羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

ライン・ダンス

2006年09月30日 20時00分05秒 | Weblog
 パソコンが立ち上がってくる時間に、卓上カレンダーを10月に変えた。
 あっという間に9月が終わった。
「秋の日はつるべ落とし」とは、よく言ったもので、日が暮れるのが早くなった。
 夏の盛りは暑さのせいか、時間の経過がゆっくりのように感じられる。
 これから年末に向かって、時の流れのスピードは、一気に加速する。

 さて、今日で、土曜日の夏のクラスは終わった。
 「うごき」に時間をたっぷりとって、「ヨガの逆立ち」「手の逆立ち」までたどり着けた。
 計画には入っていなかったが、「ムーラン・ルージュ」や「コーラス・ライン」などで披露される「ライン・ダンス」を、二手に分かれて楽しんでみた。
 何年ぶりだろう。
 
 野口三千三先生もお好きなダンスだった。いろんなことを教えてくれる。
 後ろで手をつないで、それが全体としてバランス取る支えになっている。支えといっても動きにつれて上下したり左右に伸び縮みしたりで、固定されつつお互いの動きを邪魔しない手つなぎの呼吸が面白い。

 上下動というのは、程度ものだが元気を与えてくれる。活気がでるのだ。
 そのあと床にからだを預けて、じっくりほぐすと、「からだのほぐれ度」は、かなりものである。

 今日は、運動量がかなり多めだったとおもう。
 野口体操は、力を抜く体操ではあるが、本気で丁寧に味わいながら、すべてをこなすと相当な運動になっているはずだ。
「一見何をしているのかわからない。くねくねにょろにょろしているように見えのですが」
 そういった印象をもたれる方がおおい。ところがどっこい! かなりの運動をすることになる。

 ダンス系のものは、最近、やらなくなっている傾向を持ってしまった。
 今日は、思い切って「ライン・ダンス」を、手拍子をもらってダンスした。
 和気藹々。
 そろそろ30年近い年月の間続いた「土曜日クラス」。
 技術的にもレベルが上がってきたことを最近頓に感じている。
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健全なる快感を求めて……野口流・逆立ちの世界

2006年09月29日 09時45分27秒 | Weblog
 野口体操のレッスンで、皆の気持ちがイキイキしてくるものに「逆立ち」がある。
 なぜ、人は逆さまに立つことに、それほど興味を持つのだろう、と以前考えたことがある。
 私自身が「逆立ちなんて」と拒否反応をずっともっていたにもかかわらず、出来たらいいな~と正直なところ感じていた。

 子供時から出来たことがない人が、からだが逆さまになれたときに受ける感動は、年齢は問わずに訪れる。これは体験したものでないとわからない世界だ。

「怪我をするかもしれない」
「さかさまに落ちたら怖い」
 逆立ちが出来たときには、無意識にはたらく心理的というより「からだが感じる本能的な怖さ」を乗り越えることから来る新たな自信のようなものが得られそう、或いは、純粋に楽しいに違いないということまで、その喜びの予想の幅は広そうだ。

 からだの柔らかさ・ほどよい筋力・バランス感覚の良し悪し等々が、心の動きと連動してひとつのまとまりを得た瞬間にさかさまになれる。

 話はズレるが、野口三千三先生没後に、取材を受けながら、面白いと感じたことがある。
 それは、女性誌・一般誌・マニアックな月刊誌……、取材媒体はいろいろだが、そこにはあるひとつの傾向が見られる。
 たとえば、女性誌では「逆立ち」は避ける。「そこまでやるの?」という印象を与えないためであったり、雑誌を見て試した結果に怪我をされてクレームがきたら困るとか、理由はいろいろらしい。
 その点、読者が男性中心でマニアックな雑誌は、恐れることなく「逆立ち」を入れる。
 一般誌の場合は、半々くらいだろうか。
 いずれにしても女性を対象にしたものは、やさしさ(優・易・安)を表に出す。一方で、男性を対象にしたものは、アクティブである傾向が歴然として存在する。

 しかし、野口体操の「逆立ち」、いやいや野口体操の動き全般に言えることは、男女差というのは関係がなさそうだ。確かに「逆立ち歩き」とか「鰐腕立て」などの例外はあるけれど。
 こと「逆立ち」に関しては、余分な力が抜けて、地球の中心・鉛直方向にからだの長軸を一致させる逆立ちは、案外女性の方がつかみやすい傾向もある。
 男性は逆立ちにはなれるのだが、力を入れて頑張って立つからだの学習が邪魔をする傾向も見られる。

 つまり「逆立ち」の練習というのは、多くのストレスを抱えている人が、ある場所に集って、他者といい関係を見つけながら、日常を忘れる時間を持つという意味からも大事なことかもしれない。野口体操が、効果目的は言わないとしても、このくらいは許されるだろう。
 
 いずれにしても、からだを動かすことから得られる快感は、あえて二元論的に言わせていただけば、心にとってのなによりのご馳走だ。
 健全なる精神は、身体に宿る健全なる快感から生まれる!
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念の一字

2006年09月28日 19時35分35秒 | Weblog
 東京藝術大学の定年は、国立大学の中でいちばん遅い。
 67歳をもって退官することになる。
 野口三千三先生は、昭和24年・35歳で着任して32年間、勤め上げた。
 そして83歳でなくなるまで、野口体操の指導一筋にいきておられた。

 これは大変なことだとおもう。
 大学生というのは、18・9歳から20代前半、藝大の場合は浪人して入学する学生もいるので、一般大学よりも年齢が高い学生もいたりする。
 それにしても60代になれば孫の世代である。
 血気盛んな若者を相手に、自ら動き話をしながら授業を行うのは、相当なエネルギーを必要とする。気力だけではどうにもならないものがある。

 このようなことを感じるのは、大学の授業を終わって、帰途に着いたときだ。
 駅の階段を昇り、電車に乗ったとき、つくづくおもう。

 2コマ続きの授業など、どうしても後のコマのほうが、滑らかに授業が進む。
 無意識のうちに前のクラスで違和感があったり、うまく伝わらなかったり、話の流れが今ひとつだったりすることを、敏感に感じ取るらしい。そこで、2コマ目には、そうしようと意識的に行わなくても、自然に軌道修正をしていることに気づく。

 5年間大学の授業を行ってきて、毎年、新しい感じがする。慣れることはある。しかし、野口体操を伝える行為は、マンネリズムに陥ることはないようだ。人から人に伝えていく行為というものは、百人の人に出会えば、百の新しい出会いがある。その出会いによって、新しい伝え方の軌跡がそのつど生まれてくる。同じ授業というのは、まったくありえないところが、面白い。
 これは大学の授業だけではない。年齢もさまざま職業もさまざまな集まりであっても、同じことを経験する。
 その意味では、毎回、一期一会なのである。

 野口三千三先生の晩年は、レッスンすることを楽しまれておられた。全身全霊を傾けて、授業・レッスンに望まれた。
 私は、今、57歳。まだまだ先は長い。サステナブルとは、私自身の問題である。野口体操を伝えるのに、持続可能な期間の命がどこまで可能だろうか。時々、そんなことを電車の中でおもう。

 授業が終わると、ずっしりとからだの重さを感じたりする。充実感がある。反省もある。すると「来週は、○○しよう!」と、次の授業のイメージが浮かんでくる。

「羽鳥さんの後継者は?」
 その条件は、ありすぎて困る。
 とにかく10本の指では、間に合わないかもしれない。
 ある方に話をした。
「胃も痛くなってもしかたないですね。でもまだ57歳でしょ。あせらなくても……」
 またある方は言う。
「一日にして指導者になれるわけではないし、10年~20年の歳月はいるのだから、はやいところ出てきてくれないと」

 こればかりは強引に誰かを連れてくるわけにはいかないなぁ~。
 そうそう、柏樹社が潰れて、野口体操関係の本が巷から一切消えてしまったとき、ひたすらに祈った。
 するとどうでしょう。
「春秋社から、本を出しませんか」
 メールが入ったのだ。おかげさまで現在、春秋社から著書がそろって出版されている。

「念ずれば花ひらく」ことを信じて、念ずることに決めた。
 しばらくは「念」の一字を懐に入れて授業に臨んでいる。
 こうして、若い方と過ごす授業が始まったら、あれほど不調だった胃は、すっかりよくなった。
 今日も、若さに元気をいただいて帰宅した。
 
 ご心配をかけました。
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JR東海の素敵なサービスと野口体操講座受講

2006年09月27日 16時25分26秒 | Weblog
 朝日カルチャー日曜日の「野口体操講座」は、月に二回の隔週のクラスだ。
 実は、日曜日クラスに限らず、ほかのクラスも、関東近県から参加される方が多いのだ。
 それが、今期の日曜クラスには、奈良から参加された方がいらした。
 前回が最後で、はじめて事情を伺って驚かされたことがあった。
 
 彼女は、脳梗塞で倒れたお父上を15年間介護し、今年、看取られたという。
 残された母上は、軽い認知症がはじまって呆け症状があるらしい。
 しかし、彼女は、隔週の日曜日に、母上が留守番されているそばに、介護の方を頼んで上京されていた。
「このクラスに参加するのは、15年間、父を大切に介護した自分へのご褒美なんです」

 月に二回のレッスンを、3ヶ月間、一度も休まずに通われた。
「交通費の方が、受講料よりもかかりそうですね」
 下世話な質問をしてしまった。
「それが、JR東海に素敵なサービスがあるんです」
「エッ」
 早朝の新幹線で東京・大阪間の往復+昼食付特別料金コースを利用しておられるとか。
 で、この昼食は帝国ホテルか六本木ヒルズで食べるのだそうだ。
「今日は、築地直送のお寿司だったの。3000円くらいはするのではないかとおもったんですよ。美味し~」
「へー、それはすごい!」
 彼女の話が終わらないうちに、周りにいた皆が、一斉に驚きの声をあげた。
 このときの目の輝きといったらなかった。

 ヨガのインストラクターをしておられるという女性は、楽しみと勉強をかねて上京することで、「息抜き以上・勉強未満」のすごい休日を過ごされていたのだ。
「あなたの今の状況では、海外旅行は無理なのよね、二週間に一度なら、まぁ、いいわ」
 同年輩の女性が、ため息混じりにもらした。
「この講座で、楽しく授業のあり方を学ばせていただきました」
 その言葉を聞いて、正直ほっとした。だって、それほどの熱意に見合っただけのレッスンをしているのかと、思わず自分に問いかけてしまったのだから。

 今週、土曜日のクラスが終わると、7月期の朝日カルチャーの講座は終了して、10月期が始まる。
 翌日の日曜日は、神無月朔日。きりのいい日からのスタートだ。
 そういえば以前は、長野・新潟からの方もいらした。
 今度は、どのくらい遠方からいらっしゃるのか。
 楽しみでもあり、畏れ多くもあり、指導者としての力量とレッスンに望む姿勢が問われる“実りの秋”が、いよいよはじまる。
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それにしても国語の授業?

2006年09月26日 19時11分06秒 | Weblog
 朝日カルチャーセンター・火曜日講座は、梅雨明け前から始まった。
 3ヶ月は長かったともいえるし、あっという間だったような気もしている。
 ひとつの試みとして『原初生命体としての人間』三笠書房版の第三章―息と「生き」の中から、“生き方と息方”を中心に、呼吸の問題を扱った。
 なにやら国語の授業のような錯覚にとらわれる準備をしていった。
 各自が足元に本を置いて、体操したり、読書をしたり、そういったあり方も可能なのだということを教えられた貴重な一夏だった。

 野口三千三先生の「もの・こと」の解釈、「原初生命体感覚」といったキーワードが、この章でもしっかり押させておく必要があった。結局は、他の章も読み合わせることもあったりして、私自身が新しくこの『原初生命体としての人間』を読むことが出来た実感が得られた。

 高校生のころ、現代国語の先生に言われたことがある。
「ひとつの本を、10代・20代・30代・……50・60代になっても、読み返すことをすすめます。読み方は年齢とともに深くなりますから。そうならないようなら、あなたの生き方にどこか欠けているものがあるとおもった方がいいです」

 なるほど野口体操をはじめて、しばらくしてからこの本を読んだのだが、今回はまったく読みが変化していた。理解できなかったところがわかるようになっているとか、気づかなかった細かい表現の意味とか、時間の経過のなかで体験し経験したことによって、はじめて新たな読みが可能になることを知ることができた。

 火曜日のクラスは、はじめて野口体操を経験される方が多かったこともあって、レクチャーと実践を通したレッスンを受け入れてくださるいいクラスだった。
 ときにはレクチャーが長くなって、ほとんど動くことが少なくなった日もあったことを記憶している。

 そして今日は、7月期最後のレッスンが無事に終わった。
 視覚的・聴覚的・触覚的に「重さ」を実感することをテーマに、動きを中心にレッスンをまとめたつもりだ。
 皆さんの動きを見ていると、本を読む過程で遠回りししすぎたかなという思いが、きれいに払拭された。つまり、動きの質そのものが、いい方向に変化してくださっていたからだ。

 からだの動きと言葉をフィードバックさせながら、野口体操を学ぶ(この言葉がぴったりのクラスだったのだが)ことの意味をしっかり実感させていただいた。

 「もの・ことば・うごき」の微妙な関係のなかで、自分のからだと向き合う意味をそれぞれの方が、それぞれに実感していただけた3ヶ月のようだった。
 ある年齢になって新しくからだの動きを身につけるには、それまでの身体についた何某かの「価値観」をまず払拭する必要がある。そこで生まれ変わった真っ白な身体という名のキャンバスに、新しい動きを描き出すには、言葉がもつ力が非常に大きな意味を持つ。

 ひとつ難しい問題を提示させていただく。
 それは、野口体操の前に何か身体技法を体験している場合だ。
 真っ白なキャンバスといっても、すべてを短時間でぬぐうことはできない。時間は必要だ。
 そして野口体操を教えようとすると、ほかの身体系のものと混ざり合ってしまうことがある。
 この問題は一生ついて回る問題だという認識を持つことだけでも、教え方に変化が出るものと期待したい。その逆の場合ものある。

「野口三千三にもっと早く出会いたかった」
 この言葉は、野口三千三先生、自らが発した言葉だ。
 マッチョなからだ、人並みはずれた運動能力、そして運動の原理をつかむ直観力、加えて他者に伝える論理的言語能力、ユーモア、理屈だけでおさない思考の柔軟性、動きを実際のからだに覚えさせる練習の工夫等々。すべてを身につけていらっしゃった野口三千三先生にして「もっとはやく出会いたかった」という嘆息をつかれていた。ある年齢になってから革める「からだの問題」の難しさを感じている。
 
 それにしても国語の授業かとおもいたくなるレッスンのあり方も、なかなかにいいものだ、とおもうのは私だけなのだろうか?
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ゴングは鳴った!

2006年09月25日 19時25分24秒 | Weblog
 もうひとつの大学の秋学期が始まった。
 これで、後期授業が二箇所で開講したことになる。
 
 今日は、久しぶりに東海道線にのって、茅ヶ崎まで出かけた。
 薄曇りのなか富士山の雄姿は拝めなかったが、のどかな湘南の雰囲気を味わってきた。
 大学は、茅ヶ崎駅からバスに揺られて20分ほどで到着する。下車すると空気がまるで違う。
 しばし佇んで、胸いっぱいに吸い込む。
 いい匂いだ。
 樹木の間をぬってくる空気の味は、東京の雑踏から行く身にとっては、なによりのご馳走である。

 この大学の校舎は、中世ヨーロッパの修道院を模したといわれるだけに、レンガに瓦屋根が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 樹木の中、何棟かの建物群が、見える瞬間がいいのだ。

 これから来年の1月まで、30名の学生と野口体操を中心に、すごすことになる。
 一回目の授業を終わって、ほっとしたところだが、実に真摯なまなざしで話を聞いてくれるのが印象的だった。

 これから約四ヶ月間、二つの大学の授業で、どこまで野口体操が伝えられるのか、自分自身への真剣勝負のゴングは鳴った。
 若さのエネルギーは、やっぱりいい!
 元気をもらいます。
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希望的観測

2006年09月24日 16時29分35秒 | Weblog
 このブログは文章だけで通してみようとおもってはじめた。
 その最初の思いは、貫いているのだが、携帯で写真を撮ってみると、載せたくなってくる。しかし、ここは、ぐっと我慢して、文章で通すことにした。

 自分の目の向く方向も、自分自身の方向もスイッチひとつで自由自在。
 かたくなに携帯はもたないと宣言して、実行していた間に、ここまで進むなんて!
 テレビ電話もムービーもできる携帯を買ってしまった。
 文字は大きく使いやすいし、万歩計までついている。さすがにこれは使わないが。

 こうなると体操の動きをムービーで撮って、誰かに転送するのも時間の問題かともおもっている。
 はまりそうだ。
 早速、撮った写真を待ち受け画面に貼り付けて、ご満悦な自分に苦笑している。 この調子でいくと、待ち受け画面を年がら年中変えてしまいそうだ。

 まだ、デジカメは持っていない。
 しばらく携帯で遊んでから、とおもっている。

 インターネットといい、携帯といい、便利に使ってしまうと、手放せなくなるという話がよくわかった。
 はじめてのところに出かけるとき、インターネットで交通機関の乗り継ぎや時間・料金、その近辺の地図を見て、目星をつけることは、かなり以前からやっていた。手元においてあった「地下鉄路線図」「地下鉄降り口地図」「東京近郊地図」「関東一円地図」「全国地図」「都内別の詳細地図」等々を、本棚の奥にしまいこんで何年になるだろう。

 こうして暮らしが変わっていく。社会が変わっていく。
 ものすごいスピードで。

 これからは、便利な道具で簡単に得られる知識よりも、時間をかけて磨かれた「本物の智慧」が光る時代になるだろうなぁ。あくまでも希望的観測であります!
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秋分の日……且坐喫茶

2006年09月23日 19時58分04秒 | Weblog
 秋分の日の今日、大切な客人が3名、来宅。
 久しぶりに玄関に大振りの花を飾った。
 すすきに紫式部に女郎花に吾木香、そして名前を聞いたものの失念してしまったもの。
 前衛芸術を思わせる時代物の木(ボク)の中に活けこんだ。
 こんなとき花活けのディレクターは、81歳になる母である。
 彼女の発想の自由さには驚かされるのだが、「古流」の基本が入っていて、生まれる自由さだった。
 野趣あふれる活花が、まず、客人を迎えた。

 二階座敷の床の間には、先日、思いがけず手に入った軸物をかけた。
「且坐喫茶」音読すればシャザキッサ、訓読すれば「且(しばらく)坐して茶を喫せよ」という意味の掛け軸である。修行者の勇み足や気負いをいなしたり、たしなめることば。相手の緊張を和らげる意図で用いられるそうだ。肩肘張らずに、ありのままでいることの大切さに気づかせ、日常的な意味で、急いた心を落ち着かせ一息いれることを勧めることばとして受け取ってもよいといわれている。

 この書に出会った瞬間、「これだ」とおもった。
 書体が好きだった。
 意味をあとから知った。これは自分のために手元に置く意味があるとおもった。
 今日は、この軸を選らんだ。

 秋の日の午後、気心の知れた客人とともに過ごす時間は、いつもの日常とは異なってなかなかいいものだ。
 冷房も暖房もいらない気温と、さらりとした湿度、秋の日差しは澄んでいた。
 ゆったりとリラックスしながらも実のある話が弾んだ。

 あぁ、今日は、いい一日だった。
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おいしい飲みもの?!

2006年09月22日 21時01分43秒 | Weblog
 先週末から胃の具合が悪く、今週に入っても不快感が取れなかった。
 そこでお粥に梅干に味噌汁を食する日が多かった。
 レッスンや授業、自宅で原稿を書いたり体操をしたり、つまり何かをしているときには、不快感はまったくなかった。

 ところが、あるとき「癌かもしれない」と、おもってしまった。もう、いけない。
 癌といっても、すぐ命が途絶えるわけではない。しかし、ことによると入院・手術などという自体が発生しないとも限らない。一瞬のうちに、あのことはこうして、このことはああして、とっさに考えを巡らせた。

 その後、身辺整理を本気で考えてみた。
 布団に身を横たえて、天井を見つめながら、しばらく時間が過ぎた。
 不思議と、執着心が消えてしまった。
 ひとつだけ選ぶとすれば、何か、ということがはっきりと見えた。
 残された時間で、私がしたいことはこれだ! と。
 ブログに書かないで、今はまだ胸のうちに秘めておきたいことだった。

 そして、今日、近くの医院で胃のレントゲンを撮ってもらった。先生は、内科の看板を掲げているが、専門は胃腸科だった。
 何十年ぶりかに、バリウムを飲んだ。
 正面で立ったまま、少し左右に振って立ったまま、寄りかかっている板がグワーっと音を立てて、水平に位置を変える。ベッド状態になったところで、何回かくるくる回って、うつぶせになる。そこでまっすぐの状態と、左右に少し振った状態で撮影をする。それから普通に足で立つ状態に戻って孫の手の大きなものがお腹を押し付ける状態で数枚の撮影を行って終了。全工程20分程度だった。

「異常はありませんね」
 朴訥とした医者は、診察室に戻りながら、ひとことそういった。
「血液検査の結果は、来週には出揃います。今、手元にきているものは、問題ありません」

 あの数日間はなんだったのか、声に出さずに自問していた。
「何か、悩みでもあったのですか」
「。。。。。。。。。。。。。。。」

 ということで一件落着。
 
 さて、ドロッとした真っ白い液体・バリウムには、粘土鉱物が使われていると、初夏に知った。それだけで飲み心地が変わった。

「本日は、美味しゅうございました?!」
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トイレと金木犀

2006年09月21日 20時06分19秒 | Weblog
 今日から後期の授業が始まった。
 2コマを終えて、4時30分すぎに、トレーニングルームのある建物を後にした。
 前の道をまっすぐ道路まで出ずに、右に曲がる。“すずかけの小径”を通り抜けようとしたとき、忘れ物をしたのではないかと思い、右手にある古い木造の洋館建ての前庭に立ち止まった。そこにちょうどいい形の四角い石を見つけたからだった。
 その上にリュックを乗せ、ファスナーを開けた。
「入っている」
 胸をなでおろす。
 
「行きはよいよい・帰りは怖い」
 家を出るときには、ちゃんと収まっていたのに、帰るときには荷物はリュックからはみ出しそうになるくらいだ。びっしり詰め込まれている。同じ分量のもののはずなのに、ぎゅっと力を入れて押さえつけていないと、ファスナーは閉まってくれない。
 注意深く・丁寧に、閉める作業を始めたそのとき、いい匂いが鼻の先に漂い、次の瞬間には鼻腔の奥に達した。しばらく手を止めて、匂いを味わった。

 目を上げるとかなり成長した一本の庭木が視覚に飛び込んできた。
 赤黄色い花が、咲いている。
「金木犀だ!」
 この匂いをある子供が「トイレの匂い」だといった。おそらく芳香剤に金木犀に近い匂いを使ったのだろう。なんとなく寂しい。人工的な香料の匂いが、はじめに記憶の穴に入ってしまうとは。できれば自然の匂いを楽しんでほしいのよね。
 
 確かに金木犀の匂いは強い。それ故、好き嫌いが激しいらしい。しかし、これほど秋を感じさせてくれる樹木はないとおもっている。かなり離れたところからも、風に乗って匂いが運ばれる。永井荷風『断腸亭日乗』にも、秋の匂いとして金木犀について記述がある。

 匂いの記憶をお土産に、いい気分で校内を後にした。
 長い地下道を抜けて、一気に階段を昇った。
 ちょうどそのときホームに滑り込んできた山手線の電車に乗り込んだ。
 ささっと見回すと、3人がけの席の真ん中が空いていた。
 左隣には、ベビーカーに男の赤ちゃんを乗せたお母さんが腰掛けていた。 
 右隣には、中高年のサラリーマン風の男性。彼は一心不乱に本を読んでいる。
 
 何が彼を夢中にさせるのかと、好奇心から覗き込むと
「トイレ掃除をしていた芸能人」
 小見出しがあり、芸能人の名前が10名ちかく載っている。
 その本は、トイレ掃除にまつわる話らしい。
 人が嫌がる仕事を、黙々とこなすことができることが成功の秘訣らしい。
 なにより「トイレ掃除」は、運がつくらしいですよ!

 そこでも金木犀の匂いのことを思い出した。
 この匂いがトイレの匂いというのでは、やっぱり問題。
 トイレの芳香剤は、いったいどんな匂いがいいのかな~と、新宿駅までの間、電車に揺られながら、知っている匂いを鼻の記憶の中から取り出して、あれこれこれ選んでしまった。
 
 我が家では、昔からトイレに芳香剤は使っていない。窓を開けて風を呼び込むことができるからだ。こうして換気ができるトイレはありがたい。換気は「換気扇」もいいが、小さい窓でも自然の風が通るのがいい。しかし、最近の建物では、それが難しいことが多い。
 それに昔はトイレの窓から外を見ると、「やつで」と「南天」が周辺に植えられて、目隠しになっていた。それらの木々の葉の間を抜けて入る風は、気持ちよかった。
 それもこれも懐かしい風景と記憶になってしまった。

 トイレの掃除は、やるべし! 
 隣の男性は、その本をずっと読み続けていた。
 果たして彼は、自宅のトイレ掃除をするのかなぁ~?
「おっと、新宿だ」
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鬼が笑う?

2006年09月20日 14時16分11秒 | Weblog
 来年のことを言うと「鬼が笑う」そうですが、ほっかほっかの情報をひとつ。
 
 先日来、朝日カルチャーセンターで、龍村ヨガの龍村修氏をお呼びして、野口体操における「沖ヨガの影響」を探る企画をすすめている。
 3月31日の五週目の土曜日、丁度、早蕨忌の時期にあたっている。

 先日のブログでも書いたが龍村修氏の「ヨガの呼吸法」のDVDを拝見し、火曜日のクラスでお目にかけながら、いつかは龍村修氏にお目にかかりたいとおもっていた。

 今朝、快諾してくださったとの連絡を、カルチャーセンターからいただいた。
 まだ、具体的には見えていないが、対談というよりも、インタビューに近いことになるのだろうか? 
 近日中に、私の方からも、ご連絡を差し上げたいとおもっている。

 これほど、すんなりと企画が始まるなんて、「機が熟する時」というものはあるのだなぁ~、と感慨深いものがある。

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たかが逆立ち・されど逆立ち 2 片手逆立ち

2006年09月19日 18時55分04秒 | Weblog
 野口三千三先生が、「逆立ちは反らないでまっすぐに立つことが基本」と、主張して半世紀。
 なかなか受け入れられなかった。
 首をもたげ、からだ全体は反る形が倒立というわけだ。
「逆立ちで歩くときには、バランスを崩しますから、首はもたげてからだは反りますよ」

 野口体操では、ヨガの逆立ちも手で立つ逆立ちも、できるだけ反らないあり方を求めていく。鉛直方向に、からだの長軸を一致させる。肩はすっきり伸びること。そうなったとき余分な力は入れずに、必要最小限の筋力で、逆立ちになることが可能だ。

 ある方が、「倒立」というのがまっすぐで、「逆立ち」というのは反ると教えてくれたことがある。
 果たしてどうなのだろうか。
 野口三千三先生が「逆立ち」という言い方にこだわったのは、立った姿勢がそのままの状態で「逆さまになる」という意味で「逆立ち」というわけだった。

 2004年に春秋社から出版された『DVDブック・アーカイブス 野口体操 野口三千三+養老孟司』野口三千三+養老孟司+羽鳥操共著には、野口三千三先生の20代半ばの「片手逆立ち」の写真を載せた。この練習も独学で、一人稽古に励まれたと伺った。
 手を徐々に離すための器具を工夫して、そこから次第に片手逆立ちへと進歩させたらしい。
 本に載せた「片手逆立ち写真」は、学校のビルの屋上で撮られたものだ。

「僕は、高所恐怖症なのよ、実はね」
 逆立ちになると、恐怖感は薄れるのだろうか。
 そんなことはあるまい、とおもいつつ、確かめることをせずに終わった。
 今となっては、確かめようがない。

「片手逆立ちの場合も、曲がっていながらまっすぐの感覚をつかむことよ。地球の中心につながっている感じだよね。大切なことは」
 
 ごもっとも! そして、お見事!
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たかが逆立ち・されど逆立ち

2006年09月18日 19時12分23秒 | Weblog
 自宅で一人静かに体操をするのと、教室で一緒に行うのとでは、動きの質が違う。
 みんなと一緒というのは、それぞれの人が出してくる「気」のようなものが増幅されて、動いてしまうことがある。
 自分では乗れないものにも乗ってしまうというような感じって経験ありませんか?
 ひさしぶりだったり、初めての場合に、自分では力を抜いているつもりでも余分に入ってしまうこともある。
 意識と実際は、なかなか一致してこないのが、からだの現実だ。

 ほぐすことにしても一人でほぐすことと、みんなと一緒、あるいは他の人と組んでほぐすというのは、三者三様というか、それぞれなのである。

 とりわけ、逆立ちの練習は、わかっている人に手伝ってもらうことはすごく大事だ。
 野口三千三先生は、基本的に「独学」の方だった。
 一人練習して怪我をしない工夫をなさっていたという。
 野口体操の動きかた、とくに逆立ちに関しては、危険を避ける工夫が随所に見られる。
 包助(幇助)する人は、逆立ちになっている人が、降りたいときに降りられるように、一般的なやり方の足を持たずに、お腹のあたりを支えるという方法は、初心者にとってはすごくいい。
 基本的に相手の動きを制約しない、しかし、安全は確保するという姿勢があるからだ。

 日曜日のクラスでも、ヨガの逆立ち練習を始めたと書いたが、その気持ちよさの感激を、メールでお知らせくださった方もあった。
 まさか自分は、一生「逆立ち」はできないと決めてかかっていたのが、野口体操のあり方でやってみると、逆さまになれた! という実感は、それだけで嬉しい。
 その体験は私自身にもある。
 力の抜け方がわかってくると、ますます軽くなる。
「重さが生きて軽さが出る」ということが、本当に信じられるのは、そうなったときというわけ。その意味で体操というのは、「実感こそ命」なのだろう。

 とにもかくにも二つのクラスでようやく逆立ち練習が始まった。
 みなさん、気長に、安全に練習を続けてみましょう。

 逆立ちに関して、体験をコメントしてください。
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関節の柔軟性と柔らかな動き

2006年09月17日 18時59分27秒 | Weblog
 朝日カルチャー・日曜日クラスの7月期が今日で終わった。 
 といってもまた10月期が始まる。
 
 今期は、先週から「ヨガの逆立ち」の練習に入った。
 それが、びっくりなのだ。
 ほとんどの方が、逆立ちを試みてくださる。
 前回、試さなかった方も、今日は、挑戦。
 そのうち、お二人の女性が、私の包助で、スーッと立ってしまわれた。
 無理がなかった。
「足を床につけておくほうがきつかったので、腰の上に乗せてしまった」
 腰を高く上げて、足先を床に沿わせて、胴体に近づけると、あるところまでいくと、ふわっと浮き上がれる瞬間が訪れる。そのタイミングで、腰の方向を真上に回転させながら足の力を抜くと、自然に上がってしまう。無理やり上げようとしなくてもいい。

 自然に貞く・からだに貞く、「自然直伝」と芭蕉の話が、よかったのか? とおもっている。
「創造化育」なる言葉の意味もなかなかに深い。天地自然が万物を生じ育てる、その力にゆだねてみよう。
「造化」万物を創造化育するもの・神あるいは自然。
 含蓄の深い言葉だ。

 そして「関節の可動域が広い」という意味での「柔軟性」も必要ではある。しかし、まるごとのからだ全体の関節が、時々刻々変化する動きのけいかのなかで、生み出せると、たとえ部分の関節が硬かったとしても、全体として「柔らかな動き」は可能である。そういった事前の話もかなり説得力があったようだった。

 各関節が柔らかい。可動域が広いということは大切ではある。
 しかし、それだけでは柔らかな動きは生まれない。
 関係のあり方が鍵なのだ。

 ということで、二回目のヨガの逆立ち練習は、いい雰囲気で繰り広げられた。
 くれぐれも怪我のないように、祈るばかり!

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プロフェッショナル

2006年09月16日 20時49分32秒 | Weblog
 昨晩、シンクロの「ソロ」を見た。
 確かに日本人のからだは硬いかもしれない。あそこまで技術的にも芸術的にもせまっているだけに、逆に硬さが惜しまれるのだろう。
 本人がいちばん悔しがっている。
 フィギュアスケートにしろ、シンクロにしろ、バリバリ西欧文化の価値観と美意識と技術的表現に、ここまで食い込めること自体すごい! のだ。
 
 エキゾチックという意味での点数稼ぎはもうできない。 
 同じ土俵で戦うわけだから、悔しさも一入だろう。

 スペインもロシアも、筋力と柔軟性を同居させている。どちらの国もバレーやダンスは、しっかり文化に根付いている。プロフェッショナルとしての活躍が、国民的な尊敬に値する仕事としてなりたっている。
 その伝統のなかから、フィギャアスケートもシンクロも生まれてきている。

 その点、日本ではまだまだプロとしての活躍の場はないといってもいい。
 アマチュアとプロが共存して、初めて裾野が広がる。
 野球は、すでに日本の野球文化として根付いている。そこには、野茂がいる。イチローがいる。松井がいる。城島がいる。
 メジャーリーグに通用するところまで、日本の野球は育っているのだ。

 文化のなかに根付く時間や男性社会でどの程度経済を伴ってプロフェッショナルとして存在しうるのか、という問題を、「シンクロ・ワールドカップ2006」を見ながら感じている。
 からだが硬いということは、目に鮮やかに見えてくる。
 時間がほしい。あせらないでほしい。そして文化としてプロフェッショナルな世界を育てる機運を、一般の人々がどこまでもてるのかもひとつのファクターとして考えてみることも大切だと思った。

 日本における、ダンス文化(フィギャもシンクロも含めて)は黎明期なのかもしれない。
 これからだ!
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