羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

‘一人前’を家業に読むと

2010年04月30日 19時20分52秒 | Weblog
 龍馬の実家である坂本家は、下士でありながら質屋を経営していて裕福であった、と最近になって知った。
 我が家の家業も質屋であった。慶応生まれの祖父の実家は、名字帯刀を許された農家で、そこの長男であったにもかかわらず上京し、明治二十年代には四谷・新宿で商売を始めた。父は六歳の時に父親を失った。そんな事情から、二代目の母親違いの姉夫婦に育てられたので三代目にあたる。複雑な家の事情があって、家督を相続していながら、実質は分家のような形になっていた。
 父が育った時代は、店自体が若者の職業訓練の場であったと聞く。信頼のおける奉公人には‘暖簾分け’をして、さまざまな援助を行うのが主じの役目であったという。

 実は、今回「新しい公共」の話を聞きながら、私が育った家の様子を思い起こした。
 日本全国をまとめる組合組織があり、その下に各地域ごとの支部がある。それぞれが一軒ずつ独立していながら、組合の連携や協力や結束はしっかりしていた。それは生業を支えることだった。
 一方で‘公共’の部分では、警察と防犯協会とは極めて密接な関係をもっていたようだ。 父が亡くなる一年前に、廃業届けを私が代役で出しに行った先は、警察と防犯協会と青色申告会だった。
 つまり、警察・防犯・税の申告との協力体制は細部にまで及び、公共の治安や検挙率をあげる一翼を担い、税金を納めるということを一般に拡げる末端組織の働きも担っていたことを知った。
 具体例を挙げれば、一日に何組かの刑事が訪ねてきて、何時間も滞在しさまざまな情報交換を行う場であったし、申告時期には町の方々の面倒も見ていたようだ。
 この職業は、妻帯者であること、蔵を有すること等、いくつかの条件をクリアして、警察による許可営業であるわけだから、そうしたつとめを果たすことも、当然といえば当然のことだったのだろう。
 つまり、「新しい公共」オープンフォーラムで話された江戸期の‘一人前’の考えにぴったりと当てはまる父の生き様だった。

 話はズレるが、野口体操に私がはまってしまった一つの理由がここにある。
 それは野口先生のことばによって救われたからだ。あるとき学生時代には家業を恥じていたことを先生に諌められたことがあった。確かこんな風な内容だったと記憶している。
「サラリーローンのように担保なしでお金を借りるのは、非常に危ない。その点、質屋と言うのは担保を持っていかなければならないことで、身の程の借金でおさめることが出来る。そして相対で信用をつくり上げ、そこには人間的なつながりの商売がなりたっているわけでしょ」
 その後、サラ金などの無担保融資による過剰な借金によって追い詰められる人が多くなり、さらに人を介さず借りられる安易さが自己破産を多く引き起こしていくことを先生は予感されておられた。

 亡くなってから気づいたことは、父は地域社会に溶け込んで、町に暮らす人々ときちんと関係を築いていたことだった。ご近所の信頼を得ていたことを知られされたのは、四十九日までの間に、連日お参りくださる方々が、親戚以外にも絶えなかったことからだった。

 話は変わるが、私が野口体操を若い方に背負ってもらいたくも、なかなか踏み切れない訳がある。それは職業としてプロフェッショナルに育てあげ(その道に必要な倫理観・道徳観も教え)、独立に必要な援助をすることが難しい、ということがいちばんの理由だ。
 これは江戸期の商家の在り方で、父が踏襲し、一人娘の私には継がせなかった理由でもある。今の時代には、個人でそれを行うのは非常に難しい。まして私には。
 
 一人前とは、‘かせぎ’で半人前、‘つとめ’で半人前。それが揃って一人前なのである、という話を父に当てはめると、とてもよく理解できる。ある組織に、折に触れて寄付し援助もしながら、仕事との関係も維持しつつ、地域のためにつとめを行う生き方だった。‘大人の生き方’を、静かに穏やかに、そして決してこれ見よがしでなく、しっかりつとめていた父だった、と今では思えるようになった。
 龍馬さんの育った環境と通じることがあるなんて‘何となく嬉しい’のは、かぶれたかなぁ~?! ふふふっ。
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「感覚」についての野口三千三語録掲載

2010年04月29日 07時45分14秒 | Weblog
 @noguchitaisouに、「感覚」についての野口先生のことばを載せはじめました。
 これまで「動き」と「価値観」について、12回ずつ24回掲載しました。

 タタ、タタタタッタ、タタタタ……、あたかも甲骨文字を‘甲骨片’に刻み込むかのように、一文字一文字を黒板に刻み付けられていた野口先生の後姿を思い出します。
 今ではチョークと黒板が教室から姿を消し始めています。
 ホワイトボードに‘Whiteboard Marker’では、音が消えていきました。
 音風景も時代によって変わっていきますね~。
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鳩山首相肝いり「新しい公共」と「幸福度」調査

2010年04月28日 09時07分02秒 | Weblog
 グローバル化・IT化の時代の中で、お互い(ご近所)が支えあう身近な公共が全てとは言わないが失われている。そこで政府や地方自治体を肥大化させるのではなく、自分たちで出来ることは自分たちで‘自立’して行うコミュニティーを作るにはどうしたらよいのか。それを担うのが特定非営利活動法人(NPO)の独占物とするだけでなく、企業・個人・政府(行政)が一体となって実現していきたい。目指すところは、IT上の仮想空間に集うコミュニティーではなく、顔が見える血の通った人間がじかにかかわっていくコミュニティーを作っていきたい、というのが今回のフォーラムのテーマであった。
 
 第一部、鳩山総理のスピーチを受けて松岡正剛さんは、日本には古代・中世・近世、そして近代に「結・座・講・社(中)・組・結社」といった一つひとつの文脈でまとまっているコミュニティーが存在した歴史をひも解いた。それらは‘官’と‘民’の中間的(管理)組織として、各時代の政治形態に寄り添う形で機能していた。そうしたなかで‘一人前’についての考えを次のように語った。
『江戸期においては、一人前とは‘かせぎ’と‘つとめ’を両立させることができる人のこと』。一家を養うことで半人前、もう半人前は無償で公共(ご近所)に役立つことを行う。つまり‘かせぎ’と‘つとめ’の二つが相まって実現できる人を一人前の人間とみなしていた、と言う。
 しかし、この考えは西欧的なボランティアの思想とは全くことなる。富める者も貧しき者も老若男女にかかわず許される範囲で、世の為人の為に出来ることを無償で(時には身銭を切っても)行う行為がボランティアを支えることなのだ。たとえば親掛かりの学生であっても、極端なことを言えばホームレスの人であっても出来る、と考える。

 今回はそういったボランティア論はなく、とりあえず日本の歴史を踏まえて、現代に新しく‘公共’を根付かせるにはどうしたらよいのかの論議であった。
 平たい言葉で言えば、「困ったことがあったとき、家族に相談する次が役所ではなく、もうすこし身近な中間共同体に属する人々がいること」(仙石大臣)
 その中身は、‘教育、防犯、防災、福祉、介護、健康(たとえば:産後の女性のケア)’で、ある企業から提供されるサービスを「お金を出して買う」ということではない相互扶助の在り方を模索したいという政府の考えが示された。
 そこで政府として出来ることは、① 個々人が自由意志でNPO・協会・あるいは身近な組織に寄付をしやすくするために‘寄付金に対する税制’を考えること。② 政府がでしゃばり過ぎない程度で組織化を促すこと。
 しかし、いちばんの問題は、公共を支える‘ボランタリー経済’と‘貨幣経済’の融合に必要な手だてを講じることをあげていたが、その点が極めて難しい。日本人の意識改革を促す教育の在り方を見直す必要があるからだ。それは簡単なことではないことが際立ってしまった。

 本日(4/28)朝日新聞朝刊、「日本人の幸せ6.5点 欧州平均より低く」の最後に、鳩山総理の言葉として『「幸福度とお金、経済の部分が結びついており、ボランタリー経済が多くの国民の意識にないことがわかった」と認めざるをえなかった』とある。
「新しい公共」を考えるに当たって、ボランタリー経済が幸福度を高めることであって欲しい、と言う総理の思いと裏腹の結果となったわけだ。
 
 理想は現実と程遠い、ということで寂しいが、日本はブータンではない。そもそも国民の「幸福度」を調査するのは、ブータンの‘GNH’(Hはハピネス)に習ったこと。いまやブータンも近代化の波に晒されて前国王の時代とは違ってきている、と聞く。
 しかし、何を幸福と感じるのか。それを数値で表すこと自体に問題がある。幸福を‘度’の数にしたとき、幸福感は逃げていくような気がする。
 つまり、緊迫財政の中で、出来るだけ歳出を少なくする方策として、‘公共’を言うところには無理がある。
 そして非営利活動といえども、‘ほどほどの営利’だけでは活動は儘ならないのが現実だ。社会貢献活動には潤沢な慈善活動が一体となったところで西欧のボランティアはなりたっている、と私は認識している。
 むしろ、今の日本の現状では、当たり前で何気ない善意が通らなくなった暮らしを見直すことから始まるはずだから。
 
 最後に、大番頭の仙石大臣、田坂広志さん、福原資生堂名誉会長、他にもすごい登壇者のなかにあって、第二部・取り組み例紹介で登壇された大阪天神橋筋商店連合会会長で35年商店会長を続けおられる70代後半と思しき土居年樹さん、第三部パネルディスカッションの登壇者ローソン社長の51歳・若々しい新浪剛史さん、お二人の話は非常に説得力があったことを書き加えておきたい。

*今日は、長いだけでなく、硬い言葉で書いてしまったこと、ちょっと反省してます。最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。

 平成22年4月25日(日)内閣府講堂於 オープンフォーラム報告
 平成22年4月28日(水)朝日新聞朝刊 14版「政治」記事
 
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何気ない気遣い

2010年04月27日 07時41分20秒 | Weblog
 今日は午後から授業。これから最後の準備にかかる、その前に久々のブログ書き。
 週末からレッスン、授業、フォーラム参加、所用の外出、来客、今年一年間町内会のお当番、家事、等々で過ごす。

 先日の「新しい公共」については後日に報告したい、と思っている。
 明日は、水曜日で、この日はオフだけれど、‘母の日’と先週から定めた。
 最近、ことば数が減って少し元気がなかった母の足の爪を切ったところ、手は自分で切ってくれた。その勢いに乗って、三ヶ月ほど染めていなかった白髪染めを促し手伝った。
 それ以後の一週間、いい雰囲気を保ってくれていた。段々に衰えてくるのだ、とは思うがからだに触れて身づくろいを手伝うということが、どれほど心の安定をもたらすかと体験した。明日はやはり‘母の日’。
 これは『1Q84』Book3の天吾君が意識を失っている父のそばで朗読をするくだりを読んだことがキッカケだ。
 もう一つ、母の気持ちを高める一つに、食事の度に‘温かい手拭きおしぼり’を何気なく出してあげること。これは正に手のマッサージ効果なのだ!そのことで心が柔らかくほどけ食事がすすむ、と気づいた。今、思い出したが、野口先生は食事の時に必ずお絞りを手元に置いていらした。きっとその情景が深層にしまわれていたのかもしれない。

 それはそれとして‘年寄りと暮らす’ということは、それまでなら簡単に出来たことが面倒で億劫になっていることにちょっと手助けをすることで、心身の自律が保たれるような気がする。自分からは言い出しにくいんだ、とも気づいた。今のところはそのくらいで済んでいるが。先は先のことだ。

 では、次の準備にかかりたい。
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88年『図書』養老先生のエッセー

2010年04月25日 09時29分56秒 | Weblog
 GWの5月1日土曜日は、朝日カルチャーレッスンはお休み。
 そこで連休前の昨日は、‘寝にょろ’もやることにしていた。
 そのイメージは『原初生命体としての人間』第二章@原初生命体の発想の冒頭をメッセージとした。比較文として1988年岩波書店『図書』1月号にある「骨と墓と生への意志と」と題した養老孟司先生のエッセーを取り上げた。
 内容についてはここに詳しくは書かないが、『バカの壁』がバカ売れする前、『唯脳論』が誕生する前に書かれたこのエッセーは、短いながら西洋への戸惑いを見事な筆で吐露されたものだ。

 レッスンが終わったとき、数名の方がコピーを希望された。
 なかでも演劇を志す若者は、映画の題名と曲名をわざわざ確かめにきた。
「マーラーの交響曲第五番よ。映画はベニスに死す」
「どこの映画ですか」
「イタリアだったか、フランスだったか????」
 そばに立っていた女性が
「イタリア映画ですよ」
 若者はしっかり手帳に書きとめていた。

 西洋の墓の話が何で映画に? 
 ドイツ・オーストリア・フランス・イタリアで12世紀から16世紀にかけてつくられた棺にには、死んだ本人の死体が彫刻されている(生きているときの姿もある)養老流謎解きが、西欧ルネサンスの根本を問うものである。
 死者を復活させる意義を『強い生への意志が生じたのは、還元主義の生まれた時代、すなわち西欧ルネサンスしかなかったであろう。自然科学が生命を人工的に作ろうとする。そんなことは死者から生者を生じさせようとする、この時代の人々の意志からすれば、何ほどのこともない』

 最後には、トルストイの「復活」の真意、マーラーは交響曲をどういうつもりで書いたのか『さまざまな意味で西欧を理解しようとする試みるごとに、私は相変わらず迷路をさまよう自分を感じる』とある。
 
 養老先生が謎は謎のまま筆を置くこのエッセーは、『1Q84』Book3と重ねるとモット面白い、と思った。
 さらに、野口の‘原初生命体’第二章冒頭、生死を自由に行ったり来たりできる動きのイメージとは、断絶があるのか、それとも繋がりがあるのか、GWの宿題を差し上げた。結構、皆さんに受け止めてもらえたと思う。たぶん。
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フォーラム参加証がメールで来る時代

2010年04月22日 19時23分06秒 | Weblog
 来る4月25日(日)の昼過ぎ、「新しい公共」オープンフォーラムの参加証がメールされた。先日、鳩山総理のTwitterでこのフォーラムが紹介されていて、メールを送ってみた。参加人数は100名。委員が選考するらしい。あまり参加希望者がいなかったのかしら。それともすべてインターネットで申し込むので、希望者が限られたのかしら、実状はわからない。どんな基準で選ぶのかも?
 結構、書き込みは面倒だった。記憶を辿れば、まず、住所、氏名、年齢、性別、勤務先(学校)、なぜ関心をもったのかを200字以内、参加希望の内容も200字以内で書き込む等々。 
 
 そこには書き込まなかったけれどフォーラムの出演者に松岡正剛さんがいらっしゃった。ぜひ、話を聞いてみたかったことがひとつ。
 かなり真剣に‘野口体操のこれから’を考えていて、「新しい公共」について話を聞くことで、参考になることがあるかもしれない、という思いが二つ目。
 他にもいくつかあって、参加希望をメールしたというわけ。

 でもね、Twitterがもとで、すべてメール!!!なのであります。
 時代が変わった、実感。
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4月20日(火)のつぶやき

2010年04月21日 01時35分00秒 | Weblog
07:21 from web
プリンター問題、昨日の夕方解決。無事、印刷可能に。接続コードをすべてはずして、何回かさしなおしを繰り返しているうちに、OK.あとは設定を新しくしただけ。お助け人に感謝
by hatorimisao on Twitter
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歴女と龍馬伝とスィーツ

2010年04月17日 12時07分55秒 | Weblog
 新学期から一つの大学では休み時間が長くなった。1限と2限、3限と4限の間が、これまで10分間だったものが15分に延長された。
 木曜日の授業は3限と4限を持っているので、時間配分に結構気をつかった。

 とはいえ、初日の授業は、とてもよい運びで2コマの授業は終了した。 
 大学の正門を出て、JR駅に向かった。そして電車に乗り込む前に、駅に隣接しているデパートのスィーツ売り場に立ち寄ることにした。
 年単位で、ずっと気になっていた新宿・高野のケーキを‘今日こそ買って帰ろう’と思ったからだ。買うものは決めてある。一つは、人気№1のイチゴと生クリームとチョコレートが層になっていて上に液状に近いチョコレートにイチゴが生クリームを従えて鎮座しているもの。もう一つは人気№2の生クリームにメロンが刻みこまれて層になっている上に、マスカットと生クリームがトッピングされているものの二種類である。

 気分もはれやかに、でも倒さないように気をつけながらケーキの箱を手にぶらさげて、山手線の電車に乗り込んで、一息ついた。
 ふと見ると若い女性が、文庫本にまっすぐ視線を落としている。
「集中ッ!」
 食入るように文字を追っている。
「へぇー、何を読んでいるのかしら」
 図書館で借りた本らしい。
 何気なくを装って、ページの上方に打ちこまれている目次を読んだ。
『人斬り以蔵』とあるではないか。本文を盗み読みする。
「ムムッ、丁度、今週の龍馬伝? 江戸に出てくるところね」
 小柄な彼女は、見るからに優しげ。黒のリクルートスーツのうえにベージュ色のコートを羽織っている。靴は黒のパンプス。すべて新しい。すべて普通。すべてお決まり。
「新人だわ」
 全身から‘歴史大好き’のメッセージが放たれている。
 始めて至近距離にたった歴女は、読んでいるものとは裏腹に、可憐な女の子だった。こういう子が幕末の男子を支えたのかもしれない。和服を着せたら似合いそうだ。一枚ずつ服を脱がせて着替えをさせる。「うぅ~ん、いいね」
 
 そんな想像たくましくしているうちに、電車は新宿駅ホームに滑り込んだ。
「乗り換えなければ」
 しぶしぶ降り立った。
 振り返ると、まだ一心不乱に活字を追っている。彼女を残すのが惜しくなった。
「きっと、GWには、最初のお給料で高知にでも出かけるのよね」

 帰宅して夕飯のデザートに、高野のフルーツのケーキを食した。抑えた甘さのなかに歴女の立ち姿が浮かんだ。
「(幕末から明治維新の流れで)私は、今、こんなに美味しいケーキを食べられるんだ!」
 なんか不思議な空間と時間のなかにタイムスリップする自分がいた。
 その日の夜は、オマケつきのケーキの味と香りに満たされた。
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憂う日本

2010年04月15日 07時14分18秒 | Weblog
憂う日本
 あとから立ち上がった「たちあがれ日本」の略称は「日本」だ。弱小一匹狼党の「新党日本」の田中康夫氏が困惑。当然でしょう。で、今朝、テレ朝‘やじうまプラス’でチラッと放送された平沼赳夫氏の映像から受ける印象はまさに‘上士が下士を足蹴にするように切り捨て’だった。「田中康夫なんか話したこともない。むにゃむにゃ。。。」と仰せになる。私、龍馬伝の見すぎかしら?後からのものが変えるのが筋ではないか、と庶民は感じるだが。小泉進次郎さんが、党名についてコメントしていた「略称はどうなるんですかね」杞憂が当たった。若者のすがすがしさと年寄りの驕りが、くっきりと浮き彫りになった。TV映像はコワイものよ! 結局、参院選には行かない人が増えるんじゃないかなぁ~。

憂う日本
 殆どの人が国民新党には投票していないはず。なのにモラトリアム法案を通し、郵政を逆走させて国債の受け皿を大きくするような法案をごり押しする亀井大臣。ずっと腹立たしかったが、なんか裏があるんだろうな~。

憂う日本
 すでに始まっていて、近未来に実現するクラウド・コンピューティングでは、世界はたった5台のコンピューターに集約されるらしい。そのうちの一台は日本にあるんだろうか。もし、ないとすると‘日本国’の情報は、どこの国に設置されたコンピューターに集められるのだろう。外交問題でモタモタする政党では、近未来は任せられないような気がする。

憂う日本
 電子ブックが主流になったとき、アマゾン・アップル・グーグルのアメリカ企業に、出版の実質が独占されたら、著作権のみならず出版される本の検閲はどこがするの。いや、そうした発想そのものが崩壊か。日本文化の運命はいかに。電子ブックと紙の本が上手に共存してほしいなぁ~。

憂う日本
 このまま行くと、早晩、優秀な子供は外国で教育し、すでに始まっているけれどお金持ちの大半は資産を海外に持つようになり、法人も海外に出て行く、そして日本は「日出ずる国」から「日沈む国」となりはしないか。
 とりあえず、投げやりにならず、よく考えて参院選にはでかけよう。
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音楽が好き!

2010年04月14日 18時39分31秒 | Weblog
 坂本冬美の「また君に恋してる」が、若者から年配の人まで、幅広い層に受けているらしい。演歌歌手が歌う、という印象はなく、演歌、ポップス、フォークソング、etc、ジャンルを越えてしまった感じがある。
 いい歌はいい。彼女の声に惹きつけられる。もう一つは、誠心誠意、歌う真心を感じるのだ。
 
 そして11日日曜日放送の‘N響アワー’で、マーラーのシンフォニー5番を聞いた。
 映画‘ベニスに死す’で有名になったが、この曲は現実とは違った空間に連れて行ってもらえる。音楽の浮遊性が生きているのだ。存在への許しが満ち満ちている。

 そして龍馬伝のBGMもいい。映像にかぶって邪魔にならない。今回は、龍馬をめぐる女の深い愛情と情感が、音楽によって支えられていることが感じられた。

 思えば私が十代の頃に比べて、耳にする音楽の質も量もまったく違う時代になった。
 なにより外に音楽を携えて、さまざまなシーンで楽しむことが出来るようになった。
 都心に向かう電車の中では、あまり好きでなかった曲が、思いのほか状況にぴったりして、心地よかったりする経験もある。
 それに咲き誇る桜の樹の下で聞いた、カレーラスのアリアもいい。
 心の風景に合うものだけでなく、身を置いている情景の中で、音楽を身に纏う新しい音体験が出来る豊かさを知ったのだ。

 まぁ、ウォークマンには乗らなかった私の場合、それを実現してくれたのはiPhoneなのだけれど。
 これはカーステレオで聴いた音楽空間世界よりは、もっと多様性に富んでいる、と思う。

 そうそう、授業を終えて乗り込んだ電車のなかで、井上陽水を選んで聞くことがある。
 疲れたからだにスィーツを食べたときの喜びにも似た耳からの快感?
 いや、違うかも。

 理屈はいい。
 私は、音楽が好きなんだ! ってこと。
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春よ来い、はやく来い!

2010年04月12日 19時00分24秒 | Weblog
 寒暖の差が激しくて、お年寄りや病気の方には、からだにこたえるに違いない。
 若くて元気な人でも、この気候変動にはついていきにくい。
 冬物のコート、マフラー、手袋、そいて帽子をかぶっても、暑いどころか丁度いい。
 明日は20度を越える、金曜日にはまた寒が戻る、とか。
 自然には負けるしかない、といいつつそろそろ本格的な春になってほしいと待ちわびているこの頃。
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情報産業技術革命と野口体操

2010年04月11日 07時26分11秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャーセンター野口体操講座は、久しぶりに三笠書房版『原初生命体としての人間』を使った。
 まったく遠いことのように思われるかもしれないが、Twitter(つぶやき・超ミニブログ)、Cloud Computing(ゆくゆく世界は5台のコンピューターに集約される情報産業技術革命)、Smart Grid(電力情報双方化・電源分散化・電力供給安定化)が、社会構造を根底から変革する話+唯情報論の新しい読み直しをテーマにした。中心軸は野口体操なのだけれど。

 その際、サジさん、撫明亭のご亭主コンドウさん、フリー(主に健康問題)ジャーナリストのキタムラさんには、大いに助けられた。

 産業革命が、非常に大づかみにして「筋力→電力→情報力」へと移り変わっていく正に今この時に、際物のテーマだったかも知れないが、五年後に、昨日のあの教室で空間と時間を共有した方のなかで記憶として残してくれる方がおられればと言う条件で、「あれは面白いレッスンだった」と言っていただけるかもしれない。
 荒っぽい内容ではあったが野口三千三が言うところの‘情報’と養老孟司先生が曰くの‘情報’とでは同じ言葉を使っておきながら、包摂する内容が質的に異なることが浮き彫りになったことは書き留めておきたい。

 いろいろと、これからどうなる? ですわね!
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4月10日(土)のつぶやき

2010年04月11日 00時56分56秒 | Weblog
11:36 from web
本日、午後からの朝日カルチャー野口体操講座の準備完了。これから頭の中で、展開を想う。野口身体哲学よりも現代社会の出来事に関心がシフトして、よろしくないかも、うううううっ。半分はTwitteを話題にすると思う。
by hatorimisao on Twitter
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4月9日(金)のつぶやき

2010年04月10日 02時14分04秒 | Weblog
18:40 from web
Twitterを始めてほぼ10日過ぎた。最初はおっかなびっくり状態だったが、Twitter中毒にならない程度にやっていく間合いがつかめてきた様だ。
by hatorimisao on Twitter
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Twitter と Cloud Computing 

2010年04月09日 18時49分03秒 | Weblog
 三月末から今日まで、本を読みながらTwitterにはまった。
 感触がつかめてきたような気がしている。増えるのはパスワードばかりなり、ってことだ。

 で、ご参考までに、Twitter関係で読んだ書名を挙げておきたい。

『Twitter革命』神田敏晶著 ソフトバンク新書
『Twitter社会論』津田大介著 羊泉社
『ツイッター 140文字が世界を変える』コグレマサト+いしたにまさき共著 マイコミ新書
『仕事で使える!Twitter超入門』小川浩著 青春出版社
『iPhoneとツイッターで会社は儲かる』山本敏行著 マイコミ新書

 クラウド関係本
『クラウドの衝撃』城田真琴著 東洋経済新報社
『クラウド時代と<クール革命>』角川歴彦著 角川ONEテーマ21
『クラウド化する世界』ニコラス・G・カー著 村上彩訳 翔泳社

 今まで読んだことのない出版社の本ばかりだった。
 自分でもやってみると良し悪しが感覚としてもつかめる。
 知らない世界を探検した気分だ!
 これで普段の日常に戻れそうだ。
 いやいや、あとは電子書籍関連の本を見つけてこよう。そこまで読んで一息かな?
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