羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

時には「動作認知」、そして「重さで地球とつながる感覚」

2011年10月30日 14時18分31秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャーでのレッスンテーマは、予定通りの「膝のあくび」だった。
 最初は遠慮気味だった「あくび」も、話を聞き、実際にいくつかの方法でやってみるうちに教室全体の雰囲気が変わっていった。
 実体験としてあくびの気持ちよさを誰でもしっているだけに、イメージが持ちやすく、からだ深部の伸展(のびひろがり)へとつなげられた。ことばの力、体験の力、具体的イメージの力が一体となって、「上体のぶらさげ」や「やすらぎの動き」、一連の座位によるほぐし等々が、本当の意味で身体に落とし込まれたようだった。
 
 同時に行ったさまざまな動きで「肩甲骨の動き」を実感する試案も、Mさんの発言等々に支えられて、一歩前進の観があった。これほどまでに肩甲骨が重さで流れて動くとは、私自身も驚きであった。
 力を抜くことの積極的な意味である。

『筋肉の存在を忘れよ そのとき筋肉は最高の働きをしてくれるであろう
 意識の存在を忘れよ そのとき意識は最高の働きをしてくれるであろう』野口三千三

 とはいうものの、時には「動作認知」というか、リラックスした環境のなかでという条件はあるが、身体意識を覚醒させて動きを自分自身でまた他者との関係のなかで検討することも大切なことだ、と思っている。
 それが意識過剰にならずに、丁度いい頃合いで、丁度よい間合いで、実践できたように思う。
 そのキッカケは、なんといっても「あくび」と「あくびのイメージ」である。

 このテーマはこれからももっと掘りさげてみたい。
 女性の方が男性に比べて、脚の変形による歩行の不自由さが見られるのは、ひとつに筋力の強さに違いがある、という説も納得できる。であるならば、女性にとっては、骨に重さを任せる感覚と、任せられることでつくられる「骨格の維持」は、老化・加齢にとって大きな課題である。
 サジさん曰く「バリでは重いものを頭にのせて運ぶ習慣があって、姿勢はとてもいいですよ」と。
 子供の時から水をのせて、坂道なども運んでいくそうだ。
「重さで地球とつながる感覚」が育てるからだ!このテーマこそ、貴重だ。
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膝のあくび

2011年10月29日 08時23分28秒 | Weblog
「膝」は動きの要だ。こんな言葉がある。
「膝を屈する」「膝を打つ」「膝を進める」「膝を正す」「膝を交える」「膝とも談合」「膝が笑う」「膝が流れる」「膝が抜ける」「膝を容れる」「膝を折る」「膝を崩す」「膝を組む」「膝を突き合わせる」「膝を抱く」等々。

 叔母の脚の状態が気にかかって以来、街を歩きながら前から来る年配女性の脚の形と歩き方を見るようになってしまった。
 男性よりも女性の方が脚の形の崩れからくる歩行の不自由さが見られる。

 授業でも学生に話をした。
 何人かの学生は、身近に膝を痛めている人や、歩行が難しいお年寄りがいるのだろうか。
 真剣なまなざしを返してくる。
 で、思わず膝を打ちましたね!
「膝のあくび」を推奨しよう、と。

 腕を伸ばして“伸びをしながらあくびをする”ことはあるけれど、日常生活のなかで「脚を伸ばして膝のあくび」をする人は少ないかもしれない。それは特別なストレッチを行う面倒臭さが先に立つからだ。
 しかし、である。
 膝が伸びれば、足首や股関節が柔らかくなる。というより自由がきく。
 そこで今週は「上体のぶらさげ」に注目して、その一点に集約して練習してみた。
 いわゆる「前屈運動」ではない。これは決して「膝のあくび」にはならないし、痛がる人が多い。

 先日、総務省での講演会で「上体のぶらさげ」に特化して行ったが、嫌がることなくみなさんご機嫌であったことを思い出した。佐治さんのブログに写真を載せてくださっています。再度、ご覧あれ。
 
 そうなのだ。運動することは、本当は気持ちがいいことなのだ。
 仕方が肝心。
 膝が伸びをすること、膝があくびをすること。これって高齢化の時代におすすめ体操に違いない、と確信を得た羽鳥です。
 さて、どのように伝えようかな? 思案、思案、。。。。。試案あり。
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当たり前に大事なこと

2011年10月27日 19時14分59秒 | Weblog
 外食に美味しいものをもとめるより、家庭で食べるなにげない食事が美味しいこと。家庭料理を美味しく作る。これって本当は至難の業だ。でもこのことが当たり前に大事なこと。

 各教科でよい点数を取らせることを教えることよりも、人間を育てる教育が本当は大事だ。しかし、これが難しい。人を育てる、と言うは易し、行うは難し。学生と接しながら、授業でつくづく思うこと。

 ストレスタンパクの話をした。「なぜ、運動することが大切なのか?」
 その答えは、「運動は生命への働きかけである」からだそうだ。
 そして遺伝子情報を読み間違えて作られたタンパク質を修正する「分子シャペロン」、つまりあらゆるタンパクの間に入り込んで間違いを修正(お世話する)キャンセルする“ストレス・タンパク”が順調に生成されるためにも運動は重要な働きをする。
 これって分子レベルのこととしての話だけでなく、日常生活の中でも、ちょっとしたほころびを繕うシャペロンが大事な働きをすることを思う。
 心のなかに嫌な出来事があったらそれをお世話係が修正するような「真心シャペロン」を持ちたいものだ。
 人間関係も同様で、何気ない気遣いをする「気遣いシャペロン」がいてくれたら暮らしやすいのに。一人の人ばかりが気遣うのではなく、それそれの人が少しずつ気遣いを見せる。そんなコミュニティーに生きられたらいいのになぁ~。でも、実際はとても難しい。
 年寄り夫婦の会話が往々にして刺々しくなるのは、身体の衰えが「真心シャペロン」「気遣いシャペロン」を失わせるところに一因がありはしないか。自分が息をするだけで精一杯なのである。新陳代謝力が衰えるからだね、きっと!

 当たり前のことが当たり前に通る自分でありたいし、そうした話の分かる人と、人生は過ごしたいものである、と齢六十路を歩くこのごろである。

 ちなみにシャペロンとは、フランス語で「舞踏会に出る婦人をお世話する婦人のことだそうだ」。
 若い生命体はこの分子シャペロンをしっかり生成し、間違いをキャンセルする働きを担わせているらしい。
「小さな親切大きなお世話」などということばをなくして、小さなお世話の大切さを日常に感じてみよう。
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お年寄りの脚の変形

2011年10月26日 11時51分39秒 | Weblog
 我が母もそうなのだけれど、若い時にどんなに真っ直ぐな脚も、気がついた時には、かなり曲がってしまっている。80代を超えた時に、気がついたが、そのままになってしまった今では、曲がり度が強くなってしまった。
 それでも、先日、訪ねた母の実家の叔母よりは、少しましな状態だ。

 叔母は80代前半だろうか。はっきりした年齢はわからない。
 かなり以前から膝が悪く、正座は出来ないし、ヒアルロン酸を打ちに定期的に医者通いをしていることは茶飲み話に聞いていた。よくよく脚の形を見た。0脚度合いは進行しているので、あの状態で正座をすること自体が痛める元である。
 脚というのは、年齢と共に変形するらしい。当然、腰痛もある。無理もない。日々の暮らしに追われていると、自分のからだのことは後回しになる。舅と姑をおくり、娘二人を嫁に出し、息子に嫁をもらい、夫はわがままで家のことはしない。家業も手伝い、面倒な親戚付き合いもこなす。最近では認知症気味の夫に代わって、家の財務を引き受ける。これには息子夫婦には渡したくない微妙な心理が働く。

 そうした何十年もの暮らしぶりをしっていると、今更ながら体操をしたらとはいえない。
 結局のところ医者に通い、薬でなんとか痛みをとめるしか手はないのだろうか。
 果たして、大なり小なりお年寄りが抱える身体情況に違いない。
 
 少なくとも40代くらいの年齢から、年を取った時のからだの形をイメージして、スチレッチをするとか、体操をするとか、ちょっとした筋トレをする、といった習慣はこれからの世代に許されることかもしれない。
 母たちの世代、つまり大正末から昭和一桁生まれの女性たちは、特別な職業を持っている場合を除いて、ジムに通うことなど出来るはずもなかった。

 しかしである。これからの高齢化の時代に、からだの手入れはもっと日常化してもよい、とつくづく思った。
 座る、立つ、歩くといった基本動作がおぼつかないのでは、家事どころではない。寝たきりのお年寄りも多いわけだから、叔母や母くらいに動いてくれればよしとせねばならないのか、と思うと暗い気持ちにさせられる。
 少なくとも脚の変形を少しでもなくすためのストレッチをする機会を、中年期に始める環境をつくり、指導者を養成することが、高齢化にとって必須ではないのか、と思った。

 まずは足腰から、と言われるのは真実なのだが、なかなか若いうちや間に合っているうちには、手入れをする必要性を感じないのが普通だ。
 薬に頼らず、自分が運動することで、老いた時になんとか体型を保つ社会的な土台作りをすることが大切だ。
 街で歩く高齢者の足腰を見ると、曲がり状態がひどいことになっている場合が多い。
 実際には、足腰を伸ばす体操を行うのは、難しいとしても何とかしなければならないだろう。
 さまざまな事情があって、ことはそう簡単ではないから問題は一気に解決しない、としてもである。
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認知症と原発事故

2011年10月25日 09時20分38秒 | Weblog
 日曜日、母方の叔父を見舞った。
 自宅で暮らしているが、まだらに認知症がすすんできて、ともに暮らす家族はごく近い将来やってくる高度な障碍に畏れを感じている様子が手に取るようにわかる。
 叔母の話をただ聞いてあげるしかなかった。
 他人事ではない。こうした家族は、相当な数にのぼるだろう。
 高齢化が進んでいるのは日本だけでなく、世界に拡大しているという記事を読んだばかりだ。
 これから深刻になるのは、まだ高齢化問題の急速拡大に気づいていない東アジアとも言われている。
 
 長生きはそれだけで価値があった時代は長かった。それが大きな社会問題となって、高齢者を抱える家族の崩壊を招いている。私の身近でも起こっている。
 長男家族と暮らす叔父の家でも、辛うじて保っているような印象だ。施設に入れたくない叔母とそろそろ施設に入居させたい若い世代の均衡がいつまで保たれるだろうか。施設に預ければそれで済むという話ではないところにも難しさがある。
 我が家とて時間の問題だ。

 そして原発問題は深刻だ。
 今朝もドイツのTV局が制作した南相馬の人々の暮らしを見た。言葉を失う。
 3.11をないことにしたいが、そればかりはどうにもならない。
 現実をしっかり知って、生きる以外に道はない。
 よく考えれば健康を慮ってうける健康診断や病気診断で、あるいは仕事や旅行の際に飛行機に乗って浴びる放射線量だって、空恐ろしいはずなのだ。
 社会不安は雇用・高齢化・少子化問題に原発事故の放射線問題が加わってしまった。
 
 2011年、これといって殆ど何も出来ない私としては、残りの時間が無事に過ごせますよう祈るばかりである。
 さて、今日も、授業をまじめに行うことしかない、といい聞かせている歯痒さを胸に刻んで。
 まずは足下を見よ! 一歩をしっかり踏む。立つ実感を確かめて出かけるとしよう。
 
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田坂広志氏 日本記者クラブでの講演

2011年10月22日 09時49分08秒 | Weblog
 福島原発事故後、政界・官界・財界に、楽観的空気があるように思える。それは真の解決を妨げるおそれがある、と警鐘をならす田坂前内閣官房参与の講演会が、YouTubeにアップされました。
『福島原発事故が開けた「パンドラの箱」』
 楽観的な空気に対して、慎重になる必要性を語る。
『野田政権が答えるべき「国民への7つの疑問」』を提言。

 長い動画なので、急ぐ方へのPDFも用意されている。
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昨日の講演会

2011年10月18日 08時21分02秒 | Weblog
 10月17日(月)、午前中は御茶ノ水の大学で授業を一コマ終えて、その足で若松l河田町にある総務省統計局第二庁舎で、午後2時から講演会を行った。
 テーマは「体ほぐしは心ほぐし」で、参加者は80名強だった。局につとめる職員の方々が対象で年齢の幅は非常に厚かったことがよかった。
 そしてこちら側は最強助っ人が5名。大御所サジさん、野口先生を朝日カルチャーセンターに呼んだ二階さん、知人女性が初体験モデルとし、そして授業を履修している男子学生2名。

 大会議室だったこともあって、ゆったりとした椅子の配置を頼んであった。
「上体のぶらさげ」「椅子からの上体のぶらさげ」「呼吸法(片鼻呼吸、胸式呼吸、腹式呼吸)」等々、コトバにするとあっけないが、1時間半ほどかけて野口体操の真髄を一気に話し、体験していただくことができた。

 事前の予想に反して、ご参加の皆さんがよく動いてくださったし、嬉々として素晴らしい反応を返してくださった。
 Mac Book AirのKeyNoteでつくっていったプレゼン操作は学生が担当。私の何気ない合図でページ捲りをしてくれた。自分で言うのもなんですが、きっと格好よかった! 学生は初めてMacに触れることに嬉しさを隠さなかったし、始まる前には準備もしてくださったサジさん撮影のバリ島「棚田」につけた音楽をタイミングよく流して、雰囲気をつくり、すでにそこから流れが出来上がっていった。

 話を聴き、実演を見て、参加者も実体験ができるという、いままでにないステージを演出できたことが、たとえ参加者が椅子に腰をかけた条件でも、よい関係を生みつつ、結果として成功につながった。
 新・野口体操の道筋が見えたような気がしている。こうしたミッションは一人ではできない。
 伝える側と参加する側の共同作業で、一つの空間、一つの時間の共有という流れの中で、醸し出されつくりあげられるものだ、と思いました。

 皆様、おかげさまです。 
 ありがとうございました。
 
 
 
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年寄りと暮らすということ、そして自分も年寄りになるということ。。。

2011年10月14日 07時16分16秒 | Weblog
 いろいろ書くと、愚痴になる。
 初めは我慢して、考えて、手を打つ。
 うまく行くことの方が少なくて、裏目に出ることの方が多い。

「あれしちゃいけない、これしちゃいけない」
 若い頃とは逆転現象が起こる。
 つい親に小言を言ってしまい、お互いに気まずい。

 年寄りと暮らすということ、そして自分も年寄りになるということ。
 あぁ~、無情!
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季節は巡る

2011年10月10日 07時14分37秒 | Weblog
 朝、窓を開けると金木犀の香りが微風でも鼻に届けられていた。
 まだ夏の空気が残っている時期でも、早朝には、季節の交換が行われいることを最初にしるのがこの香りだ。
 北新宿で野口先生のレッスンが行われていたころ、樹影が見えずとも香りだけが存在を知らせてくる街角で、秋の到来に身をさらす先生がいらした。
 決まってレッスンが終わったあとの安堵感に包まれて立ち止まる姿が、この香りのなかに浮かんでくる。
「鼻がわるくなったから、最近では若いときみたいにお茶もこらなくなった」
 一年に一回、東京駅の大丸で買い物をされていた。九州は八女茶、正確にいうと抹茶がまぶされている茎茶だが、それを大きなリュックにいっぱい背負ってこられる。その一種類だけに限定されて喫茶する日常を過ごされていた。
 そうした先生にも気づかれるほど、金木犀の香りは強いのだろう。
 そして東京の町中では、ありふれた庭木なのだ。

 私が住まうここでも季節の変わり目が知らされるのは、この木が発する“香りのたより”である。
 そして気づかぬうちに、消えていく。交叉するように、筋向かいの家の玄関前に植えられている山茶花が白い花を一輪、また一輪と開き、今頃の時期になると、かなりの数になっている。

 はや、十月も中旬である。
 季節の移ろいは、植物とともにある。かつて涙して読んだ宮本輝の「錦繍」を思い出す山のたよりが聞かれるようになるのも間近い。
 出るのはちょっとした溜息、かな。
 
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Appleよ永遠なれ 追悼ロゴ

2011年10月08日 22時06分54秒 | Weblog
 香港の現役大学生がデザインしたAppleのスティーブ・ジョブズ氏追悼ロゴが、評判になっているらしい。
 素晴らしいセンスだ!
 新しいロゴにしてほしい。
 Appleよ永遠なれ! 作者の祈りを感じる。
 
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幸福感と寂寞感と空虚感の狭間で……

2011年10月07日 08時29分16秒 | Weblog
 昨日、午前8時52分着信の「日経速報メール」で、スティーブ・ジョブズ死去の報を読んだ。
 慌てて、FacebookにTwitterにBlogに、書き込みをして池袋の大学に出かけた。
 授業では、追悼の思いもあってか、iPadに野口先生の「腕立て伏臥の腕屈伸」の一連の写真を映し出して、或る部分を拡大したり縮小したりして、学生に見せながら「腕立て伏臥のはずみあがり」を説明した。学生たちの気持ちは一気に集中する。若者にとってはあこがれのiPadなのだ。
 
 授業を終えて新宿駅で乗り換えたJR中央線では、優先席に腰掛けているアメリカ人らしい父と娘の脇に立った。
 父親はiPadで写真をメール送信する準備をしていた。手短に文章を綴り送信し終わるとそれを娘に手渡す前に、漢字の練習帳を開いた。受け取った娘は、画面上を見つめ漢字の書き順を覚える。次に三回ほど文字をなぞって、文字の形と意味と音声で訓読み音読みを習う。最初は「犬」、次は「見」であった。それに飽きるとささっとページを開いてゲームを楽しんでいた。きっとお母さんは日本人なのだろう。とか、この家庭ではMacがいろいろに活用されているに違いない。生活のありようが想像できる。コマーシャルの一シーンを見るようだ。
 
 帰宅して、二階に上がり、iMacを立ち上げ目を通す。予想通りサジさんや撫明亭ご亭主のブログには、切々たる思いが綴られていた。
「私とは深さが違うなぁ~」
 ちょっと嫉妬しながら読ませていただく。
 他にも、夕刊やテレビのニュース、その他の媒体でも読んだり見たりして、存在の大きさを改めて確認した。

 思えば、1990年代半ば過ぎに、初めてMacがやってきた日、同居人が増えたようだった。
 正直、後悔した。
「お高い買い物だったのに、これからどのようにつきあっていけばよいの。むにゃむにゃむにゃ。。。。」
 それまでの機械としてのワープロ・キャノワードとは違って、一人の「人格」が宿っていたのだ。
 なかなか手強い。手に負えない。そこで若い知人の女性に助っ人を頼んだ。接続し、初期設定をしてくれた上で、使い方を懇切丁寧に指導してくれた。
「とにかく端からクリックしてみてください。大丈夫ですから。使っているうちに、分かってきますよ」
 当時は、彼女だけではなく、パソコンを普及するためにボランティアで面倒を見合う、という活動が始まっていた。こうした無償の行為が、新しい変革には大きな力となっていった。90年代である。とりわけMacファンが立ち上がって鎖のような連携がとられていたのだ。
 数名の方に教えられながら、1年たち、2年過ぎるうちには、使う範囲は狭いものの、Macは私の暮らしのなかにしっくりとなじんでくれた。“メル友”などという存在は、皆無に等しかったが、それでも数少ない人との通信で、インターネットも使いこなせるようになっていった。
 
 その後、一度はWindowsに変わったこともあったが、2009年にiPhoneに乗ってから、気持ちが揺れはじめていた。ようやく今年になって10年弱ぶりにMacに戻った。
 一年もたたないうちにMac貧乏状態だが、悔やむ気持ちも恨む気持ちもなく、むしろMacにかこまれていることが幸せなのだ。この幸福感はどこからくるのだろう。
 以前の関わり方とは、まったく違う蜜な関係である。いろいろなことが変化し、十年来の懸案も解決の道を歩きはじめた。
 いってみれば、その人が亡くなる半年前くらいに入門した弟子を「没後の弟子」と呼ぶそうだが、まさにそのようなものだ。間に合ったことへの安堵感があるからこそ、全身を覆う寂寞感と空虚感なのだろう。
 今朝もニュースや新聞で取り上げられている報に接している。
 哀しみが波のように寄せては返している。
 ホームーページ上に掲げられいる一枚のモノクロ写真が語りかけることを、きっと私は忘れないだろう。
 Think different.
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追悼

2011年10月06日 10時45分18秒 | Weblog
 Appleコンピューターのスティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。
 ホームページにこちらをじっと見つめている生前の写真が掲載されています。
 
 ご冥福を祈ります。
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またまた嵌まってしもた! 一輪の花

2011年10月06日 08時16分53秒 | Weblog
 NHK朝ドラ、今回は見るのは「やめとこッ」と思ってたのに、もう三日続きで見てしもた。
 テーマソングがちょいと難しいなぁ~、と最初は感じた。
 ところが作曲家の名前が「佐藤直紀」とあった。
「eeeetto」
 忘れもしない「龍馬伝」ではないか。
 
 それに、子役と動物ばかりで、低迷するテレビ視聴率かせぎ、と悪口いわれている昨今だが、この番組もご多分にもれず、子役たちがいい味を出してる。
 舞台は、大正ロマンの終焉から昭和初期へ、戦争へと日本が突入する時代をどう描くのか、楽しみ。そして敗戦後に世界へと羽ばたく日本ファッション界も垣間みられるのかな?
 女たちにとって洋裁は夢だったものね。

 朝からちゃんとした映画を見ているような映像だし、この調子だと来年三月まで、見続けてしまいそうなオソレを感じる。
 題名も薔薇ではなく「カーネーション」がミソだね。
 ちなみに赤いカーネションの花言葉は「母の愛」「愛を信ずる」だそう。
 やってくれるかな? NHK!
 まぁ、嵌まってみまひょ、か。
 テーマ音楽も聞き慣れると、パリの香りがしてくるし~。
 我が家でも、お蔵入りしている母のシンガー足踏みミシンが、カタカタと幻の音をさせそうなのョ。
 
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蛍光鉱物の本

2011年10月03日 14時28分32秒 | Weblog
 昨日、立ち寄ったIMAGE2011「国際ミネラルアート&ジェム展」で、一冊の本を見つけた。
『蛍光鉱物&光る宝石』ビジュアルガイド 山川倫央(やまかわ のりお)誠文堂新光社刊。
 これは二冊目の本らしい。しかし、「光と色とか煌めき」「蛍光鉱物」といった幻想的でありながら科学的現象を、丁寧にたくさんの写真とともに解説している本だ。
 野口が関心を持った時代では考えられない出版物である。日本の鉱物愛好も裾野が広がった証拠かもしれない。
 事細かに説明があり、今まで断片的に入っていた知識が、まとまりを持って理解できるところがいい。
 この著者は「鉱物たちの庭」というホームページを持っておられる。
 一般の人々に鉱物の世界を解説してくれる入門としてもおすすめのサイトである。
 そのなかに「蛍光鉱物」の解説と写真が収められている。

 これまで野口没後も「蛍光鉱物」が集まってきたこともあって、どの石もさっと現物の色が目に浮かぶ。
 石の世界は奥深い。細かい知識はさておいても、結晶と色彩と変幻する蛍光の世界を楽しむだけでもよい、と思う。

 というわけで2009年にすでに出版された本だが、昨日、フェア会場内の紀伊国屋書店で見つけて、歓喜したのだった。そのまま朝日カルチャーセンター日曜クラスに持ち込んで、現物と並べて見ていただいた。
「本が違ってみえますね」
 本は本で参考になる。
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おひさま 最終回 そして……

2011年10月01日 11時40分10秒 | Weblog
 春から、ほとんど欠くことなく見続けたNHK「おひさま」が終わった。
 物語の中盤からは、野口先生が小学校の教師をされていた時代と重なっていて、そうした興味から毎回見たくなっていた。
 戦時中から戦後、昭和23年前後は、両親の新婚当時と重なって、自分の家の物語を見るようだった。場所や商いの内容は違っていても、同時代の日本の商家の雰囲気に共通したものがあった。
 全体に無理なく話が出来ていて、音楽もよく、なによりベテラン俳優さんたちが脇としていい味わいを出していたことも、魅力だった。とりわけ終戦後の物語では、ドラマと分かっていても、何気ない日常の機微に、ウルウルとすることが多かった。
 
 もうひと押し、最後の最後にサプライズの配役。ドラマというより、生の女優さんの人生が華やかに繰り広げられたのは見ていて楽しかった。
 若尾文子、黒柳徹子、司葉子、三名の大女優の登場には、すっかり現実に戻された。が、「虚実皮膜」のぎりぎりの面白さは、やってくれるじゃない!って感じだった。

 同じ時代を生きた、母がいて、祖母がいて、そして子供の私がいた。
 昨年の「龍馬伝」とは違った面白さで、朝の時間を楽しませてもらった。拍手!

 さぁ、気分を切り替えて、今日は十月朔日。
 先月末にすべての教室が開いて、今年も残すところ三ヶ月。
 いつもの年にない、或る種の緊張感と何か残したい!という不思議な思いが去来する秋の心模様を透かし見る朝を過ごした。
 お日和もよくさわやか。朝日カルチャーセンターのレッスンにこれから出かけるが、気分がとてもよい。
「おひさま」は、ありがたい。
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