羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

カルメラつくり

2018年11月10日 07時22分35秒 | Weblog

会報『早蕨 SAWARABI』Vol.4は、お一人からの校正返事を待つのみとなった。

今回の「野口三千三伝」では、先生のお兄さんが作ってくれたカルメラ焼きの話から始めた。

今夏、原稿を書くにあたって、私も実際に作ってみた。

難しく失敗を繰り返し、たった一個だけうまく焼けたところで止めることとした。

材料:

* 砂糖大さじ 2 * 水 15ml  *  重曹 適量

作り方:

お玉に砂糖+水を入れて、火にかける。(炭火ならもっとよし)

きつね色になったら日から話す

泡が少し収まったところで重曹を投入。

火から少し話したところで、泡を潰す感じで100回くらいかき混ぜると一気に膨らむ。

固まったらお玉の底を再び火に炙ると丸い形のカルメラがすっと剥がれる

冷ましてから食す。

全行程を通して、単純であるゆえの難しさがつきまとう。

特に、言ってみれば、割り箸の先にほんの少しつける重曹の量と、入れるタイミング、かき混ぜる回数である。

いたってシンプルな材料からなるカルメラは、砂糖の甘さに加えて重曹のかすかな味が、人生のほろ苦さを感じさせてくれる。

大人になった三千三少年は、池袋の駅ナカで売られていたカルメラをほうばって、何を感じていたのだろう?

私もご相伴にあずかったことがあった。

お兄さんの話を伺いながら・・・・

懐かし!

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繰り言・・・荷風散人の目で東京を歩くと・・・

2018年11月09日 07時00分40秒 | Weblog

日和下駄をつっかけて、自由気ままに東京を歩く荷風散人の目を携えて、歩いていると『冷笑』の意味が何とはなしにわかるような気がしてくる。

1905(明治38)年に渡米し、一時、華盛頓・ワシントンDCにも滞在したが、紐育・ニューヨークを中心に1907(明治40)年まで暮らした荷風は、この年に仏蘭西に居を移し翌年の1908(明治41)年7月に帰朝した。

その後は作家として、「あめりか物語」「ふらんす物語」ほか海外体験を描き、じかに欧米を見たその目で東京の町を散策し、日本の近代化文化を冷ややかに眺めた作品を残している。

明治45年の期間では、明治政府は盤石とは言えない。

まして、大正期に入ってから、君主を支えることに頭を悩ませたはずである。

そのままでは国は危うい。

帰朝した明治末期から大正にかけて、荷風さんに見える東京の町は、何ともはや“ 張りぼて”に過ぎないと映っても不思議はない。

なぜに、政府は絵画館に展示するプロパガンダ絵画制作に、あれほどの情熱を傾けたのか、傾けざるを得なかったのか。

荷風さんは知っていた!

幼少の頃、アヘンでやられた上海を知っていただけに複雑な思いで、張りぼて近代文化を眺めていたに相違ない。

 

1909(明治42)年に、なぜゆえに、当時の日本近代建築の雄として東宮御所(現在の迎賓館)を完成させたのか、させなければならなかったのか。

荷風さんはわかっていた!

だから、“張りぼて文化”の東京を「冷笑」することで、作家として立って行くしかないと、覚悟を決めた。

いや、江戸期の文化がどれほど成熟し、どれほど内容の深いものであったのか、荷風さんは知っていたのだ。

私は、これまで見てきた東京の近代を思い出す。

昭和30年代始めの赤坂離宮は、全くもって荒れ放題であった。誰も気にも留めないし、目にとめない無残な状態だったことを思い出す。

止めていられなかった。復興に全精力を傾けていくしかない敗戦後であったから。

 

そして、今、2回目のオリンピック2020に向けて、急速に変化してゆく東京の街に埋れてしまいそうな近代の東京を見ていると、荷風さんの嘆息が聞こえてくる。

江戸が壊され、ピッカピカの近代が、それこそ突貫工事で造られていく。その姿に、懐かしさ以上の感慨を持って、江戸回帰したくなる心情もわからなくもない。

『断腸亭日乗』を綴り、それを後世に残したことが、荷風さんのいちばんの仕事だったのかも知れず。

 

昨日、赤坂見附から三宅坂方面を見上げて、思った。

「外からは攻めにくよなー」

この勾配では馬は登れない。歩兵は石を投げられるだけで弁慶濠に墜落してしまう。

 

昨日、喰違見附を歩いて通って、思った。

「外からは攻めにくよなー」

入り組んで狭いところを馬はもちろん、歩兵ですら武器を持ったら二列にも並べない。

 

昨日、歩き始めに三宅坂から桜田門方面をまず、拝ませてもらって、思った。

制度疲労を起こし、汚職がはびこったとしても、江戸の人々にとっては、まさか徳川の千代田の城が落ちるとは信じられなかったに違いない。

黒船の恐怖だけで、幕府が崩壊するとは、江戸の人々にとっては、信じがたいことだったに違いない。

人智を超えた、なにがしかの力が働いに違いない、と・・・

 

おっと、繰り言はこのくらいにして、本日の仕事にかかりましょう。

でも、もうしばらく荷風さんに寄り添ってもらって、変貌を遂げる東京の街を歩いてみたい、と密かに思っている・・・ 

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三宅坂から赤坂見附、迎賓館まで散策

2018年11月08日 13時51分37秒 | Weblog

本日、三宅坂から国道246、青山通りを歩いた。

これまでに渋谷からは青山一丁目そこから表参道への道。

また、赤坂見附から青山二丁目へ、右折して明治神宮外苑への道。絵画館見学も行なった。

今朝は、三宅坂の勾配がどの程度なのかを体感したくて、赤坂見附まで歩いた。

最後のところで非常に急勾配だった。

これで、片側3車線の大通りを全て歩いたことになる。

三宅坂から渋谷までの青山通りは、まさに軍用道路であることを確かめたかった。

一つには、昭和11年の二・二六事件の道のりを歩いてみたかった。

この年、短期現役兵・師範学校の専門部の学びも終えた野口三千三は、群馬・高崎の小学校で本格的に訓導となった。

そして明治神宮外苑・明治神宮、青山練兵場、代々木練兵場、この地理感覚がよりはっきりした。

代々木練兵場の端、西原には体育研究所、のちの東京体育専門学校があって、戦争末期に上京した野口がいた時間の流れをおった。

さて、本日は、赤坂見附から横道にそれて、弁慶橋を渡って、紀尾井町へ向かい、ホテルニューオータニを左手に見て、「喰違見附」を渡った。

渡った先には、赤坂離宮の東側の門があって、ぐるりと回り込むと正門に出る。

ちょうど団体さんがやってきた。何となく後ろについて歩いていくと、赤坂離宮の西門から離宮内に入っていくではないか。

そのまま行列に並んで、金属探知機を通り抜け、入場券を買って建物内を見学。

一通り見て回って、庭園へと出ると天気も良く清々しい秋の空気に包まれた。

庭園から建物を眺め、噴水の水しぶきを浴びる。

思いがけず明治からの東京を、本日も味わった。

欧化政策に躍起になって、背伸びをした日本人がいた。

その行き着く先の一つが1945年の敗戦だったのか、と思うと複雑であります。

本日の収穫。

それは、初めて江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14キロの濠。

そのうちの4キロが史蹟指定されていることを知った。

4キロ範囲の江戸城外堀跡の史跡は、赤坂見附、喰違見附、四谷見附、市谷見附、牛込見附であるが、喰違見附以外は、子供の時から馴染みがあった。ちょっと調べてみた。貼り付けます。

1612(慶長17)年、甲州流軍学の創始者・小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝わる江戸城外郭門のひとつ。江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣をコの字型に巡らした強固なものですが、喰違見附は土塁を前後に延ばして道をジクザクにして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち=城の出入口)の構造です。

以上、午前中の散策報告でした。 

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換気扇のアップグレードを終えて・・・・

2018年11月04日 10時11分56秒 | Weblog

ある日、家の中のいく先々に、本と書類と衣類が、自由気ままに置かれている情景を目にした。

いつ、こんな状況を許していたのだろう。

母が、施設に入ってから1年と半年が過ぎようとしている。

結局その間に、じわりじわりと物の置き場が拡張したのにすぎなかった、と他人事のように言い放った。

が、その瞬間に、自己嫌悪に陥った。

ふと立ち止まって、本と書類を大きく二つに分けた。

それらの置き場を二箇所に限定した。

自己嫌悪感は半減してくれた。

家を建て替えて13年と半年がすぎた。

当初ほど掃除をしなっくなっている。

歳だから、と自己弁護した。

そこでまた立ち止まった。

いちばん面倒でやっていない掃除はどこか?

いの一番に浮かんだのは、ガズレンジの上の換気扇である。

お恥ずかしいことに、13年の間、プロの人に頼んだたった一回しか、丁寧な掃除はできなかった。

ただ、一年に一回、表面の汚れをとるだけだった。

これからますますどこよりも換気扇の掃除はできなくなってしまう可能性は大だ。

そこで年寄りの暮らしのQOLを考えて、思い切って換気扇を取り替えた。

なんと半自動運転で、お湯を使って行う掃除機能がついている。

それだけではない。

回天速度の3段階の設定や、運転を切ってからもしばらく通常に戻す機能までついている。

近くの電気屋さんに工事を頼んだのだが、最終的に行うのは、コンピューターの初期設定であった。

そのコンピューターは、お湯を使った掃除時期をちゃんと知らせてくれるという。

便利になったものよ!

「見たところ、そろそろ、掃除しなくちゃ」

ではなく

「今すぐ、掃除をせよ!」

というわけだ。

言ってみれば、換気扇に組み込まれたコンピューターのアルゴリズムに支配される生活スタイルになったのか?

つまり、それは、換気扇のアップグレードを行った結果の便利さと快適さを得た、ということなのか?!

これまで13年間に一回しかしなかった換気扇の掃除のなのに、これからは掃除の段取り・準備だけだが自分で頻繁にさせられる結果を招くことになるのだろう。

でも、まぁ、受け皿に40度くらいにお湯をはって、終わったら汚れた湯を捨てればよいだけのことらしい。

実は、この工事を行なっている間に、私は『ホモ・デウス』上下を読み終わったところだった。

面白いと言っても「ある種の納得感」と「いささかの不愉快さ」を持ちながらの“面白い読書”であったが・・・・・

家電のアップグレードに、微妙な “トホホホ状態” に陥って真っ青になった。

「私の感覚は、意識は、意味の世界は、どこに漂流するのか?」

そもそも私って、何だ?

「換気扇のアップグレード」から、日常の暮らしの中で、「人間とは何か」「自然とは何か」「自分とは何か」「幸せとは何か」を考えるチャンスをもらったとでも言えるのか?

そういえば自動運転の自動車ブレーキの安全性の問題として、今のところ誤解を招かないために「自動運転」という表現をやめて「自動運転ブレーキ補助システム」みたいな表現を求めるニュースが、今朝、流れていた。

翻って、1990年代半ば、晩年の野口三千三は、堂々と『文明さん、お先にどうぞ!』と言い放っていた。

その人の処女作『原初生命体としての人間』には、自然と人間と動きのアプローチに、1960年代から1970年代にかけての「情報(工学)」と「生命(工学)」の知見が生かされ、考察されているではないか。

そのことは、何を意味し、そのことをどう考えていくのがよいのか・・・・

 

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国道246青山通りを赤坂見附から青山二丁目を経て絵画館までの道のり・・・・

2018年11月01日 20時05分09秒 | Weblog

先日、赤坂見附から新宿区霞ヶ丘・明治神宮絵画館まで散策した。

まず、虎屋本店で美味なる「栗おこわ」を食してから出発。

向かい側に渡って「豊川稲荷東京別院」に参って、赤坂御用地に沿って青山通りを渋谷方面に向かう。

今回はこちら側から、草月プラザ・高橋是清記念公園は眺めるだけで省略。

青山二丁目を右折し、銀杏並木を聖徳記念絵画館を目指す。

初めて館内に入った。

80枚の絵画を一枚ずつ鑑賞。明治維新からの官軍・明治政府が描いた日本を見る。

たった45年間の短い時間で、強引に行った欧化政策・富国強兵の姿を見せてもらった。

歴史の裏側に・・・・戊辰戦争の悲劇がべったりとついていることを想像しながら・・・・

******

実は、最近の私の散策は、鹿児島であろうと東京であろうと、幕末から明治・大正・昭和にかけての群馬県が果たした役割を別の角度から見て、その輪郭を明確にするための行動のようである。

思いなしか高崎や前橋が果たした近代の役割が、はっきり見えはじめてきたようだ。

くわえて東京から見た群馬と薩摩・鹿児島の距離感をもって、江戸・明治における地方都市としてのその後が比較できた。

群馬の地の利は、養蚕・生糸輸出産業を可能にし、戦時中は中島飛行機を中心として飛行機製造にはもってこいの場所であった。

戦争末期には陸軍・高崎十五連隊がぺリュリィー島に本部を移しての悲劇的な歴史がある。

加えて前橋飛行場が作られ、特攻兵がここから飛び立ち若い命を空に散らしたのである。

利根川の水利は、早い時期から水力発電による電気を供給してきた。

そのことが知識としてだけではなく、私の中で身体感覚を伴って、こなれてくれたような気がしている。

******

絵画館で絵画を見てから、その玄関に立った。

右手には原宿・明治神宮につながって代々木の練兵場があり、正面から左手には青山練兵場があった。

かつてのイメージを持って、しばし、佇む。

それぞれが、それぞれに、どれほど軍事的な役割を果たしてきたことか。

ちなみに虎屋赤坂本店の三階バルコニーからは、樹木とビルの間から防衛省の建物の上部がわずかに眺められる。

歴史の時間と交差して、東京と群馬を結ぶ空間が、私の身体の中で明確になりつつある。

言ってみれば、群馬は近代現代の中心地・東京にとって、広い意味での“兵站”だった。

だとすれば、その群馬に生まれた野口三千三に、終戦まで与えらえた使命の必然としての重さを測ることができる。

だが・・・・・

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