羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「からだとの対話ー野口体操を再考する」麿赤兒氏を迎えて

2014年03月31日 18時41分11秒 | Weblog
 3月29日、隣家の桜は一気に開き、六部から七部咲きの様子。
 16年前に野口三千三先生の通夜と告別式が執り行われたその日を思い出しながら、新宿・朝日カルチャーセンターに向かいました。
 お招きしている麿赤兒さんとは、はじめてお目にかかります。いつになく緊張感がからだの奥に芽生えていました。ところが、控え室でご挨拶をした瞬間に、よい予感がして成功を確信したのでした。
 
 当日の大まかな進行を、記憶の糸をたどりながら、ここに記しておきたいと思います。
 まず、映像を見ていただいてから、Keynoteをつかって「野口体操の原点」と題しプレゼンをしました。
 その段階から、麿さんとの会話がはじまりました。タイミングを計りながら、部屋の照明を落としたり、明るくしてくれたこともあって、Keynoteのプレゼンと、生の会話を上手く組み合わせることができました。
 
 野口先生の遺影を最後に二人の対話へと進み、こちらが事前に用意した質問に、言葉を選びながら真剣に答えてくださったり、ユーモアを交えて煙に巻いてくださったり、さまざまな顔を素直にみせてくださいました。
 第一部と第二部は、合体しつつ、自然に移っていったような記憶があります。
 
 第三部(アクティブ)
 これは圧巻でした。
 実際に野口体操を学んでいるsayakaとdaisuke 各自に、麿さんが「舞踏」の基本のさわりを直接に指導。受講者として参加しておられた大駱駝艦の艦員を前に呼び寄せ、彼の動きを手本にして、それに習う形での公開レッスンは記憶に残る名場面。
 更に、麿さんご自身が、能のすり足と舞踏のすり足の違いなどもを交えて、いくつかを実践してくださったことは特筆すべきことです。
 
 今回は珍しく持つことができた「Q&Aの時間」に、モデルをつとめたsayakaの質問にも真摯にお答えいただき、最後は野口体操の「立ってゆする動き」と「上体のぶらさげ」を私が音頭をとって、「毎日やってます」と麿さんは上着を脱いで、そこに集った全員が軽くからだを動かして、お開きと相成りました。

「充実した1時間半になったようだわ」(私の内心の声)
 皆さんが、その場を立ち去り難い思いを抱かれていたことが、すでにひしひしと伝わってきました。
 おかげさまで素晴らしい十七回忌の法要を無事に終えることができました。
 
 大駱駝艦のプロデューサー新船洋子さん 艦員の田村一行さん、朝日カルチャーセンターの徳田綾子さん、そして受講してくださったお一人おひとりに、丸ごと全身から感謝を申し上げます。
 
 ありがとうございました。

 最後に、野口体操側のスタッフとして、佐治嘉隆 新井英夫 加藤さやか 富田大介 四名の尽力なしには、この企画の大成功はなかったことを、ここに記すことをお許しください。
 当日の写真をホームページに掲載しました。尚、画素はあえて落としてあります。ご了承ください。
 
  *******配布したレジュメです********


「からだとの対話 野口体操を再考する」 レジュメ

 『セゾン3分CM人物映像ドキュメンタリー 野口三千三編』
  Keynote『写真で見る 野口体操の原点』 
 敗戦前後……東京体育専門学校~ダンス~藝大~サーカス~演劇
   
 1960年代から「野口三千三と野口体操」の出会い 
 * 「舞踏の夜明け前」から「大駱駝艦」「天賦典式」から見た「舞踏」
 * グローバリゼーションとローカリゼーションがせめぎあう時代の「身体」「表現」について等々。
  
 動き「野口体操~ゆり・ふり」から「舞踏への一歩」
 
 野口三千三は1998年(平成10年)3月29日(土)に亡くなりましたが、16年後の祥月命日も土曜日という巡り合わせに、不思議な縁を感じています。同時に十七回忌のメモリアルデーに、麿赤兒氏を朝日カルチャーにお招きできることはとても喜ばしく、ご快諾いただいたことに感謝しています。
 加えて今年は生誕百年の年でもあります。そこで百年という時間の軸のなかで、野口が出会ったさまざまな人、様々な体験や経験が、全て野口体操に絡み合い、どの一つが欠けても「野口体操」にはならなかった、という思いでタイムスケジュール「」のKeynoteをつくってみました。
 講座のはじめに動画や写真と資料で、終戦前後の新宿という街を空間の軸として、ダンス、サーカス、藝大、演劇を通して、「野口体操」と呼ばれる体操になっていく道筋を辿りつつ、「舞踏」へと話を展開させていただきたいと考えています。野口体操に出会い、クールジャパンの一つとなっている「舞踏」を軸に「身体」「表現」について、麿氏にお話を伺います。
    
              野口体操の会   羽鳥 操
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いよいよ今週末『からだとの対話 麿赤兒氏を迎えて』

2014年03月26日 08時20分10秒 | Weblog
 今回の「からだとの対話」の企画がはじまって半年がすぎようとしている。
 いよいよ今週末、3月29日まで残すところ本日をいれて4日となった。
 
 さて、野口三千三先生をお見送りして、早16年。
 十七回忌の今年、16年前と同様な景色に上野・鴬谷は彩られそうだ。
 寒く長い冬、東京も大雪に見舞われた。寒い冬を経た春ほど、桜は美しく咲きほこるらしい。
 野口先生は、30数年通い続けた藝大と博物館の側に眠りたい、と寛永寺に墓地を移された。とはいえお墓は故郷の高崎を向いて建っている。83年の生涯、体操の教師として、その人生を全うされた春は、満開の桜に見守られる。
 終戦間際に上京以来、故郷群馬の地を踏む回数はごく少なかった、と伺ったことがある。
 多くの日本人と同様に、戦争が先生の人生を大きく変えた。
 そのなかで、群馬から職場を移して、大抜擢による東京体育専門学校に籍をおいたことが、その後の半世紀の生き方を決定し、野口体操と呼ばれる独特の体操をつくりあげることにつながった。
 その経緯が、より鮮明な輪郭をもって、今回の「からだとの対話」の準備の段階で気づかせてもらえた。
 今朝の「ごちそうさん」でも取り上げられていたが、GHQのなかに置かれたC・I・E(民間情報教育局)の戦後の文化・教育改革に、占領下にあった日本側渦中の一人として関わったことは、ご自身の意識にはのぼらないところでも非常に大きな影響があっただろう、ことが少しずつ見えてきた。
「終戦間際のことは、時系列もはっきりしないし、ノートも真っ白だった。最初は呆然、しばらくしてからは無我夢中で生きてしまった。気がついたら藝大に通っていたわけ」
 
 今回、没後の16年も含めて、生誕100年の時間軸のなかで、野口体操を改めて見つめ直すキッカケとなった。「からだとの対話」では麿さんを迎えて、1960年代の演劇とのかかわりの一端を伺うことができそうな予感がしている。
 体操が体操だけに終わらず、「ことば」を持った珍しい体操に育ってゆく、ひとつの要因となった筈の演劇界とのかかわり。これからの野口体操の歩む道がなんとなく見えてくるような、これも予感がしている。

 いつもつくっている目安としての「タイムスケジュール」もほぼ固まった。あとは、細部を詰めるだけとなった。
 これまで昨年の夏には演出家の鴻上尚史さん、同じく秋には映画監督の龍村仁さんと「からだとの対話」を行ってきた。毎回、事前のタイムスケジュールは大きく変貌するのだけれど、やはり目安になる時間割はあった方がよいという経験があるのでつくってみた。
 
 お時間がおありの方は、おりしも満開に近い夜桜見物をかねて、新宿までおこしくださいませんか。
 野口三千三十七回忌に、皆様と故人を偲びたいと思っています。
「からだとの対話」は午後6時半から、朝日カルーセンター新宿校にて。
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中央線文化

2014年03月24日 14時22分49秒 | Weblog
 今朝のNHKニュースで、阿佐ヶ谷に“アニメ通り”がつくられる報道がされていた。
 我が家から10分弱くらいだろうか、散歩がてらに訪ねてみた。まだ工事中で中には入ることはできなかった。 それでも阿佐ヶ谷から高円寺方向を覗いてみると、ニュースで流されていたまさにその場所だった。
 選ばれた理由の一つは、杉並、練馬に、漫画家やアニメーターが多く住んでいるということ。
 加えての理由は、高架下という条件である。昼でも暗い空間は映像を作り上げたり見たりするにのふさわしいという。
 関連の学校などもつくられるらしい。
 ニュースでは、実際にモーションキャプチャーなどの実演も紹介もされていた。
 
 そこで、野口体操の映像化だが、ステキな動画で動きを表現したい、と思っている。
 アニメとは違うが、最近見つけた動画をここで紹介したい。
 一つは、aikuchi
 もう一つはMOTION
 イマジネーションを拡張して、非日常も嫌いじゃありません。いや、好きです。
 これはこれとして、まずは4月に開場となる高架下を訪ねてみよう。

 中央線文化に、もう一つ阿佐ヶ谷の高架下アニメ通りが加わる、というお知らせでした。
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謝罪とあいなった「心肺蘇生術の講義用ビデオ」スペイン警察制作

2014年03月22日 20時02分18秒 | Weblog
 本日、朝日カルチャー「野口体操講座」で、つい口走ってしまった。
 土曜日のクラスに参加している或る御仁が、FBでシェアしていた動画についてのことだった。
 スペイン警察がつくったものだそうだ。それが表現がイキすぎていて謝罪となったそうだ。
 しかし、世界中で相当な人数の回覧が行われているようだ。
 この映像を、知らない方々がぜひに、とおっしゃる。
 そこでブログにリンクするお約束をしてしまった私としては、一刻も早く載せることにした。
 18歳未満お断り、ではないと思うが。
 日本でははなからこうした発想は出ないだろう、という代物であります。

 レッスンが終わって、この話題で盛り上がっている男性更衣室から聴こえて来る声は、いつも以上に張りがあった。
 でも絶対に覚えられること間違いなし!
 スペイン警察制作「心肺蘇生術」ビデオ一般向け救急応急措置講義用につくったとか。
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ああ!意味と無意味が入り交じる。狂気の中に理性がある。

2014年03月20日 09時15分06秒 | Weblog
《歌は世につれ、世は歌につれ》
 なんでこんな言葉が出て来たのだろう。
 昨日の暮れ方、吉祥寺駅に向かっている路上でのことだった。

 うぅ~ん、かつて、連日のように音楽会場に足を運び、アングラ演劇の地下にまで繰り出していた。
 中毒のように通い、それらがなければ人生じゃない!と生きていた。

 それが、ピタッと行かなくなった。
 聴かなければ聴かないですむ。観なければ観ないですむ。
 音楽も、演劇も、ダンスも、なくたって一向に困らない。
 大小に関わらず、劇場と名のつく場所に、積極的に行かなくなったのは、いつのことだろう。
 とはいえ、時々は聴きに行ったし、観にも行った。でもそれはかつての聴きかたや観方とは違っていた、と思う。
 私の時間から、劇場時間を失わせた。
 私の空間から、劇場空間を失わせた。
 それは野口体操だった。
 それなのに、野口体操によって『荒野のリア』へと誘われた。
「なになに、シェイクスピア生誕450年」
 構成/演出 川村毅。リアは麿赤兒。
 三幕以後、男の役者ばかり。三人姉妹は追いやられているらしい。
 とはいえ、やっぱりコーディリアは必要でしょ。いったい、誰がやるの?
 そんな気持ちで、恐る恐る出かけて行った。

 シェイクスピアはアクションだった。
 どんな調理の仕方でも、最後はシェイクスピアなのだ。
 独特の悲劇の味は、シェイクスピアだった。
 そして、アフタートークで “この悲劇はハッピーエンドなんじゃないかな” と、佐藤信×川村毅が同感しあう。

 上の姉と次の姉の出し方が魅力的だったし、コーディリアの出現に口パクで歌われたイタリア民謡は、懐かしかった。

 オッと、あんまり書いてしまうと、これからご覧になる知人・友人の楽しみをそぐことになるのでやめておこう、と思う。

 でも、
 450年の時を経て、現代劇として甦らせた川村演出は、憎いねぇ~。
 突きつけられたこと、それは2025年問題、日本人の五人に一人が、男女を問わず ”荒野のリア” になる可能性は高い、ということ。
 孤独に耐えよ。
 家族を捨てよ。逆か、むしろ家族から捨てられる覚悟を持て。
 狂気に晒されながら、狂うまいと葛藤する老人たちの運命はいかに。

 それだから、
 静かに枯れるな。
《世も末なのだ。狂人が盲人の手を引くのだから》
 最後まで、もがいてみよう。
 最後まで、あらがってみよう。
 物わかりのいい、おとなしい年寄りになるばかりが社会のためではない、と。

 それだけではありませんが、齢七十にして生身のコーデリアをお姫様だっこして現れる麿さんに、ブラボー!
 演出は世につれ、世は演出につれ。
「どんなに切り刻まれようと、どんなにいじられようと、それでも俺はシェイクスピアだ!」
 今朝もまだ、そんな科白が、耳に残る・目に残る麿さんの動きと濁声の底から聴こえてくる。

 大変に面白うございました。
 29日にお目にかかれること、楽しみにしております。
 お手やわらかに……。
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彼岸の入りの墓参り~「医は仁術展」での果報

2014年03月18日 13時46分07秒 | Weblog
 春一番が吹くという予報で、午前中に上野寛永寺に野口三千三先生のお墓参りをすませた。
 まだ墓参のひとも少なく、静まり返った墓地だったが、常に変わらぬ静謐さに身がしまる思いがする。

 さて、その足で、東京国立科学博物館で「医は仁術展」を拝観してきた。
 なぜ、拝観なのか。
 お墓参りの果報者として、先生が導いてくださったに違いない。この特別展示の監修者のお一人で、国立科学博物館理工学研究部科学技術史グループ長の鈴木義一氏のギャラリー・トークを伺いながら、展示を観ることが出来たのだ。つまり、この鈴木氏が中心になって出来上がっている特別展であったから、たっぷり1時間半、大学の一コマ授業を受けたと同じ比重があったわけだ。

 第一番目の部屋で五臓六腑の圖を見ていた時だった。真後ろから二人の男性客に説明する声が聞こえて来た。
「なになに、相当に詳しい方らしい」
 はじめは展示品を見ながら聞き耳を立てていた。声が聞こえる距離を保ちながら、相手のペースに合わせて進んでいった。
 そのうちに先方も気づいたらしく、声が次第に大きくなっていった。
「ご一緒させていただけませんか」
 我慢できず話しかけると、嬉しそうにお許しをいただいた。
 それからは堂々と間の手を入れながら、拝観とあいなりました。

 キーワードは「仁」。それが「養生」に通じて、現代の「健康」へとつながっていく道筋が、豊富な資料や図版でよく理解できるのである。
 日本の医療制度として世界に誇れる「皆保険制度」は、江戸期に遡る考え方であった!のだ。
 徳川幕府、各地の藩が行った政策の大本は「仁」であったこと。
 病理等の基礎医学と臨床の関係。
『解体新書』と日本における解剖の歴史。

 次第に話を聞く人が増えて、鈴木氏の動きに合わせてギャラリーは、右へ左へドドッと動く、という有様。皆同様に、はじめて知ることばかりの内容に驚きを隠せない。
 日本の素晴らしさが十分に伝わってくる話を伺うことができたことは、果報者の私だった。
 何度も携帯電話から呼び出しに気をつかいながらも、「これだけは伝えたい」とばかりに、鈴木氏は偉ぶらず気さくに、丁寧な説明を皆にしてくださった。最後の部屋に近づくころには、ガイドのヘッドホーンを耳に当てている人までも巻きこんで大勢の人がぞろぞろとついてまわった。
 
 時間の問題で見ないで帰ってしまったところもあって、もう一度出直そうと思っている。
 ご一緒する方がいらしたら、受け売りも少しはできますわよ!
 
 これは野口先生のお導きに違いない、と思った次第。
 よい半日でありました。
 うぅ~ん、春一番は、さい先いいことが起きそうな予感をもたらしてくれました。
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二重苦のその後

2014年03月17日 14時57分44秒 | Weblog
 三月も半ば過ぎ。
「二重苦」のその後はいかがですか、と聞いてくださる方がいらっしゃるので、報告します。
 
 まず、母のこと。
 本日、ほぼ四ヶ月ぶりに髪を染めた。半世紀以上も同じ資生堂の染剤を使っている。髪を染めることで、しゃんとした気分になってもらうことが目的だった。
 長年つづけてきたことだけに、前と横は自分でも十分にできるようだ。私は準備と片付け、染めにくい所の手伝い、そして洗髪の補助をするだけで上手く出来た。
 特に前屈み姿勢を持続するときに、痛みがこないのかが心配だったが、それは杞憂に過ぎなかった。
 12月20日ごろから、毎月のこと転んでは軽い痛みをぶり返していたが、すでに回復期を迎えたのだろう。
 からだの状態は、以前のようには戻らないが、このくらいで済んでよかった、と思っている。
 これからも大波小波、思いがけないことが起きるとしても、それはその時に対処するしかなさそうだ、と覚悟をしている。 
 
 次なる問題は入浴なのだ。
 湯船の底に沈める滑り止めのマットと足を乗せる台は用意した。しばらく前にたった一回だが、入浴練習をしてみた。家を改築した時に、三カ所に手すりをつけることを進めてくれた知人がいて、その言葉に従っておいたことで大いに助けられた。それでも危ないのは、浴室から脱衣所に出て来る時だいうことが、その時点でわかったことだった。
 さて、下世話な話。
 マットは全額自費だが、足台は1割負担で購入できる。この一割負担というのは、なんだか狐につままれたような値段で購入できた。一ヶ月後くらいに、9割分が彼女の銀行口座に、区から振り込まれるのだそうだ。介護保険料は天引きで納めているのだから、当然と言えば当然なのだが、ありがたい感じがしている。
 実は、マットも台も、製品の質と値段を天秤にかけてみると、ちょっと高すぎる様な気がするのはうがった見方なのだろうか、と思わなくもない。

 さて、もう一つの苦。相変わらず隣家からからだに感じる振動はなくならない。静かな日もあるが、殆ど連日振動を感じている。何人かの方に、からだがチューニングしてしまうのではないか、と指摘をうけた。たしかに思い起こしてみると、からだの奥に伝わる振動に、じっと聞き耳をたてるようにしてチューニングしている。
 そこで就寝時に、耳栓をしてみたり、iPhoneで小さい音量で音楽を聞く。と言ったいくつかの方法を試してみた。ところがどれも上手くいかない。耳栓は睡眠の途中で邪魔になって目が覚める。音楽はどんなに小さい音であっても、聞き続けて寝付いた翌朝には疲れが残っている。

 そこで最後の手段として、眠りにつく姿勢の工夫と腹式呼吸をすることだった。
 工夫といってもたいしたことではない。ただ仰向け姿勢をとって、足は膝から立てた状態で足の裏をソフト電気あんかに乗せる、ということ。
 次に両手の平を腹にそっと当てて、腹式呼吸を行う。呼吸からうまれるリズムの揺れを、からだ全体に拡散させる。すると最初のうちは外からの振動も感じられるのだが、からだの内側の振動と共振する様な、むしろ溶け込む様な、そんな在り方に変化してくる。それまで呼吸の回数を数え続ける。
「いっかーい、にかーい、さんかーい、……」
 ゆっくり、そして、長ーく息を吐く。その後、からだ全体、からだの隅々のまで、新鮮な酸素が行き渡るような感じで息を吸い込む。
 いつしか10回も数えないうちに、眠りにつけるようになった。
 はじめのうちは、かなり強引に呼吸を続けて、眠りに押し込んでいる自覚がある。
 それでも目覚めは悪くない。一ヶ月近く続けているだろうか。
 いつかからだの変調が現れるかどうか。それはわからない。
 ただ、都会からモーターの回転音とその振動を止めることは出来ない。そう考えると強引な腹式呼吸で、眠りにつけるのなら、それはそいれでいいのかもしれない、と諦めに近い感覚にからだを落とし込んだ。

「その後、いかが?」
 隣の奥さんにも聞かれた。
「振動は感じるんですけどー……」
 ここに書いた話をかいつまんで聞いてもらった。
「あらぁ~、睡眠導入剤、お薬は使わないで、寝てらっしゃるのね!」
 彼女は薬なしでは眠れないのだそうだ。
 いやいやいやッ、多くの方が睡眠導入剤の助けを借りているのだ、とその会話ではじめて気づいた。
 実は、“薬を飲む“、という選択肢ははじめからなかった。
 
 どこまで上手くいくかわからないですが、しばらくはこれでやってみたい、と思っているところです。
 以上、ご報告。
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思いがけずにたどり着いた野口体操の源流?

2014年03月16日 09時07分54秒 | Weblog
 しばらくブログにはご無沙汰していた。この間、いろいろなことがあった。
 いちばんの収穫は、戦争末期につくられた東京體育専門学校を中心に、『アーカイブス野口体操』を上梓した当時よりもわかってきたことが増えたことだった。

 昭和20年の終戦から7年間、GHQ(連合国最高司令部総司令部)による統治によって、それまでの日本が大きな改革の嵐のただ中に投げ入れられた。
 教育もその言にもれず。
 この根こそぎ改革の歴史に、野口体操の源流を発見できたことは、天地がひっくり変える様な驚きであった。

 GHQは、戦争犯罪人の逮捕、公職追放、非軍事化、民主化、その他いくつもの改革を行った。
 教育改革に関して言えば、体育指導者もまた「アメリカゼーション」を行ったといえる。
 戦前の『皇国民錬成のための軍国主義体育』から『民主的人間形成を目指す民主体育』へ。
 つまり、「新体育」への転換を行ったということだった。
 この問題を研究している論文だが、時間があるときにご一読をすすめます。
『戦後初期の学校体育改革について:「学校体育指導要綱」の成立過程を中心として』坂入明 「一橋大学機関リポジトリ」1979ー12-01

 この論文をきっかけにして、日本體育指導者連盟機關誌『新体育』昭和23年2月号も手に入れることができて、3月8日、15日両土曜日の朝日カルチャーセンター「野口体操講座」で紹介した。
 詳しいことは近いうちにブックレットとしてまとめたいと思っている。
 
 今、ここで、一つ言えることは、1947年4月から、六三制による学校教育実施に合わせて、猛スピードで体育の指導要綱もまとめられていく。
 そして1949年4月からの新制大学制度のなかでは、体育が正課の教科として講座をもうけるために、CIE(民間情報教育局)の監督のもと、大谷武一を委員長として55名の委員が選出され、新しい「学校体育指導要綱」が形つくられていく。
 この時期、野口三千三は、いちばん近い所で、というよりも委員ではなかったかもしれない(名簿はまだ手にはいっていない)が、渦中にあったことがよりはっきりしてきた。
『アーカイブス野口体操』春秋社では書かれていないことで、新しくわかってきた事実も踏まえて考えが深まった2週間であった。
 
 多少、遠慮がちに書かせてもらえば、野口体操の源流といえる「源」にたどり着いたのかもしれない、と予感している。
「一年の始まりは正月ではなく、8月15日」として、祈りを捧げていた野口の複雑な心境のほんの一部を垣間みている今、「體育」から「体育」への道筋。體→体→カラダ→「からだ」という表記の意味するところを察することができるようになってきた。
『原初生命体としての人間』で、すでに「體」でもなく「体」でもなく、「カラダ」でもなく、「からだ」と表記している野口の深い思いにぴったり寄り添うことができない。が、戦争を知らない世代としての宿命であると覚悟して、野口体操のアーカイブズの領域を、もっと大切にしていきたいと思っている。
 
 3月29日まで、あと13日。
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現在の「渋谷区スポーツセンター」は?

2014年03月04日 18時45分58秒 | Weblog
 京王線幡ヶ谷駅を降りて、西原商店街を進み、遊歩道を左折、まっすぐ100メートルほど歩くと右手に渋谷区スポーツセンターがある。閑静な住宅街の一角に位置している。
 体操場、武道場、卓球場、プール、テニスコート、グランド、フットサルコート、等々、殆どのスポーツや体操ができる施設である。

 ここはかつて東京教育大学体育学部があったところ。
 遡れば、第二世界大戦末期につくられた「体専」の名で呼ばれた、官立の東京体育専門学校であった。

 本日、野口三千三先生が昭和18年に助教授として赴任した、この地を訪ねることができた。
 Web上で東京教育大学体育学部の写真を探し出すことができて、現在は渋谷区のスポーツ施設になっていることを突き止めたからだった。
 大きなグランドがあり、広大な敷地であったことが想像できる。おそらく想像だが、隣接する高齢者施設までが敷地内であった気配である。

 お腹が減って力が入らない体でありながら、野口先生は校舎の屋上に仁王立ちになって空を仰ぎ、負ける日本に無念を感じたというその場に立つことができた。
 空襲にあった新宿の街が、炎に包まれるのを見ていたという。
 目の前に西新宿の高層ビルがはっきりと見て取れる場所である。

 私は、建物から出てグランドに立った。
 思わず、深呼吸をした。冷たい空気が肺に侵入する。
 先生は少なくとも4年~5年の間、ここの場所で過ごされたのだ。そう思うと何とも言葉にならない感慨が押し寄せる。
 しばらくその場で佇んでいた。
「いっそ、新宿まで歩いてみよう」
 昭和30年代には、幡ヶ谷にも初台にも友だちや知り合いが暮らしていて、西参道を通り越して歩いて来たものだった。かつて川が流れていて蛍狩りなどして遊んだ所は、今では遊歩道になってしまっている。
 
 広々した渋谷区スポーツセンターを右に見て、しばらくしてから住宅街を左折すると甲州街道に出た。
 街道を一気に新宿に向けて歩く出す。
 代々木警察を通り越すと初台である。オペラシティーから真っ直ぐ歩き、「新宿区」の表示を見てから左折する。都庁の巨大な建物を正面にみながら歩き続けると、新宿中央公園の入り口に達する。
 ついでに住友ビルに寄って「東京の水道の歴史」がわかるプレートを読み、巨大な水道管を眺めて、朝日カルチャーセンターに立ち寄ってみた。
 つまりここは、淀橋浄水場の跡地に建てられた高層ビル群の一棟なのである。

 ざっと30分くらいだろうか。
 幡ヶ谷から新宿まで、戦争末期から敗戦後に野口先生も歩いただろう道を辿りながら、私は、焼け野は原に立って、“大地と自分が一体に感じられた”という『原初生命体としての人間』岩波同時代ライブラリー「インタビュー」冒頭で語られた言葉を反芻していた。
 終戦は群馬の前橋で知ったという。そこから食料を背負って、幡ヶ谷までどのようにしてたどり着いたのか、まったく記憶が抜けていると伺った。

 街の様相は変貌を遂げた。しかし、道はどんな細い道であっても、殆ど変わらないだろう。
 朝の「ごちそうさん」のお蔭で、野口体操の原点を辿りたい気持ちが高まったことに苦笑しながら、或る種の後悔の念を抱いていた。
 こんな近くにあって、両親が生まれ育った街であり、私自身も母と同じお産婆さんに取り上げてもらった街なのだ。
「なぜ、今日まで、幡ヶ谷を訪ね、新宿まで歩かなかったのだろう」と。
 不思議な気持ちに絡めとられた。
 2014年3月4日午後は、「野口体操の原点」に立った記念日となった。
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