒の闇に包まれる夜に発光するのではなく、薄明かりの状態の昼間に、全身に纏っている大小さまざまな粒状の発光器を灯すことが究明された。半暗黒の海中は、もっと深い海から上方を見上げると、遊泳中の魚影がはっきり浮かび上がって、外敵に見つかりやすい状態にある。小さなからだは発光することで周囲の明るさに溶け込み、光に体を同化させることによって影を消す。このように外敵から身を守るホタルイカの発光といい、生殖のシグナルとしての蛍の発光といい、自然から与えられた体の知恵は素晴らしいと言える。
 生物の生存は、何百万年、何千万年かけて、突然変異あり、自然淘汰あり、その他、何でもあり、という実に巧妙で多種多様な手だてで確保されてきた。
 
 少なくとも蛍光現象は、光学と化学、そして原子物理学や量子力学にまたがった境界物理現象だが、元々の自然現象は、科学ですべてを完全に解明することは不可能なのである。幾重にも重ねられ、分かれていながら分けられない境界を裡に潜めているのが本来のあり方なのだ。

 最後に野口のことばを読んでいただくことで、岩石・鉱物の蛍光現象を楽しむことが、単に野口体操の感覚の世界を切り開く一つの方便でないことをお伝えしたい。
《 私のからだは、地球物質のまとまりかた・つながりかたの一つであり、私の心はその働き方の一つである。地球が宇宙物質から生まれ、今も宇宙からいろいろな物質が注ぎ込まれていることからいえば、私たちは宇宙物質であるといってもよい。
 今、地球を構成している物質は、生物・無生物の別なく、すべて私の先祖であり、血縁関係の仲間たちである。したがって私はこの先祖、先輩、仲間たちからいろいろなことについて次から次へと貞きたくなるのである。この貞くという営みが私の生活であり、私の体操である。》
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SP LP レコードに憶う

2014年10月25日 11時32分42秒 | Weblog
 しばらくブログの更新から離れていた。
 何も書くことがなかったわけはなく、気づきや発見も多かった。 
 その中から、まずひとつのエピソードを……。

 10月1日に母方の伯父が亡くなった。我が父とは幼友達だった。
 皮表紙に彫り物があるアルバムを出してめくっていた。古い写真のなかに、おそらく昇仙峡だろうか、飯ごうでご飯を炊く姿や、ポータブルSPレコード蓄音機で音楽を聴く準備をしている二人が写っている。
 年齢は、10代後半か20代そこそこに見受けられる。
 そんな折、10月5日付け日経新聞朝刊「文化欄」に『蓄音機と音楽』と題して、哲学者の黒崎政男氏の記事に目が止まった。100年も前の蓄音機とSPレコードに21世紀にもなって夢中にさせられているのだそうだ。
 氏曰く「SPレコードは音がいい、というか、演奏家がそこで演奏しているような存在感あある」
 100年経っても蓄音機は鮮明で存在感のある音を奏でるらしい。
 今では膨大な数のSPレコードがネットオークションで手に入ることも書かれている。
「そうか!」
 家のレコードもカビや埃にまみれているに違いないが、丁寧に磨き上げれば、それなりに聴くことは出来るかもしれない。
「でも、蓄音機がない!」
 以前、サジさんのお知り合いの方に、SPレコードもLPレコードも、差し上げる約束をしたことがある。
 レコードを聴く時間も機材もなくなって、持っていても仕方がないと思い、決意したのだった。

 受け取りにきてくださる日時も決めた。
 ところがいざ前日になったら、心が揺れた。
「どうしよう。やっぱり持っていたい」

 結局、平謝りした。
 というわけでSPレコードは、我が家の蔵の高い棚の上に鎮座している。LPレコードも別の場所に残されている。

『かつて日本の青年は、哲学書や、ゲーテやトルストイの文学を読むのと同じくらいの重い意味をこめて、ベートーベンやシューベルトのレコードを聴き、自己を見つめ、本質的な人間形成をはかった』
 と書く氏は、『蓄音機で音楽を聴くことは、あたかも、バスやクルマで行けるのにあえて徒歩の巡礼を選択するのに似ているかもしれない』と結ぶ。
 おっしゃる通り。
 音楽を聴く意味が、私の数十年の時間のなかでも大きく変貌を遂げた。
 
 始めてドビュッシーの曲をピアノ先生から練習することをすすめられた中学3年の時には、楽譜も輸入版で手に入りにくく、LPレコードでも聴くことはままならなかった。それから20年くらい経ったころだろうか、高円寺の純情商店街を歩いている時に、有線放送からドビュッシーの音楽が流れてきたことがあった。正確な年代の記憶はない。カセット?CD?に変わった時代かもしれない……。
「ソニーじゃなくても、ナショナルでもいいわ」
 そんな科白を吐いて、ソニー製品を選ばなくなった時にもリンクしている。
 それは、自分の暮らしの中から、じっくり音楽と対峙する習慣が失われはじめる頃でもあった、と思う。

 ただ唯一、乗れなかったのがソニーのウォークマンだ。当時、音楽を携帯するなんて、感性が許してくれなかった。その理由はよくわからない。
 今では、iPhoneの“ながら聴き”状態で、すましている自分がいることに、驚きもしない。
「よろしくない」
 たしかラベル自作自演のボレロが録音されたSPがあったはずだ。

「生きているうちに、惚けないうちに、蓄音機を手に入れよう」
 伯父の告別式の日に掲載されていた新聞記事と二人の写った写真に触発された。

 因みに、10月15、23日に「座・高円寺」で上演された「幸田弘子が読む 中原中也」の舞台でも、SPレコードの音楽が、非常に効果的に使われていたことを記しておきたい。
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近況

2014年10月01日 09時27分43秒 | Weblog
 今年もあと3ヶ月となった。
「速すぎる!」と、愚痴を言いたくなるのは、年のせいだろうか。
 
 ざっと9月の出来事を書いておきたい。
 まず、明治大学シェイクスピア・プロジェクトの指導は、中旬すぎに終わって、あとは11月の本番を見せてもらうだけとなった。学生達は、これからが正念場。授業と稽古の両立に苦労する時期となる。

 9月中に締め切りの原稿も、無事に提出できた。こちらもゲラを待つだけとなった。
 一つは「大学体育連合」の活動報告書に載せる原稿だった。佐治さん撮影の写真をふんだんに使わせていただいた。おかげさまで通常の報告記事に比べると、そうとうに雰囲気の違うページになることだろう。12月ごろに出版されるらしい。

 19日に取材を受けた雑誌は『Spectator』で、長野県に事務所がある。カウンターカルチャー誌のようだ。執筆者は赤田祐一さんで、筆の立つ方だ。こちらは野口体操をかなりのページをさくらしい。若者むけで文化を紹介する雑誌。思想性のつよい内容で分厚い装丁だ。こちらも12月頃に出版される。

 20日(土)には、朝日カルチャーセンター「特別公開講座」『資本主義の終焉と歴史の危機』出版記念 水野和夫さんの講演を聞くことができた。満席で熱気が溢れていた。著書を読んでいたので、ぜひライブのお話を聞いてみたかった。本の印象とご本人の印象の差がまったく感じられず、誠実な人柄がにじみ出ていた。西欧の歴史、キリスト教の持つ一つの有り様を、今までにない視点から解き明かす話だった。“利子率”をテーマに1300年代から現代まで、読み解く内容だ。
 佐藤優さんの『資本論』だったかな、こちらも読んでみたいと思う。

 朝日カルチャー「野口体操講座」では、「ガウディのサグラダ・ファミリア」の「逆さ吊り実験」カテナリー曲線のことから、野口三千三の「弛ませ曲線+膨らませ曲線」のテーマを、少しずつ拡張している。このテーマは、野口先生としてももっと深めたいと強く思われていた。が、先生に残された時間がなかったことは非常に残念なことだった。
 今年、生誕百年、十七回忌の年に、浮上してきたのも何かのご縁だと思う。
「上体のぶらさげ」「腰まわし+胸まわし」「おへそのままたき」「腕立てバウンド」等々、いくつも動きに深くかかわって来る「弛ませ曲線」と「膨らませ曲線」である。時間と空間(どのくらいのスピードとどのようなリズム感で、重さの方向に対してどちらに動いて行くのか)、つまり「間とり」の問題が絡んでくるから実に多様で面白い。基本的な問題だった!

 そして、いよいよ22日から後期の授業がはじまった。
 無事に来年までつとめられますように、祈って授業に出かけている昨今である。
 他にも、いくつかのエピソードはまたの機会に譲って、以上、ごくおおざっぱな近況報告でした。

 そうそう、蓮様のモデル白蓮の存在感が素晴らしかった『花子とアン』も終わったし、朝日新聞の夏目漱石の『心』連載も終わった。
 本日から『三四郎』がはじまった。今まで漠然と抱いていた漱石のイメージがまったく変わった、とだけ書いておきたい。
 またまた朝刊が楽しみになった。
 いずれにしても新たな気持ちで迎えた10月初日である。
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